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キスをもらえなかった蛙のお話

作者: うそつき狼

あるところに、深く深く井戸のように深い小さな穴がありました。


その底には小さな緑色の蛙が、ひっそりと暮らしておりまして、

大海を知らぬその蛙は、ひどく卑屈で偏屈で、

世の中の幸福そうなものをすべて妬んで羨むばかりの、

お世辞にも良い蛙ではありませんでした。


そんなわけですから、彼を訪れるのは物好きな一匹のアゲハ蝶だけでした。


彼女は可憐な羽をはためかせ、光る燐粉をきらきらと振り撒きながら、

外の世界の美しいあれこれを蛙に運んで来てくれました。


蛙は彼女が大好きで、

いつしかそれは淡く淡く恋心に変わっていきました。

彼女の微笑みと優しい声、奔放で女性らしい仕草の一つ一つが

蛙の荒んだ心に染みわたるようでした。


ある日、蛙はとうとう決意しました。


「今度彼女がこの穴の底を訪れたら、ぼくはこの気持ちを彼女に伝えよう」


蛙は彼女の為に穴の中を一生懸命掃除しました。

彼女がゆっくり体を休められるように、

落ち葉を敷き詰めて極上の寝床を作りました。

彼女に歌う為の、愛の歌もたくさん作りました。

けろけろ、けろけろ。

穴の中に反響する蛙の歌は、それはそれは見事なもので、

通りすがりの虫や動物達が驚いて、幾度も中を覗き込んだものでした。


しかし、彼女は蛙の元を訪れることは二度とありませんでした。

アゲハ蝶は蛙の知らぬ遠い原っぱの花の蜜を吸いに行き、

悪い蜘蛛に食べられてしまったのです。


そんなこととは露知らず、蛙は待ちました。

きっと彼女は忙しくて、ぼくのところに顔を出す暇がないに違いない。

だって彼女はとても魅力的だもの。


けれど、一か月経っても、やっぱりアゲハ蝶はやってきません。


蛙はとっても心細くなりました。

なぜなら、狭い狭い穴の底で、きらきらしたものはアゲハ蝶だけだったのです。

だからもうすっかり、蛙の世界からは明かりが消えて、

日々は明けても暮れても真っ暗で寒いばかりです。


蛙はただぼんやりと、お日さまとお月さまが交互に穴の上に顔を出すのを見ていました。

食べるのもほとんど忘れて、いつまでもぼーっと過ごしておりました。


そしてまた一月が過ぎて、蛙はようやく考えてみました。


もしかしたら彼女は、どこかで迷子になっているのかもしれないぞ。

それなら、ぼくが探しに行ってあげなくちゃ。


こうして、深い深い穴の中から、蛙はのそのそと這い出しました。

見るもの聞くもの触れるものすべてが初めてばかりの、外の世界へ。


草の葉を掻き分け、石の山を越えて、

大きな川を渡り、蛙は進みます。

花畑でたくさんのアゲハ蝶を見付けましたが、

それは蛙の知るアゲハ蝶ではありませんでした。

彼女はそれらアゲハ蝶よりもっともっと綺麗で、

もっともっと優雅だった、と蛙は思いました。


やがて蛙は歩き疲れてしまいました。

もともと穴の中しか知らない蛙です。

こんな広い場所を歩き回れる体力なんてないのです。


疲れ切った蛙が澄んだ池のそばで休んでいると、

そこに美しい人間の女の子が現れました。

女の子は綺麗なお洋服を着て、金色の毬で遊んでいます。


その時、ふいにびゅうっと強い風が吹いて、

彼女の手から毬を奪いました。

ころころころりん。

風に流された毬は、そのままぽちゃんと池に落ちました。


「まぁ、どうしましょう。大切な毬を失くしたら、お父さんに叱られてしまうわ」


女の子はとても困っているようです。

蛙はどっこいせと腰を上げ、毬を追ってちゃぷんと池に飛び込みます。

そしてあっという間に、金色の毬を持って彼女のところへ泳いでゆきました。


「お嬢さん、さぁ、どうぞ。あなたの毬ですよ」

「ありがとう、親切な蛙さん。私はお礼に、あなたに何が出来るかしら?」

「それでは一晩きり、ぼくに食べものと寝床を貸してくださいな」

「そんなことで良かったら、ええ、喜んで」


こうして蛙は、女の子のおうちへ招かれることになりました。

その夜、蛙は美味しいご飯をおなかいっぱい食べて、

ふかふかの綿でできた寝床を作ってもらいました。

女の子が言います。


「蛙さん、私、こういう物語を知っているわ」

「どんなお話です、お嬢さん」

「毬を拾ってくれた蛙さんは、魔法を掛けられた王子様で、お姫様のキスで魔法が解けて、二人は幸せになるの」

「それは素敵ですね。ぼくにキスをしてみますか?」

「いいえ、しないわ、蛙さん。私は今のあなたが、とっても素敵に見えるもの。そのままでいいの」


翌日、蛙は旅に出ませんでした。

もう一晩、ここにいて欲しいと、女の子が頼んだからです。

蛙は一日中、女の子と毬で遊んで、疲れてくたくたになりました。

だから翌日も、やっぱり旅に出ることはできませんでした。


その次の日も、その次の次の日も、蛙は出ていきませんでした。

女の子と過ごす日々は、いつの間にか、

蛙にとっても掛け替えないものになっていました。

アゲハ蝶は蛙の元に遊びに来てくれたけれど、

こんなに長くそばにいてくれたことは無かったのです。

蛙は、女の子と家族になりたいと思いました。

だからある日、思い切って、こう言ってみました。


「お嬢さん、ぼくは人間になりたいな。ぼくにキスをしてみてくれないか」


女の子は笑ってこう言いました。


「良いわよ、蛙さん。私もあなたが大好きだもの。でも今はだめ。心の準備が出来ていないもの」

「そうだね、心の準備はとても大切だ」


蛙は納得して、待つことにいたしました。

けれどいつまで経っても、女の子はキスをくれる気配がありません。


「ねえ、お嬢さん。ぼくは人間になりたいな。だって蛙の寿命は、人間よりずっとずっと短いんだもの」

「良いわよ、蛙さん。でも、もう少し待って」


やっぱり、女の子は蛙にキスをくれませんでした。

それでも蛙は女の子と過ごす時間がとても幸福だったので、十分満足でもありました。

卑屈で根暗な悪い蛙は、女の子のおかげで優しい立派な蛙になれた気がしました。


そんな日がいくつ続いたことでしょう。

それはいつも通りの朝のことでした。

目が覚めると、もう、女の子はそこにはいませんでした。

女の子のお父さんが、彼女の荷物を片付けています。


「お父さん、お父さん。お嬢さんはどこにいったのです?」


何も知らない可哀想な蛙は、彼に問いかけます。


「うるさいこの疫病神め、おまえなんか、どこかでのたれ死んでしまえ!」


けれどお父さんはそう言って、蛙を外に追い出してしまいました。

黄色い毬だけが、ぽつんと外に転がっていて、

蛙はそっとその毬に寄り添って座りました。

そうして待っていたら、彼女が帰ってくる気がしたのです。

蛙は待つのは得意でしたから、またぼんやりと空を眺めて過ごしました。

あの狭い穴の底より、ここはたくさん見るものがあるので、

飽きることはなさそうでした。


蛙は知らないことでしたが、女の子は胸の病を患っておりました。

そうしてあの朝、急に心臓がきゅうっと縮んでしまって、

そのまま遠くへ行ってしまったのです。

短い蛙の寿命より、もっともっとずっと早いお別れでした。


でも、小さな蛙にはそんなことは解らないまま。


朝が来て、昼が来て、夜が来て。

また朝が来て、昼が来て、夜が来て。

お日さまとお月さまは交互に上っては下りて。

蛙は幾度もそれを眺め続けました。


そしてふと考えます。


(ああ、彼女のキスがあったら、ぼくが人間だったら、すぐに彼女を迎えに行けるのに)


けれどそんな奇跡は起きぬまま、

やがて綺麗な緑色だった背中は干からびてしわしわになり、

小さな蛙は、もっともっと小さな蛙になってしまいました。

弱った指では、もう、彼女と金色の毬で遊ぶことも出来ません。

困ったなぁ、と蛙は思いながら、今日も空を眺めます。


すると、何ということでしょう。

見上げた青い空に、きらきらと輝くものがあったのです。


それはずっと昔に見たことのある、綺麗な綺麗なものでした。

ひらひらと、きらきらと、ちらちらと。

光を振りまくそれは、アゲハ蝶の羽でした。


「君が、どうして、ここにいるんだい」


蛙はびっくりして聞きました。


「あなたを迎えに来たんですよ」

「でも、僕はここで、あの女の子を待っていなくっちゃ」

「大丈夫、彼女もこちらで、あなたを待っています」

「でもぼく、なんだか、体がうまく動かないんだ」


アゲハ蝶はそんな蛙のかたわらに舞い降りると、細い両手で彼の頬を撫でました。

そうして、そっと彼の唇にキスをしました。


気付くと、蛙は人間の男の子になっていました。

体がとっても軽くて、まるで風のようです。

顔を上げると、アゲハ蝶がいました。

いいえ、それはアゲハ蝶ではありません。

アゲハ蝶の羽をもった、あの女の子がそこに立っていたのです。


「ああ、やっとあなたと、キスが出来た」

「そうよ。さぁ、いっしょにいきましょう、私の蛙さん」


蛙は女の子と手を取って、広い世界へ駆け出しました。

蛙はとっても幸せでした。

二人にはこれから、長い長い幸せな時間が続くのです。


――次の日の朝、お父さんは金色の毬のそばで冷たくなっている小さな蛙を見付けました。


少し考えて、お父さんはその蛙を、池のそばに埋めました。


これは、たったそれだけの、狭い世界しか知らない可哀想な蛙のお話。

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