鋼の神 (前編)
ちりちりと、かすかな燃焼音が聞こえます。
橙色の灯り壷が、塔の工房にやわらかい光を投げかけています。
我が刀身を心地よく撫でてくる、ほのかなぬくもり……
「ずいぶん、傷んでおりますね」
長い研磨台に私を横たえた猫目の技師が、悲しげに息を吐き出しました。
技師は二足歩行型のネコ。マオ族の青年です。
彼はやわらかな肉球で私の刀身をふにふにと押し、損傷の具合を確かめました。
「こんなに刃こぼれが」
『まあ、使ってたのはど素人ですから』
刃はぼろぼろ。刀身の切っ先など、折れてしまってどこへやら。
柄の黄金竜の象嵌も、はげ落ちているところがちらほら。
「こまめに磨いてはいたようですね」
ええ、我が主は、いちおう手入れはしてくれてました。
でもこの数ヶ月ときたら、まったくひどいものでしたよ。
毎日。毎日。
日がな一日、戦いでした。
毎晩。毎晩。
夜通し、戦いでした。
「赤猫さん。殿下とヴィオ様をいじめてはいけません」
『い、いやっ』
「さあ、赤猫さん。エティアの兵士たちを食べなさい」
『いやあっ』
私と我が主との。いつ終わるとも知れぬ、絶え間ない攻防――
「調子はどうよ?」
猫目の技師が傷の研磨を始めると。ウサギが工房にひょこっと入ってまいりました。
「うわぁひっどい姿になってんなぁ。ま、どんなにぼろくそになろうが、赤い心臓さえ無事なら大丈夫だけどさ」
『おかげさまで、心臓は壊れておりません』
「おまえいろんなもの食いまくったし、吐きまくってたけど。調子、どう?」
ウサギが研磨台にのぼって覗きこんできます。
『大丈夫です。なんら問題はありません』
「そっか。もし具合わるくなったら言ってくれ。全力で看るから。ほんとおまえになにかあったら、ソート君に顔向けできないわ」
『感謝します、ピピさん』
いろんなもの。
たしかにたくさん、食べました。
始めに食べたのは、国境付近で反乱を起こした者たち。
勝手に塔や橋を作るのに使われた重機を回収しようと、ウサギとその師匠と我が主は、首謀者たちがたてこもる塔へ乗り込んだのです。
我々を待ちうけていたのは、王弟殿下を隠れ蓑にしていた大神官と、親スメルニア派の貴族たちでした。彼らはスメルニア軍をエティア国内に引き入れようと、野心満々画策しておりました。
むろん、そうは問屋がおろしません。
我々はあっという間に塔を制圧していきました。
電光石火、一刻もたたぬうちに決着がつくような速さで。
大神官も。黒猫卿も。ほかの悪巧み連中も。あっけなく次々と私に食べられていきました。
ところが。えんえん螺旋階段を登りきった先。塔のてっぺんで、その快進撃は止まってしまったのです。
『きゃああ、なにその剣、かっこいいい~! ヴィオのにするう!』
そこにいたのは、純血種のメニス。
かわいらしい史上最悪の化け物は、にこにこ笑顔をふりまく王弟殿下の膝の上に鎮座しておりました。
『きゃああ! ピピちゃんまでいるううう♪♪』
メニスは青の三の星から来たのではない、別天体由来の生物。
五塩基のかの種族の体液は、甘露と呼ばれております。
不老不死の妙薬となるといわれておりますが、そのもっとも顕著なる効果は、
「魅了」です――。
キン キン キン キン
打つ。打つ。赤い光。
キン キン キン キン
打つ。打つ。金の床。
「だいぶ傷がなくなってきましたよ」
『ね、ネコメさん、とにかく匂いを落としてください』
猫目の技師に、私は震えながら頼みました。
『刃は、ぶっちゃけどうでもよいんです。匂いを。この甘ったるい最っ低な匂いを、今すぐ消して下さい』
全身になすりつけられたこの匂いのせいで、私の意識は正気を保っていられません。
まともでいられるのはほんのひととき。すぐに混濁の海に呑まれてしまいます。
この数ヶ月、私はこの恐ろしい匂いを浴びまくってきました。
我が刀身にしみこんでしまうぐらい、あのおぞましい生き物が密着していました。
なぜなら。
『君……かわいいね』
あのとき、甘ったるい空気むんむんの部屋に入るなり。
情けないことに我が主は、メニスの甘露にとらわれてしまったのです。
なんともまあ、ものの見事に。
『我が主! 早く離れて! ここから出て!』
私の叫びむなしく。
その香りを数回肺に入れただけで、我が主はふらふらとその場に倒れこみ、次に目を覚ました時には、すっかり別人と化してしまいました。
起き上がった彼は、白い歯をきらりと見せ、小首をかしげて私に微笑みながら命じました。
『赤猫さん。メニスの子と王弟殿下がこわがって泣いておられますので、いじめるのはやめましょう』
『何いってるんですか! 今すぐこのメニスをふんじばって塔からポイしましょう!』
『いいえ、そんなひどいことをしてはいけません。今まで食べた人たちも、全部出してあげなさい』
『はぁ?! り、リバースしろと?! 冗談こかないでください我が主!』
『冗談ではありません。さあ、今すぐ吐き出しなさい』
主人の顔に浮かんでいたのは、そらおそろしいほど清純で無垢な微笑み。
メニスの甘露に触発されて、彼の血の中にある暗黒面が表に出てきたのでした。
邪気なく情け容赦ないことをやってのける、彼の血の宿命が。
『赤猫さん、そこのウサギと導師はさっさと殺しましょう』
『うんうん、殺しちゃえ~♪』
『い、いやで――うううっ?!』
情けないことに、私はおかしくなった我が主をもとに戻せませんでした。
私も完全に甘露にやられたのです。
といっても、魅惑の力に溺れたのではありません。
私の意識が正体を失ったのは、もっと別の理由からでした。
――『やめてください。お願いします。許して下さい』
私の中で「もうひとりの私」が、悲鳴をあげたのです……。
『私、メニスじゃありません。許して下さい。き、切らないで』
『ははは! 何をいってるんだ。この匂いはまさしくメニスの甘露だろうが』
『そうだそうだ。甘い果実のような香りがちゃんとしているぞ』
『その不老不死の体。分けてくれや』
甘露の匂いを吸い込んだとたん。「もうひとりの私」が覚えているものが、よみがえってきたのです……。
『違います、これは、甘露に似せたお香です。私、本当はメニスじゃありませ……いやあ! いやああああっ!』
『おい、抵抗するな。ほんの少し削るだけさ』
『手足を縛れ』
『ちっ、足の指はもうほとんど……』
かわいそうな赤猫。
「もうひとりの私」がかつて住んでいた部屋は……
いつも甘ったるくおぞましい香りで満ちていました……
そこではメニスの甘露にそっくりの香が、絶えずたきしめられていました。
部屋にやってくる客に、「もうひとりの私」はメニスだと、思い込ませるために。
その香には感覚を鈍らせる媚薬も入っていて、「もうひとりの私」は、いつも虚ろでした。
でもほんの少しでも、正気に戻った時は。
『私、人間ですっ……人間ですっ!!』
赤猫は、泣き叫んで抵抗しました。
『口をふさげ』『殴り倒した方が早かろう』
『気絶させてから、削るか』
『私、にんげ……きゃああああ!!』
せり上がってきた記憶は、私の思考を停止させました。
「もうひとりの私」の記憶は悲しすぎて、とても正視できるものではなく。私を混乱させました。
このまま人間という種族のために、人間である主人を守るために、自分の力を使ってよいのかと、疑問と怒りと悲しみがぐちゃぐちゃと渦巻きました。
深く考えると大陸中の人間を焼き殺したくなるので、私は自分の精神活動を封印せざるを得ませんでした。
そのために。
私は狂った我が主の命令を遂行するだけの、ただの機械と成り果ててしまったのです……。
ジュン ジュン ジュン ジュン
しみる。しみる。しみわたる。
ジュン ジュン ジュン ジュン
しみる。しみる。銀の水。
「これでどうかな?」
『ふうう。いい湯加減ですー』
猫目の技師が、洗浄液に満たされた浴槽から私を引き揚げました。
修理開始から三日。
彼は私を六十時間ほど、洗浄液に漬けていてくれました。
特製配合の液はほんのり温かく、何かの金属を溶かしたもののよう。きらめく銀色をしております。
「む。まだかすかに、残り香があるか」
『そう簡単には消えないと思います』
あのメニスには、ずいぶんと撫で回されましたし。甘露も直接、どぼどぼかけられましたからね。
「本当に大変でしたね。お師匠さまたちは途方にくれてましたし、私も妖精たちも、いろいろ作ったり運んだり復旧したり、大わらわでしたよ」
本当に申し訳ありません……。
私は百の機能を持つ高性能な剣。
そして我が主の命令は絶対。
主人が命じれば、その御言葉通りに山を崩し、海を割り、天を裂かねばなりません。
甘露によってただの物言わぬ道具になった私は、吸い込んだ悪巧み連中を吐き出し、ウサギとその師匠を塔からはじき落としました。
甘露で狂った我が主が、命じるままに。
応援に来た銀枝騎士団の騎士たちも。何万というエティアの正規軍も。すべからく、喰らいつくしました。
ただの機械である私は、無敵でした。
あのときの私にまともに太刀打ちできるものがいるとすれば、それは手足が生えてるふざけた剣ぐらいだったでしょう。
狂った我が主はメニスにめろめろ。
そして王弟殿下を、絶対の主君と仰いでおりました。
『お腹がお空きになられたでしょう? 腕を奮わせていただきます』
戦っていないときは、いつも通り。まかない係をこなしてました。
『おいしい! 美味だ、食堂のおばちゃん!』
『光栄の至りにございます、殿下。しかし私はおばちゃんではございません。おばちゃん代理でございます』
『ああ、君が女の人だったら。ヴィオの母親になってもらったのに』
殿下も、メニスにめろめろ。
でも恋人というより父親のつもりで、メニスに母親を与えたがっておられました。
『実はうってつけの女性ひとがいたのだが、行方不明になってしまってね……。たぶんあの人は、私に愛想をつかして故郷に帰ったんだろうな。私は、ほんとになにもできないから』
『とんでもございません、殿下。おそれながら、学べば、もっとなんでもできるようになられますよ』
『学ぶ?』
『ええ。なにか覚えたいことはございませんか?』
『覚えたいこと……料理……そうだ、料理を会得したい。子供のころから、作りたいと思っているものがあるのだ』
『おお、料理なら、私がお教えできますよ』
『アルデお料理するの? ヴィオもしたーい』
『おばちゃん代理、ヴィオにも教えてくれるか?』
『かしこまりました。では、みんなで作りましょう』
『わーい♪』
あの食事風景は、とても異様でした。
むかいあって和気あいあい、ごちそうを食べるメニスと殿下。その卓のそばで、にこにこ見守る我が主。
なんという平和で幸せな光景でしょうか。
でもいったん塔の外に出ますと。我が主は私の力を最大限に放出し、エティア兵を打ち倒すのです。
まるで鬼神のごとく。
いえ。
あの方は、本物の鬼神になっておりました――
「オリハルコンの粉で磨きますね。そうすれば完全に匂いが取れると思います」
猫目の技師は、きらきらする銀色の粉を私にふりかけました。
「ピピ様によると、オリハルコンはメニスの甘露を遮断するそうです」
そういえば。あの白いウサギは、メニスによって魔人にされたと聞いております。
魔人とは、不死体となって主人を護る「奴隷」のこと。
なのにあのウサギがメニスの甘露をものともせず、我が主の眼前に迫れたのは……オリハルコンをどこかに身につけていたからでしょうか。
『あのウサギはすごいですね。私をフル起動させている我が主の前に立つなんて、普通の人間にはできませんよ。ましてや我が主の手から、私を蹴りとばすなんて。』
塔から放り出して三ヵ月後、ウサギは、黄金の狼に乗って攻め返してきました。
神獣リュカオンの眷属が、我が主のもとへ到達する突破口を切り開いたのです。
あの狼はそのために、おのが身をすっかり別物にしてしまいました……。
「ピピ様は、二ヶ月かけて牙王を進化改造しました。アミーケという灰色の導師様に頼み込んで、改造方法を教えてもらっておりましたよ」
もともとあの狼は半有機体でしたが。まさかルーセルフラウレンやヴァーテインやメルドルークと同じものになるなんて……
愛とは、どんなものにも打ち勝つようです。
無敵のはずの私の結界は、神気あふれる狼の不意打ちによって砕かれました。
ウサギの後ろ足キックで私が我が主から離されると、ウサギの奥方が躍りこんできて、メニスの子を捕縛。
やっとのこと甘露から解放された私と我が主は、狼の神気でふらふら。
でも、なんとかやるべきことはやれました。
もう一度、大神官を頭とするスメルニア派貴族たちを喰らいつくし。
塔を囲むように守っていたスメルニア兵を、追い払ったのです――
「ところで、今回の戦で確信いたしましたが。あの赤毛の料理人の方はまさしく……」
『ええ、そうです』
私はりんと静かに答えました。だから我が主は、甘露に著しく耐性がなかったのだと。
猫目の技師が、なるほどとうなずきます。
「何も習っていないのに、剣聖級の剣技をくりだすとか。あれは間違いなく統一王国以前に作られた、あの……」
『ええ。この大陸の、負の遺産です』
「古代竜の友、竜使いルアス・フィーべ。炎熱の大将軍ゴッツウォル。それから、聖剣フランベルジュで黒竜を倒した騎士、銀足のグレイル・ダナン……あれは大陸に出現する英雄たちを、ことごとく消しております」
『ええ、みんな殺してます。そういう〈システム〉ですから』
猫目の技師が悲しげにうなだれました。
「ご本人に、自覚はあるのでしょうか?」
『ありませんね』
私は淡々と答えました。
『あれはごく普通に自然繁殖した固体から発生します。でも遺伝子に製造情報は刻まれていません。システム本能の他にスキルが豊富に組み込まれているので、いきなりプロ級の料理をつくれたり、剣術を駆使したりできますが、なぜそれができるのか、当の本人には全くわけがわからないでしょうね』
「もしあの方ご自身が『英雄』となったら、どうなるのですか?」
『自殺するんじゃないですか?』
私はにべもなく答えました。
『ひとりの英雄が大陸を統一しないよう、ある一定のレベルを越えたら抹殺する。
それがあれの定常処理ですので。それにのっとった行動をするでしょう』
「しかしあなたが、そのシステム・ワーカーを主人に選ぶとは驚きです。銘を調べましたらまさしくあなたこそ、かの伝説の聖剣フランベルジュ・デ・ルージュではありませんか? すなわちあなたこそは、この大陸に英雄を生み出す――」
『私の選定基準は、思想でも血統でもありません』
誤解されやすいのですが。と、私は前置いて、猫目の技師に説明いたしました。
『私の主人は、代々英雄の血を引いていなければならないとか、神々の末裔でなければならないとか、世のため人のため働く聖人君子でなければならないとか、そんな条件で選ばれているのではありません。塩基の数も関係ありません』
今までで。
二十四人おりました。
一万一千六百年生きてきて、二十四人。
その数が多いのか少ないのか、私にはわかりません……。
『この私。鋼の神の主人となるために必要な条件は、ただひとつ』
猫目の技師に、私はきっぱり申し上げました。
『私の心の声が、聞こえることです』




