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黒猫と戦国のお姫さま  作者: 市川甲斐
2 拾い猫
16/55

(5)

 翌日の朝になった。寒い部屋ではあったが、火鉢を近くにおいていたためなのか、障子の外がかなり明るくなるまで眠ることができた。体を起こして座布団の上に座っていると、しばらくして障子の外から「朝餉あさげでございます」と声が聞こえた。続いて、お富と侍女たちが私の前に膳を運び込んでいく。用意が終わると、お富は他の侍女を下がらせ、障子を閉めて私の前に座り直し、小声で話し始めた。


「姫様。月の里の長が申した事はまことにございますか。昔のことが思い出せぬというのは」


「はい。そうなんです」


「では……このお富の事も?」


 尋ねる彼女の前で、黙って首を振る。すると彼女は大きくため息をした。


「分かりました。しかし、たとえ今すぐには、昔のことが思い出せぬとしても、姫様は姫様でございます。それに、月の里の長は、色々と話をしておれば記憶が戻るきっかけがあるかもしれぬと申しておりました。ですから、私も引き続き、精一杯お仕えして参ります。この事は私と姫様、そして虎政だけの秘密でございます」


「ありがとうございます。そういえば、そのトラマサという人は、どういう人なんでしたっけ?」


「虎政は殿の側に幼い頃から仕える小姓にございます。重臣の甘利家の嫡男で、元服前から姫様をお守りするように殿からお申しつけがあり、今は主に姫様に仕える者です」


「そうなんですか。月の里の長は、その虎政とお富さんを頼るようにと……」


「お富さんなどと……富でよろしゅうございます」


 お富は姿勢を正して言った。私は思わず「すみません」と頭を下げる。


「では、その……お富。色々と最近の話を聞かせて欲しいんですが」


 そう言うと、彼女はパンと膝を叩いた。


「お任せください。何なりと。どうぞ朝餉をお召し上がりながら、お話しいたしましょう」


 笑顔でそう言った彼女の言葉を受けて、玄米のようなものを口に運びながら、まずはこの城の事を尋ねた。ここはやはり、武田家の「新府城」という城らしい。梓姫は昨年の秋に、甲府の街の館からこの城にやってきたというが、城としてはまだ未完成で、まだ完成の目途は立っていないという。


 それというのも、武田家は今かなり苦しい状況にある。昨年、高天神という城を失ってから、織田家と徳川家によって二手に分かれて攻め続けられ、かなり支配する地域が縮小しているようだ。現在の当主で、梓姫の父である武田勝頼は、各地で戦っているが、厳しい状況が続いているという。


「ここの所しばらくは、殿もこの城にゆっくりと留まることもありませんでした」


「では、私も会うことは少なかったのですね」


「ええ。でも、落ち着いている時は、殿の方からこちらによくおいででした。何といっても、早月様のただ一人の忘れ形見でございますから」


「母は、月の里の長の姉だったのですよね」


「左様でございます。早月様は、姫様のようにそれはお美しい方でございました。その上、月の里の不思議な力も持たれておりましたので、皆がまるで神のように崇めておりました。そして何よりも、早月様の事は殿が一番大切にされていたのです」


「でも……母は、死んでしまった」


 そう言うと、お富は悲しそうな目をした。


「はい。もう4年になりましょうか。早月様が反対された長篠でのいくさを殿が強行し、その敗戦以降、早月様はずっとお加減が優れぬようでした。それから3年ほどで、まだ30を過ぎたばかりだというお若さでお亡くなりになられたのです。何かの病であったのでしょうが、薬師くすしも原因が分からぬと申しておりました。そしてそれ以来、殿もお元気がなくなり、武田家も厳しい状況が続いております」


 お富が静かに答えた時、障子の向こうから侍女の声が聞こえた。


「申し上げます。虎政殿が姫様に拝謁を願っておりますが、いかがいたしましょうか」


「おお、ちょうど良い。姫様、お会いなさいませ」


 お富が言うのに頷き、私は彼を呼ぶように答えた。



 しばらくして、「失礼いたします」と言う声が聞こえ、侍女が障子を開けると、一人の武士が廊下に胡坐で座り、頭を下げていた。


「姫様には病み上がりのところ、お目通りいただき、恐縮至極に存じます」


 茶色の袴を身につけ、頭の後ろでまとめている髪が見える。その様子をじっと見ていると、お富が声を掛けてきた。


「姫様。中へ入れてもよろしゅうございますか」


「えっ? ああ、もちろん。どうぞ中へ」


 そう答えると、男は俯きながら立ち上がり、部屋を少し入った辺りで再び座って頭を下げた。


「姫様には病み上がりの所を失礼いたしまする」


「いや……大丈夫ですから」


 私はそう答えたものの、彼はそこでじっと頭を下げていた。


「あの……どうぞ、顔を上げてください」


 私が促すと、ゆっくりと彼が顔を上げる。どうやら私が何かと言わないとならないらしい。戦国時代は面倒だ。そう思いながら、顔を上げた彼の視線が私の視線と合った。


(あれ? この人……)


 どこかで見たことがあるような気がした。その顔をまじまじと見つめる。すると、男は不思議そうな顔をした。


「いかがいたしましたか?」


「あっ……いや、何でもないです。それよりも、もっとこちらに来たらどうですか? 寒いでしょうから。こちらの火鉢の近くに」


「はっ。恐れ入りまするが、こちらで構いませぬ」


「まあまあ。姫様のお言葉ぞ。こちらに来なされ」


 お富が立ち上がって火鉢の近くを示し、自分もそこに座った。彼女も寒いので火鉢の近くに来たかったのかもしれない。ようやく彼は立ち上がり、それでも火鉢より2メートルほど離れた場所に座った。お富が湯を茶碗に入れて私と彼の方に差し出していく。すると、彼は部屋の中を見回し、一歩前に膝を進めてから小声で言った。


「姫様。失礼ながら、昔のご記憶が無くなったというのは、まことにございますか」


「ええ……そうですね」


「なんと……」


 彼はそこで絶句してしまった。彼も志月から聞いたのだろう。


「大丈夫じゃ。色々とお話しておれば、記憶も早く戻るかもしれぬと、月の里の長も申しておったであろう。どうじゃ。そなた、最近、姫様のことで、最近、強く記憶に残るような出来事でもなかったか」


「強く記憶に残ること、でございますか……?」


 彼はそこまで言って何かに気づいたように「あっ」と言った。


「何かあったのか?」


「い、いえ……」


 彼はそこで横を向いて黙ってしまった。その時だった。


「あっ!」


 今度は私が声を出してしまった。虎政が驚いたようにこちらを見つめる。隣からお富が慌てて言った。


「いかがいたしましたか。何か思い出されたことでも」


「い、いや……違うのですが……何でもありません」


 それだけ答えて、お富の薬草茶を口に入れる。しかし、急いで飲んだためか、思わずむせてしまった。


「大丈夫でございますか」


 お富が慌てて近づいて背中を撫でる。「大丈夫」と答えてもう一度その茶を飲んだ。


(この虎政という人は……伊織くんに似てるんだ)


 そうだ。内藤伊織だ。髪は後ろでちょんまげのように縛っているが、顔は伊織によく似ていた。細めの瞳にはっきりとした眉毛。ただ、袴姿のためなのか、やはり普段から鍛えているのか、体つきは伊織よりもがっしりとしている気がした。すると、虎政が少し早口で言った。


「姫様。ご無理は禁物でございます。本日はお元気な姿が分かっただけでも十分でございますので、この辺りで失礼させていただきます」


 彼はそう言って頭を下げた。するとお富が残念そうに言う。


「なんじゃ。もう帰るのか。折角なのだから、外の様子も聞かせよ。どうなのじゃ、信濃の方は」


「はあ。それは、何とも……」


「駿河方面も、あまり芳しくないという話も聞くが。どうじゃ」


「……はい。重臣方のお話でもそのような情報が入っておるようです。ただ、我が武田家の騎馬隊はまだ十分に戦力がございます。それに私も、弓や剣を日々鍛錬しておりますし、姫様にはどうかお心安く過ごされますよう」


 そう言って彼は改めて頭を下げると、そそくさと部屋から去って行った。

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