(4)
夕暮れの西日が障子の向こうから入ってきて、目の前の志月の隣に影を作っていた。しばらくして、外から女性の声が聞こえた。
「失礼いたします。時間も遅くなり恐縮でございますが、よろしければ夕餉を取られてはいかがでしょうか」
「まあ。まだ夕餉を取られていなかったのですか。では、私も一緒にいただいてもよろしいでしょうか」
志月がそう答えると、「承知仕りました」と障子の向こうで声が聞こえ、足音が再び遠ざかっていく。
「あの者はお富と申す者。幼き頃より梓姫の傍に仕えている、信頼できる者です」
元々、武田家の重臣の家の娘であったお富は、侍女として早月に仕え始め、梓姫が産まれてからは、二人の侍女として働いていたようだ。お富自身も、別の重臣の息子と結婚していたが、子供が無かったので、梓姫の事を自分の娘のように大切にしていたらしい。
「ところで、真穂殿は一体どうして姫様のお姿になったのですか」
志月が尋ねる。どう答えてよいのか分からず、首を傾げる。
「それが、私もよく分からないんです。家に帰る途中で、何か不思議な光を感じたと思ったら、気が付いたらこの姿になっていて」
「光、ですか……。ところで、真穂殿はこの辺りの者なのですか」
「たぶん、ここからは少し離れているのでしょうが、甲府に住んでいました」
「甲府? 府中のことですか」
「まあ、そうなんですけど……。信じてもらえないと思いますが、この時代ではなく、未来の甲府なんです」
「ミライ?」
「未来……ええと、つまり何と言えばいいんでしょうか。この時代よりずっと後の世界なんです」
「まあ……」
そう言って志月は目を丸くした。やや沈黙が続いたが、彼女はフフフと笑った。
「やっぱり、信じられないですよね」
「申し訳ありませぬ。でも、姉上の力は底知れませんでしたから、そういうこともあるかもしれないですね。ただ、分からないことが二つあります。一つは、どうしてあなたがずっと先の世界から梓姫の姿になってしまったのか。そしてもう一つは、本当の梓姫はどうなってしまったのか」
そこで、障子の外から「夕餉をお持ちしました」と先ほどの女性の声がした。志月が「どうぞ」と答えると、静かに障子が開かれ、お富と数人の侍女が膳を持って入り、私と志月の前に置いた。お富が最後にあの薬草茶を茶碗に注ぎ、ロウソクに火を灯していく。気づけば辺りはかなり暗くなっていたらしい。そして、お富は静かに部屋を出て行き、障子を閉めた。
私は目の前に置かれた膳に視線を落とした。椀にはやや茶色がかった米と雑穀のようなものが沢山入っており、その他にはみそ汁と、大根のような漬物、梅干が皿に盛られている。それを一目見て、そこが現代ではないことをはっきりと意識した。目の前の志月が椀を持ってその玄米を一口食べたのを見て、私も「いただきます」と手を合わせた。玄米を口に含むと、慣れていない固さに違和感はあるが、固い分、ゆっくりと噛んでいると甘みが増してくるような気がした。
「なかなか……体に良さそうなものですね」
沈黙して食事するのもどうかと思ってそう呟くと、志月はこちらに微笑を返してきた。
食事をしながら、志月はこの世界での生活について私が尋ねたことを教えてくれた。話の中で絶望的になったのはトイレと風呂だ。トイレは言うまでもないが、風呂も現代のような入浴は一般的ではないらしい。ただ、志月が住む里にはいわゆる温泉があるらしいので、早くそこに行ってみたいと言うと、志月は笑って頷いた。
食事を終えて、例の薬草茶を飲み切った。だいぶその味にも慣れてきた気がして、体も少しずつポカポカとしてくる気がする。しばらくして、お富たちが再び部屋にやってきて膳を片付けていく。
「姫様。お顔の色がようやく戻って参りましたな」
お富がロウソクを替えながらこちらを向いて言った。
「ええ。食べたら少し元気になった気がします。ありがとうございます」
そう言って頭を下げると、お富は慌てて正座して手をつき畳に頭をつけた。
「そのような……もったいないことでございます」
「お富。そなたのおかげで姫様も大事無さそうじゃ。ただ、まだ病み上がりのご様子。もうしばらくしたら私もお暇いたしましょう。姫様の床の用意をお願いします」
志月の言葉にお富は「承知いたしました」と再び頭を下げると、すぐに障子の外に出て行った。障子の向こうの庭は既に真っ暗だ。
「もう帰るんですか」
「ええ。あまり遅くなると、里の者も心配いたしますから」
「でも……私は、一体どうすれば」
心配になり思わず尋ねる。私が本物の梓姫でないことを知っているのは今のところ志月だけだ。すると彼女は口元に指を当てて少し考えた。
「そうですね……。真穂殿が本物の梓姫でないと分かると少し厄介です。今、この武田家は徳川家や織田家と戦っていますから、万一、姫が偽物とすり替えられたように思われると、真穂殿の身に危険が及ぶかもしれませぬ」
「それってつまり……殺されるってことですか?」
時代劇に出て来るような磔にされる自分の姿を想像して、急に鳥肌が立つ。すると志月は笑顔になって答えた。
「ご心配には及びません。真穂殿はどう見ても梓姫にしか見えませんし、あのお富がまず疑っていませんから。そうですね……高熱にやられて、記憶を失ってしまったようだと、私からお富に伝えることにしましょう。ああ、そうだ。虎政にも言っておいた方が良いですね」
「トラマサ?」
「ええ。甘利虎政と言う若者です。幼い頃から梓姫の側に仕えて、お守りする役目をしておるのです。勝頼公の信頼も厚い若者ですから、お富と虎政を味方にしておけば大丈夫でしょう。ただ、その他の人間にはできるだけ会わない方が良いかもしれませんね」
「そうですか……分かりました」
「ご心配には及びませぬ。私も里の方で少し調べてみましょう。姉上の残したものの中に何か手がかりがあるかもしれませんし」
そう言って畳に手をついて志月は頭を下げた。私も慌てて同じようにする。頭を上げると彼女はフフっと笑った。
「何かあれば、お富か虎政に言って私をお呼びください。ではこれで」
志月は立ち上がり、障子を開けて部屋を出て行った。