Dirty hands
とある王国の辺境。その中でもさらに奥地にある深い深い森の中。
その樹木の覆いは日差しを遮る屋根のようになっており、おかげで森の中は常に薄暗い。
数十年前までは森の木々を伐採し、出荷する為の村があったが、それも今や遠い過去。流行り病で村人はほぼ全滅し、生き残った住人もまた村から去った。
今やこの森は誰の管理からも離れていたはずなのだが。
「はっは、今日は無礼講だ。どんどん飲めよ」
そんな夜のような暗闇の中、明かりが揺らめく。
「おうさ。久々に収穫だ。楽しませてもらいますぜ」
深い森の周囲には人の気配などなく、不気味なまでに静まり返る辺鄙な場所。
不自然な程の活気に溢れる何軒の家屋。
そんな中で、外にいる髭面の男が不満を口にする。
「あー、くそったれ」
唾を吐き、地面を蹴り、土を周囲にまき散らす。
「何でおれの見張りの時に宴会なんだよ、くそ」
そう。彼らにはいくつかのルールがあった。
夜間、周辺の警戒に当たる奴は、何よりもそれを重視する事。つまりこの場合ならば、宴会よりも見張り番をきっちりとやれ、という事である。
「くそ」
何度目かの愚痴と共に、後ろから聞こえる笑い声に苛立ちを隠せず、見張り番の男が足元にあった小石を思い切り蹴り飛ばす。
「つまらねえ、つまら」
だがそこまでだった。男の愚痴はそれ以上続く事なく途切れる。何故ならば。
「か、か、──」
声を出そうにも、出せないから。その喉に突き立てられた銀色に輝く刃によって命を刈り取られたから。ビクビク、と全身を震わせ、やがて動かなくなる。
「一人」
そう呟くのは黒い外套をまとった何者か。声が少し高いのは、まだ少年だからだろうか。
そこに近付く足音。
「おーい、ちゃんと見張り番してっかぁ」
どうやら既に相当に飲んだのか、ふらふらとした千鳥足で近付いてくる。
「なんだぁ、立ちションでもしてんのか」
ヒック、と呻き、周囲を見回す。さっきまで明るい室内にいたせいからか、すぐ足元にて見張り番が絶息している事には気付かない。
「ったく、お頭が少しくらいなら、って言ってくれてんのに、バカな奴だな」
仲間が近くにはいないと判断したのか、酔っ払った男は探すのを諦め、戻ろうとして不意に足が滑って転倒。ベチャ、という何か水のようなモノでシャツを濡らした。
「あいだっ」
本来ならかなりの痛みのはずだが、酔いが回ってるからだろう、あまり感じない。
「うう、ん? なんか臭う?」
シャツに手を回そうとする。その頭上にはさっきの黒い外套をまとった何者かが両手に巻き付けた細い糸を首へとかける。
「ん、う゛ううううううう」
小さな悲鳴は、夜の闇の中、誰にも届く事はなかった。
宴もたけなわとなり、一人の男が周囲を見回す。
ぎし、と軋みをあげ、椅子から腰をあげた赤ら顔の男。厳つい顔立ちをした周囲の男達に比してもなお、凶悪な面持ち。まるで野生の獣の鬣のような髭。口を開き、剥き出しの歯はまるで牙のようですらある。そして何よりも目を引くのはその巨躯。例えるなら、熊のような大男であった。
「おい、あのバカはまだこねぇのか?」
その声だけで、気の小さな者ならば腰がくだけてしまいそうな、猛獣のような威圧感を漂わせる様はこの大男がこの集団の頭目である何よりの証左。
「へ、へぇ。すぐ見てきます」
男達の中で一番背丈の小さな男が慌てて外へと飛び出していく。
その様子を男達が笑い合うが、「何笑ってやがる?」という頭目の一喝を前にしゅん、と黙り込む。静まり返った男達を頭目は、ち、と舌打ちして一瞥。どしん、どしん、と床を軋ませつつ、悠然と歩き出す。
周囲の男達は、これが頭目が何かしら考え事をする際の仕草だと知っている。この時に下手に声をかけようものなら、どういう目に遭うかを知っている。金槌のような拳で頭をかち割られた仲間、喉を潰された仲間のゾッとする最期を思い浮かべ、誰しも恐怖の前に沈黙する。
誰もが頭目のご機嫌を損ねないように気を使う胃の痛くなる雰囲気を打破せしめたのは。
「ギャアアアアアアアア」
という仲間の絶叫だった。
「何だ今のは、おいお前ら見てこい」
頭目と目が合った二人組は、慌てて椅子から飛び出すような勢いで立ち上がると、急いで外へと出て行く。
「どうにも妙な感じだ。お前ら全員得物を手にしろ」
頭目は嫌な予感を肌で敏感に感じ取る。手下の男達もまた、その命令に従うべく、足下や壁に立てかけた各々の武器を手にしようとするのだが。時既に遅し。
しゅ、という風を切る音が耳に届いた次の瞬間、小屋の中を照らしていたランタンが砕け、火が消える。一瞬の内に暗闇の渦中に落ちた小屋の中、混乱する男達。
「馬鹿野郎、あたふたするな、単なるかちこみだ」
流石に度胸が座っているのか、頭目は何者かの目論見を看破。
「いつも俺らがやってる事と何も変わりゃしねえ。立場が違うだけのこった」と一喝するのだが。
「うっぎゃああ」という室内に轟く悲鳴を前にあえなくかき消された。
「くそ、くそったれが」
ぎゃあ、うぐあああ、という手下達の断末魔の叫びが轟く。頭目は徐々に暗さに目が慣れた為に、目の前で何が起きているのかを文字通り最前列にて見ていた。
(ばかな、何だあいつは?)
さっきまでの獣のような獰猛さはすっかり鳴りを潜めている。
その光景はさながら殺しの発表会とでも云えるものだった。
室内を照らすランタンを砕いたのは、手持ちのスリングから投げはなった小石。驚くべきはその狙いの精度。二十メートルは離れた間合いより、動かない標的を狙ったとはいえ、小屋の奥を正確に狙い撃った命中精度は驚異的といえる。
そして外同様、暗闇に覆われた室内、突然の暗転を前に混乱し、足を止めた男達の姿は、まさしく狙い撃ちの的同然だった。
手早く外套から取り出した拳程度の石をスリングにて投げ放つ。さっきまでのような正確無比な狙いなど必要ではない。狭い室内で標的は動かないのだ。石を投げれば誰かに命中する。
「ぎゃっっ」
石の餌食となったのは、たまさか顔を下に向けていた男。得物である手斧を取ろうとしゃがんだところを石が直撃。頭蓋を割られて、その場に倒れる。
恐怖とはまるで一種の伝染病のように広がっていく。一人が倒れたのを知り、他の者は警戒心、怒りよりも先に得体の知れない脅威への恐れに支配される。
何者かはそれを良く知っている。だからこそ何をすべきかをも理解しているし、何よりも実行に際し、躊躇など持たない。一気に室内へと入り込むと布切れに石を詰め込み、そのまま辺りへと振り回す。たかが石でも勢いを込めれば棍棒の一撃に勝るとも劣らない。ましてや何の躊躇もない一撃であれば、人間の骨など実に容易く砕ける。
「うぐあああ」
スリング、いやブラックジャックとでもいうべき凶器により、別の男の顎が打ち砕かれた。
何者かは即座にブラックジャックを手放し、今度は外套の袖口からダガーを取り出し、喉を貫く。
「次」
まるで感情を感じさせない怖気を誘う声と言葉。
彼は自身の優位が仮初めでしかない事を理解している。
確かに今は優位に事を進めてはいる。これまで合計で五人の盗賊を仕留めていた。
だがそれは彼が絶対的な強者だから、ではない。
不意打ち、奇襲、一撃必中必殺、そういった狙いをもって獲物を狩ったからでしかない。
「──」
声も立てず、息すらも抑えて蹴りを六人目の獲物へ放つ。狙いは相手の膝。ブーツは革だが手入れは万全。手間をかけて石の如く硬くしている。
「うげ、あっっ」
蹴りの勢いも手伝い、六人目の相手の膝はあっさりと砕ける。ぐら、と体勢が前のめりに崩れて顔が下がる。
「六」狙いすました膝を顔面へと叩き込む。獲物はごぼ、と鼻と口から血を流し絶息。相手を見回す。残りは四人。そろそろこの暗さにも夜目が利き始める頃合い。奇襲による優位性がなくなるまでに如何に人数を減らせるか。ここが勝敗の分かれ目。
「殺せえええええ」
頭目の怒号に気圧されたか、或いは鼓舞されたか、残った手下達は今度こそ敵意を剥き出しにして姿がぼんやりとした襲撃者へと襲いかかる。
七人目の男は輪郭へ向け、手にした剣で切りかかる。狙いは胴体へのなぎ払い、そこなら多少狙いが外れようとも命中すれば仕留められる。狙いは悪くはなかった。
「おげ、」
だが剣は何かによって止められ、同時にダガーによって胸を貫かれる。見れば外套の袖がめくれ、腕から肘にかけて手甲がきらめいている。手甲によって剣撃を遮り、同時に獲物を仕留める。衝撃までは防げずともダガーは突き刺すだけ、差し出すだけ。
「七」
淡々としたカウントと共に八人目へ突進。体当たりで相手の腹部を一撃。よろめかせた八人目の足を払い、押し倒すとそのまま喉をブーツで踏み潰す。
「八」
九人目が迫り、ナイフを突き出す。腰を捻って何とか躱す。同時に背中を向けた相手を突き飛ばす。突き飛ばされた九人目はたたらを踏みつつも転倒は拒否。だがそれが仇となる。
「こひゅ」
投げ放たれたダガーが肺を貫く。さらにもう一本のダガーは心臓を穿つ。
殆ど同時、左右二本の凶器により、九人目もまた死す。
「九人目」
そして残された頭目へ向き直る。
「最後はお前だ」
その言葉はまるで死神からの宣告のようだった。
「お前、何なんだ?」
頭目は襲撃者へ言葉を投げかける。
「俺らに一体何の恨みがあるっていうんだ?」
この問いかけに意味はない。頭目達は盗賊としてあちこちで略奪を繰り返した。家に押し入り、家財など一切合財全てを奪った。住人は殺した。生きていては後々面倒になるかもの判断で。老若男女の区別なく生存者はただの一人も残してこなかった、はずだ。
「俺らは平和に暮らしてただけだ」
確かに平和ではあったろう。頭目にとって見れば、の話だが。誰にも邪魔されず、自分の命令こそが絶対。手下達には自分がここを仕切ろうなどという野心など抱くものはいない。まさしくこここそが頭目にとっての理想的な楽園だった。それが他者からの一方的な搾取に依るものだとしても。
「何か言えよテメェ」
怒号と共に頭目がしかける。目の前の椅子を蹴り飛ばす。特注の椅子は大柄の頭目が座っても壊れないように頑丈な作りをしており、また重量もある。
「──!」
何者かはとっさにしゃがみ込み、椅子を躱す。前へと踏み出そうとするのだが。
「うっさああああああ」
機先を制したのは頭目。踏み込みながら、極太の丸太のような足を使って蹴りを放つ。
「ぐ、」
小さく呻いて、何者かの身体は宙を舞う。腕を交差させ、自分から飛び退く事で勢いを減じさせたはずだが、それでも強烈な衝撃により、着地を仕損じ、外へと飛び出し、地面を跳ねるように転がっていく。
「お前、ガキかなんかだな」
一方で頭目は、さっきまで感じていた相手への怯えなどどこ吹く風。今の蹴りで相手が自分よりもずっと弱い、と確信したらしく、元の獰猛さを取り戻している。
「随分とひょろっちい野郎だな、おい」
手応えが軽かった。まだ完全に夜目が利いていないから姿を確認する事こそ叶わない。
「撫でるみてぇな蹴りで派手に吹っ飛びやがって」
間違いなく手下達よりも小柄だろう。
「そういや、不意打ちしかしてなかったよな」
その事が何よりも事実を明示している。弱いからこそ、あのような奇襲に出たのだと。
「おい、何か言えよテメェ」
手下達ならともかくも、自分ならこんな奴に負けるはずがない。悠然と背を向け、小屋の壁にかけていた自身の得物──巨大な刃を持つグレートアックスを手にした。
「ち、こんなひょろっちい野郎にコケにされたのか。まぁいい、手下なんざまた集めりゃいい。俺さえ残れば問題ねぇ」
これが頭目の偽らざる本心。実際、手下達が全滅したのはこれが初めてではない。
お勤め中に自警団に囲まれた、騎士団にねぐらを襲われもした、魔物の群れに遭遇もした。何度も手下達は死に、捕縛され、残されたのは自分のみとなった。
「俺さえいればいい、俺は無敵だ」
一対一なら、例え騎士だろうが負けるとは思えないし、魔物とて同じ。自分の巨躯から繰り出される斧の一撃は樹木を一撃の元に断ち切る。
「テメェみたいな弱っちいのに全滅させられた、ってのが気に食わんが、テメェがここでおっ死ねば誰も知らないままってこったな」
悠然と、わざとらしく床を軋ませて、獲物へと歩み寄る。
「ドタマかち割ってやろうか、それとも、枝みてえな胴体をぶった切るか、まぁ、何でもいいやな」
上段に構えて一気に振り下ろさんと踏み込んだ時だった。
突如、何者かが起き上がると同時に前へ飛び込む。そのまま転がっていき、すれ違っていく。頭目もまたその動きを追いかけるべく身体を向き直すのだが。
「ち、ちょこざい、なあぐっ」
唐突に激痛が走り、視線を下へ。すると足下、脛を刺し貫く一本の鉄串、或いは針。
「テメェ、ふざけやがって」
頭目は今更小細工など無意味だといわんばかりに怒声を張り上げ、何者かへとグレートアックスを一閃。多少間合いが遠かろうと彼の巨躯なれば問題ない。
(ぶっ殺す、ズタズタにしてやる)
こんな弱っちい相手に傷を負わされたのは屈辱だが、それも相手を殺せば問題ない。彼は自分が負けるなどとは露ほども思わない。
「くかあっっっ」
叫びと共にグレートを振り抜いて、血飛沫を飛ばす、そのはずだった。
目の前に外套が翻るまでは。
「──じゃまだ」
視界を遮られ、頭目は苛立ちを隠さない。グレートアックスの刃も外套が予想以上に重く、絡み付かれた事で切れ味を減退させる。
「がっっ」
そして再度激痛が頭目を襲う。襲撃者が通り過ぎるや否や、さっきのと同様の鉄串が今度は腕に突き刺さっている。さらに三本の鉄串が腹部や肩に突き刺さり、激痛でグレートアックスを保持出来なくなる。
「ふざけやがって」
脂汗を滲ませ、頭目が毒づく。身体中に突き刺さった鉄串の一本一本は痛みこそあれど、命の危機を招くようなものではない。だが、だからこそ、余計に苛立ちは募っていく。
「いつでも殺れるってか、小枝みてえな弱っちい成りでよ」
痛みよりも怒りが勝ったからだろう、頭目はちょこざい獲物へと迫っていく。もう得物は必要ではない。この拳だけで十二分に事は成せる。
「覚悟しやがれ、この野郎────」
右手を伸ばして相手を掴み上げ、ぐいと引き寄せつつ、爪が肉に食い込む強さにて左の拳を握る。あとはこの拳を顔へ叩き付けるのみ。カボチャを砕くよりも容易い事だ。
「覚悟するのは──」
冷たい声がした。男性にしては甲高い声だった。それに妙に軽い、これではまるで子供、いや、何か別の──。
「──お前の方だ」
「が、う゛ぉ」
気付けば血をまき散らしているのは、頭目の方。拳は相手の顔をそれ、空を切っている。
手甲の先端より、バネ仕込みの短剣が飛び出し、喉の動脈を切り裂いていた。
「が、か、かぐっっっ」
真っ赤な鮮血が視界を遮り、覆い尽くす。灼熱のような熱い血飛沫は喉から噴き出し、まるで出来損ないの噴水の如く。
「な、が、う、う」
力が、命が急速に損なわれていき、もはや立つ事すらままならずに、力なく地面へと倒れ伏す。「あ、う゛ぁ」呻き声と共に、ドクドクと喉から流れ出る己が命をただ見ているのみ。
誰にも負けた事のない、常に奪う側だったはずの己が、今や奪われ、失うだけの存在へ成り果てたのだと実感するしかない。
「────」
襲撃者が見下ろしているのが分かる。あんなに小さな、華奢な、ガラス細工のような身体の何処に自分を殺せる力があったのか。頭目の頭にあったのはただ一つのみ。
「だ、れ、だ?」
それが彼の最期の言葉だった。呼吸は止まり、心臓も動かなくなり死んでゆく。
「私か? 私はお前にとっての死神。ただそれだけだ」
分厚い雲海の切れ間より、月夜の光が映し出したその姿は、浅黒い肌に金色の髪、まるで芸術品のような美しさを秘めた、ダークエルフの少女。
別段、盗賊に対しては何の恨みもなく、ただただ恨みを抱えた人の代わりとして獲物を仕留める代行者。
「今日はお前達が奪われる立場だった、ただそれだけだ」
外套に染み込ませた燃える水によって、火は瞬く間に燃え広がっていく。
これで火事に気付いた自警団なり、騎士団なりが辺りを荒らし回った盗賊一味の最期を人々に知らせるだろう。
「恨み、恨まれ、奪い、奪われる」
彼女自身、いつか己は無残に死ぬに違いない、と分かっている。自分の行為は別に正義とかそういった大義名分とは別のモノでしかないのを理解している。
因果応報、行いはやがて自分へとはね返って来る事であろう。
「だが、それまでの今しばらく、私は誰かの代わりにお前らから奪ってやる」
彼女の目的は、ただ己を殺しに来る者の到来。そしてそれを成し得る同族との邂逅。ダークエルフの寿命は長い、人間なら到底有り得ない命の果て。そこで待つ最期の時をただ生きていくのみ。
ダークエルフの代行者の噂は伝説となり、やがて国中に広まる。
そしていつの頃からか、足取りは途絶え、行方はようとして知れなかった。