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雲上の宿

作者: 美乃 ゑる

 T岳は遭難の名所として昔から有名である。

 標高は二千五百メートル程度と中級者向きの山なのだが、登山道の所々に険しい岩場があり、足を滑らせて滑落するものが後を絶たない。

 それでも山に魅せられた者の悲しさ、山頂から眺める御来光・夕景・星空が素晴らしいと聞けば、危険を冒してもやっぱり出かけてしまうのである。そんな訳で、山頂の山小屋はオフシーズンでもそこそこの泊まり客で賑わっていた。

 山小屋は、七十歳前後の風貌の婆さんが一人で切り盛りしている。元々は夫婦で営んでいたのだが、数年前に夫が無くなってからは、気丈にも独りで宿を守っているのだ。山の厳しい自然環境の中ではさぞかし骨が折れるだろうと思うのだが、男勝りの婆さんはいつも元気で愛想が良く、アルバイトも使わずに、朝から晩までちゃきちゃきと良く働く。

 本人曰く、自分も若い頃から登山を楽しんで来たので、山小屋で働くのが夢だったのだそうだ。

 多少不便な点があってもこの絶景が十分その穴を埋めてくれるし、今の御時世生活物資はヘリが運んでくれるし、ソーラーパネルで自家発電は出来るし、実際には町と変わらない結構快適な暮らしなのだという。

 労働の過酷さに反して、商売としての儲けは全くないと言って良いのだが、婆さんは、金なんかあっても使うところがないからねと言って笑っている。

 そんな婆さんのことを、常連客は親しみを込めて「おっかやん」と呼んでいる。


 秋も深まったある日の夕暮、男が一人山小屋を訪れた。ここでは初めて見る顔である。

 既に紅葉の見頃は過ぎている上、平日で天候も不安定な日だったため、めずらしくこの男の他に宿泊客はいなかった。

 六十過ぎの恰幅の良い男で、顔は陽に焼けてテカテカしている。定年退職をしてからは登山三昧の日々を送っており、他人に左右されずに行動したいという事で、独りで山行をすることが多いのだそうだ。単独行は妻も子供も心配してはいるのだが、月の半分以上も家を空けている今では半ば呆れ、もはや忠言もしなくなったという。なんとも陽気で鷹揚な、話し好きのおやじである。

 おっかやんはいつものように愛想よく受付を済ませ、生憎の天気なのによく来てくれたなんて事を喋りながら部屋に案内し、すぐに食事にするからと言って世話をやいた。ほどなく小屋中に充満してきたのは、囲炉裏から立ち昇る暖気と紅葉鍋の香り、それらは寒い中歩き続けて強張っていた客の身心をじわじわと融かしてゆくものだった。

 客とおっかやんは、紅葉の時期を逃して残念だったこと、ここに来る途中でカモシカに遭遇したこと、楽しみにしていた夕焼けや星座観賞が出来なかったこと等の話しに花を咲かせ、賑やかに時を過ごした。やがて腹も満たされ、地ビールで大分良い気分になった男はようやく腰を上げ、よく陽に当てられた布団にもぐり込んでぬくぬくと心地良い眠りについた。星もなく、風もなく、もはや虫の声もない、静かな夜であった。

 翌朝は、深く霧の垂れこめた寒い朝であった。

 今にも雨が落ちてきそうな重たい空模様に、客は早めに朝食をとり、早めに宿を起つことにした。雨のやってくる前になるべく先に進んでおきたかったのである。

 男はおっかやんの丁重なもてなしに礼を言い、また新緑の頃には来るからと笑って宿を後にした。


 宿から少し下ったすぐの所に急な岩場があり、男がそこを這う様にして慎重に降りていた時である、突然ガランガランという轟音と共に頭上から大岩が転げ落ちてきた。

 岩は男の頭を直撃し、その勢いでふっ飛ばされた男は既に意識を失っていたのであろうか、声も立てずに数百メートル下の谷底へと吸い込まれて行った。ほんの僅かの間、谷底を転がる岩の微かな音が空気を震わせ、木霊が治まったその後はただいつもと変わらぬ山の静寂だけがその場を支配した。

 音もなく、動くモノもない白い世界、この一瞬が永遠に続くかのようだった。

 ポツポツと小雨が当り始めた岩場の上方に、霧の途切れ間からぼんやりとした一つの黒い影が浮かんで見えた。霧の渦巻く谷底に向かって静かに手を合わせて拝んでいるおっかやんの姿であった。彼女のポケットには、昨晩かの男が眠っている間にその財布から失敬したいくばくかの現金が収まっていた。

 長年の経験で、人を見分ける眼には狂いがなかった。そう、実際あの男は大手の会社役員として悠々自適の暮らしを送っている、大層な金持ちであった。こうして手に入れた金で、今度下界に降りた時に高級店で美味いものを食ったり、設備の整った贅沢な温泉ホテルに泊ったりすることが、今では彼女の唯一の楽しみとなっていたのである。

 おっかやんの心には、なぜか罪悪感というものが全く湧いてこなかった。

 山男が山で命を落とすのは仕方のないことだと思っている、自分の夫もそうであった。

 いやそれよりもなによりも、昔から「金持ち」という人種が大嫌いだったのである。

 彼らは皆、何か不正な事をして金儲けをしているとしか思えなかった。

 表向きは真面目な善人を装い、裏では人を騙して大金を巻き上げているに違いない、あの男だって同じ穴のムジナじゃないか、そんな悪党が一人居なくなったところでどうって事はない、いやむしろ世の為になるのだ・・・


 T岳では、今も命を落とす者が後を絶たない。

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