捧げ姫
天の涙が私を濡らします。
しとしと、しとしと、私を濡らします。
いいえ。泣いてなどおりません。私はただ、空から降るものを浴びているだけです。
「姫よ。姫」
私の足元にいるものが呻きます。しわだらけの手を伸ばし、私に爪を立てながら。
「姫よ。姫。我の血を吸え」
そんなことできません――
私の叫びは届きません。足元の、この暗い塊には聞こえないのです。
私のか細い声が暗い塊に届かないのは、どんより雨雲垂れ込める空のせい。
天から注ぐ雨の音が、私の願いをかき消すのです。
あなたのせいではありませんとも、黒い当主さま。
あなたの耳が塞がっているわけでも あなたの心が閉じているわけでもない。
私の泣き声が燃える魂に届かないのは、しとどに降り注ぐ雨のせい。
「桜の姫よ。人となりて顕現せよ」
いいえ。いいえ。
どうかその刀を首に当てないでください。あなたの紅の水はいりません。あなたのは……
当主さまは、私にたくさんのいけにえを捧げてくださいました。
私の足元はいつも人間の首を置かれ、紅にひたひた染まっておりました。とろりとしたその甘露を吸いあげてきたわが身はすでに、ずいぶん赤く染まっております。
四百の齢を越えたわが身。
桜の樹木を削られた彫刻はずいぶんと割れ、ひびが走っておりました。 でもくれないの水のおかげで今はつやつやの若木のよう。
もう少しで。あと少しで。
『そなたは人間になれるぞ』
当主さまはうっとりそう仰り、命を吸う私を撫でてくださいました。
黒きこのお方が御領地のお家を離れた時、私は金箔を貼った棺に入れられて、いくつものお荷物と一緒に運ばれました。
びゅおうひゅおうと吹きすさぶ谷。そしてこの、にぎやかなメンジェールのいう国の王宮。
当主さまは私を片時もそばから離しませんでした。
金の棺に入れられた私は、おとぎ話に出てくる「捧げ姫」のよう。当主さまは蓋を開け、棺に横たわる私をうっとり眺めながら、くれないの水を注ぎます。
乙女の姿に彫刻されている私は、黒い当主さまにいつも囁かれるのでした。
森の奥宮でかの白猫王が、うるわしい捧げ姫を見つけたときのように。
『さてもうるわしき姫だ』
だからその都度、私は答えておりました。樹木のこの身を歓喜に震わせながら、白猫王のおとぎ話のように。
『ようこそいらっしゃいました。私は、あなたさまの花嫁です 』
その声は、聞こえていないとわかっていましたけれど。
白猫王は猫の勇者。
魔物を倒した見返りに、緑の森の王となりました。森の民から奥宮を差し出されたとき、「捧げ姫」も一緒に捧げられたのです。
猫の王は姫を愛しました。姫が大さそりにさらわれた時は右腕を自ら切り落として救いました。
私の当主さまは白くはありません。まっくろです。
黒い猫という意味の名を持つ黒い方。それでも私にとっては、まっしろな猫と同じ。
だから。
やめてください。
やめてください。
刀をご自分に振り下ろすのは――。
当主さまは私の棺を荷台車に乗せて、王宮から逃げようとしたのです。
突然、当主さまをぶんぶん音を立てる蟲たちが追い立ててきたからです。一体どこから放たれたのか、鉄の殻をもつ蟲たちはとてもたくさんいて、当主さまを取り囲みました。
そうして一斉に歌い出したのですが。
羽音の歌に混じってはっきりと、固い声が響いてまいりました。
『エティア王に反逆したシュヴァルツカッツェ。大人しく投降しなさい。この蟲たちは、あなたの罪を目撃しました。いけにえにしようと、使用人を殺そうとしましたね?』
蟲たちは、遠くから受け取った声を伝え流しているようでした。
ぶんぶんざわざわ、いったい何匹いるのでしょう。とんでもない大合唱でした。
「おのれ。第三王子が捕らえた鼠は、猫であったか!」
王宮に剣をもつ技師が連行されてきたと、当主さまは仰っておりました。
鉄の蟲たちを放ったのはその方であろうというのです。なぜならはがねの蟲たちは、匠の技でしか作ることができないものであるからでした。
「技師はおそらく、我々を見つけて捕らえるためにわざとつかまったのだ」
当主さまは、なんとも無念そうでした。
はじめは、このメンジェール国に身を寄せる予定ではなかったのです。ご先祖の地、すめらの国へ帰りたかったのですが。かの国は当主さまの入国を拒否なさったのでした。
当主さまはエティアをすめらの国にさしあげようとなさったのに、なんと冷たい仕打ちでしょう。
王宮の東の門。西の門。南の門。北の門。
逃げる私たちはあらゆる出口から、出ようとしました。
けれども通り抜けようとするとバチバチと、おそろしい音と焦げた匂いがして、どうにも通れません。当主さまは杖を振ってしもべたちを呼ぼうとするのですが、呼び出すなりおどろおどろしい闇色のものたちは、悲鳴をあげて消えていきます。
列を成して迫ってくる歌う蟲たちが、無駄ですよと固い声を伝えてまいりました。
「王宮は黒き衣のアスパシオンさまの聖なる魔方陣の中心にあり、今や完全に閉じられております。神聖結界ゆえ、あなたは死霊のしもべたちを呼ぶことはできません。そしてあなたも出ることは叶いません。どうかあきらめてください」
当主さまは恐慌に陥りました。
突然宮殿から出られなくなったのは当主さまひとり。王宮に出入りする他の者たちは、何事もないように門を行き来きしているというのに、当主さまだけ阻まれるのです。
蟲たちは唄いながら伝えました。
「死したものは通れぬ。
すでに死したものは通れぬ」
そんな。
当主さまは生きていらっしゃるはず。生身の体を持っておられるはず。
なのに蟲たちは唄うのです。
「死したものよ、体を返せ」
――「いやだ! この体はいまや完全にわしのもの!」
数ヶ月前。老いた当主さまは、風吹きすさぶ塔でその体を失われました。戦の矢がお体を貫いたのです。ゆえに他の者の体をお奪いになったのです。すなわち今の体はもう、すっかり当主さまのお体となっているのに。聖なる結界は、その所有権を認めてくれないのでした。
「死したものよ、天河へ帰れ」
「帰れ」「帰れ」「帰れ」
蟲に囲まれる当主さまは、ほどなく王宮のものたちにも囲まれました。
蟲たちが唄ったからです。当主さまがこの王宮で一体どこから、くれないの水を得ていたかを。
「王宮に仕える使用人が三人、行方不明になっている! これは黒い客人どの、そなたのしわざなのだな!」
ひとりの使用人がしきりに訴えてきました。
いきなり襲われ、杖で心臓を突きかけられたと。その危機を、蟲に救われたと。
宮殿の中庭に追い詰められた当主さまの回りに、ざわざわざわざわ。人が集まってくる気配が聞こえました。
「これまでか……!」
棺の蓋が開けられて。私は身を起こされました。
宮殿の兵士たちがじりじりと迫ってくるのが見えました。
ぽつり、ぽつり。
天から水がこぼれてくるのも見えました。
「姫よ、姫。我の血を受けよ」
いけません。やめてください。
「我が血を受けて、人となれ」
お願いです。やめてください。どうかやめてください……。
天の涙が私を濡らします。
しとしと、しとしと、私を濡らします。
いいえ。泣いてなどおりません。私はただ、空から降るものを浴びているだけ。
ああ。くれないが。真紅のしぶきが。散る――
私の叫びは届きませんでした。足元の、この真っ赤になった塊には聞こえませんでした。
私のか細い声が暗い塊に届かないのは、どんより雨雲垂れ込める空のせい。
天から注ぐ雨の音が、私の願いをかき消すのです。
あなたのせいではありませんとも、赤くなった当主さま。
あなたの耳が塞がっているわけでも あなたの心が閉じているわけでもない。
私の泣き声が燃える魂に届かないのは、しとどに降り注ぐ雨のせい。
ああ。
私が人間になりたいと思ったのは。あなたを抱きしめたいがためだったのに。
「ひめよ……ふく……しゅうを」
それがあなたの望みなのですね。ならば私は果たしましょう。
ああでも、あなたさまはまた生まれてきてくれるのでしょうか。
印をもつ子孫はいません。黒き猫の家を継ぐものはおりません。
それでもあなたは、私のもとに帰って来てくれるでしょうか。
ああ、なんて激しい雨。私の顔はもう、しとどに濡れて。
なにも見えません。
なにも。
なに……も……
「なんて炎だ!」「近づけぬ!」
その日メンジェールの王宮から巨大な火柱が上がった。
「焼けてしまう。みな焼けてしまう!」
炎はうねる龍のごとく宮殿をなめ、王宮の人々を恐慌に陥らせた。
ざんざんに降る雨などものともせず、炎は白亜の壁を、塔を焼いた。
阿鼻叫喚の混乱の中。
白いウサギと黒い衣の男と赤毛の男がするりと宮殿の中へ入り込み。ついには剣を持つ猫目の人を救出するのであるが。
『なんという哀しみ。なんという嘆き。食わせなさい。私に、食わせなさい――!』
「く、食えるのか? ずいぶん燃えてるが」
『熱さなど。かつてかっかと燃え盛るフジ山の火口に投げ入れられても溶けなかった私には、へでもございません。任せなさい、我が主! というか。大変お久しぶりです』
「おう! 元気そうでなによりだよ」
そして剣は、燃える炎の龍を退治するのであるが。
それはまた別の、長い長い話である。
―捧げ姫 了―




