(10)
翌日は、空には雲がなく、穏やかな日差しのある日になった。朝食を食べて少し休んでいた時、お富から「殿は恵林寺に出かけられたようです」と聞いた。「恵林寺」というのは、確か武田家のゆかりの寺だったような気がする。
「殿は時間があると、必ず行かれるのです。武田家の菩提寺ですからね」
そう、と呟いてから、恵林寺のことを思い出していた。あれは小学校の時だっただろうか。遠足で恵林寺まで行った時のことだった。
「このお寺には昔、偉い和尚様がいて、武田家が滅亡する時に敵から寺に火をつけられても、『心を穏やかにすれば涼しく感じる』って言いながら亡くなったそうですよ」
お寺の和尚さんがそう教えてくれたような気がする。あれは確か、武田家の滅亡と何か関係があったような気がするが、よく思い出せない。その時は、火に囲まれて死ぬなんてことは想像もできなかったが、実際に自分がその時代にいるのだと思うと、異様に現実感が湧いてくる。
「いかがいたしましたか」
黙ってしまった私の様子を見てお富が声をかけてきた。私は慌てて首を振って答える。
「いえ……そろそろ参りましょうか」
そう言って立ち上がると、お富も慌てて立ち上がった。
その日は、城の中を少し歩き回ることにしていた。お富も「城の様子を見まわった方が記憶を取り戻せるのではないか」と言って快く引き受けた。歩いてみて分かったが、城と言っても、いわゆる天守閣がある訳ではない。ただ、白い壁に囲まれて、平屋の建物が建っているという感じなのだが、敢えてそう作っているのか、廊下が急に行き止まりになったり、階段で降りるような場所もあったりして、全体の構造はかなり分かりにくい。そして、これでもまだ建設中だといい、石垣や木材を運んでいる人間の姿もチラホラと見られた。
「信濃におられる真田様がこの城の構造を作ったのだそうです。国中から人夫を集めて工事をしているのですが、人夫が十分に集まっておらず、完成が延び延びになっているそうでございます」
お富が歩きながら説明する。その後ろをついて歩いて行くと、どこかの廊下を曲がった先で、向こうから来た人間とぶつかりそうになり、お富が「あっ」と声を上げた。そこには、口ひげを生やした長身の男が立っていた。
「失礼いたしました。穴山様」
お富が慌てて頭を下げて道を譲ると、男は私の顔を真っすぐに見た。
「これは、梓姫さま。お久しゅうございます」
男はそう言って頭を下げる。
「ええ……お元気そうですね」
相手が誰かも分からないが、それだけ答えると、男は頭を上げて笑顔を向けた。
「それにしても、姫様は相変わらずお美しい。さすが、諏訪姫様の血を引く殿と、あの『歩き巫女』の一人だった奥方様のお子だけありますなあ」
「アルキミコ?」
男はハハハと笑ったので、私が尋ね返した言葉は聞こえなかったようだ。そして彼は、「それでは失礼」と頭を下げると、私の隣を去っていく。ただ、頭を上げた一瞬、男がニヤッと笑ったのが見えた。なぜか、その笑顔が不気味に感じられて一瞬ゾッとしたが、男の姿はすぐに遠ざかっていった。
男と別れてから、しばらく行った所でお富にそっと尋ねてみると、彼女は小声で答えた。
「あの方は、穴山梅雪様でございます」
「穴山……それで、偉い人なんですか?」
「あの方の奥方様は亡き御館様の娘であり、武田家の一族に列する方でございます。今は重臣方の中でも一番力のある方でございますよ」
「そう……。それで、私の事を、『何とかミコの子』って言ってたような気がしたんですけど」
「ああ、歩き巫女ですね。それは……」
そこまで言った時に、廊下の向こうから足早に誰かが歩いてくるのが見えた。その人間が私の側までやって来て、膝をついて頭を下げた。
「ああ、虎政」
私はこちらから声を掛けた。ハッと虎政は答えると、私の方を見上げた。
「姫様。急ぎお話ししたき儀がございます」
お富に続いて部屋に戻ってみると、火鉢の傍にスミが丸くなっているのが見えた。私はお富の後ろから部屋に入り、その後ろから虎政が部屋に入ってきて障子を閉める。すると、お富が火鉢の上に置いた土瓶の中を確認して首を傾げた。
「おや? 湯が無いのう。姫様、湯を持って参ります」
お富はそう言って部屋を出て行く。私が座布団の上に座ると、虎政が正面に座って頭を下げてから言った。
「姫様。一つ、気になっておったことがあるのですが……」
「何ですか?」
私が尋ねると、彼は言いにくそうに「それが……」と言ったまま口ごもった。私が「何でも言ってください」と促すと、ようやく彼は口を開いた。
「姫様は、お忘れになっておるのでございますか。ついこの前、姫様が私に申されたことを」
「私が言ったこと? 何のことですか」
「はあ、それは……私に関することなのですが」
「あなたに関すること?」
そう尋ねると、彼はそこで俯いて黙ってしまった。その様子を見て、どれだけ言いにくい話なのだろうかと思った。私、いや本物の梓姫は、一体何を彼に言ったのだろう。すると、廊下から足音が聞こえてきた。
「お待たせいたしました」
お富が部屋に戻ってきて、持って来た土瓶から茶碗に中身を注いでいく。その途中でお富は彼に尋ねた。
「それで、何かあったのか?」
虎政は、気を取り直して、お富の方を向いて静かに頷く。
「実は先日、月の里に参ったのでございます」
「月の里? 志月殿に会ったのか」
「はい。いつものように、志月様からお話を伺おうとしたのですが、逆に『梓姫様の周りでここ数日のうちに何か変わった事が無かったか』と尋ねられたのです」
「変わったこと……」
お富は不思議そうに言って、私の顔を見た。
「私も何かあっただろうかと思い出して、それで、蓮姫様と茶会をしたことをお話ししたのです。すると志月様も喜ばれて、『蓮姫様もお喜びだっただろう』とおっしゃられたので、私はそうだとお答えしました。そして、蓮姫様がお隠しになっていたスミを姫様に返されたことをお伝えしたのです。すると……」
そこで虎政は少し黙ってしまった。お富が膝を乗り出して尋ねる。
「どうしたのじゃ。何かあったのか」
「いえ……ただ、志月様が、にわかには信じられないお話をされましたので……」
「どのような話ですか」
私も彼に尋ねる。それで彼も決心したように口を開いた。
「それが……姫様にスミの体をよく撫でて欲しいと」
「何じゃと。どういうことじゃ、それは」
「はあ……私も全く訳が分からぬのですが、志月様は確かにそう申されました。スミは元々、亡くなられた奥方様が、月の里から連れて来た猫。ですから、志月様もスミの事はよくご存じのようなのですが、志月様が感じられた何かというのは、スミの事かもしれないとおっしゃっておられたのです。それで、スミを撫でていれば、姫様の記憶も戻るかもしれぬと申されまして」
「この子を、撫でる……?」
私は火鉢の横で丸くなって寝ている黒猫のスミを見つめた。スミは安心しきった様子でただ目を閉じて眠っているように見える。志月が何を感じ取ったのか分からないが、見た目ではどう見てもただの猫にしか思えない。
私は思わずスミをそっと抱き上げた。ズシリと重さを感じるが、特に嫌がることもない。私は膝の上に乗せてその体を撫でると、スミは再び丸くなってじっとした。
「分かりました。では、志月様の言うとおり、やってみましょう」
ははっ、と虎政は頭を下げた。