28.
6月4日(金)
28.
「ぐあっ! なんじゃこりゃあ」
翌日の朝、目覚めた私は顔を洗うために洗面台まで来て、思わずそんな独り言を漏らしてしまった。
鏡に映る私の姿……というか髪は、某少年漫画の金髪超人化現象よろしく、見事なまでに地球の引力に逆らい、直立状態になっていらした。
梅雨になり湿度が上がるこの時期には、私の髪は度々これに近い状態を朝になると形成されておられる。
さらに、眠っている時の私は、このような髪型の制作に協力的だ。
積極的に自分からゴロゴロ転がっているだろうし、そりゃあ髪だって存分に振り乱しているに違いない。
いやそれにしたって、ここまで酷いのは珍しかった。
……なんだこれ。
前髪まで全部はねて、おでこも全開じゃないか。
迂闊だった。
今朝がここまでジトっとした陽気になるってわかってたら、昨日の晩は髪をしっかり乾かしてから寝ただろうに。
これ、水で濡らすぐらいでどうにかなる状態じゃ、ないよねえ……。
――私は鏡に映る放心した表情の逆髪女と一分程睨み合った後、シャワーに入ることを決めた。
「わ! ご、ごめん、おばぁ。朝、作らせちゃったみたいだね」
「何言ってんの、しぃちゃん。いいよ朝風呂ぐらいで謝らなくても。年頃の子はそういうの、みんなやってるんだろう? 渋川さんとこの千代ちゃんも、毎日朝はお風呂入ってから学校行くって言ってたよ」
「いや、でも私はいつも入らないしさ」
「おんなじだよ。しぃちゃんだって年頃の女の子には違いないんだから。今日ぐらい、いいでしょ?」
「う~ん。だって朝ご飯は私が作るってことになってるじゃん」
「そんなの別に決まってるわけじゃないんだから」
「でもいつもはそうだし……」
「それともなぁに? 朝からおばぁが作るご飯は食べられないの?」
「う。……そういう言い方、卑怯だな」
「ふふふ。さ、じゃあ早く食べて。学校遅れるよ?」
「……うん。ありがとね、おばぁ。いただきます」
私が荒ぶる寝癖様を鎮めるため、シャンプーで頭をわしわしとやっていた20分程のあいだに、おばぁは起きてきて朝ご飯の支度をしてくれていたみたいだった。
何故だかよくわからないが、おばぁは私が朝シャンしたことに対して、妙に嬉しそうにしていた。
なんだろう。
おばぁも私に"年頃の女の子"らしい振る舞いをしてもらいたいなんて思っているのだろうか。
……それとも、今日が6月4日だから、だろうか。
……ってゆうか千代さんって、大学生じゃなかったか?
――と、そんなこと考えてる余裕はなかったのだ。
今日はいつもより20分も朝の時間をロスしてしまっている。
いつもの調子でのんびりとしてたら、遅刻してしまうじゃないか。
それに気付くと私は、せっかくおばぁが作ってくれたありがたい朝食を味わうことも出来ず、急いで掻き込んで、出かける身支度を調え始める。
「あ~、しぃちゃん。今日お昼から、雨降るんだって」
おばぁがテレビの天気予報を見ながら忙しなく支度をしていた私に教えてくれる。
「あ! そか。じゃあ折りたたみのヤツ持ってく」
そう言って、部屋の壁掛けにぶら下げてあるそれを鞄に詰めた。
鞄良し。
制服良し。
その他、問題なし。
「よし! じゃ、いってきます!」
「あぁ、いってらっしゃい」
そうして駆け足で家を後にした。
時刻は7時56分。後から考えれば、この時刻なら走って家を出る必要はなかった。
でも、私はこの時そうとう慌てていた。
そんなコトには全く気づけず、学校までの下り坂を全力で駆け抜けてしまっていたのだった。
下り坂の方が、足に掛かる負担は大きいらしい。
学校についたとき、私の両足はそれを身をもって教えてくれていた。
ひ……ひざが、わらってるよ、ちきしょう。
自分の席でぐったりしながら、時計を見る。
8時15分。ははは、いつもより5分も早いじゃねーか。このやろぉ……。
朝からの湿度の高さが相まって、うっとおしいこと暑いこと。
私の体からは蒸気が立ち上り、後ろの席からそよいでくる風に揺られていた。
「大丈夫? 近江さん。湯気でてるよ湯気。どうしたの? 寝坊……にしては全然間に合う時間に来たけど」
ごめんなさい、浅瀬さん。
私に今喋る余力は残されていません。
それと、下敷きであおいでくれてありがとうございます。
それ、めちゃくちゃ気持ちいいです。
私は水筒を取り出すため、鞄を開ける。
とにかく水分を採らなければ、喋ることすらままならない。
そして鞄を開けて気付く。
そういえば水筒を入れた覚えがない……。
――あ! ……そうだ。
氷とお茶を入れて、台所の流しのところに置きっぱなしだった……。
…………。
やばい、泣きそうだ。
そして鞄の中に、水筒がない代わりに、妙なものが入っていることに気が付く。
――あれ……?
……なんだこれ。
……あ、あぁ~。
懐かしいな、コレ。
鞄にケースごと強引に押し込まれていた「それ」は、中学の頃に使っていた縦笛だった……。
でも、なにゆえこんなものが……
――あ。
そして思い出した。
この縦笛がぶら下げてあった壁掛け。
そのすぐ隣りに、折りたたみ傘がぶら下がっていたことを――。
「近江さん、それなに? ……リコーダー? そんなの、今日いるんだっけ?」
後ろから声を掛けてくれた浅瀬さんに嗄れた声で半分泣きながら事情を説明し、とりあえず私はお茶を恵んでもらった。
「おう、よちよち。かわいそうだったね、しぶちん。ほら、ママのミルクを飲んで、元気をお出し」
そう言って、購買横の自販機で買ってきた、飲みかけの牛乳パックから伸びたストローを、私の口の前につき出してくる美智。
私より遅れること10分。
登校してきた美智は、現れて早々に私の異変に気付き、駆け寄ってきてくれた――かと思ったら、事情を浅瀬さんから聞くなり、爆笑して、こんな感じの扱いに切り替わってしまったのだった。
「ぷっ! そ、その言い方のほうが可哀相だよ辻ちゃん」
そのさまを見て笑いをこらえている、浅瀬さん。
それでも、虫の息に近い私は、美智がつき出したストローを素直に加え、そのまま吸い込み、胃に冷えた牛乳を送り込む。
「ううう……。自分で自分が情けないよ……。縦笛と傘、普通間違える? ……馬鹿じゃん私。いくら慌ててたからって、なんで気付かなかったんだろ……。おまけに朝から無駄に走ってこの醜態。……これで放課後、土砂降りとかになってたら……もう、目も当てらんないよ……」
自分の間抜けを呪う。
そして、話すうちに胃から込み上がるものを感じて、背中を丸める。
「……うぶ、……気持ぢ悪い……」
「うお! う、生まれるか!?」
「近江さん、保健室行く? それとも、トイレが先?」
「……無理。今……うごいたら、途端に吐きそぉ……」
「げっ!」
「ちょっ! 駄目だって! もうちょっと我慢して? 肩貸すから! 辻ちゃんも!」
「わかってる!」
私は両の肩をふたりに支えられ、なんとかトイレまで、込み上がって来るものを抑えきった。
「どう。おさまった?」
朝食べたものを全部出してしまい、トイレの個室からグッタリしながら出てきた私の顔を心配そうにのぞき込んでくる浅瀬さん。
「牛乳がまずかったのかな……。ごめん雌舞希。ああいう時って急に水分採ったりしない方がいいんだっけ? よくわかんないけど、あたしが引き金ひいたっぽいよね。からかっていいところじゃなかった……。ねぇ、もう大丈夫?」
半泣きになりながら、私の背中をさすってくれる美智。
「これから保健室行こ? 私たちもついてくから」
浅瀬さんはそう言いながら、私の口の回りに付いた唾液や胃液の混じった吐瀉物をハンカチで拭ってくれた。
「ご……ごめん……。美智、浅瀬さん……そのハンカチ、洗って返すから……」
「いいってこんなの。それよりどう? 歩ける? 肩貸すよ?」
「う……うう……う……。ごめんなさい」
「謝らなくていいって! あたしらもちょっとふざけすぎだった。それに、困った時はお互い様。……よくここまで耐えたね。偉かったよ、雌舞希」
……違うよ美智。私は全然偉くなんかないよ……。
何やってんだろう……。
朝からずっと……こんな、馬鹿みたいなミスばっかりして。
みんなにまで、いっぱい迷惑掛けて。
何が『常に危機感を』……だ。
私、一番大事な日に……お母さんとの約束、全然守れてないじゃないか。
思い返してみれば、今週は始めっからずっとそうだった。
その失敗のきっかけは何だった?
朝風呂? 弁当?
私、なにを浮かれてたんだろう……。
……くだらない。ほんと馬鹿じゃないの?
なんで?
確かに私は要領が悪いし鈍くさいけど、今までこんな馬鹿げた失敗はしなかったよ。
こんな、自分で自分の首を絞めるようなしょうもないミスは、今まではしなかった!
今週は運が悪かった?
ああ、そういうところもあったのかもしれない。
席替えの結果なんて、私にはどうしようもないもんね。
で? だから?
……そんなの、全然関係ない。
全然言いわけなんかにならない。
決定的に悪かったのは、全部、私自身の油断じゃないか。
弁当なんか作らなければ、買えばいいって、そんな簡単な答えに火曜日の時点で気付いていれば、テストで失敗したりしなかったんだ!
昨日の晩、しっかり髪を乾かしていれば、それがなくても朝からシャワーなんか浴びなかったら、さらに言うなら、それでも、朝からパニックに陥らなければ……、今のこんな醜態はなかったんだ!
美智や浅瀬さんが、朝から私なんかのために、わざわざ朝のHRに遅刻することも!
美智が泣くことも!
浅瀬さんが自分のハンカチを汚すことも!
おばぁがせっかく朝から作ってくれた、
……違う!
作らせてしまった朝ご飯を、全て便器なんかに吐き出してしまうことも!
全部なかった!
……あぁそれから、今朝のこの醜態は柏木たちにも見られていたかもしれない。
せっかくひと月前に蒔いた不安の種をみすみす枯らせてしまうような、この無様な姿を!
……これじゃあきっと、私がチッポケな何の後ろ盾も力もない、気に病むに足らない、ただの平凡な存在だと勘づかれてしまったことだろう。
なんて間抜け!
どこまで救いようがないんだろう!
それも今日みたいな大事な日に限って!
ごめん美智。
ごめん浅瀬さん。
ごめんおばぁ。
ごめんなさい――お母さん。
「……ごめん、美智……ごめん、浅瀬さん」
「だから、近江さん。謝らなくてもいいよ。さ、保健室行こ?」
「う……うう、うっく……うう」
……私はさっきと同じように、ふたりに両肩を支えられて、保健室に連れていってもらった。
「相変わらず、近江は貧弱だね~」
美智たちから事情を聞いた保健の持田先生は溜息まじりに言った。
「すみません先生。そんなワケなんで、雌舞希にベッド貸してやってください」
「はいはい。こんな青いつらで来られて追い返すなんてしないわよ。ハイ、わかったから。アンタらふたりは教室に戻んなさい。もうとっくに始業ベルは鳴ってるのよ。早く戻らないと一限目に間に合わなくなるわよ?」
「はい、すみません。それじゃ、よろしくお願いします。近江さん、無理しないでゆっくり休んでね」
「また、あとで様子見に来るから。じゃ、先生。失礼します」
ふたりはそれで保健室を後にした。
「――それにしても……。先週が生理で、今週はひと足早い夏バテ? 朝からランニングも結構だけど、自分の限界ってのをもうちょ~っと考えなさい」
「すみません……」
「あらら……。今日はまた一段と元気ないのね~。そんなに落ち込むことないわよ。アンタが貧弱なのは今に始まったことじゃないんだし。それに、今年度はまだ三回目よ? 生理以外で来たのは、二年生になってからは初じゃないの?」
……こんなことを言われているが、私は別に病弱というわけじゃない。
ただ、一年生の頃から月一回の生理の際には、お約束のようにここのベッドを借りていたので、常連ではあった。
そのおかげで、この保健室の持田先生とは親しくなり、お昼にここへ昼食を持ってやって来ることが、一年生の頃には何度かあったのだ。
それをこの人は、こんなふうに他人が聞いたら誤解を招きそうな言い方をしたのだった。
「はいコレ、体温計。一応計っときなさい。ベッドはいつもの特等席へどーぞ」
体温計を受け取り、保健室奥の、白いカーテンで周りを囲まれ、外から目隠しされている二台のベッドから、いつも使わせてもらっている窓側の方を借りる。
そして体温計をわきに挟み、横になった。
頭はまだ自分の不甲斐なさを責め足りない様子だったが、あいにく体はよっぽどくたびれていたのか、私はそのまま、すぐにまどろんでいってしまった。
「お。起きたか?」
目覚めてみると、ベッド横に置いてあるパイプ椅子に、思ってもない奴が座っていて、なにやら本を読んでいた。
「――え……。ぅえっ! 志田!?」
私はそいつの名を声に出しながら、ガバッと上半身を起こした。
志田は読んでいた本を閉じると、
「やー、休み時間のあいだには起きんかと思った。あ、寝癖」
なんていつもの調子で言った。
「さっきまで、なんかすげー暴れてたからさー。一体どんな悪夢見てんだって思ったけど、保健医が言うには、キミ、いっつもあんな感じらしいな。そうとう寝相悪いぞ」
「え? あ、うん。……じゃなくって、あれ、えっと……あれ? ……なんで、志田がここにいるの?」
「ん? なんで? ……あ、あー! すまん。ツジとふたりで見舞いだよ。昼飯食いにB組行ったら、ツジが雌舞希ぶっ倒れたって言うからさ。ここにふたりで来て飯食ってたワケ。……あ、そうそう。ここの保健医って女の人なんだな。オレ医者は男ってイメージだったから、最初に見たとき、ちょっとびっくりした」
普通保健室の先生は女の人って気がするけど……。
いや、そんなことより――。
「え! ってことは、もう今昼休みなの?」
「んあ? そうだよ。――なんだ雌舞希、今までずーっと眠りっぱなしだったのか?」
「う……うん。なんか、そうみたい。――あれ、それで美智は? 一緒だったんじゃないの?」
「ん? あれ。そういやいないな。トイレでも行ったかな? オレ、本読んでたから気付かんかった」
「先生は?」
「それもいないみたいだな。あれー? ついさっきまでココで一緒にいたんだけどなー」
相変わらずボケッとした調子の志田。
「ま、昼休み終わるまでには戻ってくるだろ。それより調子どうだ? 大丈夫か? 聞いた話じゃ、朝から汗だくの真っ青な顔で学校来て、教室でぶっ倒れそうになったとかって。なんだ? また親戚が来るのか?」
「あはは。今日は違う。ホントにただの体調不良。まだちょっとボーッとするけど、もう平気。……ごめん。後先考えないで無理して、美智や浅瀬さんに、みんなに……心配かけちゃったね」
「ん。まー、そういう日もあるわな。なに? ハルミとかツジがそんなふうに思ってるって?」
「そんなこと考えてないよ! でも、私なんかのために、迷惑かけたのは事実だし」
「んー? それってつまり、考えてたってコトじゃん。いーんだよ、んなコト気にせんでも。アイツらが勝手に自分の気を晴らすために世話焼いた、ぐらいに思っとけば」
「はぁ? 何言ってんの! そんなんじゃないよ! ヒトの厚意、そんなふうにねじ曲げて受け取るなんて失礼だよ!」
「そうは言ってもなー。情があったらソイツは勝手に心配すんだぞ。キミが気に病んだってしょうがないだろ。じゃあもし逆の立場だったら、雌舞希はアイツらのこと放っとくのか?」
「う……。それは……放っておけないけど」
「ほれ見ろ。たまたま今回は世話焼かれんのが雌舞希だったってだけだろ。気に病むぐらいなら、ありがたがってやれ。そのほうがアイツらも報われるってもんだ」
……私だって、そんなことはわかってる。
自分が他の心配をするのはいい。
でも、自分が他に心配されるのはイヤだ
……こんなの……自分勝手な、ただのエゴだ。
でも、それでも、私はこんなふうに心配される資格はないんだ。
第一、今日の私の体調不良は自分のミスが招いた結果だ。
こんなの、私が勝手に自爆してるだけじゃないか。
……そんな私に、ありがたがる権利も資格も、あるはずがない。
「私には――そんなふうに割り切ること、出来ないよ」
「ふー。変なトコで強情ってゆうか、キマジメなんだなー。ま、雌舞希ならそう言うかと思ったけど。でも、キミのそういう考え方って、意味ないと思うぞ。オレは」
「……どういうこと?」
「んー。特にツジなんかは自分の都合で世話焼くタイプだからなー。相手の都合まで考えられるほど、器用な人間じゃないだろ。キミは誰に対してでもそうだけど、ツジにゃ特別、心労を掛けたくないって思っているらしい。そのクセ、何でかは知らんがあいつの意向には従おうとする。それだから話がややっこしくなるのさ。今日みたいな場合は特にな。あいつの意向っつーのは、今で言えば、キミの看病のことだろ? でも、キミはそれがアイツの心労にもつながるって言うんだ。キミのツジへのふたつの価値観がぶつかり合って、どうしようもなくなってるってワケだ。じゃあ、こういう時はどうすればいい? ……簡単な話だ。どっちか、ホントに大事な方だけ取って、もう片っぽは諦めろ。それで解決。相手に心配されず、キミは相手の意向を叶え続ける。そんなの無理だって。雌舞希は機械や道具なんかじゃないんだからな。ましてや、ツジ本人はキミのそんなややっこしい事情なんか知りもしないし、考えてもない。だから雌舞希も、そんなことで悩んだって、意味がないんだよ」
……私は志田が話すのを呆然と聞いていた。
私が朝からこれだけ悩んでいた問題に、それこそバカバカしいと言うかのように、明確な回答を突きつけてこられたからだ。
……やっぱり今日の私は間抜けだ……。
てんで見当違いなコト考えてた。
最初から、そういう捉え方をするべきだった。
誰かに心配掛けたくないって思うんなら、少しでもその誰かの気持ちを楽にしてあげられるように努力するコトが、私が一番初めに考えるべき問題だったんだ。
それなのに私は、心配される権利がないだとか、自分のミスが招いた結果だからとか、都合勝手なおこがましいコトばっかり考えてしまっていた。
馬鹿だ。そうじゃないか。美智が私の都合なんか、考えるわけがないじゃないか。
私が心配するなって言っても、あの子がそれを聞いてくれるはず、ないじゃないか。
そんなの、私が一番わかってるはずなのに……。
「そっか。……あはは。……ホントだ。それでよかったんだ……。はは……私、馬鹿だね。そんな簡単な答えに、志田に言われるまで……気付けないなんて」
「お。納得出来たか? よし。……そんじゃあ、雌舞希はどうすんだ?」
こいつは……。
そんなのあんたならわかりきってるくせに。
こんな簡単な選択でいいのなら、当然、答えは決まってる――
「私は、美智が……誰かが……私のために泣いてしまう姿を見るのが、一番イヤ、かな」
「うん。なら、それだけ見ればいい。他の余計なことは考えんな。ん、それいい判断だ。ツジにゃ丁度いい薬になる」
志田はやっぱりそれで私の言いたいことを汲み取れたらしく、満足そうに微笑んでくれた。
「そんじゃ、この話はこれで終わりだな。ん、顔色も悪くないみたいだし、それ見りゃ、とりあえずアイツらは満足だろ。――あ、そうだ。ちょっといいか雌舞希」
「え、なに?」
「この本のさっき読んでたとこで、訊きたいコトがあるんだけど、いいか?」
そう言って志田は、私が起きるまで読んでいたらしい文庫本を示す。
「う~ん……。まぁ、私に答えられることなら。で、なに?」
私がそう答えると志田は、
「ココのページなんだけどな、ちょっと見てみて」
と、手に持っていた文庫本のページを広げ、私に手渡してきた。
私はその開かれたページを最初から黙読する。
―――。
私が一分ほど読んだ頃、志田はマジメな顔でおもむろに質問をぶつけてくる。
「なぁ。その三行目の"オーガズム"って……、どんな具合なんだ?」
直後、『バシッ!』と志田の顔面に私の手元にあったはずの本が炸裂していた。
私が放り投げてやったのだ。
「知るか馬鹿ッ! たまに真剣になに読んでるのかと思ったら、官能小説じゃんかコレ! 高校生がこんなもん読むな! 不健全! ってゆうかセクハラ!」
顔を沸騰させまくし立てながら、まくしたてる。
おい! なんだその、『なんでオレ、怒られてんの?』みたいな不思議そうな顔は!
……私がそう思った次の瞬間――、
「――ぷっ! あっははははははははははッ!」
――同時に響く、笑い声の二重奏。
響いてくるのは私の後ろ。
ベッドを囲むカーテンの向こう側。
私と志田は突然聞こえてきた笑い声にびっくりして、その発生源に振り返る。
すると、「サーッ」と勢いよくカーテンが引かれた。
「ぷ! くっくっく! あっはっはっはっはっは! 志田! アンタそのチョイス最高!」
「いやー。近江、初々しくていいわね~。"不健全!"だって! あははははははは! 若いのか年寄り臭いのか、どっちなのよソレ! あっははははは!」
そして現れる悪魔二匹。
固まっている私と、目の前で笑い転げる美智と持田先生を相変わらず間抜けな顔で見上げている志田。
「あー。あんたら、どこ行ってたんだ? なんか話し違うじゃんか。今見せてみたら、雌舞希こんなの知らんっつってたぞ」
そしてポンポンと文庫本を指で叩きながら、なんか抗議している。
「くっくっく、そんなの嘘だよ志田。しぶちんはその本から湧く如何なる疑問にも一発で答えられる知識をお持ちさ。伊達にあたしと長年良い仲ってワケじゃないんだから!」
「ぷっ! ふふふふ。そうよね。近江って人体の構造とか、無駄な学に詳しかったりするもんねえ」
人体の構造を無駄とか言っちゃダメだろ保健医。
いや、そうじゃなくて――。
「美智。それに先生。え~っと……、一体いつからいたんですか?」
「いつから? なに言ってんのよ。あたしたちは始めっからどこにも行ってないわよ? アンタは起きないし、そっちのカレ……志田クンは読書に没頭してて忙しそうだったから、手のあいてる辻に、さっきまでこっちで仕事を手伝ってもらってただけよ。アンタが起きたみたいだったから様子を見に来てみれば……、どうやらアンタたち、勝手に二人っきりだと思いこんで、何だか初々しい会話に花咲かせてるみたいじゃないの。だからあたしたちは邪魔しちゃ悪いと思って、そ~っと静かに聞き耳立てたりしてたのよ」
「くっそー! もうちょっと待ってりゃ生本番が始まってたかもしんないのにー! しぶちんのあまりのウブさに、笑いがこらえきれなかった! 勿体ない! そこら辺しっかりカバーしろよ~志田~!」
「ん? なんか知らんが、すまん。期待にそえなかったらしい」
「志田、謝らなくていい。そんな悪魔の期待はむしろ裏切るのが正義だ。美智め……朝の気弱さはどこへ行った」
志田は私の嘆きを聞くと、
「ん? ツジってのは、こーいう奴だ」
なんて、本人を指さして言い切った。
「あ! そういや志田! あたしを会話のダシに使ってたね。どういう意味だアレ! あんな言い方じゃ、まるであたしがハタ迷惑な生き物みたいじゃないか!」
「ん? そのまんまだろ?」
と、ここでまたいつもの余計な一言により、美智のみぞおちグーを『ごすっ』と食らう志田。
「まったく! この男はけしからんな! それに比べてしぶちん、アンタは可愛いね~。望みはあたしに尽くして尽くすコト? 一番見たくないものはあたしの涙? ……え? ナニこれ。ひょっとして愛の告白? ゴメン! こんな馬鹿じゃなくて、はじめっからアンタの狙いはあたしだったんだね? アンタの気持ち、気付かなかった!」
うん。確かにそれは私も気付かなかった。
ふふ。そうだね……。
そうだったよ志田。
美智ってのは、こーいう奴だった。
「そうだったのか? すまん雌舞希。どうやらオレは余計な助言をしてしまったらしい」
あー……。
そしてあんたはこーいう奴だった……。
私は志田の頭にズベシーとチョップをきめた。
「あ、そうだ先生。さっきのプリント、早くしぶちんに渡してやってくださいよ」
「あぁ、そうね。近江、気分はどう? さっき、ボーッとするとか言ってたけど、大丈夫なの?」
……ホントに最初っから私たちの会話は筒抜けだったらしい。
別にやましいことは何もないけど、なんかちょっと恥ずかしいな。
「あ、はい。それも志田くんと話してたら、だいぶマシになりました」
「――そう。アンタ寝ちゃってたから教えとくわ。37度9分、コレ朝の体温ね。平熱、とはちょっと言えないわね。早退出来るように手配しておいたけど、どうする?」
「先生! そんなの確認するまでもないですって!」
「これ、本人の意思確認ね。辻、別にアンタが早退するワケじゃないのよ?」
「雌舞希。今日は昼過ぎから雨になるってハナシだぞ。特に理由がないんなら、早めに帰ったほうがいい」
保健室の窓から外を見る。
空はくもっていたが、今ならまだ歩いて帰っても家までは保ちそうだ。
「……そうですね。すみません先生。それじゃあ私、今日は早退させてもらいます」
「うん、そうね。あたしもそれがいいと思うわ。じゃ、はいコレ」
先生は机からプリントを取って私に手渡した。
「ソレに欠席理由と名前書いて、来週中に各授業担当の先生にサインもらって提出しなさい。新井先生にアンタのことはもう伝えてあるから。もう、このまま帰っていいわよ」
「あ、ありがとうございます。ご迷惑おかけしました。それじゃ、せっかくですので、早いとこ帰らせてもらいます」
そう言って、私はプリントを四つ折りにしてベッドから降りる。
……と、ちょっと立ちくらみ。
それを美智が支えてくれた。
そしてその時、そっとこんな耳打ちをしてきた。
「――ね、しぶちん。あたしも昼からサボって自転車で家まで送ってこうか?」
まぁ美智ならこのぐらいしようとしてくれるだろうと思っていたので、私はそれほど驚かなかったが、次に私が彼女に返す答えは、美智にとって予想もしていないものだっただろう。
「ちょっと、駄目だよ美智。持田先生の前でサボり宣言なんて」
返した答えは耳打ちではなかった。
私はわざと先生に聞こえるよう、普通のボリュームで、そう返答したのだ。
私を見て、美智はポカンとしている。
それは当然と言えば当然だった。
私は今まで一度だって、例え冗談でも、こんなふうに美智をハメるようなマネはしたことがなかったんだから。
持田先生も突然こんなコトを暴露する私を見てポカンとしていた。
ただひとり、志田だけは私がしたことの意味を理解していて、面白そうな顔でこっちを見ていた。
「コラ辻! いつの間にそんな算段してたの? アンタは無駄に健康そのものでしょうが。欠席理由は何かしら? それを教えてもらえないと、帰らせるわけにはいかないわよ」
「ぅげ! え、えっと、えーっと……。い、一身上の都合です」
「ハイ却下。近江。志田クン。コイツサボらないように、ちゃんと見張っておきなさいよ」
「はい」
「わかりました」
「んなっ!」
誰も味方がいない美智。
なんか、すっごいむずむずするなぁ。
「さぁ、そんじゃB組に行こうツジ。雌舞希のカバンやらを取ってきてやらないとな」
志田はそう言うと、右手にはさっきの文庫本、左手には愕然としている美智の首根っこを掴み、半ば引きずるように保健室を出て行った。
残されたのは私と持田先生。
「……近江、こんなの教師が言うことじゃないけど、なんでわざわざ、あんな辻の厚意を売るようなマネしたのよ? アンタってああいうジョーク、好きな人間じゃなかったわよね?」
私のちょっと不安げな顔を見て先生は言った。
「はい? あ。あはは……、えっと。さっき先生、志田くんと私が話してるの、聞いてましたよね? あーゆうことです。人間、大事なものをふたつは取れないものなんですよ。――とくに、私みたいなぶきっちょな奴には」
「……ふぅ~ん。へぇ~。初々しいこと言うね~」
「まぁ、これでも先生より、ひとまわりは若いですから」
「近江、そのプリント返しなさい。元気なようだから早退は取り消してあげるわ」
「すみませんでした。もう言いません」
私は先生と軽口を叩きながら、美智たちが戻るのを待つ。
今朝から私を包んでいた焦燥感が、少しだけ晴れるのを感じた――。




