(8)
私は自分の部屋に戻り、火鉢の前に置いた座布団の上に座ると、膝の上に黒猫を置いた。猫はそこが自分の居場所だと思っているのか、そこでじっと丸くなって動かない。その黒い背中を撫でると、かなり毛並みの良い猫だった。
「蓮姫様がスミを隠していたとは、驚きでございました」
お富が私の前に座って言った。この猫は「スミ」という名で、梓姫の母である早月から5年程前に貰った猫らしい。「スミ」というのは、木炭のように真っ黒であることから名付けたという。この猫を貰ってからしばらくして早月が亡くなったので、梓姫は母の形見のような気持ちだったようで、それは大切にしていたと彼女は言った。
「確かに、最近姿を見せぬと思ってはおりましたが、姫様も何もおっしゃらなかったので、私も忘れておりました。スミも落ち着いた様子ですし、誠にようございました」
「そうね。確かに、大人しいわ」
「それはそうでございます。スミはいつも姫様の近くにおりましたから」
猫がいつ頃からペットとして飼われていたのか知らないが、お富の話を聞く限り、少なくともこの時代でも猫は可愛がられていたようだ。それに、見た目は梓姫である私の手に撫でられて、黒猫も安心しきっているのか、既に目を細めて眠ってしまいそうだった。
その時、バタバタと廊下を歩いてくる音が聞こえた。
「姫様、虎政にございます。よろしいでしょうか」
「どうぞ」
ハッという声とともに障子を開けて虎政が頭を下げていた。お富が彼に声をかける。
「どうしたのじゃ。何か急いでおるようだが」
「ハッ。取り急ぎのお知らせでございますが、殿が今晩にも城にお戻りになられるようです」
「なんじゃと」
「徳川方の侵攻が一旦止んだため、城に戻られるとの知らせがありました」
「そうか……久々の帰城となるのう」
お富はため息をついてから、私の方に顔を向けた。
「それでは、私達もお出迎えを致しましょう。私は夕餉の支度を手伝って参りますので、殿が戻られる頃が分かり次第、参上いたします」
では、と言ってお富が出て行くと、虎政も頭を下げてそれについていった。
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夕方になり、太陽が南アルプスの方に沈んでいき、空が夕焼けに染まっていく。そう言えばこの時代に南アルプスのことは何と呼ばれていたのだろう。そんな事を思いながら、私はお富に連れられて城の正門の辺りに並んでいた。まだ城を出たことが無かったので、門の辺りまで来たのは初めてだった。見た目では私がイメージしていたような城の門だったものの、その周りにはまだ堀と呼べるようなものはなく、簡素な感じだ。隣には蓮姫も並んでいた。
しばらくすると、向こうから一人の武士が小走りに駆けてやってきて、私達から少し離れた場所に膝をついて言った。
「もうすぐ殿が帰城いたしまする」
その者はボロボロの鎧を着ていたが、それが戦の激しさを物語っているようだ。しばらくして大勢の軍団が坂を上がって来るのが見えた。周りの人間が座って頭を下げているが、蓮姫はそのまま真っすぐにそちらを見ているので、私も同じようにしていた。すると、小さな馬に乗った軍団がドッドッと音を立てて近づいて来て、その馬に乗った一人が私と蓮姫が並んでいる前までやって来て馬を止めた。
「無事のお帰り、何よりにございます」
蓮姫が初めて頭を下げた。私もそれに合わせて頭を下げる。
「うむ。そなたたちも変わりはないか」
馬上から聞こえる声に、蓮姫が頭を上げて「はい」と答える。そこで私も頭を上げて初めてその武士の顔を見た。
(これが、武田勝頼——)
やや無精ひげを生やしているが、鎧を着ているのにも関わらず思ったより細身で、大きな目が印象的な男性だった。私は勝手に、髭だらけで恰幅の良い姿をイメージしていたので、かなり予想外だ。彼はそのまま城の奥に馬とともに姿を消し、その後を何人かの武士が追っていく。
「かなりお疲れのご様子じゃな」
蓮姫が呟くように言った。
「そう……でしょうね」
「うむ。お常。夕餉はいつものお部屋か」
「はい。ただ今、準備しております」
「では、私も参ろう。そなたも後で参るがよい」
蓮姫はそれだけ言って、さっさと歩いて行ってしまった。気が付くと、周りにいた城の者たちも既にそれぞれ引き上げていた。
「やはり戦況は思わしくなさそうですな。御覧なされ」
お富が後ろから小声で言いながら指差す方を見ると、兵士たちがゾロゾロと無言で歩いてきていた。ほとんどが鎧もボロボロというだけでなく、手傷も負っているようで、着物のようなものを包帯代わりにしている者ばかりだ。
(確か……武田家は、最後は織田と徳川の連合軍に攻められて、武田勝頼はどこかで自害して滅亡するのよね)
ざっくりとそのような話は知っているが、細かい点は全く分からない。そもそも、自分がいるこの時代が何年の何月なのかすらよく分からないし、それが分かったところで何も変わらないだろう。ただ、はっきりとしているのは、私がいる武田家は、近いうちに滅亡することになるということだ。
(蓮姫も、お富も、この城の人達も……そして、私も……)
ふとそこまで思い至ると、寒気がしてぶるっと震えた。それを見てお富が「さあ、寒いですから城に戻りましょう」と呼びかけた。