30.
30.
私がまだ5歳かそこらぐらいの頃、私はこの家ではなく、小さなアパートに父母と共に三人で暮らしていた。
そこでは父がいつも叫んでいて、それが私はとても恐くて、母にばかり懐いていた。
父は家庭には関心が薄く、朝になると仕事に出かけ、夜帰ってきても叫ぶばかりで、母とまともに話しているのは見たことがなかった。
同じように私にもあまり興味がなかったようで、話しかけても無視されることが多かったし、目にも入っていない様子だった。
そして――。
……初めてアレを見たのはいくつの時だったのだろう……。
夜中に母が父の"穴"として扱われている、あの恐ろしくて、不気味な「儀式」を見たのは――。
ある日、私は母に寝かし付けられた後、夜中に声が聞こえるのに気が付いて、目を覚ましてしまったのだ。
父母が眠るはずの寝室から漏れ聞こえてくる、叫ぶ声と泣く声……。
片方は誰のものか、すぐにわかった。
いつも聞いていた、あのおっかない父の叫び声だった。
そして、もう片方の泣き声は、それまで私は泣いているのを見たことがなかったが、母のものに違いなかった。
私は母が父にいじめられて泣いてしまったのだと思い、様子を見に行くことにした。
そして寝室につながる襖の前まで行ってそこで立ち尽くした。
中からは父の叫ぶ声。
その声を聞くと幼い私は身がすくみ、襖をすぐに開くのが躊躇われたのだ。
そこで、音を立てないように戸にそっと手を掛け少しだけ引いて、そこから中の様子を覗き見たのだった。
――そうして私の目に飛び込んできたのは、父と母によって行われる、謎の「儀式」――。
ふたりとも全裸で。
父は叫びながら。
母は泣きながら。
お互いの身体の異なる部分を混ぜ合わせているらしかった。
もちろん現在の私になら、ふたりがなにをしていたのかなんて、説明されるまでもない。
……だけど当時の私が、そんなこと知っているはずもなかった。
なにをしているかはわからなかった。
けど……それでも、母がそのせいで泣いているのは、苦痛を感じているのだけは、小さかった私にも理解することが出来た。
でも私は恐ろしくて、中に踏み込んで母を庇うようなマネは出来なかった。
気付かれぬようおそるおそる後ずさり、自分の布団まで駆け戻って眠ったふりを決め込んでしまったのだった。
母が泣いているのは見たくなかったし、その「夜の儀式」は、なんだかすごく恐ろしいもののように感じられたので、いつしか私は、たとえ夜に目が覚めて襖の向こう側から声が聞こえてくることに気付いたとしても、決して覗かないようになっていった。
ジンクスとか、おまじないとでもいうのだろうか。
そういうふうに私が朝までぐっすり眠っているようにしていれば、起きたときには父も母も笑っていてくれるのだと、勝手に自分に言い聞かせるようになっていたのだ。
もちろん、そんなおまじない、実ったためしはなく、朝になれば父はいつもと同じように母を罵って仕事に出かけていくだけだった。
母はそうやって共に過ごす時間が増えるにしたがって、少しずつやつれていく様子だった。
――ある日。
父が仕事に出かけた後、母が私に言った。
「ねぇ雌舞希ちゃん。あなた、ゆうべ起きてきて、お母さんたちのところへ来なかったかしら?」
それを聞いた私は全身が震えた。
見てはいけないものを見てしまった私を、母は断罪しようとしているのだと感じられた。
この頃の私は、おまじないを順守するようになっていたので、その前の夜に覗きになんか行っていなかった。
寝かし付けられていた布団から出ることさえもなかったのだ。
私はその通り、
「行ってない。ずっとおふとんで寝てたよ」
と答えた。
だけど、当時から私は気の小さい子供だったので、その顔には動揺がはっきりと出てしまっていたらしい。
私の顔を見て、母は青ざめてしまったのだ。
……私はてっきり、怒られるものだとばかり思ったが、母は予想を裏切ってこんなことを言った。
「これからは、『ソレ』をよく見ておきなさい。……いい? 雌舞希ちゃん。あなたは他の人より、ああいったコトに詳しくなくちゃいけないの。周りは怖い人でいっぱいなのよ。あなたをあんなふうに、……お母さんがされてるようなことをしてやろうとする人が、いつか必ず現れる……。だから、いつも周りには注意しておかなくちゃならないの……。お母さんとお父さん、夜はいっつも『アレ』をやっているから。もし、また目が覚めてしまったら、その時はよく見ておくのよ。わかった? ――あなたは、常に危機感を持って生きていかなくちゃならないのよ」
……それは怒ったふうでも、嘆いたふうでもなく、例えば、そう。
テレビやなんかの中で「宿題はきちんとすませるように」とお母さんが子どもをたしなめる時のような、いかにも母親らしいそぶりだった。
その日から母は毎日、父が出かけた後、私に「ゆうべは来た?」と繰り返すようになった。
その問いかけに、私はいつもNOと答え続けた。
母が泣き、父が叫ぶあの「儀式」は、私にとって、とても恐ろしいものだったので、どうしても見に行くことが出来なかったのだ。
そして母は私のその答えを聞くたびに、
「駄目よ、雌舞希ちゃん。もう『アレ』は、雌舞希ちゃんのためにやってるみたいなものなんだから。あなたが見に来てくれなかったら意味がないわ。せっかく、しんどい思いをして毎日がんばってるんだから。しっかり見て、もしもの時のための役に立ててくれなくっちゃ。いい? 周りには雌舞希ちゃんにとって怖い人がいっぱいいるのよ? だから、もっと危機感を持って生きるようにしなきゃ、駄目なのよ」
と、好き嫌いをする問題児をさとすような口調で言うのだった。
そして……この間にも、日に日に母はやつれていった。
そんなある晩。
眠っていた私は尿意を催してしまった。
トイレは、母と父がいる寝室のすぐ隣にあった。
そこまで行けば、寝室での物音は、はっきりと聞こえてくることだろう。
もしそれを聞いてしまえば、もう私は中を見てしまうに違いなかった。
幼い私には、父が母に何をしているのか、ふたりで毎夜、何をやっているのか理解することが出来なかったし、母が何故、私に毎日毎日、あの恐ろしい「儀式」を見せたがっていたのかもわからなかった。
だけど、母が日増しにやつれていく原因が、あの「儀式」にあるんだということは感じられたのだ。
だからもしそうなれば、今度こそ父に母を泣かせるのをやめてくれるよう、泣きついてしまうに違いないと思った。
……それが、母の望んでいることとは違うとわかっていても……。
……私は我慢することにした。
もしあの部屋に行ってそんなことをしてしまったら、取り返しがつかないような気がして、それが恐くて、ずっと込み上がる尿意に耐えた。
そして、……とうとう耐えきれなくなり、布団の中で全て漏らしてしまうのだった。
私は泣いた。
ここまでして見に行かなかった私を……、母は明日、責めるのだろうか。
それなら、もし見に行って、中に踏み込んでしまっていたら、その時、母は私を責めなかったのだろうか。
いろんな事を考え、恐ろしさで泣いているうちに、いつの間にか私は眠ってしまったらしい。
次に気付いたときには、外が白んできていた。
私は夜が終わったことを知り、安堵した。
そして身を起こすと、すぐに父母がいる寝室へと向かった。
この時にも、まだ父の叫ぶ声と、母の泣く声は止んではいなかった。
でも、朝になったら『アレ』は必ず終わっているものなのだと思いこんでいた幼稚な私は、その声を聞いても、父が毎朝繰り返していた日課と同じものなのだろうと決めつけて、深く考えずに襖のすぐ前までやってきてしまった。
そして私が襖に手を掛けようとすると、それは向こう側から乱雑に開かれた。
目の前には父が立っていた。
父は私が目の前に立っているのを見て、少し驚いた顔をしたが、すぐに興味をなくして隣のトイレに入った。
私もそれには構わず、寝室へ入っていった。
すると、布団の中で母が泣いているのが見えた。
私は急いで母に駆け寄り、そして声を掛けた。
――そして。
そこで、母は死んでしまったのだ。
いや……、正確にはこれは、『死』とは呼ばないのだろう。
だけれども、幼かった私には、「母が死んだ」と、そういうふうに感じられたのだ。
母は、粗相で濡れた私のパジャマを見た瞬間……、壊れてしまったのだった。
その日から母の異常に父が気付くまでの数日のあいだ、私は母から身体に直接「教育」を受け続けた。
朝、父が家を出るとその「教育」は始まった。
私が他人より如何に劣った存在か……。
それまでどれだけ母の恩情の元で危機感のない振る舞いをしてきていたのか……。
この身体に、徹底的に刻み込まれていったのだ。
何日かして、私の体にアザがあることを気に留めた父は、母にそのことを尋ねた。
そしてこの時、母は初めて、父の前で壊れた振る舞いをして見せてしまったのだ。
それを見た父は驚き、親族に相談して、母を病院へ放り込むことを決めたらしかった。
家には母がいなくなり、父は私にふたりで暮らそうと持ちかけてきた。
……しかし、私はそれを拒絶した。
父が母を毎日"穴"にして、あげくに壊してしまった事実を知っていたから……。
そして、その女を"穴"にする行為は、私がもっとも警戒すべき男の本性なのだと、壊れた母から全身に刻み込まれていたから……。
それからなにより……、いつも叫ぶような声でしか話さない父が、恐ろしかったから……。
私は父が近づくと泣き叫び、狂乱して部屋の隅へ逃げ、縮こまって震えた。
……そんな関係では、共に暮らせるはずがなかった。
母には身寄りがいなかったため、私は父の親戚をたらい回され、そして最後に連れてこられた、この祖父母の家に、こうして引き取られることになったのだった。
それ以来、父母とは一度も会うことはなかった。
お母さんは今も病院に入院していて、月に一度、月末の金曜日に面会が許されている。
だけど、私はお見舞いに行くことを拒み続けた。
お母さんの病状について、詳しく訊くこともしなかった。
理由は、壊れてしまったお母さんの姿をもう見たくはなかった……というのが大きかったけど、それ以上に、あの優しかったお母さんが、例の「教育」の時のように、私に非道く接するのを見るのはつらくて悲しかったから、というのが一番強かった。
そして、お母さんが壊れてしまった原因にして、私にとって最悪の恐怖の対象でもあったお父さんは、引き取られた時におじぃとおばぁに泣いて頼み込んで、この家には近づけないようにしてもらっていたのだ。
だから、今のこの状況は、私にとって、本当の本当に不意打ちだった。
絶対に侵されることがないと信じ切っていた私の聖域に、その天敵が待ちかまえているなんて事は……。
カクカクと震えだしそうになる足をなんとか抑え、私は隣に立っているおばぁに、抱いている疑問をそのまま口にして伝える。
「お……おばぁ、なんで……この人が、ここにいるの……?」
おばぁは俯いたままで、
「……今日は、志真さんの誕生日だから……」
こんな答えを返してきた。
……そんなことは知っている。
今朝から無意味な焦燥感にかられたのも、今日がお母さんの誕生日だったからだ。
今日だけは、なんとかして、お母さんに良いところを見せたかったからなんだ。
お母さんは死んではいないけど、今のお母さんは私に会ったって喜んでなんかくれないから、せめてお母さんの「教育」の成果を……私はしっかり危機感を持って生きているって事を……自分自身に示してみせたかったんだ。
……でも、だから?
だからなに!?
……それだと、なんでこの人が……、お父さんが、この家へやって来る理由になるっていうの?
「そ……それじゃ、答えになってないよ。どうしてわざわざ、この家に寄っていくの? 病院から、直接帰ってもらったらよかったじゃん。……私と、約束……したのに……」
私はすでに目の前の恐怖に呑まれてしまって、完全に冷静さを失っていた。
目からは今日もう何回目だかわからない、熱い雫がこぼれ落ちてきて、身体はもう抑えても震えが止まってくれなかった。
「しぃちゃん、落ち着いて。泣かなくても、大丈夫だから……」
そう言って、おばぁは私の肩に手を掛けてくれた。
そして、お父さんと向き合って座っているおじぃが私に振り返り、おばぁの代わりに、
「しぃちゃん、すまんかったなぁ。毎年ぃ、6月4日のお見舞いの帰りぃにゃ、コイツ、うちに寄らせてたんだ。そんでぇ、今日は丁度、しぃちゃんが早退けしてくるってぇ電話がぁあったから、話しぃ合えるいい機会だと思って、オレが宗八に待ってるように言ったんだよ」
私との約束は、私が見ていないところでとっくに破られていたことを教えてくれた。
「なんで……? ……この家に……何度も来てたってのは……、もう……いいよ、……わかった。……でも、なんで? なんで、……私とこの人を……会わせたり……するの?」
「しぃちゃんが、いつまでも宗八を誤解してんのがぁ、忍びなかったんでなぁ」
「ご……誤解って、なにが……」
「……父さん。やっぱり、雌舞希は僕を許してくれていなかったんだな。話しが違うじゃないか」
お父さんの声に私の身体は勝手に反応して、びくびくと震える。
「宗八ィ!オンメェはちょっとォ黙ってろォ!」
それを見て取り、叱りつけてくれるおじぃ。
……そして、続くおじぃの言葉に、私ははっとする。
「オメェがそんなンだったからァ、しぃちゃんにも、こんなふうに怖がられて誤解されてぇ、志真さんだってぶっ倒れっちまったんだよォッ!」
「……お……おかあ……さん? ……なに……? それって……何? どういう……こと?」
「――しぃちゃん、ちょっとぉ落ち着け。……話しはそれからにしような」
「……さ、とりあえず座って?」
……おばぁは私の背中をそっと押しておじぃの右隣に導き、座らせてくれた。
そしておじぃとふたりで私を挟むようにして、そのまま隣におばぁが腰を下ろした。
あ、ああ……。
目の前……テーブルの向かい側、手を伸ばせば届く距離に、お父さんが座っている……。
泣きはらした私の口にはずいぶん唾液が溜まっていたが、恐怖でノドが乾いてしまって上手く飲み下すことも出来なかった。
その唾液を飲み込む音さえ目の前のこの人に聞かれてしまう気がして、それが恐ろしくて、なすすべなく涙と同じようにだらしなくアゴの下へ垂らしてしまった……。
そんな私の背中をおばぁはさすってくれ、私が少しでも落ち着けるようにしてくれていた。
そのまま、しばらくのあいだ、私のしゃくり上げる声と雨の音だけが居間に響いていた。
10分か……あるいは20分ぐらいは経ったのだろうか。
私は依然、身を固くしたままだったが、とりあえず話をまともに聞けるぐらいには持ち直していた。
「……もう、いいよ。落ち着いた。ありがとう、おばぁ」
静寂を私から破り、ずっと背中をさすってくれていたおばぁに、ぎこちなく微笑んで見せる。
「それで……、さっきの、誤解がどうの……っていう話……なんなの?」
私の問いに、お父さんは俯いてしまった。
それに代わって私の隣に座っているおじぃが答えてくれる。
「……しぃちゃんは、宗八――お父さんがぁ暴力をふるったせいで、お母さんが病んでしまったとぉ思い込んでるだろうぅ?」
思い込むもなにもない。
私が父母と三人で暮らしていた時、実際にそれを一番間近で見ていたのだから。
私がうなずくとお父さんは、ばつが悪そうな表情をした。
「確かに、そう思うのんもわかるんだよ。コイツは口が悪いし、馬っ鹿みたいに声が大っきいからなぁ。まだ小っちゃかったしぃちゃんにゃあ、いっつも怒鳴ってるように見えたんだろうなぁ。ついでに、ぶっきらぼうなぁ野郎だから、しぃちゃんとは、どう接したらいいか、わからなかったらしくってなぁ、育児も放ったらかしぃで、お母さんに任っせっきりになっちまった。そのせいで、ちょっとずつ弱っていくお母さんをぉ、何もしないで、ただ見てただけってぇのもコイツが悪い。……でもなぁ……、こいつは、しぃちゃんが言うような暴力は振るってないって、そう言ってるんだよ」
「……そう。……そうだね。……私も……お父さんが、お母さんをぶったりするのは……見たことない。……でも、ただ声が大きかったってだけじゃなかったのは確かだよ。……いっつも、朝も、帰ってきてからも、お母さんを罵倒するようなことばかり言ってたの……私は覚えてるもん! 暴力って、そういう肉体的なもののことだけ、言うんじゃないんだよ!」
それを聞いたお父さんは、俯いていた顔を上げ、
「それは違うんだ雌舞希!」
そしてこっちに身を乗り出してきた。
私は反射的に身をすくませてしまう。
それをまたおじぃに抑え付けられ、ひと呼吸おいて気を落ち着かせてから、お父さんは話しを続ける。
「……あれは罵倒していたわけじゃ、ないんだよ。……僕は、志真――お母さんの助けになりたかった……。子育てを手伝いたいから、何か出来ることはないかって、いつも持ちかけていたんだ。……でも、お母さんはいつもその申し出を拒んだ……。育児は自分ひとりで出来るから、任せておけばいいって言ってね。……自分はそれで、どんどん弱っていってたっていうのに……僕には仕事に専念してもらいたいって言って、きかなかった。それで、その話で僕が食い下がるうちに口論になってしまうことは、確かに何度もあったんだ。僕は……お爺ちゃんが言うとおり、鈍感でカッとなりやすい性格だ。……あの狭いアパートで……雌舞希が見ているのなんて気にも留めないで、お母さんに怒鳴り声を浴びせたこともあったと思う。……そのせいで、お母さんを全く傷つけなかったかって言われれば、それは……否定できない。……だから……、雌舞希の僕に対する拒絶を初めて見た時、お母さんが病んだ原因は、自分にあるんだって……、僕自身もそう思ったんだ」
その話し方には、私の中のお父さんの印象と、ずいぶん違いがあった。
私の記憶の中にいるお父さんは、こんな殊勝な姿勢の男じゃなかった。
いつも大声で叫んでいて、誰かの話になんて、まるっきり耳を貸さないような男だったはずなのだ。
……だけれど、それと同時に、お父さんは本当はあの頃から、今目の前で話しているこの男とまったく同じような人間だったと、そんなふうにも感じていた。
少なくとも、今お父さんがしている話が、自分の都合の良いように理不尽に改変されたものだ、なんていうふうには思わなかった。
……もっと言えば、「私もそう思う」と相づちを打ちたいぐらいに、私の記憶とお父さんの発言が食い違って感じられることはなかった。
……でも、それはなにを意味する事になるんだろう?
おじぃは言った。
お母さんが壊れてしまって、今入院しているのは、お父さんのせいじゃないんだと。
それを私が誤解しているだけなんだ……と。
……それはつまり、それ以外の原因があるということだ。
お父さんの暴力以外の、お母さんの心を病ませてしまうような……原因……。
――えっ?
……他の、原因……。
そこまで考えて、思考が私を凍て付かせた。
そして、すでに見当がついてしまったにも関わらず、馬鹿を装ってお父さんに問いかけてみる。
「あ……貴方自身、原因は自分にあると……、そう感じたと、認めているんですよね……。……それじゃあ……、なんで……お母さんが病んでしまったのは、自分のせいじゃないって……そう言い切れるんですか……?」
私がやっと自分とまともに口をきいたことに安堵したのか、それとも、私の他人行儀な態度に落ち込んだのか、お父さんは、じっと私の目を見つめた。
長年の天敵に見つめられたはずの私は、少し身体が強ばったものの、かつてのような恐怖は、もはや感じることがなかった。
そしてお父さんは、その答えを、私の目を見たまま紡ぎ出す。
「……病院で、お母さんの精神鑑定が行われたんだ……。追いつめられていたとは言え、雌舞希に手を上げていたわけだから。……その診断結果が、『重度の育児ノイローゼ』……だということだった」
「……育児……ノイローゼ……?」
「……ああ。僕も、初めにそれを聞かされた時は、驚いた。当時は、自分ばかり責めていたからね。もちろん、それで自分の責任がゼロになったわけじゃないって言うのはわかっている。もっと積極的に育児を手伝おうと出来なかったことも、その話し合いの最中に短気を起こして怒鳴ってしまったことも……、僕が悪かったんだ。それは、さっきも言ったように、否定する気もない。だけどその診断結果が、自暴自棄と変わらなかった僕に、とりあえずの冷静さを取り戻させてくれたんだ。そのおかげで――」
「なに……それ?」
「……え?」
「それじゃあ……お母さんが、壊れちゃった……本当の原因は……」
『ピシッ』、という音を、聞いた気がした。
私の中の、一番奥深いところの、今まで絶対に触れることのなかった、……いや、触れることなど、許されるはずのなかった、脆くて……でも鋭い場所に、『ピシピシ』と、音を立てて亀裂が入っていく。
お父さんの話しなど、もはや私の耳には届いてはいなかった。
聴いていられるはずがなかった。
私が長年、うすうす感じながら、ずっと気付かぬふりをして固く閉ざしてきた、うそ。
『お母さんとの約束』なんて大義名分のもと、まだ存在の意味さえ理解出来ていなかった夜の宴を絶対の悪だと決めつけ、それを中心に全ての事実をこじつけて「アイツ」なんていう、いもしない父の虚像を仕立て上げることで自分のうちに秘めた違和感を覆い隠していた、その深層の真実。
それを、こうもあっさりと砕かれ、中身をすべて曝け出されてしまったのだから。
そう。当たり前の話なのだ。
今になって考えてみれば……、夫婦がベッドを共にすることの、一体どこに異常性がある?
お父さんとお母さんが、夜な夜な出していたあの声は、叫び声でも泣き声でも何でもない。
ただの、喘ぎ声だったんじゃないか!
お父さんが無愛想だったのも、声が大きかったのも、本当は、もとからの性質だった。
一方的に罵っていたわけじゃない。
あれはふたりの口論だったんだ。
私が勝手に……自分への言いわけのために……お父さんの声が大きいっていう、もとからあった恐怖を利用することで、すべてを誇大して、記憶してしまっていただけだった!
「アイツ」なんて本当は、始めっからいなかった。
お父さんは私に迫る危機とはなにも関係のない、無害な人だった!
それはつまり、お父さんの態度がお母さんを壊した原因なんかじゃ、なかったっていうこと。
じゃあ、それなら、本当の元凶はなんだったっていうんだ?
……そんなのわかりきってるじゃないか……。
今、お父さんがはっきりと、その答えを口にしたじゃないか!
お母さんは、弱っていく自分を圧してまで、育児をお父さんに手伝わせなかった。
それは何故だ?
お母さんは、弱っていく自分を圧してまで、毎夜の宴を繰り返した。
それは何故だ?
そしてお母さんは、壊れてしまってもなお、それらを貫き通そうとした。
それは何故だったんだ!?
……わかってる。
本当は心のどこかで、そんなのとっくに気付いてた。
産まれてきた子供が、「私」だったからだ!
ただひとり、誰の手も借りず、夫にさえ頼らずに自分以外の者を育児から距離を置かせたのも。
自分の夜の営みを我が子に見せようなんて、狂った行動をとったのも。
口癖のように、私に「危機感を持ち続けろ」と謳い続けたのも。
お母さんの、その後の人生もろとも狂わせてしまったのも。
お母さんの子供が、他の誰でもない、この、出来損ないの「私」だったからなんだ!
育児ノイローゼ?
ちがう!
そんなんじゃなかったんだ!
お母さんだって、もし、私みたいな欠陥品じゃなく、もっとまともな子供が産まれていたのなら、あんなふうにはならなかったはずなんだ!
あんなふうに、人生が狂ってしまうことはなかったんだ!
……そうだ。
お母さんは、産まれてきた子供が私だったから、あんなに過保護に育てた。
私だったから、あんな狂った教育を施そうとした。
誰にも、たとえお父さんにだって、私を見られることのないように。
それを私は……全部、私のためにやってくれているんだって、それがお母さんの本望なんだって……、そう自分に信じ込ませていた。
だから……、お母さんが壊れてしまった原因が、自分にあるなんて、そんなの認めるわけにはいかなかった。
だから、もとからお母さんによって意図的に疎遠にされていたお父さんを、その元凶だと思い込むことで、自分をごまかしておくしかなかったんだ。
……だって、……それを認めてしまうってことは……。
お母さんが私の正体をひた隠しにし続けたのは、私のためなんかじゃなかったってことになってしまうから。
お母さん自身のために、私という「恥」を、自分以外に知られることがないよう、隠し通そうとしていたんだっていうことになってしまうから。
お母さんが私という存在を、全身全霊を尽くして、否定したがっていたんだってことになってしまうから……!
たったひとり。
私のすべてを知っていたお母さんでさえ……、
本当は、私を愛してなんかいなかったんだって……、
それを、認めることになってしまうから……!
それは私の、たったひとつの生きる意味の喪失。
私みたいなものでも愛してくれる人がいるという、かすかな希望が失われる、認めるわけにはいかない……現実。
……だから、気付かないふりを続けてきた。
だから、成長して、いろいろ知るうちに、自分の記憶に違和感があるのを感じても、決してそれを追求したりは出来なかった!
きっと本当は、私が父母に会うことを嫌がったのも……、出会ってしまえば、自分の安っぽいごまかしの記憶なんて、簡単にひっくり返されてしまうのを、心のどこかで、わかっていたからなんだ。
そして、それは私の感じていたとおりだった。
あれだけ憎んでいたはずの「アイツ」は……、ものの一時間も話さないうちに、こんなにまで言いわけもきかないぐらいに、粉々に砕かれてしまったんだから。
「お……母さんは……私の……せいで、おかしく……なっちゃったんだ……」
「しぃちゃん?」
「なにを……言うんだ……、雌舞希」
「だって、そうだよ。……そうでしょ? 私が、お母さんを病院送りにした、元凶だったんだ」
「それは違う!」
「違いません! 私なんかが産まれてきちゃったから、お母さんの人生は狂っちゃったんです! 自分が一番悪かったのに! それを棚に上げて、お父さんが悪いんだって、勝手に決めつけて、思い込んで! 本当は私なんかに……お父さんが恨まれる筋合いなんて、全然なかったのに! それなのに……う……うっく、う……うう……うぁぁ……あぁぁ……!」
「し……ぶき……」
「――ねぇ。宗八、今日はこのぐらいで、帰ってあげてくれないかい。……おじぃも。やっぱり、ちょっと急すぎたんだよ……。病み上がりだし、この子だって、帰ってきて、突然こんな話し、聞かされちゃったら、気持ちの整理が追いつかないだろ……。とりあえず、あんたの話はちゃんと聞いてくれたんだから。ねえ。……きっと、それだけでも、この子にはひと苦労だったはずなんだよ?」
「……そぉう……だなぁ。……すまんかったなぁしぃちゃん。もうちょっと、しぃちゃんのことぉ考えてやるべきだった……。丁度良く早退けしてぇくるって言うんで、オレもちょっと、あせっちまったぁかもしれん」
「いや、母さん、僕が悪かった……。……くっ……本当に、つくづく自分がいやになるよ。あの頃から、少しも成長しないな……。もっと、話す順序ってものがあるだろうに……。さっきの言い方じゃ、雌舞希が自分に責任を押し付けられたと思ってしまうのも、無理はないよな……。馬鹿だな僕は……本当に……」
そうして、おばぁのひと声から、この場はとりあえずお開きとなった。
帰る前にお父さんは、落ち着いて気持ちの整理をつけてから、後日改めて私と話しをしたいと持ちかけてきた。
私は、もうお父さんが危険な存在ではないっていうのを理解してしまっていたので、これ以上に何を話すことがあるのかわからなかったが、とりあえず差し出された連絡先を受け取った。
そしてお父さんは別れ際、私に謝りながら、もう一度「大きくなったな」と出会い頭の台詞を繰り返した。
真実を知り、改めて聞いたその声は、やっぱり大きくて、ぶっきらぼうで、無神経なものだったけれど、不器用な優しさも、確かに込められていたのだと今なら気付くことが出来た。
その後、私は自室に引きこもり、夕飯も食べずに膝を抱えて、ひとりうじうじと泣きはらしていた。
「梶原進学塾講師、近江宗八……。お父さん、塾の講師なんてやってたんだ。……どうりで声、おっきいわけだね……」
連絡先として手渡された名刺を見ながら、ひとりごちる。
みじめだった。
私が母から授かった使命だと信じていたものは、なんてことない、母が「私」っていう汚点を他人に悟られないよう用心した上での保身のひとつでしかなかったのだ。
お母さんは……、最初っから、私に愛情を掛けて育ててなんか、いなかったのだ。
よりによって、お母さんの誕生日にその本心を知れるとは、なんて皮肉なんだろう。
……でも、それじゃあ、愛情ってなんなんだろう……。
お母さんは一体どんな気持ちで、こんな私を育ててくれていたんだろう。
"情があれば心配する"
……ねぇ、情ってなんなの?
たとえば、誰かが本当の私を知ったとしても、その人は私に情を掛けてくれるのかな?
お母さんはどうだったんだろう。
私のことが嫌いで嫌いで、それでも自分の恥を晒すわけにいかないから、仕方なく私を育ててくれていたのだろうか?
そんなの……いやだよ……。
お母さんがどんなに私を嫌いだったとしても、私は今だって、お母さんのことが大好きなんだ。
昔も今も、私がまだ自分の身体のことなんて何も知らなかった頃から、ずっと変わらず……。
ねぇ志田。
あんたは私に言ったよね?
"情があれば、人は勝手に心配する"
それじゃあ逆に……情がなかったら、初めっから嫌われちゃっていたら……、どうやっても駄目なの?
お母さんは私の気持ちには、どうやったって応えてくれないのかな?
またこれも、無理を両方望んでしまってる?
これって、やっぱルール違反になっちゃうのかな……。
……でも……それでも、このまま……お母さんに嫌われたままなんて……そんなの、いやだよ。
自分をごまかして会わないようにして、ずっとこのままだなんて、そんなの……もう無理だよ……。
ねぇ志田。
あんたも、本当の私を知ったら……、やっぱり、嫌うの?
お母さんみたいに、私を拒絶するのかな?
あんたにまで否定されたら……私、もう頼れるもの、なくなっちゃうよ……。
だって、私みたいな出来損ないには、お母さんのあの言葉だけが、生きる意味だったんだもん。
それなのに、たったひとり、その言葉を曲げてでも……あんただけは……拒めなかった……。
お母さんとの約束よりも……あんたが離れてしまうことの方が、ずっと……つらくて、……恐かったから。
……あぁ、……そっか。……なんだ。……そうなんだ。……そういうことだったんだ。
そして、気付いてしまった。
私の中の、志田に対するこの思いは……、お母さんに対するそれと、すごく似てるんだっていう事に。
私がまだ、自分のことも何にも知らなかった頃、ただ純粋にお母さんに対して抱いたあの想いに、限りなく似てるんだって……いう事に。
そう。私はただ、「ひとりの人として」、志田由高って奴のことが……好きなんだ。
それは、後付けの理由なんて、なんにも関係のない気持ち。
「男だから」とか、「注意するべき相手」だとか、そんな卑しい事情なんて関係ない、ただ純粋に相手を想う気持ち。
私みたいな人間でも抱くことが出来る、たったひとつの、誰かを想う気持ち。
確かに普通の人が異性に抱く感情とも似てるけど、肉体的な命令のない、心だけの動き。
そっか……。
それじゃあやっぱり……私、あんたのことが……好きだったんだね……。
……あ……あはは……。何……コレ……?
お母さんの本心に気付いて、それで……志田への想いの答えが……見つかっちゃったの?
なんなの……?
……ねぇ、なんなの……これ。
こんな……こんなの……、私には、誰かを愛することは、罪なんだって……、
相手は、どうやっても私を拒むんだって……、
そう言われてるみたいなもんじゃないか!
駄目だよ!
もう遅いよそんなの!
だって、もう好きになっちゃったんだよ!
だってもう、それに気付いちゃった!
相手にも私を好きになってほしいなんて言わない……。
……ただ、せめて、嫌いにならないでほしい……。
ねぇ……それでも、やっぱり、エゴなの……?
……ルール違反なの?
――私の問いかけに応えるものはなく、辺りにはただポツポツと窓を打つ雨の音が虚しく響くばかりで、それは翌朝まで変わることはなかった。




