たった5分で終わった復讐劇(恋する王子は不遇令嬢を所望する 竜の魔法が導く溺愛ルート)
この枯葉色の髪がブロンドだったら。
この淡いサフラン色の瞳が翡翠色だったら。
せめて、このどちらかが願う色になっていたら、父は自分を少しは愛してくれたのでしょうか。
病床に伏すティーナは、ここには居ない父親に何十回も何百回も問いかけてみる。当然答えは返ってくることはない。
けれども開け放たれた窓からは、答えの代わりに楽し気な声が聞こえてくる。
窓辺に立たなくても声の主が誰なのかわかる。
父親であるジニアスと、ある日突然妹となったシャシェだ。
二人は降り注ぐ午後の日差しの中、薔薇のアーチが美しい庭で仲良くお茶を飲んでいるのだろう。もう一人の娘が、殺風景な部屋で病に苦しんでいるというのに。
ティーナの枯葉色の髪とサフラン色の瞳は、亡き母親から譲り受けたもの。父親であるジニアスとは悲しいほど似ていない。
政略結婚で結ばれた両親の間には愛情は無かった。
加えて父親は血統主義者であり、血の繋がりは容姿のみと決めつけていたため、自分に似ていない子供を見て、夫は当たり前のように妻の不貞行為を疑った。
罪人扱いされた妻は、必死に違うと訴えた。しかしその声は夫の元には届かず、ほどなくして流行り病で命を落とした。
そんな出自であるティーナが18年もの間、父親に愛されなかったのは致し方無いのかもしれない。
だが事実無根である上に、冷遇される環境においてもティーナは父親を恨むことはせず愛していたし、愛情を求めていた。
だから少しでも認めて欲しくて、礼儀作法はもちろんのこと語学や経済学も熱心に学び優秀な成績を修めた。
「……でも、全然駄目だったわ」
独り呟くティーナは、薄く笑いながらベッドから身を起こす。たったこれだけで息が切れるし、乾いた咳が止まらない。
今朝、部屋に入って来た見知らぬメイドは窓を開けてこちらの顔を見るなり掃除すらすることなく去っていった。
相変わらず窓の外からは、弾んだ声が聞こえてくる。
夏の始めの青空の下、キラキラと輝く金色の髪と翡翠色の瞳を持つ二人の姿は幸せそのもので、きっと使用人もつられて笑みを浮かべているのだろう。
ティーナが失意のどん底に突き落とされたのは、半年前の王城の夜会だった。
大勢の招待客で賑わう中、他人よりも他人行儀に距離を置く父親の姿を追っていたその時、彼女ーーシャシェは現れた。地方貴族の青年にエスコートされて。
「初めまして、お父様」
波打つ金の髪と翡翠色の瞳を持つ女性が言ったその言葉は、誰に向けてのものなのか会場にいた全員が瞬時にわかった。
お父様と呼ばれたジニアスは一度シャシェと視線を交わしただけなのに、彼女を屋敷に迎え入れた。
それからシャシェは、あっという間にティーナのものを奪っていった。
名門貴族カリナ家の娘という立ち位置も、思い出が詰まった部屋も、父親の愛情も彼女は手中に収め、ティーナを【ニセモノ】として扱った。
使用人は、屋敷の変化に敏感だ。そして賢い。
ジニアスがシャシェの言動に対して咎めることをしなければ、それは容認したこととされ、ごく自然に使用人はティーナをニセモノとして扱うようになった。
ニセモノは屋敷にとって、不要なもの。害をなすもの。仕える価値のないもの。
その結果、ティーナは満足に治療を受けられないまま、一人寂しく死を迎えようとしていた。
もう窓を閉める体力も気力も残っていない。
「ーーふふっ、こんな惨めな死を迎えるなら、我慢なんかしなければ良かった」
これまでずっと自慢の娘になれるよう、たくさんのことを我慢してきた。
難解な経済書ではなく、胸をときめかせる恋愛小説を読みたかった。
退屈な古典歌劇ではなく、気楽に楽しめる大衆喜劇を観てみたかった。
息苦しい典型的なドレスではなく、流行りのドレスを着てみたかった。
父親に「思い込みで母親を傷付けた最低男!」と罵ってやりたかった。
ニセモノという噂を信じてあっさり婚約を破棄した婚約者をぶん殴ってやればよかった。……いえ、その前にはしたない気持ちが邪魔して、一度も気持ちを伝えられなかった自分が悔しい。
本当はあの人に、好きと言いたかった。
差し出されるあの大きな手にそっと自分の手を乗せるのではなく、ちゃんと指を絡ませて恋人のように手を繋いでみたかった。敬称ではなく、彼の名前を呼んでみたかった。
そんな数え出したらキリがない心残りは、全部父親に愛されるために捨てなければならない代償だと思っていた。
けれど我慢も努力もしないで、切望したそれらをあっさり手に入れた者がいるという事実に再びベッドに倒れたティーナは、笑いながら泣いた。
そして幾つもの涙の筋が頬に落ちた頃、ひっそりとティーナは息を引き取った。
18歳という早すぎる死であり、名門貴族の令嬢にしてはあまりに寂しい末路だった。
そうしてティーナは神の御許へと還るーーはずだったのだが、なぜか再び目を覚ます。
時を遡ること半年。あの王城の夜会にて。
***
『さぁ、ティーナ。目を覚ましてごらん』
蕩けるほど柔らかな口調はまるで魔法のようで、ティーナはパチリと目を開けた。
ただ目を開けた途端、信じられない光景が映り込み、我が目を疑った。
これは夢?それとも現実??
ティーナは賑わう会場を見渡しながら首を傾げる。きつく絞ったコルセットが苦しい。
自分は死んだはずだ。誰にも看取られることなく孤独に息絶えたはずだ。なのに今、淑女の教本に出てくるようなドレスを着て、会場の隅に立っている。
しかも身にまとっているドレスも、この会場も見覚えがある。
あの日ーー自分がニセモノと呼ばれるようになってしまった、シャシェが現れた王城の夜会だ。
「つまり……時間が巻き戻ったって……こと??」
口に出した途端、ティーナは壁に背を預け額を押さえた。
そんな馬鹿な、あり得ないと思う反面、可能性としてはそれしかない。ただなぜ、よりにもよって今日なのだろうか。
神様は二度も自分に苦しめと言っているのだろうか。あんな惨めな思いは一度だけで十分だ。
「どうかしたのか?」
片手で顔を覆って状況を把握しようと努めていれば、聞き覚えのある声が降って来た。
顔を上げれば自分の婚約者である第三王子カルオットだった。自分を見下ろす2つ年上の彼は、明らかに訝しそうである。
「どうもしませんわ……失礼しました」
ほんの少し前、彼に好きだと言いたかったと悔いたが、本人を目の前にするとぎこちない態度を取ってしまう自分が情けない。
しかし良く言えば冷静沈着。言葉を選ばなければ、いつだってニコリともしない彼は感情が読めず、どんな言葉をかけて良いのかわからない。
何より銀色の髪にアイスブルーの瞳。スラリとした長身の彼は眉目秀麗で、隣に並ぶのが自分であることに劣等感を抱いてしまっているのが最大の原因だ。
そんな幾つかの理由でティーナは、カルオットとろくに目を合わすことすらできないのだ。
「そうか。なら別に構わないが……構わないのだが……まぁ……」
普段ならそっけない自分の元から去っていくはずの婚約者が今日に限って、歯切れ悪くブツブツと呟きながらずっと傍にいる。
「恐れながら殿下、こちらにずっといらっしゃるのですか?」
遠回しにあいさつ回りは良いのか?と問えば、カルオットはまた歯切れの悪い返事をする。しかし一向にここから離れる気配は無い。
不本意ながら第三王子の隣に立つ以上、壁に凭れたままでは無作法だとティーナは姿勢を正す。と、その時、会場の入口でざわめきが起こった。
おそらく、彼女が姿を現したのだろう。
「殿下、失礼します」
時間が巻き戻った今、この後どうなるのかわかってはいるが、手足は震えるし声も掠れている。
しかし、逃げるわけにはいかない。なぜなら、逃げたところでティーナには行く当てなど無いからだ。
愛されなかった娘には、自由になる金もコネもない。劣等感が邪魔して友と呼べる人も作れなかったのだから、病死するか野垂れ死にするかのどちらかだ。
だからティーナは、シャシェのところに向かうことを選んだーー己の運命を変えるために。
ドレスの裾を掴んで人混みをかき分け、会場入口まで歩を進める。
「待て」と言いながらカルオットが一定の距離を保って後を付けてくることが謎だが、今はそれどころじゃない。
王族を無視することは大罪だが、気にしないようにする。それに彼は自分を捨てた男だ。振り返ってあげる義理は無い。
「失礼、通してくださいませ……失礼、失礼ーーーっ!?」
強引に手で人を押しのけ、人混みの先頭に立てば、そこには記憶通りのシャシェがいた。
田舎貴族丸出しの野暮ったい夜会服に身を包んだ青年の隣に立つ彼女は、確かに美しかった。
波打つ金色の髪を敢えて下ろし、翡翠色の瞳を目立たせるようオフホワイトのドレスに身を包んで薄く化粧した口元は完璧な弧を描いている。
そしてその唇は、かつての時と同じ言葉を紡いだ。
「はじめまして、お父様」
翡翠色の瞳は、真っすぐ父であるジニアスを見つめている。
対してジニアスも、食い入るようにシャシェを見つめている。
翡翠色の瞳を持つ者同士でしかわからない何かを感じ取っているようで、ティーナは強い疎外感を覚えた。
一度目は、突然現れた彼女に怯え父親に救いを求めた。その結果、父親はティーナではなくシャシェの手を取った。
でも二度目は、違う。
怯えることなんてしない。誰かに救いを求めるような愚かなこともしない。
運命は自分の力で変えてみせる。
そう決心したティーナは、ゆっくりと一歩前に出た。
「お父様と仰いましたが……あなた、どなた?」
感情を消して問いかければ、シャシェの視線はこちらに向く。しかし口を開いたのは彼女ではなく、隣に立つ男だった。
「こちらの令嬢は、シャシェ・カリナ嬢でございます」
低く良く通る声で言い切った男にティーナは、不思議そうな顔をした。
「あら、わたくしの家門にシャシェという名の者はおりませんわ」
夏に雪は降りませんわと同じニュアンスで微笑んだ途端、シャシェと男は小馬鹿にしたように笑い返した。
「確かにこれまではそうだったかもしれません。ですが、シャシェ様は紛れもなくカリナ家のご令嬢です。その証拠にーーまぁ、口で言うよりこの容姿を見ていただければ」
「ところであなたは、どなた?名前も名乗らずに好き勝手しゃべっていますが、ガチョウとでもお呼びすれば良いのかしら?それとも躾のなっていない子犬ちゃんなのかしら?」
「なっ」
自信満々に語っていた男は、己の発言を邪魔されるなど、欠片も思っていなかったのだろう。露骨に顔を顰めた。
しかしティーナは、涼し気な顔でもう一度「どなた?」と問いを重ねる。
ここは王城の夜会だ。そしてティーナは、名門貴族の令嬢であり、第三王子の婚約者。
今、名を告げずに好き勝手に話ができるのは、王族とティーナの父親だけである。
つまりティーナは、見ず知らずの男に対して暗に立場を弁えろと忠告したのだ。
「恐れながら私は名乗るほどの者ではございません」
「あら?名乗る名が無い割には、随分なことを仰っていたような気がしますけど?」
「そ……それは」
食い気味にティーナが尋ねれば、男はあからさまに狼狽えた。シャシェも、ティーナがしゃしゃり出てくるとは思っていなかったのだろう。あからさまに迷惑顔をしている。
ただシャシェは、王城に乗り込んでくるほど図太い神経の持ち主だ。すぐさま思考を切り替え、同じ瞳の持ち主に救いの目を向けた。
「ティーナ、いい加減にしなさい。弁えなければならないのはお前の方だ」
憎々し気にそう言い捨てた父親を見て、ティーナは苦く笑う。
一度目の生では、あれほど救いの眼差しを向けたのに一度も手を差し伸べてくれなかったというのに、目が同じ色であればチラ見程度で簡単に助け船を出すのか。
改めて自分の父親が容姿に固執する性格だと知り、ティーナは「ああ、そうか」と深く納得する。
あと、疑ってはいけないと自分を戒めてはいたが、シャシェに対して確固たる何かを持っている父親は、間違いなく妻がいながら、他の女と子供ができるような真似をしてくれたのだろう。
ちなみにシャシェは、ティーナより数ヶ月年下である。
とどのつまり、父親は妻が妊娠中でありながら他の女のところに通っていたということ。
よくもまぁ、どの面下げて母親の不貞行為を疑ってくれたものだ。自分のことは棚に上げて、くっそ最低な父親だ。
ティーナは、一度目の生では一度も口にしたことが無い悪態をつきながら、父親を睨む。
しかし「あんたのしたこと全部わかっているぞ」という視線を受けてもジニアスは挙動不審になることも、バツが悪い顔をするわけでもない。
「ティーナ、今すぐ下がれ」
下人に向けるような口調でそう言われて、ティーナは悔しさからぐっと唇を噛む。
貴族令嬢にとって父親は神に等しい存在だ。命じられれば、否とは言えない。
しかもこれまで自慢の娘でありたいと努力してきたティーナは、骨の髄まで貴族思考が身に付いてしまっている。
「二度、言わせる気か?」
苛立ちを孕んだ父親の声は、完璧にティーナを邪魔者扱いしている。
そこで気づいてしまった。これは父親が自ら考えた茶番だということを。
華やかな王城での夜会で、己の容姿を受け継ぐ生き別れの娘との感動の再会。
美しさはそれだけで武器となる。きっと父親の予定では、見目麗しい親子が涙を流して手と手を取れば、周囲の人間は認めざるを得ないと考えたのだろう。
実際、一度目の夜会ではそうして父親はシャシェを自宅に連れ帰った。
けれども、未来を知っているからこそティーナは引き下がることはできない。
「……お父様」
「黙れ。下がれと言っているのがわからないのか。まったく……なっ!」
忌々しいと言いたげに眉間に皺を寄せていたジニアスだが、突然信じられないものを見るかのように目を見張った。
と、同時にティーナの肩に大きな手が乗った。
「お前が、黙れ」
吹雪より凍てつく声でそう言ったのは、ティーナの婚約者であるカルオットだった。
「ここがどこだかわかっているのか?そして、この者が誰なのかわかっているのか?答えろ、カリナ卿」
「そ……それは」
「耳が聴こえないのか?さっさと答えろ」
「ここは恐れ多くも我が国の中枢である王城であり、ティーナはわたくしめの娘であります」
「半分は、正解だ。だがティーナはお前の娘である前に、私の婚約者だ」
瞬間、会場はどよめきが起こった。
無理もない。ティーナは間違いなくカルオットの婚約者だが、いつ婚約を破棄されてもおかしくないと噂されるほどの関係だった。
まかり間違っても、大勢の人の前で自分の婚約者だと公言するような人ではなかったはず。
カルオットの予想外の行動に、ティーナは目を丸くする。
ここにいる招待客に至っては、シャシェのことなどそっちのけで、ティーナとカルオットを交互に見ながらどういうことだと囁き合っている。
そんな中、カルオットだけは表情を変えることは無い。婚約者の肩を抱くその手は、常日頃からそうしているような余裕すら感じさせる。
「……あ……あの、殿下」
「しっ。そなたは口を開くな」
突き放すような冷たい口調に、ティーナは俯きながらドレスの裾をギュッと掴む。でも、
「こんなくだらない茶番、5分で終わらせてやる」
「え?」
「だから、しっ」
「……」
殿下に黙れと言われたら、素直に従うしか道は残されていない。たとえ、聞きたいことや主張したいことがあっても。
「よし、いい子だーーさて、そこの小娘。聞きたいことがある」
「え?……私ですか?」
「そうだ」
最高に着飾った自分を小娘呼ばわりされたことに腹を立てているシャシェだが、相手は王族だ。すぐに花のような笑みを浮かべて「なんでしょう?」と小首をかしげる。
「お前の歳はいくつだ?」
「もうすぐ……じゅ…18になります」
「そうか。なら、お前はカリナ卿の娘じゃない。ニセモノだ」
「そんなっ!?違います!私は正統な娘でありますっ」
カルオットの言葉で顔色を失ったシャシェは、髪を振り乱して主張する。同じくジニアスも。
「恐れながら殿下、シャシェの容姿をご覧になってくださいませ!この髪と瞳。わたくしに瓜二つではありませぬか!」
シャシェを庇うようにカルオットの前に出た父親を見て、ティーナは確かにこの二人には血縁関係があるのだろうと冷静に思う。
しかし実の娘を前にして、よく言えたものだと寂しさや切なさを通り越して虚しい思いが胸を刺す。
周囲の招待客も不躾な視線をティーナに向ける。あまりの惨めさに、つい胸を押さえれば、肩に乗っている手に力がこもった。
「ほう、ならお前は妻が身重の時に、他所で子供をこしらえたということになるな」
「そ……それは」
言いたかった言葉がカルオットの口から紡がれた途端、ここでジニアスはようやっと狼狽えた。
「今更口に出すのも馬鹿馬鹿しいが、この国は一夫一婦制だ。お前がシャシェという娘が実の娘だと主張するなら、お前はどこの国の人間なんだ?少なくとも、この国ではないはずだ」
「……ですが……その……」
「まさか人の上に立つ貴族の人間が、違法行為に目をつぶれと主張しているのか?それとも妻にはなんの根拠も無い思い込みで不貞行為を疑うのは許され、男は勝手気ままに妻以外の女と子供を作っても許されると思っているのか?」
「そんな……そんな滅相もない」
首を横に振るジニアスだが、なぜ自分だけがという顔をしている。
確かに、この国は一夫一婦制だ。神の祝福を受けた二人は、生涯互いを愛し抜くことを誓い合う。
だがしかし、政略結婚で結ばれた夫婦が結婚後に恋愛を楽しむことは、珍しくは無い。その結果、子供ができる場合だってある。
でも公に罰せられることは、これまで一度もなかった。よくある貴族のゴシップとして処理されてきた。
しかし法で定められている以上、大声で不服だと訴えるわけにもいかない。
今ここでジニアスは、二択を迫られていた。
一つは、この場でシャシェを娘ではないと宣言し、それなりの断罪を下すこと。
もう一つは、自らが姦通罪を犯したことを認め当主の座をティーナに譲ること。
どちらもジニアスにとって身を引き裂かれるような選択だ。
「では、カリナ卿。今日は特別に、お前にこの件を一任しよう。夜会の最中だ、さっさと決めてくれ」
無情にもカルオットは、ジニアスに決断を急かす。
「で、では……」
「お父様!わたくしを見捨てないでくださいませっ」
家門と愛娘との未来を天秤にかけたジニアスがゴクリと唾を飲んだ瞬間、シャシェは悲痛な声を上げた。
「愛しているとおっしゃったではないですか!これからはずっと一緒だとっ。贅沢な生活をさせてやるって。だから私、お母様を捨ててここまで来たんですよ!?」
一度目の生でも見ることができなかった必死な形相のシャシェを見て、ティーナは父親が己の保身に走る決断をしたことを確信した。
「殿下、シャシェと名乗ったこの小娘は、カリナ家の血を引く者ではございません。そしてわたくしは、亡き妻を愛しております。妻以外の女性と過ちを犯したことなど一度もございません」
どの口が言うか。
ティーナとシャシェは、同時にそんな視線をジニアスに向けた。
娘二人から軽蔑の眼差しを向けられた父親は、それでも我が身を守ろうと更に言葉を重ねる。
「見知らぬ娘から父親と呼ばれた私は、被害者でございます!これまで清廉潔白に生きてきた私がどうして……ああ、神よ。なぜこんな酷い試練を与えるのですかっ。私は妻だけを愛していたというのに」
わざとらしく膝を突き片手で顔を覆うジニアスに、カルオットは乾いた笑みをこぼした。
「そうか。なら、あの娘は厳しく罰さなければならないな」
「さ……さようです」
「お父様、酷いですわ!枯葉色の髪の娘なんて薄汚いって、サフラン色の瞳の人間が同じ屋敷にいるなど不快極まりないって言ったくせに!!私が一番だって!!跡を継がせてくれるって言ったのに!!嘘つき!!」
「黙れっ、お前など知らん!」
「なんですって!?言っておきますけど、お母様はお父様の下着を全部保管してますからね!あと酔っ払った時に忘れていった家紋入りの短剣だって家にあるんですからっ」
「知らん!この嘘つきめっ。平民のくせにふざけたことを言うな!極刑にされたいのか!?」
「なによっ、お父様こそ」
「私はお前の父親なんかじゃない!!」
最後の悪あがきとも言える聞くに堪えない不毛な言い争いが勃発し、招待客は唖然とする。
間違いなくこれはゴシップ誌に載るだろう。カリナ家が国中の笑いものになる未来を想像し、誰よりも先に笑ってみる。だってもう、笑うしかないじゃないか。
そんな気持ちから貴族令嬢らしくティーナが困ったように微笑んでみせれば、周囲の招待客も苦笑し始めた。
でも、カルオットだけは無表情で懐中時計を取り出し、何故か時刻を確認する。
「おっと、5分経ったな。では終わりにしよう」
まるで試験中の教師のようなセリフを吐いたかと思えば、カルオットは片手を上げて衛兵を呼びつけた。
「夜会の邪魔だ。その男と小娘を牢に入れておけーーあと、カリナ卿。お前にはもう少し詳しく話を聞きたいから、別室に移動してもらう。夜会が終わるまでそこで控えてくれ」
「お、お待ちを!私は……被害者でございます!疑わしいことなど」
「疑わしいことなど無いなら黙って待っていろ」
「……」
青ざめるジニアスを一瞥したカルオットは、顎で衛兵たちに指示を出す。
そうしてジニアスとシャシェと謎の男は、衛兵たちの手によってあっという間に会場から姿を消した。
***
パタンと会場の扉が閉まったと同時に、国王陛下並びに第一王子と第二王子が登場したため、招待客はメイン会場へと移動した。
ただティーナは、カルオットに引きずられるように会場を後にした。
「ーー寒くはないか?」
庭園に到着したカルオットは、ティーナの腕から手を離すと向き合ってそう尋ねた。
「いいえ、大丈夫です」
「……そうか」
寒いと言えば、上着を貸してくれる気だったのだろうか。
これまで一度も彼の優しさに触れたことがないティーナは、ふとそんなことを思う。でも、寒いと言う勇気はない。
「なら少し歩こう。いいか?」
「はい、かしこまりました」
素直に頷けばカルオットは、半歩前を歩き出す。
歩調に合わせて微かに揺れる彼の手はあまりに無防備で、今なら自分からその手に触れても咎められないのではないかとすら思えてしまう。
しかし一度目の生で受けた一方的な婚約破棄は、未だに心の傷となって痛みを訴えている。
きっと今日、自分を助けてくれたのは、ただの気まぐれだったのだろう。
もしかしたらカルオットは自分がニセモノ扱いされなくても近い将来、婚約を破棄する予定だったのかもしれない。
だからキズモノになる相手に、ほんの少しだけ優しさを与えてくれただけかもしれない。
自惚れて真実を見失うのは怖い。悪いように考えるのは得意な方だ。
でも理由はなんであれ助けられたことは事実で、それが素直に嬉しい。
「殿下、ありがとうございました」
「……いや」
そっけなく返事をするカルオットは、心なしか歩調が速くなった。
しばらく歩いて足を止めた先には、人工池があった。水の上には手のひらに乗ってしまうほどの小さな船の上に火の灯されたキャンドルが幾つも揺れており、幻想的な光景だった。
「綺麗ですね」
「ああ。これを見せたかった。女性はこういうものが好きと聞いた……兄上から」
「さようですか」
兄弟の仲の良さを褒めるべきなのか悩んだけれど、一先ず無難な返事をする。
カルオットも期待してはいなかったのだろう。ティーナの返事に頷くと、再び口を開く。
「私はずっと後悔していた。酷い思い違いをして、大切な人を失ってしまったんだ」
唐突に切り出されたそれはあまりに重い内容で、ティーナはどんな顔をすれば良いのかわからない。
ただ水面を見つめるカルオットは痛々しいほど切なくて、失ってしまった人は彼が心から愛していた女性なのだとすぐにわかった。そして心臓が焼けるように痛んだ。
「……愛していたのですね、その方を」
「そうだな。私は感情を表に出すのが苦手で、一度も気持ちを言葉として伝えることができなかった。でも、いずれ妻になるのだから、そう焦らなくてもいずれ伝わると思っていたんだ」
「そうですか」
婚約者の前で、赤裸々に語る彼を詰りたい。なんてデリカシーのない男なんだと言えたら……そう思ったけれど、口から出た言葉は別のものだった。
「このお話は、他の方も知っておられるのでしょうか?」
「いや。王族……両親と兄上以外は知らない」
「そうですか」
なら、許してあげよう。
胸の痛みは消えないけれど、少なくとも彼にとって自分は大事な話を打ちあけても良いと思える存在なのだ。
「ありきたりな言葉しか見つかりませんが……お辛かったでしょうね」
「ああ、辛かった。しかも彼女はなんの前触れもなく私との婚約を破棄したんだ。その後、すぐに息を引き取った」
「そうですか……もしかしたらその方は、殿下が悲しまれないよう自ら身を引いたのかもしれませんね」
「どうだろうな。彼女は私を好いてはいなかったようだから、違うかもしれない」
「まさか。殿下を嫌う女性など、この国にはいないでしょう」
「そうとも限らない」
やけに頑固になるカルオットに、ティーナは肩をすくめる。
亡くなってしまった女性と張り合おうとは思わない。だが、今を生きる彼の心の傷はどうにかして癒やしたい。
「殿下、辛い過去は誰かに語れば少しは楽になるものです。もしよろしければわたくしにお聞かせ願えませんか?」
「……そなたにか?」
「あ、出過ぎた真似をして申し訳ございません」
「い、いや違う。ただ、少し言いにくいと言うか何というか……だが、一番聞いてほしい相手でもあるな。よし、この際だから聞いてもらおうか」
「は、はぁ」
悩んだかと思えば一方的に結論を下したカルオットは、目についたベンチを指差し「長くなるから座ろう」と提案する。
断る理由が無いティーナは、カルオットと並んで腰掛ける。
少し動けば肩が触れ合う距離に、こんな状況なのに変に意識してしまう。頬が熱くなる。どうか気付かれないようにと祈りながら、ティーナはカルオットに続きを促した。
「その人を婚約者に選んだのは、至極単純な理由だった。家柄が釣り合い、年齢が釣り合い、容姿が自分好みだった。それだけだ……だが、それだけのことなのに気づけば彼女に夢中になっていた」
「……お綺麗な方だったんですね」
「そうだな。当の本人はその容姿に劣等感を抱いていたようだが、彼女の髪と瞳は陽を浴びた温かい色彩で、冷たい印象を持たれる私には眩しいほど美しかった。これも彼女の前では一度も言えなかったことだ。伝えてやれば、少しは彼女は嬉しそうにしてくれただろうか」
「きっと喜んでくれたと思いますわ」
「どうだろうな……彼女は私と会ってもいつもニコリともしないし、会話も途切れがちで、実は私は彼女のことを何も知らなかった。きっと私には本当の自分を見せたくなかったんだろう」
「それはさすがに殿下の思い込みではないでしょうか?」
「そう思いたい。そう思って良いのか?」
「さ、さぁ」
急に顔が近づき、ティーナは慌てて身を引く。
「すまない」
「い、いえ」
謝罪をするカルオットは少し傷ついた顔をしていたが、再び語りだした。
「彼女の育った環境は、お世辞にも良いとは言えなかった。特に突然妹らしき人物が現れた途端、彼女はニセモノと呼ばれるようになった」
「え?」
「馬鹿馬鹿しい話だ。噂など気にせずにさっさと私のもとに嫁いでくれば良かったのに。そうすれば彼女の言うホンモノになれたというのに。……彼女は私を拒み冷遇される屋敷にとどまることを選んだ。実に愚かなことだ」
その時のことを思い出しているのだろう。カルオットは憤慨した様子で腕を組む。対してティーナは、口元に手を当て浅い呼吸を繰り返す。
ピッタリと自分の境遇と一致しているが、彼が語っている人物は一体誰なのだろう。
まさかとは思う。彼もまた時間を遡った者など信じられるわけがない。
でも、今日の一連の出来事を思い返してみると、恐ろしいほど辻褄が合う。
「話は続きがあるんだ。聞いてくれるか?ま、語らせたのはそなたなのだから、最後まで聞いてくれるよな」
「……は、はい」
有無を言わせない口調に、ティーナがぎこちなく頷けばカルオットは満足そうに笑った。
「突然の婚約破棄に正直、私も腹を立てた。拗ねていたという方が正しいかもしれないが、とにかく彼女と距離を置いて政務に没頭していた。しかし、嫌な予感がして密偵を彼女の屋敷に送り込んだ。彼女が死にかけていると聞いて慌ててそこに行けば、冷たくなった彼女がそこにいた」
「……っ」
「あんなに後悔したのは初めてだ。なぜ無理矢理にでも彼女を自分の元に呼び寄せなかったのだろうと……どうして一度も好きだと伝えなかったのだろうと。時間が無限にあるとどうして錯覚していたのだろうと……彼女の亡骸を抱きしめながら酷く自分を責めた」
「でも、殿下は何も悪いことなど」
「していないって言いたいのか?どうして見殺しにしたのかと責めてはくれないのか?」
「……っ」
肩を掴まれ、真剣なカルオットの顔が間近に迫る。
「どうして父親ではなく、私に助けてと言ってくれなかったんだ?そんなに私は頼りにならないのか?それほど私を嫌っていたのか?どうして私のもとではなく死を選んだんだ?」
矢継ぎ早に問われ、ティーナの頭は真っ白になる。
「わ……わたくしは……」
「すまない」
なんとか言葉を紡ごうとした途端、カルオットは項垂れた。彼の柔らかい銀髪が肩に触れ、更に混乱する。
もう確認する必要などない。カルオットは自分と同じように時を遡って、ここにいるのだ。
でも、どうやって?どうして彼が選ばれたのだろう。
その疑問はカルオットの次の言葉でわかった。
「そなたが死んで、自暴自棄になっていっそ自分も死のうかと思った。愛する人がいない世界で生きていても仕方がないと」
「そんなっ」
最悪な選択を口にされ、ティーナは血の気が引く。
なのにカルオットはここで顔を上げて笑った。イタズラが成功した子供のように。
「だが、そう思ったのは一瞬で、私は時を巻き戻すことにした。本当だったら今日の夜会でのことは5分で解決できる案件だったからな」
「は……い?」
想像もしていなかったその言葉に、ティーナは間抜けな声を出してしまった。
「信じられないって顔をしているな」
「はい」
「できるわけがないと思っているようだな」
「はい」
「だが現実として、そなたはここにいて、私の話を聞いている」
「はい」
「実際そなたがニセモノと呼ばれるようになったこの事件、5分で解決できただろう?」
「はい」
「でも、やはり信じられないと思っているのか?」
「はい」
「どれもこれも被せ気味に返事をするのは、どうかと思うぞ」
「……失礼しました」
素直に謝れば、カルオットはガシガシと頭をかいた。
こんな仕草、見たことが無い。新鮮さに、ついときめきそうになる自分を抑えつつティーナは、「どうやってですか?」と勇気を出して問うてみる。
「竜神の祝福を受けた王族の直系は、一度だけどんな願いも叶えてくれる魔法を授かっている。それを使った」
「……初耳です」
「だろうな。この国の最たる秘密だから、知る者は限られている」
「わたくしが知っても良かったのでしょうか?」
「私は、妻になる女性には隠し事はしないと決めているから問題ない」
無自覚に愛の告白を受けたティーナは、みるみるうちに顔が赤くなってしまった。
「今の説明で納得できたか?この際だから知りたいことはーー……顔が赤いが大丈夫か?」
心配そうに頬に手を伸ばすカルオットをやんわりと避けたティーナは「ちょっとお待ちを」と片手で待ったをかけて何度も深呼吸をする。
夜風が心地よい。頬に集まった熱がゆっくりと飛散していく。
水面に揺れるキャンドルの明かりが綺麗で、風にのって漂う花の香りが濃厚で酔うほどだ。
ああ、そっか。自分は生きているのだ。
怒涛の展開で、思考が追いついていなかったけれど、ようやっとそれを実感した。同時に考えなければならないことが湧き水のように溢れてくる。
母親を罪人扱いした父親への処罰。不貞行為の末にできた子供……シャシェの対処。
世間の笑いものになる家門をどうやって立て直すか。
でもティーナが一番最初に選んだのはーーカルオットが知らない真実を伝えることだった。
「殿下、一つ訂正させていただきたいことがあるのです」
「なんだ?」
姿勢を正したティーナに、カルオットも同じように背筋を伸ばす。
「婚約を破棄したのはわたくしの意思ではございません。そしてわたくしは殿下が一方的に婚約を破棄したと伝えられました」
「そんなわけあるかっ」
「ええ。わたくしも同じ気持ちです。まんまと騙されてしまいましたね。一度目の生は、お互いに」
「悔しいが、認めざるを得ないな」
「でも、今わたくし達は二度目の生を生きてます」
「そうだな」
悲しみにくれたまま死んだ記憶は消すことはできない。
でも、二度目の生は同じ過ちを繰り返したくはない。
だからティーナは勇気を出して、死に際に願ったことを口にした。
「あの……殿下お願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「これからは、殿下のことを……名前で呼んでも良いですか?」
「当然だ」
「あと…」
「何だ?」
「手をつないでもいいですか?」
再び真っ赤になったティーナは、手袋を脱ぎ捨て震える手をカルオットに差し出す。彼もごく自然に手袋を外した。
「もちろんだ」
自分の小さな手の平が、彼の大きな手の平に包まれる。次いで、ゆっくりと指が一本ずつ絡み合う。
指先から伝わる温もりにジンと心が痺れていく。
「ねえ、カルオット」
「なんだ、ティーナ」
ぞくりとするほど甘い声は、二度目の生が始まった瞬間に「目を覚ませ」と囁かれたそれと全く同じものだった。
そっか。そうだったのだ。
この奇跡は竜神の魔法と説明を受けても納得できなかったけれど、今、ストンと胸に落ちた。
「わたくしあなたのこと、ずっと好きでした」
カルオットの手をぎゅっと握って想いを伝えれば、同じ答えを彼は自分に返してくれた。
◆◇◆◇おわり◇◆◇◆