02
ラストは耳を澄ましていた。
周囲に吹き荒れる風の中から、特に鋭いものを探る。
視界の外から迫るそれを、限界まで待ってから身を翻して躱す。
通過によって発生する風圧に煽られながら体勢を立て直し、次に備える。
先程からその繰り返しだ。
今の所一度も反撃出来ていない。
基本的に防戦一方。
これはわかっていた事だ。
速さではリオネラに敵わない。
元より相手の長所と張り合う気はなかった。
全く手を出さぬせいか、リオネラが一度止まる。
その背には白く大きな羽が生え、手にはそれぞれ短剣が握られていた。
「ラストー、避けてるだけじゃ勝てないぞー」
「…………」
ラストは答えない。
「無視されるとお姉ちゃん悲しいんだけどな」
「裏切り者とは話さない」
「はい話したー。話さないとか言っておきながら話したー」
指を差して冷やかす。
「…………」
再び黙るのを見て、リオネラは軽く肩を竦めた。
「うそうそ。ごめんて。ラストが素直な子でお姉ちゃん嬉しいよ」
「……何で、裏切ったの?」
「んー?」
首を傾げて。
「前にも言った筈だけどさ、私は元々こっち側なんだって。今までがおかしかったの」
「私達の事、嫌いだった?」
「そんな可愛い顔で聞かれると困っちゃうな」
「答えて」
「好きだよ。じゃなきゃ百年単位で一緒にいる訳ないじゃん」
「じゃあ戦う必要もないでしょ」
「あるんだなーそれが」
「どうして」
ラストが困惑の体で呟く。
「それが姉さまの望みだから」
「……は?」
初め、ラストはそれがレアリかトルミレを差していると思った。
だがそれはありえない。
トルミレは既に倒されているし、レアリとも敵対状態にある。
では誰をそう呼んでいるのか。
「ブラドは、男、でしょ?」
他に思い当たる相手もおらず、消去法で残った名前を出す。
「何でそう思った?」
リオネラは笑いながら続ける。
「顔や名前が男だから? そんなもの、あの人はいくらでも変えられるぞ。体も声も自由自在だ」
「もしかして、私も知ってる人?」
結界が出来る以前の事を、ラストはあまり覚えていない。
当時はまだ生まれたばかりだったから。
そのため思い出せる顔もそれ程多くはない。
「さあ。もしかしたら見た事くらいはあるかもな」
肩を竦めてから。
「そろそろお喋りは終わりだラスト。トットがレアリ姉さまに勝てるとも思えないからな。私も加勢にいかないと」
翼をはためかせて飛翔する。
「止めたいならいい加減本気を出せ。じゃないと死んじゃうぞ」
上下に動きながら、徐々に速度を上げていく。
ラストは俯いたまま動かない。
情けを期待しているのか。
この期に及んで何と甘いのだろう。
リオネラは呆れながら降下し、ラストの喉を切り裂いた。
急所とはいえ反撃を警戒したのか、そのまま減速せずに距離を取る。
「…………」
ラストは追わない。
黙ったまま。
止まったまま。
首元の傷を押さえもせず、けれど決然とした意志を宿して。
ラストはこれまで、虚無としての姿をひた隠しにしてきた。
これは人目に触れる事を本人が極端に嫌ったからだ。
レアリは竜。
リオネラは鳥。
トルミレは四足獣。
ラストはそのどれでもない。
同族は気配でわかるので、皆それ位は知っている。
リオネラはこの戦いでラストの変身を誘っているのかもしれない。
いい機会だからせめて見てから倒そうと。
「いじっぱりめ」
今の攻撃にしてもそうだ。
思っていたより傷が浅い。
言ってみれば警告だ。
早く本気を出せと。
実際ここまで来たのだから出し惜しんでもいられない。
また、それが許される相手でもなかった。
やるしかないのだ。
「もういい」
ラストは覚悟を決めた。
見たければ見せてやる。
もっと早くこうしておくべきだった。
「何が――」
言い掛けて、周囲を見回す。
音に気付いたのだ。
最初は耳鳴り程度の認識でいた筈。
だが違う。
肥大していく違和感に、リオネラは動きを止めた。
「おいおい……」
もはや雑音も一つではない。
前後左右。
更には上下に至るまで、全方位を取り囲んでいる。
ここまで来ると飛び交う羽音に嫌でも気付く。
「もう、泣いて謝っても許さないから」
その言葉に、リオネラは真横を見た。
本人は正面にいるのに、声だけは耳元で響いたからだ。
困惑の体で視線を戻す。
「ラスト、お前」
それを見たリオネラが、言葉を失う。
彼女自身の変質もまた始まっていた。
「虫か」
口にした途端、ラストの顔がぼろりと崩れた。
§
室内に入ると、僕とレアリは順番に部屋を見て回った。
ブラドがどこに隠れているかわからなかったからだ。
二手に別れて探索しながら上から順に降りていく。
「誰かいましたか?」
「いや」
何度目かわからぬやり取り。
ブラドはおろか、他の敵や人質の姿すら見当たらない。
もぬけの殻なのか。
次の階は中央が大きく吹き抜けになっていた。
「ここが終われば一先ず――」
言葉の途中でレアリが止まる。
その視線は手すりの下。
一階の広間に注がれていた。
そこにいたのは、一人の少女である。
残念ながらブラドではない。
だが僕も知っていた。
「トット」
呼ぶまでもなく、彼女はこちらを見上げていた。
もう他の部屋を探す必要はない。
レアリと互いに頷き合って大きな階段を下りていく。
途中、トットが腕を振るとその両手に手斧が現れた。
それを合図と取ったか、レアリが動く。
対するトットもそれに応じる。
しかし切り結んだのはほんの数合。
仕掛けた側のレアリから距離を取る。
応戦していたトットもそれは追わない。
ほんの数秒の事とはいえ、レアリの攻撃を無傷で凌いだ。
それだけでも容易な相手でない事が知れた。
「どうぞ」
片方の斧で通路の先を示し、レアリに告げる。
「先生があなたをお待ちです」
通してくれるのか。
「……いいんですか?」
レアリも釈然としない顔で問う。
「先生がそれをお望みです」
余計な戦いを避けられるなら、それに越した事はない。
そう思って残りの階段を下りていると、今度はこちらに振り返って言った。
「申し訳ありませんが、ツカサさんは無理です」
どうして、とは聞けなかった。
そう上手い話はない。
一人通れるだけでもよしとしなくては。
だがレアリは納得していなかった。
「僕は平気だから、行っていいよ」
こちらを見上げる不安げな眼差しに、毅然と告げる。
トットは強い。
であれば尚更ここで彼女を戦わせてはいけない。
先にはブラドが控えている。
僕に役目があるとするなら、無傷で送り出す事だ。
それはレアリもわかっている筈。
恐らくはこちらの虚勢も含めて。
「ご武運を」
未練を断ち切るように背を向け、足早に去る。
それを見届けてから広間に下りてトットと向き合う。
とはいえ十分な距離は空けて。
本当に彼女と戦うのか。
まずはそこからだ。
「お久しぶりです」
言葉を選んでいると、先を越された。
「……うん」
「確認しますが、こちらに戻って来る気はありませんか?」
交渉次第では戦闘も避けられるのでは。
そんな打算もあった。
「いや、悪いけど」
だがその条件だけは呑めない。
「残念です」
さして感情が動いた素振りもなく、淡々と。
「和解が叶わぬ場合、容赦はしなくてよいと言われていますので」
下ろしていた手斧を、再び構えた。
「お覚悟を」
どうやら戦いは避けられないらしい。
腹を括るしかない。
ポケットから仕舞っていたいた霊石を取り出す。
力を籠めた石が、霊子の輝きを伴って槍へ変わる。
石突が床を打つ音が広間に響いた。
トットの眉が僅かに動く。
彼女にも見覚えがあったからだろう。
「やはりツカサさんがお持ちでしたか」
「うん」
ブラドがケイモンで僕に刺した槍だ。
石の状態で泉に沈んでいるのを回収したのだ。
「それも返して頂きます」
「……いいよ」
地面に対して立てていた槍を寝かせる。
彼女から見て面ではなく点になるように。
「はい」
握っていた槍を放す。
瞬間、矢のように射出された。
「っ!」
不意は突けた筈だが、あっさり斧の腹で防がれる。
けれどその顔には、少女が見せる初めての瞠目があった。
残響する衝突音が収まっても、槍は地面に落ちない。
その穂は今もトットを見下ろすような形で浮かんでいる。
これが僕なりに考えた槍の使い方だった。
追撃を警戒してか、彼女も迂闊には動かない。
「少し、安心しました」
「え?」
「無抵抗なあなたを、一方的に攻め立てる訳ではなくて」
安堵こそ見受けられないが、懸念は抱いていたらしい。
「そこまで過大評価されても困るんだけど」
ここから手も足も出ませんでした、というオチも十分にありえる。
「ご謙遜を」
言いながら、トットが僅かに身を屈める。
同時に床の砕ける音。
――来る。
直進を警戒して牽制に槍を薙ぎ払う。
左から右への斬撃。
彼女はこちらの間合いを見計らいながら左へ回り込む。
抜けられたら終わりだ。
足元を狙った刺突から上段へ、進路を妨げる形での斬撃。
トットは更に左へ飛び、距離を取る。
それを見て僕も槍を戻す。
丁度互いの中間に。
「体から離れた武器の操作というのは、厄介なものですね」
「どうも」
褒められて悪い気はしないが、こちらも必死だ。
抜けられたら身を守る手段もないのだから。
トットが構えを解いて右の斧を肩に掛ける。
無造作な仕草に、他意は感じられない。
「先程の事ですが――」
先程。
それがいつを差すのか。
思考に気を取られる瞬間を、トットは見逃さなかった。
担いでいた斧を投げる。
投擲の予備動作を減らすためだったのだ。
直線ではなく外側に膨らむような軌道。
投げた本人は逆から回り込む。
こちらの武器は一つ。
一度に二ヵ所の対処は出来ない。
であれば先に狙うのは投げた方だ。
打ち落とせばそれで終わる。
本人はそれからでいい。
そう思って斧を叩こうとした槍が、空を切る。
「!?」
接触の直前、唐突に斧が軌道を変えたのだ。
緩やかなものではない。
殆ど直角。
まるで持ち主であるトットの元に戻ろうかとするような。
ありえぬ軌道に目を見開く。
驚きはそればかりではない。
まだ十分な距離があると思っていたトットが、目前まで迫っていた。
これまでの全てが陽動だったのか。
振り上げた斧が、今にも振り下ろされようとしている。
間に合わない。
「っ!」
直感で悟りながら引き寄せた槍を、しかしトットに刺さる寸前で止める。
「…………」
こちらが速かった訳ではない。
数瞬遅れでトットが飛んできた斧を掴む。
既に持っていた左の斧は、僕の首元に添えられている。
順番で言えば彼女が先だった。
彼女が止めたから僕も止めたのだ。
「何で……?」
理解出来ぬまま聞く。
「この斧は、互いに引き寄せる力があります」
「うん……」
それは今の動きで察したが、こちらの求める答えではない。
斧が首から離れる。続いてトット自身も。
あまりにも無警戒に晒された背を、呆然と見送る。
そのまま去るのかと思われた所で踵を返す。
「ではもう一本」
「え?」
「行きますよ」
そんな事をしている場合ではないのだが。
「あ、はい」
二戦目が始まった。