センニンソウ 前編
その赤毛の少女は、今日も背に負った金筒から水をまきます。
「芽吹いてきますように。緑の野に、なりますように」
祈るように言葉をつむぎながら、切り株だらけの野に、水をまきます。
広い広い山すそは、木がほとんどなくて、無理に体躯をへし折られた切り株だらけ。
私は哀れな様相の山肌にツルを伸ばして、娘がまく、光の粒のようなうるおいを浴びます。
なんとここちよい、小さな雨でしょう。この特別な水を浴びますと、私の気分はすっきりしゃっきり。とても爽快になるのです。
赤毛の娘は、にっこり私に微笑みかけます。
「大きくなってね」
ああ……なんてかわいらしい。
いったいだれが、こんな幸せを手に入れられると想像したでしょうか。
私はいま、幸せです。
とても幸せです。
この少女の笑顔を、毎日見られるのですから。
――ふん。また鼻の下ならぬつるを伸ばしてるのか、センニンソウ。
桜の若君がぶすくれ顔で頬杖をついて文句をおっしゃいます。
――まあ、おまえはあの娘にぞっこんだからな。
ケヤキの貴公子がふふんと鼻でお笑いになります。
お二人の本体は、今は切り株というあわれなお姿。まだ怒りさめやらぬという風体で、その御霊がどっかりとご自分の切り株にお座りです。
――あの娘、明日こそは帰るだろうさ。
――そうそう。もう飽きましたとか、人里恋しくなりましたとか。そんな理由をつけてな。
私は苦笑しながら、口の悪い若者たちの前からそろそろとつるを縮めて退散いたしました。
あんなことを言っておりますけれど、お二人は私と同じ。
あの赤毛の娘が大好きなのです。本当に、妻にしてしまいたいほどに――。
なぜにこの山すそが丸裸になっているのか。
なぜにあの赤い娘が、金筒をせおって水をまいているのか。
実を申しますとさかのぼること、三ヶ月前。
それはそれはおそろしいことが、この山で起こったのです……
――ほんとにね、私たちあれで一巻の終わりかと思いましたのよ。
――そうそう。なんて荒ぶるものがきたのかと、縮み上がりましたわ。
――生きた心地がしませんでしたわね。
三ヶ月前のあの日。
悲鳴混じりに私に訴えてきたのは、優美な長腕のシラカバ娘たちでした。
私はこの方々も、あのご災難に遭われたのかと眉をひそめたものです。
クヌギじいさまたちもブナどんたちも、ヤナギ夫人たちも、それはもう惨憺たる被害を被っておりましたから。
けれども白い肌の乙女たちは私と同じく、かろうじて無事だったのでした。
森の木々をどわどわとなぎ倒していった、あの鉄の牛。もーもーという低いうなり声と、しゅうしゅうたちのぼる蒸気の煙は、なんとも恐ろしいものでありました。
あのおそろしげな鉄製の顔は、目の回りに青い縁取りがされていて、悪魔のようにも見えました。
みなあの、突進してくる化け物にやられたのです。
だからこの山すそはすっかり禿げてしまい、木々にやどる精霊たちは悲鳴をあげて泣き叫び、しばらく哀しい景色となった山すそを激しく飛び回ったのでした。
幸いにしてみなさまの根っこは無事でしたので、すっかり命をもがれるということはありませんでした。ですがみなさまの体は、牛のあとにわらわらやってきた人間どもにすっかり持ち去られてしまったのです。
いったいこの、あまり人が住まぬ山と谷ばかりの地で、人間どもは何をするというのでしょう?
私たちの体で、いったい何をするというのでしょう?
私たちはそう、嘆きあい哀しみあい、いきなりやってきた略奪者たちを呪っていたのです。
ちょうどそんなひどい有様のときでした。あのウサギ一行がやってきたのは。
「人間に深い恨みがあるだってえ?」
――そうなのですよ、ウサギさん。これはたった数週間前に起こったことです。あなたがたのような動物たちも、住むところを追われて大騒ぎだったのですよ。
私は目を剥くあの白いウサギに、ことの次第を教えてやりました。
変な鉄の牛がこの山を丸裸にしたことを。
「でもさ、その木材を伐採していったやつらと、あいつらはまったく無関係なんだけどな」
―― あいつら。ああ、私のつるで今、さかたんぼりにしている連中ですね。
ウサギの連れは、背中に剣を背負った赤毛の男と、黒い衣の黒髪男。どちらも「人間」でした。
「ぺぺえええ! 早く交渉をすすめろおお! 頭に血が登ってるっ。鼻血でるう!」
「お師匠さまは俺の奥さんになるまで、そのままでいいっすよ」
「おま! こら!」
「うう……剣を抜くのは無理か」
「おばちゃん代理、無理すんな! 木霊さんを刺激するんじゃないぞ。俺にまかせろ。っと、仙人草の精さん、そんなわけなんだ。あいつらは今回のことには全然関係ないんだよ」
ウサギさんは、ひと目見ただけで私の正体がわかっておられました。
「普段不可視のあんたらがあたりにうじゃうじゃ見えるってことは、相当強烈な念、つまりは恐ろしいレベルで恨みを持ってるって証拠だよな。気持ちはよくわかるがなぁ、しかし牛の重機で山をはげっ原にしたのは俺たちじゃない。頼むから俺の連れを解放してくれ」
しかしあれは人間ではありませんか、と申しますと。ウサギはうーんと腕組みをして仰いました。
「そうだけども。人間という種族でひとくくりには、してほしくないわけよ」
私たちは、個にして全。私たちは根っこのところで通じ合っております。絡みつきあい、互いの意志を共有します。
しかし人間は、違うというのです。そうではないというのです。
「人間に根っこはないからな。だから仲間をぐるぐる巻きにしているこのツルを、解いてくれないかな」
そうは申しましても、みなさま大変怒っておりまして。
つる草ごときの私ども、センニンソウの一存では、とらえた人間どもを勝手に離すことはできませんでした。
だってウサギの一行だって、大きな鉄の塊を山すそに下ろしたのです。
また私たちを蹂躙しにきたと思うのが、自然でございましょう?
「あれはただの乗り物さ。竜の形をしてるがほら」
なんと。竜の形をしているものは、ウサギが腕輪をいじるとたちまち箱の形になりました。
不思議な光景にみな唖然。それで私たちの怒りは少しだけ、やわらいだのです。
さらに。
「たぶんあんたらの体は、国境で橋を作るのに持ちさられたんだ。いまさら伐採されたもんを取り戻しても、元通りにゃできないが……」
ええ、何十年何百年とかけて育んできた、体と霊気でございますが。もとのようにひっつけることはできませんね。
「善処する。作業員をこっちに呼んで、山すその回復作業をさせるよ。なんていうかその、牛の重機はその……俺がこの手で作……」
ウサギさんは引きつりながらごにょごにょ言っておりましたが、私にはその言葉は残念ながら聞き取れませんでした。それからウサギさんは深く深く、その長い耳垂れる頭を下げてくださいました。
「いやほんっとごめん! まじでごめん! ごめんなさいいいいっ!!」
ウサギたちが「橋の建設現場」へ向かい、夜が二回すぎたあと。
くだんの「作業員」がこのはげた山すそにやってまいりました。
それがあの、背中に金属の筒を背負う赤毛の少女であったのです。
しかも彼女と一緒になんと、黒に銀縁取りの軍服を着た騎士たちもやってまいりました。
「騎士の方々は肥料土をかぶせてください。私はその上に成長促進剤をまきますので」
鮮やかな赤スカートの赤毛少女は、騎士たちにてきぱき指示を出しました。
「木霊のみなさま、ただいまよりインフォームドコンセントを行いますので、どうかお集まりください」
赤スカートの赤毛の少女はぺこりと頭を下げて、切り株だらけの禿げ野原に私たちを呼び集めました。
クヌギじいさんにブナどんたち。スギのご長老たちにヤナギ夫人たち。シラカバ乙女にモミジ娘。桜の若君にケヤキの貴公子……そんな立派な木々だけでなく、私のような草花の精霊も、みなせいぞろいでございました。
「今からここにエティアの国王陛下の勅令により、栄養たっぷりの土をまかせていただきます。先日虹色カブトムシの養殖業者が廃業しまして、陛下が接収なさいました処がございます。そこの養分たっぷりな土、すなわち甲虫の糞たっぷりの土をこのすそ野に入れさせていただきます。また、わが社の社長にして第一級レベル技師であるウサギ魔人ピピが配合いたしました、特別仕様の成長促進剤を散布させていただきます」
赤毛の少女がいうには、それは以前果樹園の実を半分の期間で実らせた実績のあるもの。化学薬品系や遺伝子組み換え品は使っていない、百パーセント天然の製品であるそうです。
――それで、もとどおりになるのかね?
スギのご長老さま方がたずねますと、赤毛の少女は申し訳なさげに頭を下げました。
「おとぎばなしのようにはいきません。普通ならば新芽がある程度育ちますまでに三十年、すっかりもとどおりにするには百年以上かかるでしょう。我々はその半分の時間で、ここを回復させる計画でおりますが、時間はかかります」
――ほう、半分。
なんとそれはものすごい速度です。桃栗三年柿八年。と申しますが、ブナやクヌギやスギなどのご立派な方々が天突く姿になるには、もっともっとかかります。
――それが、半分?
はい、と赤毛の少女はこっくりうなずきました。
「この事業の監督官として、本日この私、スオウ・プトリが住み込みで着任させていただきます。これから末永く、どうぞよろしくお願いいたします」
私どもはそれでようやく納得いたしました。
なんとあのウサギは、うら若い娘をひとり、ここに住まわせるというのです。つまりはいけにえであろうと、スギのご長老方はささやきあったものですが、その日から着々と作業が始まりました。
銀縁取りの騎士たちは、ポチ七号と書かれた箱型の大きな乗り物から袋からつぎつぎとおいしそうな土をひっぱりだし、私たちの根元にかけてくれました。
そうしながら騎士たちは、なんとも不穏なことを申しておりました。
「団長、うちはいつからウサギの下請け作業員になったんです?」
「いや副団長、この先で反乱の噂があるだろう? 俺たちは作業員とみせかけてその実、援軍部隊ということだ」
「む。もし戦になれば我々が?」
「うむ。前線の先鋒ということになろう。援軍がくるまで食い止めねばならんぞ」
――「先鋒は、銀枝騎士団じゃないようですよ」
促進液をまく赤毛の少女が、山すそを駆け抜けていく獣の一団を指し示しました。
おうおう、なんと軽やかな足取りよと、クヌギじいさんたちが目を細め、ヤナギ夫人たちが悲鳴をあげました。
でもシラカバの乙女たちはとたんに黄色い声。
なんてりりしい狼たちなの? かっこいい!
とかなんとか。若い娘さんの嗜好は、私にはちょっとよくわかりません。
「牙王の一団ですね」
駆けぬけていくその獣たちを遠目に眺めて、騎士たちがうなずきあいました。
戦だなんて。
そんなものが、ここにまで及ばないとよいのですが……。
「あ、黄金の狼が」
いったんとすそ野を通り抜けていった狼のうちの一頭が、ものすごい勢いで引き返してきました。
どなたかが、あの獣を呼んだようです。
――神獣リュカオンのご眷属ではないですかな?
荘厳なる声。
なんと呼びかけたのは、山の隅にシラカバ乙女たちとかろうじて残った、大杉の翁さまでした。
黄金の狼は翁さまの問いにそうだと答えて、みるみる姿を変えました。
まるで精霊のごとく光り輝く、人型の娘に。
女王と称すべきその神々しい方は神妙に、大杉の翁さまの前にかしづきました。
――気になることがあったでな。それでウサギたちに、頼んだことがある。そなたにも聞いてもらいたい。あの大牛が、我らをなぎたおしていったときのことよ。
翁さまは呻きながらおっしゃいました。
かろうじて御身はご無事だったとはいえ、根っこを少し削られていて、そこがぎしぎし痛むのです。なんともおいたわしいことです。
――牛を操る者どもの中に、まっ黒い影がおった。怨念の塊ともいうべきものよ。およそ生きているとは思えん人間であった。
それは亡霊でしょうか。複数いるのでしょうかと、神々しい狼の娘はたずねました。
すると翁様はいやいや、と枝を振られました。
――ひとりの人間。老人であるが、長い時間流をまとっておる。あれは何度も転生しておるものよ。しかしそれが背負っているものが、なんともおそろしくてな。
翁さまはその黒い老人の背に、なんとも不気味なものを見たのです。
――真っ赤な亡霊じゃ。血に濡れておる。しかしあれは、桜じゃ。
怨念と化した桜の精霊が、その老人についているというのです。血に飢え、常にそれを求めていると。
――かわいそうに、人間が放つ狂った瘴気に汚されたのだろう。
歪んだ愛でられ方をすると、私たちはたちどころにそんなおそろしいものになってしまいます。
清く愛でられれば、決してそんな外道に堕ちるものではありませんのに。
たしかに私も、牛のそばにいたあの黒い老人には、身の毛がよだちました。
体から生える長い長いつるが、こわくてちぢこまってしまったほどです。
大杉の翁様ほどの年齢ではないでしょうが、あれは相当に歳を経た怨霊です。
――どうか、あの老人からはがしてやってくれ。あのような「仲間」の姿は、見るに耐えぬでのう……わしはウサギたちがここを去るとき、彼らにそう願った。
翁様は哀しげに訴えました。
――ウサギたちは首尾よくやってくれよう。しかし、背に剣を負った赤毛の男。あれはいにしえの……
翁様はそのとき傷の痛みに呻かれて、その先の言葉をいえませんでしたが。
黄金の狼娘はすべて心得ているというふうに、深くうなずきました。
「偉大なる木霊よ。赤毛の殿方はまちがいなく、かのおそろしき一族の末裔。ですから私はずっとあの者のそばにいて見守ってまいりました。しかしいまのところ、あの者が暗黒面に堕ちる心配はございません」
――しかしその因子はある。
「仰せの通りです。しかしあの者が作る腸詰めは絶品で――いえその、あの者の中には、人をお腹いっぱいにして幸せにしたいという光の思念で満ちております。それが完全に、暗黒なるものを抑えている状態です」
――しかし万が一……
「ご心配は無用です。万が一暗黒面に覚醒したときには、この私が――」
覚悟ある言葉を放った黄金の娘はふたたび狼に姿を戻し、仲間が走っていった方向へと走り去っていきました。
すなわち、かつてウサギたちが去っていった方角に。
その俊足さは、目を見張るほど。あっというまに、地の果てへ消えていったのでした。




