二人のその後 ─前─
笑う才能がない、というと語弊があるかもしれない。
俺だって、もとはありふれた量産型の男子高校生だった。
普通の家庭に生まれてそう不自由することなく育った。二つ年上の姉がいる四人家族。
そこそこの進学校に合格、部活には入っていなかったものの友人には恵まれ、誘われて体育祭の応援団に入った。曰く「お前、けっこう運動神経いいんだし、たまには授業以外で活かせよ」ということだった。
あのころは普通に笑っていたし、ごく稀にだけど怒ることだってあった。
あまりにも悲しいときは泣いたし、嬉しくて泣いたこともあった。
感情を表面に出すことが苦手だったわけじゃない。前は、意識しなくたってぜんぶ普通にできることだった。
なのに。
「俺、なんでまだ笑えないんだ……?」
髭を剃ろうと思って覗き込んだ鏡の中から、今日も能面のような顔が見つめ返している。
口の端を吊り上げて笑顔のようななにかを作ろうとしてみるものの、うんともすんとも上手くいかない。頬と唇の端っこがぴくぴくと痙攣するばかりだ。
あのとき……カイエンと相対したあのとき、笑っていたという自覚はあった。どちらかといえば嘲笑の類で、清々しい笑顔とは正反対のものだったとは思うけど……面白いという感情が表出したという点においては、確かに笑顔だったはずだ。
あれをきっかけに、表情は戻ってくるものだと思っていた。
だって、ここには俺を抑圧するものがなにもない。
思わず漏れたうめき声に目くじらを立てて、更なる暴力をふるう者はいない。上達を喜んでいた、それが気にくわないのだと模造の剣をふるう者もいない。
それどころか、カナハと同居生活という、夢のような日々を送っている。
一つ屋根の下に恋をした女性が暮らしているのだ。心の中では百人のちっちゃい自分が第九を熱唱している程度には歓喜している。ちなみに、第九を歌っていないときは、五人のちっちゃい俺が小躍りしている。
それくらい、嬉しいのだ。喜んでいる。
「なのに、なんでできないんだよ……。ちゃんと笑えよ、俺」
──でないと。
いずれ、カナハは去っていくだろう。
笑いもしない男と一緒に暮らして、いったい何が楽しい?
喜びを共有できないだけじゃない。
悲しいことも、苦しいことも、俺は共有したつもりでも、彼女が実感できないなら意味がない。やってるつもりじゃ駄目なんだ。相手に伝わらないなら、なにも考えていないのと一緒だ。
──できるだろう。できるはずだ。笑い方を、思い出せ。思い出せないなら、ひねり出せ。
なのに、焦れば焦るほど顔の筋肉は強張り、鏡の中の自分が冷ややかに見つめ返してくるのだった。
「具合はどうですか」
こんこん、とノックをすると中から返答があったので、ほんの少しだけ扉を開けて中をうかがってみた。
上半身だけ体を起こしたカナハが、ベッドの上で微笑んでいた。
「ええ、ずいぶんよくなったわ。そんなところにいないで、どうぞ入っていらして」
本人の言うとおり、一時に比べて声が元気になっている。
「よかった。果物を切ってきたんだけど、食べられますか? 鳳桃なんだけど」
「まあ! どうもありがとう」
鳳桃の入った器を手渡すと、カナハは嬉しそうに笑った。その頬の輪郭が午後の日差しを浴びてやわらかく光っている。彼女のけぶるような美しさが、ひどく眩しく見えた。
思わず目を細めていると、
「……ごめんなさいね。来て早々に倒れるだなんて。わたくし、あなたにご迷惑をおかけしてばかりで……」
彼女が申し訳なさそうに言った。
うっとりと見とれていたせいで、すぐにはいい返事が思い浮かばなかった。
「いや。界を越えるなんて、あなたには初めてのことだったんだから、倒れても無理ないよ」
……あのプロムナードの夜、スヴァローグの背に乗って俺たちは界を越えた。次元という境界を越えてより高次の世界へ移ったのだ。俺は以前にも何度か界を越えているけど、カナハにはもちろん初めてのこと。相応の負担があって当然だった。
何より、彼女はそれより以前からずいぶん疲れていた。取り巻くすべてのものに疲労していた。
スヴァローグがこの小島をお前たちにやろう、と言って小さな家と庭つきの浮島に案内してくれたとき、カナハはついに限界を迎えた。夜には、俺が今まで出したこともないような高熱が出て、以来この五日間ずっと枕が上がらない状態だった。
今朝になってようやく熱が下がって、だからといって無理はぜったいにしないで、と口を酸っぱくして三度同じことを言った。
ただただ心配だった。ここに病死という概念がほとんど存在しないことは、知っている。スヴァローグにも何度も確認をして、「滅多とない」という返答も得ている。それでも、その滅多にないことが彼女に起こらないとも限らない。だから、どんな些細な無理でもしてほしくはなかった。
「ねえ、外に行っては駄目かしら? せっかく連れてきてもらったのに、まだお散歩もできていないのよ」
そんなことを言うカナハの目じりが、甘えるように下がっている。やや釣り目がちで、そのせいで黙っていると少しきつく見える彼女だったが、そうしているとまるで年下の女の子のようだ。あまりにもかわいらしくて、無責任に「いいよ!!」と即答しそうだったけど、俺は耐えた。耐えたぞ。偉い。
「……今日はまだ駄目です。でも、そうだなあ。明日なら……あれ、そういえば明日って」
「なぁに? 明日、なにかあるの?」
ある、といえばある。
──だけど、遠出はまだ早い気がするんだけど。
口にするべきかどうか迷っていると、興味津々と瞳を輝かせたカナハが面前まで迫ってくる。五日間の療養で退屈していたのかもしれなかった。
「うーん、スヴァラに確認してみないと……」
「何、問題はないと思うぞ」
明確な返答を避けていると、そんな声とともに、小さな生き物が宙から降ってきた。
頭頂部にぽすんという衝撃があって、次いで髪の毛を軽く引っ張る感覚。
「……まあ!」
鏡を見ると、俺の頭の上に幼生体に変化したスヴァローグの分身が乗っかっていた。
「突然頭の上に降ってくるのはやめてくれって、何回言えばいいのかなあ」
猫の子にするようにスヴァローグ(ミニ)の首根っこをつかんで、目の前にぶら下げる。
ちっちゃいスヴァローグは、まるきり羽の生えたトカゲのぬいぐるみみたいだ。つやつやの鱗は幼生らしくまだやわらかで、瞳もまるまるとして大きい。口からこぼれる牙も小型犬の犬歯とさして変わらないミニマム具合だ。
「かわいいっ! スヴァローグ様なの? どうしてそんな御姿でいらっしゃるの?」
カナハからかわいいと褒められたスヴァローグはまんざらでもない様子で、宙ぶらりんのまま、
「小さき者の家は我には小さすぎる故。主らと暮らすに当たって、幼生体の分身を創った!」
類まれに見るドヤ顔で言った。その背で小さな羽をぱたぱたさせながら。
「ちょっと待って。俺たちと暮らすって何? どういうことなの。初耳なんだけど!」
「言っておらなんだか。妙案だと思わんか? せっかくお前がこちらへ上がってきたのだ、しばらく一緒に暮らせば楽しいだろう!」
しばらくって、何⁉
あまりのことに言葉が出てこず、口をパクパクさせていると、
「我が飽きるまで、だな!」
スヴァローグ(ミニ)は悪魔のような笑顔でそう言ってのけたのだった。
ちなみに、竜は顔芸がちょっと不得意なので、満面の笑みを浮かべると漏れなくみんな悪魔のような顔になる。
同居人が増えたので、えっちぃことはできません。




