今でもあの子を待っている
薄紅色の花びらが側溝の蓋に貼りついている。土埃にまみれ薄汚れたそれは、春の終わりを告げていた。目線を上に転じると、初夏の陽光を浴びた葉桜がさわさわと優しく揺れている。
ひゃー、もう満開だねぇ。
嬉しそうに目を細め、桜を見上げていた小松沙穂の横顔が脳裏をよぎる。倉石香絵は思わずきつく目を閉じた。清々しい葉の青さが今の香絵には眩しすぎた。沙穂と並んでこの道を歩いたのはほんの二ヶ月前のことだ。それなのに───
今しがた辞してきた建物を振り返る。裏野ハイツ。築三十年らしいが、外壁は塗りなおされ、内装もリフォームされていて古さを感じさせない。最寄駅まで徒歩七分の立地にして家賃は五万を切る。相場からすれば破格の安さだ。今にして思えばその時点でもっと警戒すべきだったし、不気味な予兆もあった。
あの部屋さえ借りなければ。
もっと早く気づいていれば。
そうすれば沙穂は───
押し寄せる詮のない後悔に香絵の中で時間が巻き戻る。はじめて裏野ハイツを訪れた日のことを香絵は思い出した。
香絵がその部屋───裏野ハイツ・二〇三号室を訪れたのは三月の終わり、ちょうど桜が見ごろを迎えた頃だった。一年の浪人を経て上京した同郷の友人・小松沙穂が借りた部屋で、久しぶりに会うことになったのだ。
「わー、広いねぇ。───ん?」
沙穂に続いて部屋に入った時、ツンと鼻をつく消毒液の匂いを嗅いだような気がした。キョロキョロと辺りを見回すも、特に芳香剤らしき物は見当たらない。
「なに、どうしたの?」
「いや、なんか消毒液の匂いがしたような気がして」
「ホント?」
沙穂がくんくんと犬のように鼻をひくつかせる。香絵もそれに倣ったが、もう何の匂いもしなかった。
「えー、しなくない?」
「うん。ごめん。気のせいだったかも」
「ほら、早く入って。今、お茶淹れるから」
「うん。───ね、ちょっといろいろ見てもいい?」
「いいよー。まだ散らかってるけどね」
家主の了承を得て、香絵は部屋の中を見て回った。入ってすぐ右手にはキッチン、広々としたリビングダイニングには、二人掛けのダイニングテーブルがおかれている。壁紙が乳白色なので、ダイニングテーブルの濃いブラウンが空間を引き締めていて、さながらおしゃれなカフェのようだ。お風呂、脱衣所兼洗面所、トイレがそれぞれ独立しており、香絵は思わず羨望のため息をついた。香絵の部屋はお風呂と洗面所とトイレが一緒のユニットバスで、しかもワンルームだ。リビングの奥の洋室を覗くと、シングルベッドとまだ開けきってない段ボールが二、三個積み上げられていた。
「羨ましい~。うちなんて、こんなの置くスペースないからね」
一通り探索し終えると、香絵はダイニングテーブルを軽く叩いた。沙穂がにんまりと口角を上げてお茶を運んでくる。
「でしょー? あたしもここ見つけた時、超ラッキーって思ったもん」
「でも、家賃結構するでしょ?」
椅子を引き座りながら訊ねると、沙穂はますます得意げに口角を上げた。
「それがなんと四万九千円! 五万切るんだよー!」
「ええっ!? ホントに!?」
思わず声を張り上げた香絵を見、沙穂はくつくつと笑った。
「みーんな、家賃がいくらか話すと、びっくりするんだよねー。でもホントにホント。まぁリフォームされててパッと見はキレイだけど、築三十年だからね」
沙穂は築年数の古さを家賃の安さに直結させて納得しているようだったが、香絵は釈然としなかった。
「うーん、それにしても安すぎるよ。このあたりだと、ワンルームだって余裕で七、八万はいくよ? なのにいくら古いっていっても、この広さでユニットバスでもなくて、それで五万もいかないなんて……」
なんとなく部屋の天井の四隅をぐるりと見やる。ちらりと嫌な予感が脳裏をかすめた。香絵は真剣な面持ちになって沙穂の方へ身を乗り出す。
「ねぇ、もしかして、事故物件とかじゃないの?」
途端、沙穂は軽く目を瞠って、それからぷっと吹き出した。
「もーう、香絵ってば考えすぎ。あたしだって不動産屋に確認したってば。そしたら前住んでた人が自殺したとか、そういうことは一切ないって」
「本当? なーんか怪しいなぁ」
不信感が拭えず、香絵は渋面で紅茶をすすった。沙穂がなだめるように笑う。
「大丈夫だって。隣の隣のおばあちゃんにもそれとなく聞いてみたけど、前住んでたのは若いサラリーマンだったって言ってたし」
「隣の隣のおばあちゃん?」
「うん。二〇一号室の木田さん。七十代ぐらいかなぁ。話好きなおばあちゃんで、いろいろ親切に教えてもらったよ。───あ、そういえば、」
ふと、何か思い出したようで沙穂が軽く顎を上げた。
「なに?」
「この部屋、人の入れ替わりが激しいって言ってたな。ま、たまたまだろうけど」
「入れ替わりが激しい……」
沙穂の言葉を反芻すると、胸の奥が不吉にざわついた。これだけの好物件にもかかわら
ず、住人が短いスパンで入れ替わるのには何か理由があるのではないか。たとえば───
「あ、今、変な想像してるでしょ? 言っとくけど、お化けが出るとか、そういうのもないからね。まだ引っ越してきて一週間も経ってないけど、今のところなーんにもおかしなことないし」
図星をさされ、香絵は唸った。
「うーん、なら、あたしの考えすぎかぁ」
香絵は半ば自分に言い聞かせるように言った。なんとなく引っかかるものの、他に破格の家賃の理由も思いつかない。
「それよりお昼どうする? 香絵さえよければ、この辺のお店開拓してみたいんだけど」
「いいねぇ。駅の周りにいろいろお店あったし、散策がてら行こうか」
話題が飛び、小さな引っかかりはすぐに霧散した。ひとしきり共通の友人の近況話に花を咲かせてから、連れだって部屋を出る。
沙穂が玄関の鍵をかけていると、二〇一号室のドアが開いた。玄関先でも掃くつもりなのか、箒を手にした老婦人が現れる。先刻、沙穂の話に出てきた木田さんだろう。こちらに気づいた木田さんは、柔和な笑顔で話しかけてきた。
「こんにちは。あら、お友達?」
「こんにちはー。そうです。地元の友達なんです」
応じた沙穂に続いて、香絵も「こんにちは」と軽く会釈する。木田さんはうんうんと噛みしめるように笑顔のまま頷いた。
「何か変わったことはない? 困ったことがあったらいつでも言ってね。本当に遠慮しないでね」
「はーい。ありがとうございます」
沙穂の口元が笑いをかみ殺そうとして、でもしきれずに妙な形に緩んだ。気になったがその場で問いただすわけにもいかず、香絵はもう一度木田さんに会釈してから、沙穂に続いて階段を降りた。その途中で沙穂がおかしそうに囁く。
「いっつも言うんだよ。『何か変わったことはない? 困ったことがあったら』って。あれ、口癖になっちゃってんだろうね」
「こらこら」
茶化す沙穂を小声でたしなめ、通りに出る。ふと、視線を感じて香絵は振り返った。木田さんがひどく心配そうな、何かに怯えたような固い顔でこちらを見ていた。その憂いを含んだ眼差しにまた胸が不穏にざわつく。木田さんは香絵と目が合った途端、反射のように口角をつり上げて笑顔をこしらえ、そそくさと部屋に入って行った。
もしかして───
閉じられた二〇一号室のドアを見つめながら思う。
沙穂の様子を窺うために、掃除するふりをして顔を出した?
「香絵ー、どうしたのー?」
「あ、ううん。なんでもない」
軽く頭を振って、小走りで沙穂の隣に並ぶ。香絵はこの時、つかの間忘れていた引っかかりが、ざらりとした感触で蘇るのをぼんやりと感じていた。
同郷の友人で今は共に都内在住とはいえ、香絵は沙穂とは通う大学も違うし、住まいも違う沿線にある。生活圏が異なるため、その後しばらく二人が会うことはなかった。ただ、沙穂からはときどき着信があった。いずれも深夜だったり講義中だったりと、タイミング悪く出られなかったが、香絵はその都度あとでかけ直した。しかし電話はつながらず、メールを送っても反応がない。正直、少々気を悪くしたが、香絵自身、鞄に入れていたスマホが誤発信してしまった経験があったので、おそらく沙穂からの着信もその類だろうと思っていた。
沙穂の部屋を訪れてから一ヶ月ほど経ったゴールデンウィーク初日、バイト先に向かう香絵のスマホが鳴った。沙穂からだった。ゴールデンウィークはびっちりバイトを入れてしまっていた香絵は、誘われても遊べないなぁなどと思いながら通話ボタンを押した。
「もしもしー? 沙穂ー?」
「……お願い……たす……け、て」
「沙穂? どうしたの? ーーもしもし? もしもし!?」
助けを求める切れ切れのかすれた声。香絵は眉をひそめ、耳に意識を集中した。だが応じる声は聞こえぬまま、電話は切れてしまった。すぐさまかけ直すも、留守番電話サービスの案内メッセージが虚しく繰り返されるばかりだ。
具合が悪く、部屋で倒れているのかもしれない。香絵はバイト先に休みの連絡を入れると、急いで沙穂のアパートへと向かった。
「沙穂! いるんでしょ!? ねぇ! 大丈夫!?」
インターホンを連打し、声を張り上げる。もし中で倒れているとしたら、管理人を呼んで開けてもらわなければ。だがそれは杞憂に終わった。カチャリとドアの向こうで鍵の回る音がする。
「……沙穂?」
細く開いたドアの向こうは薄暗かった。ツンと鼻をつくアルコール消毒液の匂いがし、なぜだか香絵はゾッとした。白いネグリジェのようなワンピースと細い足は見えるが、沙穂の顔は逆光でよく見えない。香絵はドアを大きく引いた。途端、沙穂が金切り声を上げる。
「早くドアを閉めて!」
ヒステリックな響きに気圧されて両肩が跳ねた。香絵は弾かれたように中に入り、ドアを閉め、───息を呑んだ。
「ちょっ……沙穂、あんた、どうしたの……!?」
傾き始めた陽の光が薄く差し込む中、沙穂は警戒するような固い表情でこちらを見ていた。その頬はげっそりと痩せこけ、皮膚はカサカサに干からび、目だけがギョロリと大きく光って見えた。摂食障害、という言葉が瞬時に脳裏をよぎる。ともかく上がろうと靴を脱ごうとして、また絶叫された。
「待って! しばらくそこに立ってて! 今、あなたについたゴミや埃を除去してるから」
「えっ?」
途惑いながら改めて部屋の中を見回す。玄関のすぐ脇に小型の空気清浄機が置いてあった。花粉はもちろん、PM2.5も除去するという謳い文句の最新機種だ。
「外は汚いでしょう。どんな病原菌があるか分からないもの。あの子のための部屋なんだから、これからは気をつけてちょうだい」
まるで粗相をした子どもをたしなめるような口ぶり。目の前の状況整理が追いつかず、香絵は混乱した。
「あの子って……?」
香絵の問いには答えず、沙穂はふいっと顔を逸らすと、ダイニングテーブルの上を指さした。テーブルの上には四角い箱がいくつか積み重なっている。
「そこのドレス、箱から出してクローゼットに入れておいてちょうだい。ああ、まずは手を消毒してからよ。それが済んだらお茶を淹れて。もうすぐあの人があの子を連れて帰ってくるから」
物言いは完全に沙穂のそれではなかった。───これは、沙穂じゃない。
香絵は慄然としながらも、キッチンに置かれた手指消毒液を手に取った。沙穂から目を離さず両手をこすり合わせ、注意深くダイニングテーブルに近づく。テーブルの上の箱は全部で三つあった。どれも高そうなブランドのロゴが入っている。一番上の箱を開けてみると、愛らしいピンク色のワンピースが現れた。ふんわりしたオーガンジーにブーケの刺繍があしらわれている。割れ物でも扱うかのように、香絵はそっと肩の部分をつまんで持ち上げた。大きさからして、間違いなく子どものものだった。
「かわいいでしょう。刺繍はすべて手縫いの特注品なの。大事に扱ってちょうだいね。ああ、早くあの子に見せたいわ」
うっとりと目を細める彼女に香絵は総毛立った。心臓が早鐘のように打つ。それでも懸命に声を押し出した。
「あなた誰? 沙穂じゃないわね?」
彼女はゆっくりと瞬きをし、不思議そうに首を傾げた。そのもったりした反応が癇に障り、香絵はドレスから手を離して彼女につかみかかった。
「あんた一体誰なの!? 沙穂をどうしたの!? ねぇ!?」
両腕をつかんで揺さぶると、彼女の首がガクンと手前に落ちた。それから弾かれたように持ち上がる。その目は恐怖と困惑で揺れていた。
「沙穂!?」
「ああ、香絵! お願い、助けて! あたしこの部屋に───」
香絵を認めた沙穂の目に生気が戻りかけたのも束の間、「ヒッ」と短く強く息を吸う音がして、沙穂の首が仰け反った。次の瞬間、沙穂がこちらに向き直る。その目には酷薄な冷たさが宿り、香絵はいきなり平手打ちを食らった。
「無礼者! 立場を弁えなさい!」
打たれた頬を押さえながら呆然と沙穂を見つめる。
その時だった。インターホンが鳴り、畳みかけるようにドアがノックされた。
「小松さん、二〇一の木田です。どうかしましたか?」
咄嗟にドアを開けようとした香絵に沙穂が声を張り上げた。
「勝手に開けないで! 外は危険なのよ!」
沙穂の落ちくぼんだ目がギラギラと光る。突進する勢いでしがみつかれ、沙穂の爪が香絵の腕に食い込んだ。思わず呻く。枯れ枝のように痩せ細った体のどこにこんな力があるのか。沙穂を引きはがそうとして玄関先で揉み合いになる。異常を察知したのか、木田さんのノック音が激しくなった。
「小松さん! 小松さん! 大丈夫? ここを開けてちょうだい!」
香絵は膝蹴りを食らわすような格好で沙穂を突き飛ばし、ドアを開け放った。途端、沙穂が両手で頬を押さえ獣のような咆哮を上げた。エフェクトをかけたような、不気味に低く歪んだ絶叫が空気を震わせる。
「助けて下さい! 沙穂がっ、なんか、様子が変なんです!」
なりふりかまわず目の前の老婦人に縋りついた。困惑されて当然な状況にもかかわらず、木田さんはサッと表情を硬く引き締めると、すばやく沙穂に向き直った。
「大変。急いでこの部屋の外に連れ出さなくちゃ」
呟くや否や、靴も脱がずにずかずかと上がり込んだ。沙穂は絶叫したまま、壊れた人形のように首を振り続けている。
「大丈夫よ。大丈夫だから、一緒にこの部屋を出ましょう」
優しくなだめるような口調で沙穂に近づき、木田さんはその背に腕を回した。暴れられるのを予想していたのか、木田さんは腰を低く落とし、沙穂にぶら下がるような恰好で体重をかけ、懸命に玄関の方へ引っ張ろうとしている。香絵も我に返り、木田さんに加勢した。一緒に沙穂の体を強引に部屋の外へと引っ張る。
「やーめーてーーーーっ!!」
外に引っ張り出した途端、沙穂は壮絶な悲鳴を上げ、その場に倒れた。
───結局、沙穂は強迫性障害と診断され、心配した両親が実家に連れて帰った。大学は一応休学扱いにしているそうだが、このまま退学もやむなしと家族は考えているようだった。
事後報告とお礼を兼ねて、香絵は裏野ハイツ二〇一号室の木田さんを訪ねた。あの時、木田さんが強引に沙穂を部屋から引きずり出してくれなかったら、事態はもっと深刻だったに違いない。
「本当にごめんなさい」
訪ねた香絵を快く迎えてくれた木田さんは、向かい合って座るなり深々と頭を下げた。意外な反応に面食らう。
「そんな、木田さんが謝ることなんてないです。むしろこっちがお礼を言わないと」
沙穂が意識を失って倒れた後、救急車を呼び、管理人に連絡を取って沙穂の家族に知らせてくれたのは木田さんだった。香絵ひとりだったらどうしていいか分からず、ただオロオロするばかりだっただろう。
「いいえ。やはり話しておくべきだったのよ。あの部屋のことを」
香絵の言葉に木田さんはゆるゆると頭を振り、重いため息をつく。
「あの部屋……一体、何があるんですか?」
破格の家賃。沙穂の変わり果てた姿。そして「あの子」。
あの部屋が曰くつき物件であることは疑いようもない。
木田さんはもう一度ため息をついてから、あの部屋について語り出した。
裏野ハイツに二十年も住む木田さんは、今いる住人の中では最も古株で、入居者の顔ぶれには管理人以上に詳しかった。
二十年の間、どの部屋の入居者もそれなりに入れ替わったが、二〇三号室だけは特殊だった。とにかく人の入れ替わりが激しいのだ。最長で三ヶ月、最短ではわずか一週間で引っ越した者もいた。一週間で出て行った男は、理由を訊ねた木田さんにこう話したという。
気のせいだと笑われるだろうが、あの部屋には俺以外に誰かがいる。
部屋にいると、ときどき誰かにじっと見られている気がするんだ。
そんな時は決まってどこからか消毒液の匂いがするんだよ。
消毒液の匂いは木田さんにも覚えがあった。二階の廊下の掃き掃除をしていると、二〇三号室の前だけツンと鼻をつく消毒液の匂いがするのだ。ただ、それがいつも一瞬だったので、気のせいだと思っていた。男の話でそうではなかったと知ると共に、二〇三号室には人が居つかない、理屈では説明できない何かがあるのだろうと思った。格別、怖いとは思わなかった。生きていればいろんなことがある。歳を取るということは、面妖なことにもあまり動じなくなるということだ。
そんな二〇三号室に新しい住人が入った。三年前のことだ。大学進学を期に地方から出てきた女の子で、引っ越しの挨拶に訪れた彼女ははきはきと話す気持のよい子だったという。二〇三号室が曰くつきの部屋だと察していた木田さんは、彼女のことが心配だった。というのも、これまでの入居者たちは平均すると一ヶ月足らずで出て行った(逃げ出した、という方が正しいかもしれない)が、彼女は出て行くどころか、どんどん部屋に籠もるようになったからだ。
入居から一ヶ月が過ぎる頃には彼女の姿を見かけることはなくなった。ベランダ側の窓は常にカーテンが閉められ、中を窺うことはできない。大学に通っている様子も日常の買い物にすら行ってる様子もない。お裾分けだの、あれこれ理由を作っては訪ねてみたが、彼女が木田さんの呼びかけに応じることはなかった。この頃、二〇三号室の前ではいつも消毒液の匂いがしたという。
彼女は三ヶ月後、地元から出てきた両親によって、心療内科に強制入院させられる形で部屋を出て行った。
やめろーーーっ!!
外は汚い! 汚い! 部屋が汚れてしまう!
あたしはここであの子を待ってなきゃならないの!
彼女が全く講義に出席しなかったため、大学側から両親に報せが入ったのだ。迎えに来た両親に対し、彼女は意味不明な言葉を叫んで激しく抵抗した。騒ぎを聞きつけ顔を出した裏野ハイツと近隣住人たちは、彼女の異様な風体に息を呑んだ。肉が削げ落ち、骨と皮だけのような体。老婆のように干からび、皺が刻まれた顔。
「見せ物じゃないぞ!!」
無遠慮な視線に耐えかねたのか、父親が目を剥いて怒鳴った。娘を抱え込むようにしてタクシーに乗り込む。
彼らが去った後、居あわせた誰もが怖々と二〇三号室を見上げた。木田さんはこの時はじめて恐怖を感じたという。あの部屋には何かある。それもとても恐ろしい何かが。
やっぱり、あそこはねぇ。
峰さんのお屋敷があったところだからなぁ。
そんなひそひそ話が耳に入り、木田さんは「あの、峰さんのお屋敷って?」と話に割り込んだ。相手は木田さんが裏野ハイツの住人だと知ると、決まり悪そうに言葉を濁していたが、何か知っているなら教えてほしいと食い下がった木田さんに根負けする形で、ポツポツと次のような話を語ってくれた。
戦後間もない頃、ここには旧華族の流れを汲む峰家のお屋敷があった。貿易業で栄えた峰家の当主は、長らく入院生活を送っていたひとり娘の退院を祝し、屋敷の一部を改築、新しく娘のための部屋を設えた。当時の最先端の内装が施されたその部屋は、それは瀟洒なものだったという。
しかし娘がその部屋に入ることは一度もなかった。退院を控えていた矢先、今でいうインフルエンザの院内感染が原因で急死してしまったのだ。峰夫妻のショックは激しく、とりわけ母親の嘆きは狂わんばかりの激しさだった。そして、実際に気がふれてしまった。
「あの子のための部屋なんだから、きれいにしておかないと」
そう言って、母親は一日中娘の部屋の掃除に明け暮れた。部屋中をアルコール消毒液で拭いてまわるせいで、室内は常にツンと鼻をつく消毒液の匂いがした。妻の気持ちが落ち着くまではと夫が静観する間に、彼女の病的な潔癖症は加速度的に悪化した。
そしてとうとう彼女は娘の部屋から出られなくなった。部屋の外は汚いと言い張り、食事も受けつけない。事の深刻さに夫が気づいた時にはもう手遅れだった。彼女は病院送りとなり、そのままそこで亡くなった。
「───ちょうど二〇三号室は、その娘さんの部屋があった場所にあたるらしいの」
木田さんはそう締めくくった。
「……呪い、なんでしょうか?」
「さぁ……。ただ、小松さんに三年前あの部屋で起こった騒動は伝えるべきだった。頭のおかしいお婆さんだって思われたかもしれないけれど」
そう言って木田さんは自嘲気味に微笑んだ。実際、彼女の話を沙穂が信じたどうかは分からないし、仮に信じたとしても今回の事態を避けられた保証はない。香絵は重ねて木田さんのせいではないと伝え、暇乞いした。
風にそよぐ葉桜の、サラサラとした音が降ってくる。先刻、木田さんから聞かされた話を反芻しながら、香絵は駅に向かって歩き出した。
あの部屋で彼女は今も待っているのだろうか。
部屋の主となるはずだった娘を。「あの子」を────
不意に後ろから強い風が吹く。弄ばれる髪を手で押さえた時、香絵はツンと鼻をつく消毒液の匂いを嗅いだような気がした。
(完)