(1)
澄み渡った夜空を半月が綺麗に彩っていた。
内藤伊織は、自転車で塾から帰っていた。3月に入って数日経っていたが、甲府盆地の朝晩は、まだ厚手のパーカーにマフラーを巻いてちょうど良いくらいの肌寒さで、冷気で鼻先も冷たい。その日は手袋を持ってくるのを忘れてしまったので、指先もどんどん冷たくなっていた。
(寒いなあ)
そう思いながらも、自転車をこいでいると次第に体も温まってくる。既に夜9時を過ぎていて、郊外の住宅地を通り抜ける県道の脇に設けられた歩道を歩く人の姿もない。10分ほど自転車に乗って、細い脇道に入った先にある自宅に着いた。玄関のドアを開けて、リビングに入り声を掛ける。
「ただいま」
「ああ、おかえり」
母の亜紀がこちらを振り向いて答えてから、再びテレビ画面に顔を戻した。母は自宅からも程近い工業団地にある部品工場で働いていて、父は東京に単身赴任している。今日は金曜日だったが、父は飲み会があるらしく、今週末は帰らないらしい。そういう生活がもうここ10年ほど続いていて、母は「お父さんは自由でいいわよね」とよく言うが、それ以上の不満は特にないようだ。
「ああ、そうだ。お姉ちゃんは飲み会みたいだから、お風呂入ったらお湯を抜いておいてよ」
母が言うのに「分かった」と答える。姉の海未は地元の大学4年生で、4月から小学校教師になる。赴任するのは自宅からは少し離れた学校らしいので、初めて家を出ることになっていた。これまで姉は家事も色々と手伝っていたので、今度は伊織がそれを手伝わないといけないと思うと、やや気が重くなる。
風呂に入って体を洗い、温かい湯舟に体を沈めた。そして頭を湯舟の端に乗せて天井を見上げる。
(今日も、ダメだったな)
塾のことを思い出す。今日も彼女に声を掛けられなかった。
それは、クラスも同じであり、塾でも2つ前の席に座っている山本真穂のことだ。彼女が通っていると聞いて、伊織もその塾に通い始めたのは、この3学期からだ。高校2年生も終盤になり、周りの友人たちも少しずつ大学受験を意識し始めていて、ようやく伊織も塾に通う気になったのだが、その塾を選んだのは彼女が通っていたからに他ならない。
(もう、ダメなのかな……)
塾が終わり、山本が親友である古屋琉美と楽しそうに帰っていく後ろ姿を思い出す。あの時から、山本は伊織を避けるようになった気がする。それが、彼女に声を掛けることができない大きな理由だ。しばらくして、伊織は大きくため息をついて、湯舟から上がった。
温まった体のまま、すぐに自分の部屋に戻った。エアコンの暖房をつけてから、スマホを充電コードにつなぎ、ベッドに座り込む。そして、何気なくネットサーフィンしていた時だった。
カタン——。
ふと、窓の方から物音が聞こえた気がした。何かが窓に当たったのだろうか。すると、今度は窓を叩くようなトントンという音が聞こえてきた。
(何だ?)
ここは2階であり、窓の外はベランダだが誰かが叩くということはあり得ない。恐る恐る閉めていたカーテンを開ける。すると、窓の外で何か光るものが見えた。
電灯とは違うような気がするが、その不思議な光が気になる。それで窓をガラッと開けた。
その瞬間、何かが風のように入ってきた。驚いて振り向くと、黒い猫がベッドの上に座ってこちらを見ている。そして、ニャオと可愛い声で鳴いた。
(野良猫……?)
そう思ったが、その猫の毛は黒光りしているようで、とても野良猫には思えない。伊織は振り返ってベランダをもう一度見たが、他には何も無さそうなので、急いで窓を閉めた。
そっと黒猫に近寄ってみる。黒猫はとくに逃げる訳でもなく、リラックスしたように枕元の近くでゴロンと体を横たえた。よく見ると、その猫の首元には、首輪のように紐のようなものが巻いてあって、その端に小さな袋がつけられている。
(飼い猫かな。まあ、外は寒いし、大人しそうだから一晩くらいいいか)
10年前に新築のこの家に引っ越してから、家ではまだペットを飼ったことはない。家族の誰かが動物のことを嫌いという訳ではないが、逆に誰も積極的に飼おうと言い出さなかったので、結局そのままになっている。
伊織もベッドに横になり、毛布と布団を掛けた。枕元には大人しく黒猫が横になっている。その背中をそっと撫でると、野良猫とは思えないほとに毛並みが良く、良い香りもするような気がした。やはり飼い猫だろう。そう思って、明かりを消して布団を掛け直した。