26.
5月29日(土)
26.
「え~とぉ~、日本史は54ページまでが範囲だから……プリントは……ここまでか……」
「うぉ~い! 何やってんだ! 助けろそこのお馬鹿娘~! ――あ、ほらほら! え? このおもちゃ? はい! がらがらがら~」
「で、……現国は一日目だから明日勝負かけて……」
「こらー! 聞いてんのか美智ー! ちょっと! 有樹ちゃん泣き出しちゃっふぇ、ひ、ひらい! やめへ! うーひひゃん! ひらい、ひらい!」
「あー! ちょっと後にして。多分お腹でも減ったんでしょ。しぶちん、そのちょっぴりサイズが貧弱なのでいいから、吸わしてやっといて」
「うっはひ! いだっ! ……くぅ。ゆ、有樹ちゃん。おもちゃはこっちだよ。私のほっぺは引っ張らないでね~? ――そんなの出るわけないでしょ! ってゆうか余計なお世話だ馬鹿ッ! ――あ、あ、あ! 有樹ちゃん、落ち着いて! 駄目だって! ちょっと美智! 美智ィーッ!」
「……んもー。しょうがないなぁ。まったく、しぶちん、キミはあたしがいないとなんにも出来んのかネ」
「黙れこの育児放棄野郎! さっきからアンタが私に任せっきりなんでしょうが! これじゃ話が違うぞ!」
「失敬な! これは放任主義と言ってもらいたい!」
「もういいから! 早くミルク作ってきて! 誰かついててあげないとすっごい泣いちゃうんだよ。私、ひとりで抱いたまま作るなんて無理だから!」
「へいへ~い。――くっくっく。いいママさんになれそうですなぁ、しぶちん」
そう言ってやっとこさ立ち上がり、台所へ消えていくネグレクトギャル。
くっそ~! こいつは~。
人の気も知らないで……。
えー。ただ今の状況説明。
私はテスト前週間にもかかわらず、一園芸部員としての責務を果たすべく、毎日花壇の世話をし続け、そのまま週末を迎えた。
ちなみに中間テストは月曜日からだ。
(一応断っておくと、勉強は夜にちゃんとやってました。一夜漬けは、さすがに私にゃする度胸がありません。)
で、土・日の世話に関しては志田と日替わりで行うことになっていて、土曜日は私が担当――と言うことになっていたのだが――。
『雌舞希! 今すぐあたしん家まで来て! やばいの! 人が死にそうなんだよ! 早く来て! 一刻を争う事態なんだよ!』
今朝、美智から掛かってきたこの一本の緊急要請電話によって、急遽土・日とも花壇は志田のお世話になることになったのである。
志田にそのことを伝えるため、電話すると、
『なに? 人が死ぬ? そら大変だなー。がんばってツジが犯罪者にならないよう止めてやってくれ』
なんて曲解してしまったが、その時は私もパニくっていたためか、
「わかった! 絶対美智を前科持ちなんかにさせない! 必ず止めてみせるから!」
なんて、ドラマチックな返答をして電話を切ってしまった。
その後、私が可能な限りの全力を尽くし、美智の家まで行ってみると――。
「やー! ホント、ひとりじゃ死んじゃうところだったよ! あたしか、この子、どっちが先だったかってかんじ。――あ、この子、あたしの従姉妹の姉さんの子供で、有樹ちゃんってゆうんだけどね。可愛いでしょ? まだ生まれて10ヶ月なんだよ~。なんかねぇ、従姉妹夫婦とあたしの両親で、一泊二日の旅行に行くってんで、その間この子頼めないかって言われてさぁ。あたしってば、大して何も考えないで安請け合いしちゃったのよー。で、気付いたら、あたしって育児の経験も知識もなんもないじゃん! 時すでに遅し。母や姉さんたちは旅立った後であった! あたしらふたり、いきなし生命の危機に瀕しちゃったわけよ。しからば、あたしも助っ人を頼らざるを得ない。それでしぶちん、アンタに電話したってワケ。いや、早かったねぇ。助かるよ。あ、姉さんたち帰って来るの、明日の昼頃って言ってたから、もちろんアンタも泊まりだよ? よろしくネ~、マ・マ♪」
――と赤ん坊を抱いた美智に出迎えられたのだった。
私は開いた口が塞がらず、しばらく放心した後、沸き上がる美智への殺意を抑えるのに難儀した。
しかし、美智の腕の中で笑う有樹ちゃんの無垢な顔を見せつけられると、それもすぐにしぼんでしまったのであった。
……私は、電話で騙される宿命でも課せられているんだろうか。
そして現在。
その日のお昼を少し回ったところである。
「ねー。しぶちん。これって粉これくらい?」
「知らないよ! 私だって育児の経験なんてないってゆってんじゃん! 缶に書いてたりしないの? それか、従姉妹のお姉さんから何か聞いてたり、メモとかもらってないの?」
「あー! そういやもらった! んー。じゃ、ちょっと待ってて~」
コ……コイツは……。
もしかして、美智ひとりだったら命が危なかったっていうのも、あながち冗談とも言い切れなかったんじゃないか?
ぞっとしない話だ。
将来出来るかもしれない美智のお子さんに同情するよ。
……もしかして、その時にもたびたび駆り出されるんだろうか、私は。
そんなわけで、四苦八苦・七転八倒・右往左往しつつ、なんとか有樹ちゃんを寝かしつけた私たち(主に私)は、ようやっと一息つくことができた。
――ちなみに、有樹ちゃんは男の子だった。
私は彼のおしめを替えるとき、初めてあんなにはっきりと男の子のアレを見てしまった。
美智は何故か嬉しそうにソレを指で触っていたが。
ヒトがうんちを世話してる間に、何やってんだコイツは。
とりあえず、はっ倒してやった。
「あー! 疲れた! あたしゃ、子供なんかいらんぞー! ……あ! そぅだ、しぶちん! アンタあたしの代わりに産んで。その子、あたしがめっちゃ可愛がったげるから!」
前後で言ってることが矛盾してるぞ。
それはつまり、育児はいやでもヒトの子ならオモチャ代わりにして遊びたいってことか?
「駄目。もし子供出来ても、アンタにゃ絶対触らせないから」
ううう。言ってて虚しくなる。
空々しいな、私。
「おや? よろしゅうございますね。お相手がいらっしゃる方は。もう子作りの計画中だんべか?」
唐突に何を言い出すんだ、こいつは。
「はい? 何の話?」
「おいおいおいおい~! このみっちゃんをなめてるのかい? この淫乱娘!」
「誰が淫乱だ! なに? どういうこと?」
「だーかーらー! ……ったく、あたしにわざわざ言わせるかねぇ」
美智はふて腐れたように、眠っている有樹ちゃんのほっぺをぷにぷにとつっつきながら続けた。
「アンタ、志田と付き合ってるんでしょ?」
「は!?」
私の目は点になる。
「え、え? なんで? どこで間違って、そう言うことになってんの?」
私が本当に意外そうな顔で答えたので、美智も自分の勘違いに気付いたようだった。
「あり? 違った? マジ? だって、テスト前で部活もないはずなのに、アンタらふたりして校舎裏で密会重ねてるのを、あたしゃこの目で目撃してんだよ!」
……そんなことしてたんですか、あなたは。
「違うよ! それは、一週間も花壇放ったらかしにしてたら、花なんかが枯れちゃうから世話を続けてただけだよ。それに、密会とか、そういう言い方したら、志田にも失礼!」
美智は私の話を聞いてキョトンとしたが、すぐにニンマリ顔になる。
「あれぇ? しぶちんって、そんなふうに男なんか気にかける人だったっけ~?」
「え?」
そして、美智は少し真面目な顔をして続ける。
「ん~。そりゃあ、志田は親しい間柄だしネ。親身になるってのはあたしもわかるよ? うん。アンタが付き合ってないってんなら、それも信じてあげよう。でも、しぶちんが男に対して、昔っから異常なほど頑なに壁作ってるの、あたしは知ってるよ。年頃になってもオシャレしないのだってそうだけど、根っこのトコにその壁があったの、あたし、気付いてたんだよ? ……なのに、志田に対してだけは、その壁を感じない。少なくとも、長年一緒にいるあたしには、ね。ほれ。それは自分でも、もう気付いてるんだろ?」
私は呆然としながら、美智が話すのを聞いていた。
――そう。
確かに美智の言うとおりだ。
私は志田に対してだけ、他の男と同じ警戒心を持つことが出来ない。
……そうさ。
あいつにだけは、私はどんなに心がけても油断を見せてしまう。
だから?
だから何だっていうんだ?
それがイコールで、私があいつに好意を持っていると、美智は言っているのか?
それこそ、お笑い沙汰じゃないか。まだあの『親睦会』から、ひと月も経っていないんだぞ?
油断こそすれ、例え相手があいつだろうと、隙なんか見せたりはしない。
ふたりでいたのだって、それはあいつが欲望を優先する人種じゃないとわかってるからだ。
それに――私が、そもそも私みたいな奴が、そんな普通の人間が抱くような情感を、持ち合わせているわけが……ないじゃないか。
「私は、男の人を、"好き"とか、"嫌い"だとか、そういう尺度では、見られないよ」
私がそう答えると、美智は呆れた様な顔で、しばらく私を見つめた後、優しく静かに言った。
「だったら、どういうふうになら見られるのさ? 関心がある? 興味がある? 意識する? 熱中する? アンタの中で、どれかひとつでも、志田は当てはまらない?」
私にとって「アイツ」ら全ては、敵も同然だ。
そして、「アイツ」は全ての男の中に在る。
それはつまり、「男」すべてが敵で、警戒するべき存在で、それはお母さんとの約束で……。
だけど……、なのに、志田は――。
「それ……ぜん……ぶ……あれ……?」
美智の問いにそう答えると、私は何故か、頬が濡れるのを感じた。
「志田のことは……放っとけないし……あいつの、性格……変な奴……だけど……もっと、知りたいって思うし……あいつと……話してると、楽しい」
私は男性を"好き嫌い"なんて尺度で計ることは出来ない。
でも、今美智が上げたような感情は、確かにあいつに対してすべて感じている。
それも油断だとか、隙を見せるだとか、そういう警戒的な感覚とは、また全然違った意味合いで。
私が吐き出すように言い終えると、美智はニカっと笑って、
「おっしゃ! それで良し!」
と言って、有樹ちゃんをつっついていた手で、いきなり私の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。
――それは、……ホントは全然こんなに乱暴じゃなかったけど……まるでお母さんに頭を撫でてもらった時のような、そんな優しさを感じた。
「なんでいなんでい! しぶちんは泣き虫さんだな! うりうり! さー、有樹が寝てるうちに、勉強するぞ! 試験前なんだ! 好いた浮いたはその後でいい! 今はもう考えんでよろしい!」
私の頭を撫でていた手が、いつの間にか、げんこつに変わり、ぐりぐりと押さえつけられる。
「……うく……じ、自分から振ってきた話じゃん! 私を泣かせた責任とれ!」
「くっくっく。しぶちんはあたしのものなのさ! だから怒らすも泣かすもあたしの権利!」
「痛い痛い! それやめろ! 身長が余計縮んじゃう!」
「なに~? それならば、もっとやってやろう。うりうりうりうり!」
「や! やめて……! ゆ、有樹ちゃんが起きちゃうよ!」
それで、私たちのいつも通りの騒がしさが戻ってきた。
結局私は、今志田に対して抱いているこの感情にどういった答えを求めたものか、判断がつけられなかった。
――何故、突然涙が零れてきたのか、も。
これが、美智の言うような好意なのか、そうではないのか。
その判断は彼女が言うとおり、もう少し時間をかけて考えよう。
私はとりあえず、それを棚に上げておくことにした。




