怨風の谷(後編)
がしゃり、と華奢な音が響きわたる。
パッと床に散らばるのは、ギヤマンの小瓶の破片。
たった今、思い切り床に投げつけられ砕け散ったのだ。
粉々に散らばった輝きのかけらを舐めるように、銀色の液体がじわじわと四方に広がる。
「もう薬などいらぬ」
しゃがれ声で、ソファの海に埋もれているその男はぼやいた。
そこそこ見目良い金髪の貴人だ。
体はずいぶん痩せており、とても頼もしいとか壮健という感じではない。
ずいぶん色白なのは生まれつきなのか。それとも病のせいであろうか。
「しかし殿下、ここはたしかに空気はようございますが、いきなり服用をおやめになるのは……」
「気分爽快だぞ。体が軽い」
絹の白シャツをぞんざいに羽織った男のまん前に、蒼い神官服に身を包んだ者が腰をかがめている。
「せめてあと数日は、ご服用くださいませ。このモレー、殿下が大変心配にございます」
「いらぬと言ったらいらぬ。もう咳は収まった。モレー、そなたの言うとおり谷の上に塔を建てたは、大正解であったぞ。兄上に手紙を書く。転地療法を許可してくださり、大変感謝していると」
――「失礼いたします。お呼びでございますか、王弟殿下」
ソファに沈んでいた男は、部屋に入ってきた者を見て満面の笑みを浮かべた。
ふわりとほんのり艶やかな香りが室内に広がる。来訪者の体から漂う芳香だ。
長い蒼髪を結い上げ、珠のかんざしをたくさんつけた異国の貴婦人。
その衣は幾重にも重ねられた錦織。その上に、透き通った紗の裳を羽織っている姿はまさしく天女のよう。白き顔は秀眉麗明にして、蒼き瞳がきらと大粒の蒼鋼玉のごとく輝いている。
「よくきた月栄。今日も谷間を飛んでくれ」
「かしこまりました。それではさっそく、搭乗のご準備を」
「殿下……」
「心配するなモレー。すぐ戻る」
絹のシャツの男は神官を押しのけるように脇をすり抜け、美しき貴婦人の手をとった。
貴婦人と連なって歩くその足取りはとても軽い。
子供のころから守役を務めてきた神官が、この谷間を流れる渓流の水が体によいと急に言い出したのを、男はおよそ半信半疑で聞いた。だが今は、嘘偽りなかったと信じ、無邪気に喜んでいるようだ。
「ほんにたわいない……」
喜々としている男と貴婦人を見送る神官は、目を細めてほくそ笑んだ。
「手紙など、届けられず燃やされるのに。無邪気な子よ」
エティアの王弟がこの僻地を痛く気に入ったのは、あの美しい貴婦人のせいでもあろう。
神官が塔に招聘した「同志」が、つい最近呼び寄せた異国の女。あからさまにスメルニア人ではあるが。
「しかしこれこそ、好都合というもの」
神官はおのが心中に、長年夢見てきた未来を思い描いた。
壊れた橋を架けた暁には、この塔はスメルニアの軍勢に守られることとなる。
エティアの王弟殿下はこれよりスメルニア人の妃を幾人も娶り、かの大皇国の帝の義弟となるのだ。
かぐわしい薫香を漂わせる者たちは、言葉もしぐさもエティアの貴婦人とはまったく違う。
だから少しでも慣れておくにこしたことはない。
「同志はあの女が室に入るのを狙うておるのであろうな……まあ、それも一興」
――「モレー猊下」
くくくと哂う神官の背に、低い声がふりかかる。
ふりむけば。
「王弟殿下におかれましては、痛くあの婦人を気に入られたようですな」
黒マントを羽織った老人が、杖をかつかつ鳴らしてこちらに近づいてくるところであった。
「これは黒猫卿」
神官はにこやかな笑みを浮かべ、両腕を広げて同志を迎えた。
同志は、親スメルニア派のひとり。スメルニアに本家を持つ、古くてやんごとなき家の主である。
「視察より戻りました。橋の復旧作業は順調にすすめられております」
黒マントの老人は手短に本日の作業の進捗を述べ伝えると、深々と頭を垂れてきた。
神官が手配してくれたおかげで、たくさんの人柱を確保できたという。
「さすがは猊下ですな。おかげさまで、私どもの軍勢もだいぶ増えました」
「死者の軍勢か」
「さようでございます」
神官は頬の筋肉を引き上げ、顔を歪めたくなるのをこらえた。
黒マントの同志は、黄泉の秘法を会得している魔導師だ。こたびの計画に協力する見返りとして、生贄の「魂」が欲しいと所望してきた。
しかし部下から聞くところによれば、いけにえを基礎部分に埋めるまえに、その生き血をずいぶんと採取していたそうだ。
魔術に使うのだと思われるが、耳に心地よい報告ではない。
「ともあれ」
神官は作った笑みをはりつかせ、自信たっぷりに同志に告げた。
「王弟殿下をお守りして幾星霜、親スメルニア派の貴族は水面下で増え続け、今や十一人。ここに私兵を率いて集いし我ら四天王、そして王宮に在りし七人衆。今こそ一致団結する時ぞ。さすれば積年の祈願がかなうであろう」
「さよう。こたび、我らの願いは必ずや成就いたしましょうぞ」
黒マントの老人が深くうなずく。
「エティアは、スメルニアの属国になるのです」
びゅおう、びゅおう、と谷間が低くうなる。
その深い割れ目の中を、鉄の昆虫が颯爽と飛ぶ。しなやかな細い体はあたかも風を貫くよう。
ぎゅん、と音をたてて谷間の呻きを割っていく。
「爽快だ」
前の騎乗席で銀の兜をかぶった男が笑う。
「月栄、鳥たちが横に。こちらを親鳥と思っているのか?」
「そうかもしれませぬ」
男は後ろの騎乗席を振り返った。
ぴちりとした銀色の服をまとった女がそこにいて、複雑な操縦桿を操作している。
その双眸は、唾広の銀兜に半ば隠れていて見えない。
しかし顔の下半分はあらわになっており、しっとり艶めく薔薇色の唇が見える。
男は相手が操縦中なのも忘れ、思わずその唇に向かって手をのばした。
「殿下、いけません。風に乗るには集中力が要ります」
「ああ……すまぬ。しかし空気がうまいな!」
手をそろそろと引っ込め、男はしぶしぶ前を向いた。
谷間を流れる川に中州があるのを見つけるや、あそこに降りろと命ずる。
「川の水にさわりたい」
「殿下は、無邪気な子供のようです」
唇艶やかな女がくすりと笑う。
「幼きころより、毎日薬を飲んで、一日中臥せってばかりの生活だった。こんな自然豊かなところには、ほとんど来たことがなくてな」
「川には魚がおりますよ。水面が透き通っておりますので魚影が見えます」
「はは! つかみ取りしてみたいぞ」
女は操縦桿をすばやく操作して、鉄の昆虫を中州に降ろした。
すらっとした鉄の足が茂みある平地に着くや、男は鉄兜を外し、ひらりと席から出る。
「モレーが、昔ここは戦場だったと言っていたが、兵士の死体などみあたらぬな」
「川の水に流されたのでは?」
中州をうろうろ見て回る男の腕を、女はすっと掴んだ。
片手で兜を脱ぎ、涼やかな双眸をあらわにする。
「殿下……」
ここには二人きり、他にはだれもいない。
そう言いたげなまなざしで男を見つめ上げる。
「月栄」
「殿下。私、殿下のことを……」
する、と白い手が男の腕から肩に登った。
「お慕いしております」
切なさを混ぜ込んだ甘い声音。女は細身の体の線がくっきりでている銀の服の胸元に、相手の手をいざなった。
ふたつのまろい隆起が並ぶそこには、風乗りの特殊な服地のせいで頂についている突起がしっかり現れている。
そこに男の手を触れさせ、しばし指で弄らせ。
あられもない声をひそかに漏らす唇を男の唇に寄せた女は、内心勝利を確信した。
男がまろい双丘にじかに触れようと、胸元の閉じ目を開けてきたからだ。
「よい香りだ……」
「衣に焚きしめますの。素敵な香りでしょう?」
「ああ、さわやかで艶やかだ」
「メニスよりも、よい香りですわ」
「メニス……ああ、長寿の生き物か」
女の芳香にうっとりする男のまなざしは、とろけるよう。
「スメルニアの皇室は、あの希少種族を娶るそうだな」
「寿命を延ばすためですわ。実際は、あれは完全な化け物。あれらが出す甘露はきつすぎて、人を気狂いにいたしますの」
「そうか……それはこわいな」
「殿下。人間の女が一番でございますわ」
たとえのちのちこのエティアの貴人が、やんごとなき家の姫や帝の親王を娶ろうとも。
そして帝のように、長命で美しいメニスを娶ろうとも。
とある称号だけは、彼女たちに与えることはかなわない。
「一の女」。
スメルニアでは、貴人がおのが床に初めて入れた女は、独自の称号と格別の待遇をもって「強制的に」室に迎えられる。
これは大スメルニアの貴人典範に定められている、古くから堅く守られてきた法だ。
「一の女」は生まれを問われず特別扱いされ、正室に告ぐ地位を与えられ、独立した御殿に住まわせられる。
初の契りで子を成せば、他の妾の子とは違って後継ぎの母となれる可能性もある。
貴人が初めて女の中に放った子種は、大変に神聖なものとされるからだ。
もし初子が正室に邪魔され後継ぎになれずとも、神官位を得て元老院議員になることは確実となる。
そうなれば、母親である「一の女」にはさらなる誉れが与えられる……。
(この月栄、主公閣下のご命令通りにした……)
女はふと、おのが主人の顔を思い出した。
(閣下のしもべたる私がこの方の一の女に納まり、閣下のご意向を反映させる……。エティア属王を操る羗家は、隆盛を極めよう……)
蒼い髪の美丈夫たる主人の姿が、脳裏にちらつくや。
反射的に今目の前にいる男の手を払いたくなるのを、女はこらえた。
主命にそむくことなどできぬ。
ここでおのれは、エティアの王弟のものとならねばならぬのだ。
それが、身も心も捧げると誓った主人が望んだこと――。
女は真実心から慕っている美丈夫の姿を、頭からかき消した。
「月栄……」
男が手をそろそろと、胸の閉じ目の隙間に這わせる。
そのかすかにわななく唇はさらに、女のくれない鮮やかな口に吸い寄せられる。
半ば開き、真珠のような白い歯をちらと見せながら、女が獲物に吸いつこうとした、そのとき。
「ん……?」
突如。
男の目が、女のはるか後方に飛んだ。
「なん、だ? あれは?」
びゅおう、と風が中州を吹きぬける。
刹那、なんとも甘ったるい香りが、ぶわっと男と女に吹きつけてきた。
花のような。果実のような。
濃厚で熟れた、なんともいえぬこくのある匂い――。
ぱっと女の胸から手を離し、男は眉根をひそめた。
「なんだ? この香りは……」
臍をかむ思いでひそかに、ぎり、と歯軋りしながら女は背後を見た。
「何かが倒れているぞ!」
男がハッとして中州の端に駆ける。
よもやつわものの屍であろうか。そうであればたしかに情事にふける場所としては、少々そぐわない。
しかし男が見つけたものは、すでに命を失くしたものではなかった。
「月栄、子供だ!」
男は目を見開き、それのそばに膝をついた。
「まだ息をしているっ」
「殿下、お下がりください。私が確かめま――」
生きている子供? そんなものがここいるになど、ありえぬ……!
内心いらつきながら、女は近づいたが。
それより早く、男は中州の岸に生えた茂みに埋もれるように倒れている子供を抱き上げた。
とたんに、かぐわしく甘い芳香がさらにあたりに満ちた。
女がまとう香りよりも桁違いに濃厚で。ねっとりとして。甘ったるい蜜のような香りが。
「まさかこの匂いは……!」
それが何か気づいた女はハッと青ざめ、男から子供をひったくろうとした。
だが、男はそれを拒んだ。
「銀の髪とは。きれいだ……」
すでにその芳香は男の全身にまとわりつき、肺はおろか、すっかりその脳髄にまで入りこんでしまったようだ。
うっとり目を細め、男は銀髪の子供をきつく抱きしめた。
「月栄。この子を連れて帰ろう」
「殿下それは……!」
「行き倒れだ。助けてやらねば」
男は女の返事を聞かず、いそいそと鉄の虫へ歩いていった。
甘ったるい芳香を、幾度も胸いっぱいに吸い込みながら。
花のような。果実のような。
かぐわしい、甘露の香りを――。




