29.
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保健室に戻ってきたのは、美智ひとりだけだった。
美智が言うには、なんでも志田は私の帰り支度を彼女とふたりで済ませた後、さっきの官能小説を示して、
「これ参考になるからじっくり読んでみたい。借りていいか?」
と、言ったという。
その本は、美智が図書室から持ってきたものだったらしく、突然そんなことを言い出した志田に美智は、
「借りたかったら自分で勝手に貸し出ししてもらえ! この無神経! そんなもん読んでる場合じゃないだろ馬鹿!」
ってな感じで罵倒して、そのまま置いてきてしまったらしい。
そして、どうやら志田はそのまま図書室へ行ってしまったらしい。
美智の後を追わず、ここにいないのがその証拠だろう。
「まったく! 前から鈍い野郎だとは思ってたけど、こんな時にエロ小説借りたいなんてバカなこと言い出すとは思わなかったよ! 正直、ちょっと見損なった。イイ奴だと思ったけど、所詮アイツも柏木とおんなじ穴のムジナか……。ね~、しぶちん?」
「え? ……う、うん」
「うわ! そ、そんな落ち込むなよ! ……えーっと。あ、そうだ! ここにアンタの意中の相手、あたしがいるでしょ! あたしはいつでも一番にアンタのこと考えてるって!」
どん、と胸をはる美智。
私が美智の答えに途惑ったのは、別に志田が図書室へ行ってしまったのが悲しくて落ち込んだってわけではない。
ましてや美智が言うような、志田が柏木と同じ穴のムジナだなんてことは思わなかった。
ただ、志田が官能小説に興味を持ったっていうのが意外で、同時にそんなふうに考えている自分がもっと意外で、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
志田が柏木と同じような、サカリのついた犬のごとく、腰を振ることを優先する奴じゃないってことは、私が一番激しく痛感していた。
志田と出会ってこっち、ひと月ほどのあいだ、私たちはほとんど毎日のように顔を合わせていたし、放課後はふたりきり、密室と変わらない場所で、短くない時間を何度も過ごした。
そして志田はその間、一回だって私や美智にそういう感情を、垣間見せることは無かった。
そもそも何故かは知らないが、私はあいつに対してそういう警戒心を持つことさえ初めっからなかったのだ。
だからこそ、今になって、そういうものに興味を示す志田が意外だったのだろう。
でも同時に、今まで自分の中で意識せずさらっと流してしまっていた、あいつへの根拠の無い万感の信用がまた意外でもあった。
考えてみれば、志田が私に無闇やたらと欲望をぶつけないのは、人として当たり前のことだ。
それを理由に、あいつが性欲を持っていないということにはならない。
そんな極端な受け止め方を勝手にしていた、自分の危機感の薄さに驚いていた。
何を根拠にこんな馬鹿な思いこみを?
私は志田が不能者か、同性愛者だとでも思っていたんだろうか?
そんなはずない。
志田だって、年頃の男性には違いないっていうのに……。
志田が今日に限って見せた私にとって不可解な行動に私は思ったよりも動揺させられたらしく、さっきせっかく晴れかけた焦燥感は、再び黒々とした暗雲に包まれてしまうのだった――。
そんな不安が顔に出ていたのか、それが美智には私が落ち込んでいるように見えたのだろう。
「あはは。美智、気持ちは嬉しいけど、私はノーマルだから。美智が男の人になってくれたら考えてあげてもいいけど」
無理矢理に軽いノリを作ろうとしてみる。
「うわ! キッツイなー! アンタ自分からコクッといて、あたしにまず変わることを要求するってワケ? 生意気な!」
それを察してかはわからないが、美智はそのままの軽いノリで返してくれた。
「あれは美智が勝手に聞いてただけでしょー? 私は別に告白のつもりで言ったんじゃないよー」
「お! コイツ! こっそり相談なんかして、あたしへの想いを詠みつづってたクセに開き直りやがったな! ……ふふっ。まぁいいや。ほれ、カバン。あたしの親切を断ったからにゃあ、せめて、さっさと帰って休んでもらわなきゃ、許されないんだからな!」
「あ、ありがとう。うん。それじゃ、さっさと帰って許してもらう。――先生、今日はありがとうございました。失礼します」
「――ちょっと近江」
私が挨拶して保健室を出ようとすると、先生に呼び止められた。
「はい? なんですか」
振り返ると、持田先生はこころなし険しい顔で私の顔を見ていた。
そして「……はぁ」と脱力気味に溜息をついて、
「余計なお世話かもしれないけど、せっかく聞いちゃったんだから焼かせてもらうわ。初々しいのも、そこまでいくと痛々しいわよ? そのぐらいのコトで落ち込まれたんじゃ、志田クンが可哀相なんじゃないの?」
なんて言ってきた。
「先生、私、別に落ち込んだりしてな――」
「あの先生。しぶちんの事情知りもしないで、そういうこと言わないでやってください」
私が平静を装ってどうにかごまかそうとしているってのに、美智は途中で割り込んできて余計な"こっちの事情"を漏らしてしまった。
「あら? それじゃ辻。その事情とやらを聞かせてもらってもいいかしら?」
「んぇ? ……あ、あぁっ! い、いえ、何でもないんです! え、えと。とにかく、これはしぶちんがウブとか内気とか、そういう問題じゃないんですよ!」
当然、興味を持った保健医と、私のどんよりした視線で、自分の失言にやっと気付き、なんとか取りつくろおうとする美智。
ヤブヘビだろ、それじゃあ……。
……まぁいいか。
この話は教師なら知ってるものだろうし。
「美智、もういいよ」
私はそう言って美智の目の前にてのひらをかざして制する。
「――あの、先生。5月の連休明けに2年B組の教室が荒らされていて、全校集会が開かれたの、覚えてますか?」
「ああ、うん。確か女子生徒が中年に襲われたとかなんとか、そんなハナシだったわよね?」
「その被害者の女子生徒っていうの、実は私なんです」
淡々と答えた私の顔を見つめながら、持田先生は表情を驚愕に染めた。
「えっ! そうなの? 柏木は?」
これは美智だった。
美智は真相は知らないものの、柏木が犯人だろうと目星をつけていた。
あの事件は教師には捏造された志田少年武勇伝が伝えられてはいるが、そのことは生徒たちには何も知らされていない。
だから今の中年犯人説は初耳だったようだ。
「だから、それは美智の誤解だって、何回も言ったでしょ? 柏木くんは関係ないんだってば。先生が言っちゃったから、もう話すけど、あれは部外者にやられたんだよ」
この言い方じゃあ、柏木をかばっているようで癪だけど、今は仕方ない。
「ちょっと近江! ソレ本当なの? ……そういえば、アンタ……今年はB組だって言ってたわね」
「……はい。正確には、なんとか未遂で済んだんですけど……。まぁ、そんなことがあったばかりなんで、男の人のそういう性的な一面を見ると、ちょっと引いてしまうって言うか……、恐いんです」
「そ、そうだったの……。悪かったわね、近江。それは、確かに。辻の言うとおり、事情を知りもしないで偉そうなこと言えたものじゃ、なかったわ。謝る。ごめんなさい」
……なんだか、私はどんどん役者に磨きがかかるなぁ、と思う。
――本当はあんな事件、全然関係ない。
あれ以来、危機感が私の中で増したのは事実だけど、私が男に注意しなくちゃならないのは、あれに始まったことじゃないんだから。
でも、下手なことを口にして、さらに余計な追及を受けるのはゴメンだった。
ただでさえ今の私は失敗が続いてるせいで冷静さを欠いている。
これ以上、私の深層にまで迫られるようなことがあったら、……そうなったら、私は言い逃れられる自信がない。
美智があの事件のことを先生にふってくれたのは、ある意味キレイな逃げる言いわけになったので結果オーライ、というコトにしておこう。
「いえ、いいんです。美智の言い方もちょっと大げさでしたし」
「大げさなんて、そんなコトないでしょ雌舞希! 柏木は関係ないにしても、大事件には違いないじゃん! 部外者なんて……ホント、アンタよく無事だったね……。ほんと……よく頑張ったね」
「そうよ近江。あたしもさっきはああ言ったけど、そういう事情があるんなら、辻が引率して帰るのも見逃してあげてもいいって思ってるぐらいよ」
先生の言葉に、美智は敏感に反応する。
……前言撤回。
やっぱり、全然結果オーライじゃなかった。
まずい。なんとかしなきゃ……。
「こ、困ります! 私のために美智がサボるなんて、そんなの納得出来ません」
なんのために美智をハメるようなマネをしたと思ってるんだ。
「わかってるわよ。そんなこと本当にさせるわけないでしょ? 間違って辻にサボりなんて覚えられたら、ただでさえギリギリな単位、間違いなく落としちゃいそうだしね。でもその代わり、今日はあたしが連れて帰ってあげるから安心なさい。それなら……ほら、あたしの置き傘があるから、これにふたりで入れば、雨が降ってもそんなに濡れないわよ」
先生はそう言って保健室の壁に立てかけてあった傘を手にとり、私に自慢げに見せつけた。
本当は、出来れば私なんかのためにこれ以上気苦労をかけたくなかったんだけど……、わざわざヒトが差し出してくれた親切を蹴ってまで自分のエゴを通す方がよっぽどワガママなことだっていうのは、さっき学んだばかりだ。
美智が授業をサボったりなんてことまでして私を構うことを思えば、これは最大の妥協点……といえるのかもしれない。
けっきょく私も美智もそれで納得し、はれて持田先生引率のもと、自宅まで送ってもらうことになったのであった。
「はぁ……はぁ。……あ、アレ? あの、青い屋根の」
学校を出て、歩くこと約30分。
持田先生は息切れしながら、50mほど先に見えてきた私の家を指さした。
「あ、はいそうです。……大丈夫ですか先生? 肩、貸しましょうか?」
「……ひぃ、ふぅ、……え? ……な、何言ってんのよ! あたしが送ってあげてる側なのよ。アンタが肩貸してどうすんの!」
……どうやら2×歳には、この片道30分の上り坂は、なかなかきついものであったらしい。
「そ……それにしても……アンタ。朝からココまでの道を全力疾走? 馬鹿じゃないの!? これじゃ、倒れるのも無理ないわ。辻ならどうだか知らないけど」
「はい。どーせ馬鹿ですよ。自分でもそう思ってます」
「コレで雨まで降ったら、確かに結構ツライものがあるわね。辻がアンタにあれだけついて来たがったのも理解出来ない話しじゃないわ。というか、アンタ毎日ココを歩いて学校に通ってるんでしょ? はぁ~……。それだけでもう、あたしには考えられないわね。悪いことは言わないから、明日からは自転車通学に切り替えることをお勧めするわ」
「イヤです。あんなの、人が乗れる代物じゃありません。無理ですね」
「乗れない方が少数派でしょ。何? アンタ、自転車も乗れないの? ホンっトに鈍くさいのねぇ」
ぐっ! ……痛い。
見えないところを斬られた気分だ。
「そーゆう放っておけないところが、辻の母性本能をくすぐるんじゃないの?」
「な、何を言いますやら! 見ていて危なっかしくて放っておけないのは私の方です。私なんかに構うより、まず自分の身のまわりの世話をしっかりしてもらいたいもんです」
「あら、なにそれ? 互いに想い想われ? それじゃやっぱりアンタら相思相愛ってワケだ」
そんな馬鹿な話をしているうちに、家の前まで着いてしまった。
「ふ~、到着。あー。空、何とかもってくれたわね。問題は帰りか~……。この感じだと降り出すんだろうな~。――あ、アンタん家、バイクあるじゃない! ねぇこれ、帰りに貸してもらったら、ダメ?」
「このバイク、うちのじゃないですよ。うちの人、バイク乗りませんもん。あれ? 誰か来てるのかな」
家の引き戸の手前、おじぃの自転車が駐めてあるすぐ隣に見慣れないバイクが駐車されている。
「冗談で言ったのに、普通に返すんじゃないわよ。――なに? お客さんが来てるの?」
「はい、そうみたいですね」
「あらそ。そんじゃ、手早くアンタひき渡して、さっさとおいとまさせてもらうわ。……少しでも、降り出す前に戻りたいしね」
私はバイクを避け、引き戸を開けて玄関に入り、そこへ先生を招き入れる。
「すみませーん! 先ほどお電話させていただきました、白古馬都高校の持田ですがー! どなたかご在宅でしょうかー!」
私が中に入っておばぁを呼んでこようと靴を脱ぎかけた矢先、遅れて入ってきた先生は家の奥に向かって大声で呼び掛けていた。
それに「は~い」と、おばぁが居間から声を返してくる。
「そういやアンタってお婆ちゃんと住んでるのね。さっき学校から電話したときも出たの、今の人だったわ」
「もー、びっくりしますよ。そんなふうに声張らなくっても、私が中に入って呼んできましたのに。……そうですよ。ちょっと事情があって、私と祖父母の三人暮らしなんです」
「……ふーん、そうなの。……なんか、アンタもいろいろ苦労してんのねぇ」
私のもの言いに何か感じるところがあったのか、先生は労ってくれた。
私はどっちかと言うと、おじぃやおばぁに苦労を掛けている立場だと思うが……。
「あらあら先生。わざわざありがとうございました。しぃちゃん、大丈夫? 熱が出たって聞いたよ」
ほどなくして、おばぁが玄関まで出てきた。
「うん。もうほとんどなんともないよ。えへへ。さっきまで保健室で休ませてもらってたからね」
「まぁ、そうだったの……。先生、どうもありがとうございます」
「いえいえ。私はベッドを貸してあげただけですので。――近江、病み上がりなんだから、無理はしないようになさいよ」
「もう。それはわかりましたってば」
「本当かしらね~? お婆さん、この子見張っておいてください。油断すると、すぐ無茶しようとしますから」
「ふふふ。はい、わかりました先生」
ひどい言われようだな……。
私は小学生か……。
「――それでは、私はこれで失礼させていただきます」
そう言い残して先生は玄関から出て行く。
気付けば、外はしとしとと雨が降りだしていた。
「……うわ。とうとう降ってきたか~」
先生は外に出て、玄関の開き戸を閉めながらぼやいていた。
「――あ、そうだ。おばぁ、誰か来てるの? 外にバイク駐めてあったけど」
持田先生を見送り、私は玄関前に駐車されていたバイクのことを思い出して、靴を脱ぎながらおばぁに振り返る。
「……うん。……ちょっとねぇ。あのね、しぃちゃん、大事な話があるんだよ」
おばぁは顔を曇らせ、俯きがちにそう答えた。
その様子を見て、私ははじめおじさんが来ているのかと思ったが、少し考えてすぐにそれは違うだろうと思い直した。
おじさんがここへ来るときには、いつも幅の広い、左ハンドルの高そうな車に乗っていた。
私も何度か乗せられたことがあったが、内装も見た目に劣らない高級感だった。
そんな人がいきなり、あんな安っぽいバイクには乗ってこないだろう。
……もっとも、私は自動車やバイクを見たって、どれが何の車種だとか区別がつくほど詳しくないから、あんまりアテにはならないのかもしれないけど。
居間の前まで来ると、中からおじぃと、その客人の声が聞こえてきた。
その瞬間――脳より先にまず耳が、ソイツが誰なのか、理解した。
――いつも叫んでいた誰かの声。母をいつも罵っていた……「アイツ」――。
――嘘……でしょ……?
おばぁが居間と廊下を隔てていた襖を引く。
その向こうに……いた。
おじぃと向かい合って、テーブルの向こう側に……、嘘でも夢でも幻でもなく……「アイツ」が……座っていた……。
……その姿は私が知るより、いくらか老いている様子だったけれど……。
当時と変わらない、聞くだけで叫んで逃げ出したくなる……、私がこの世でもっとも嫌悪する、あの音を……目の前のソイツは、その口から吐き出していたのだった。
それを私の耳は、律儀に拾い続ける。
「……雌舞希……か?」
その音が……私の名を発する。
私は背中に冷たい張り付くような汗をかきながら、今朝のマラソン直後なんかより、よっぽどたちの悪い息苦しさに包まれた肺と、ソイツが目に飛び込んできた途端に一瞬にして乾いてしまったノドを、何とか動かして、目の前の男に向けて、どうにかして言葉を紡ぎ出す。
「……おと……う……さん……?」
耳は目の前の男をとっくの昔に認めていて、それに続けて、目が、脳が、全身が、それが誰だか理解してしまっていたのに……、この期に及んで口だけはそれを認めたくないらしく……、申しわけのように、言葉尻に疑問符を付け足した……。
「……ああ。……久しぶりだ……。……大きくなったな……」
しかし私の父、近江宗八は、私のそんな拒否など気にも留めず、いともあっさりと、自らを認めてしまうのだった――。




