そして死に至る
切り開かれた天から覗く、禍々しい雲海。膨大な熱量が渦巻く空には青い炎が躍り、雲間には雷が走る。未だ出口が狭い為か、異界の住人達は姿を見せず、声なき声が轟く雷鳴となって周囲を震わせる。
噴き出る魔素が大地を割り、土を冥府に引き込んでいく。捲れ上がった岩盤が空を舞い、細かく砕けて開いた雲海に流れていく。まるで強欲な子供のように冥府が口を開き、現世の何もかもを欲していた。
それは大地だけではない。
開かれた世界の扉は、アティブと敵対者たる男を中心に被害を広げる。人も魔物の区別なく、抵抗する力のない屍は冥府へと吸い込まれていく。この世の終わりを間近に見るような光景だったが、今は誰しもそこにまで気が回らない。
目の前には敵が居る。倒すべき敵が!
アティブを慄かせたのは、目の前の敵が切り開いたそれではない。
未だ不完全ながらも、世界の理を定めるディートナが起動しているという事実。神々でしか知り得ない筈の術法を、目の前の敵が知っているということだ。
幾千幾万の魂を捧げ、気の遠くなるような時間を掛けて完成される世界の理。自身の愛する人間達の魂を捧げてでも成就させるべき悲願。
“勇者の前には魔王が立ちはだかる”
“魔物に神は殺せない”
“神々は地上に直接干渉出来ない”
神の言葉に宿る真の言葉とは全く別の、世界の真理とも言うべき法則。それを定めたのが嘗て400年前に起こった戦いだった。当時強力な力を誇ったアルテーシアと協力し、そのアルテーシア自身を冥府に追放することで定めた世界の理。
それも全てはディートナの力である。
その強制力には、冥府で力を蓄えたアルテーシアですら抗し得なかった。
“協力”という、自身の神たる意義に背を向けてまで勝ち取った筈の人間達の楽園。それが眼前で崩れていく。
「あ、ぁあ……」
今回で全てを完璧に仕上げる。
400年前はアルテーシアを押さえ付ける為に不完全に仕上がってしまったそれを、今回こそは完璧にやり遂げる。全てを裏切ってでも、人間の、人間達の安全で平和な世界の為に──。
……それを。
「……貴様がッ!」
憤怒が思考を塗り潰す。
大剣を地面に突き立て、肩で息をする敵を見据える。
「もう容赦せぬ! 生きてやろうではないか! 後400年でも、未来永劫でも、我が愛する人間達の世界の為にッ!!」
目の前の敵を殺さねばならない。
神の力と、勇者の体の持てる全力を以て。目の前に居るのは最大の脅威だ。神の手に出現する赤き文様。
その手に納まるは、神殺しの長剣。
◇◇◇
音が、遠い。
荒く吐き出す息から炎の熱さが遠のいていく。
脈打つ鼓動が弱いのか強いのかも分からない。
視界も霞んで、地面すらよく見えない。
だが、俺は成し遂げた筈だ。
物語の登場人物が作者に反逆するような、そんな無謀なことだと思った。
神の野望を挫き、人間以外の諸種族が生きられる環境を勝ち取った。これで、この先人間だけが有利になることはない。平等に、公平に、流した血に報えるだけの平和を勝ち取れた筈だ。
目の前の神は、何れ消える。
冥府を導いたのだ。あの性悪女が黙って見ている筈がない。後は奴に任せて……。
王としての責務も、もう終わった。
背負ってきたものも、後は生き残った者達に任せればきっと上手くやる。
もう、俺が居なくても大丈夫だ。
だから、少し……休もう。
もう十分頑張ったじゃないか。
痛みは、有るのか無いのかも分からない。切り刻まれた腕が呼吸をする度に悲鳴を上げる。数えるのも馬鹿らしくなる程に敵に切り刻まれてきた。
何度も死にかけた。
心臓を貫かれたのも一度や二度じゃない。この目の前の神との戦いので数回は貫かれている。
激しく襲い掛かってくる痛みは瞬時に骨を駆け上がり、神経を凍えさせる。息を吐き出す度に傷口から力が抜けていくようだ。
だが、それも終わる。
このまま倒れても、結論は変わらない。
膝を突いて空を見上げてしまえばいい。どうせ目の前の神には勝てないのだ。死ぬ時ぐらい、楽をしても良いじゃないか。
少なくとも、俺は結果を残したのだから。
……ああ、疲れた。
疲れたなぁ……。
…………。
……。
…。
……ああ、だがどうして。
何故、俺の手は剣を手放さないんだ。
この震える足は、膝を屈するのを拒む。
何故、俺の目はあいつを睨むのを止めないんだ。小さくなりつつある呼吸を、何故荒くしている?
俺は、どうしてこんなにも倒れるのを拒否しているんだ。
分からない。
本当に……本当に分からない。
ああ、本当だ。分からないんだよ、俺には。何故俺自身が苦痛に立ち向かうのか分からない。自分で言った筈だ。結末は変わらないと。
俺が倒れても、目の前は神は消滅する。
分からない。
──否。分からない筈がないだろう。忘れているだけだ。
思い出せ。
忘れてしまった者の重さを。
愛しき者の名を。何を引き換えにしても救わねばならぬ者の名を。
思い出せ。
背負ってきたものの大きさを。
あの誓いを。
失った時に味わったあの苦杯を。悔悟を。絶望を。
あの、忘れ得ぬ無力を。
あと少し、あと少しで手が届く。
その少しが万里波濤の彼方でも、それでもここまでやって来たのだ。
俺は、未だ何も……何も、取り戻してはいないッ!
俺が今倒れて、一体誰が彼女を救える──!
打ち倒すべき敵は、未だ目の前に居るだろうが!
吐き出す息は、未だ続く。刻むのを戸惑っていた鼓動は再び激しく体を叱咤し、屈するのを拒む足は前に進む。
それに、この手には未だ握り締めているものがあるじゃないか。
自身の挫けそうな心を、俺を構成する全てが励ましていた。
俺は、おれは、俺は、オレは……まだッ!!!
噛みしめた歯が軋みを上げる。吐き出す息は灼熱に。瞳に宿るのは不屈の魂。死線を抜ける度、積み重なったものがある。命を奪う度、背負ったものがある。
故に、俺は──。
「……──ッ!」
──あの、駆け抜けてきた戦場は、何の為に!
──俺の従えて来た臣下はッ!
「……──ッ!!」
──あの、築き上げてきた勝利は何の為だ!
──この、化け物の体はッ!!
「───ッ!!!」
──あの踏み越えて来た死は一体、何の為にッ!!
──今、この手に握る剣はッ!!
◇◇◇
「──アティブッ!!! 俺の全てを返してもらうぞ!!!!」
──そう、全てを取り戻す為だ。
崩れかけた体。塞がらぬ傷から、体力と命が血となって流れ続ける。
だが、それでも、男は未だ剣をその手に立ち上がる。
夢を砕かれた神は、それを取り戻そうと剣戟の中に身を躍らせ、一人の男は奪われたものを取り戻す為に剣戟の嵐を巻き起こす。
互いの取り戻さねばならぬものの為、神と人は再び刃を交えた。
振るった大剣に風が乗り、雷が加速を与える。
弾いた長剣には神威が宿り、余波で男に更なる出血を強いる。
「アアァアティブゥォアァ!」
「死ねえええ!!」
如何に裂帛の気魄をもって打ち込もうとも、神の剣には及ばない。技術や剣の強度、そして剣に込められた神威たるや、真面に受ければそれだけで致命傷を負いかねない。
現に打ち合う度に男の体は傷付き、命は削り取られていく。
だが、それでも──。
ぶつかり合う鋼と鋼。刃と刃。散った火花が咲いている間に、更にまた激突が起こる。斬り合う互いの剣も砕けよと切り結ぶ剣戟は、既に20合を数えた。それを越えて尚、疾風の剣先を暴風の大剣で防ぎ止める男の意志。
指は折れ、半ば千切れかけた腕からは止めどなく血が流れる。
骨さえ見えている足で、それでも尚踏み込む。
灼熱と化していた呼吸は、既に止まっている。
だが、神々の交差するこの世界で、男は何者にも祈りはしない。
運命を覆し、冥府すらも遠ざけて剣を振るう。
ただ、前に出る。
その体に一片の魂が残っている限り、神ですら男の前進を止めることは出来ない。
黒き炎は、既に男を守りはしない。その力は、顕現した冥府により全て主の復活へと捧げられている。男の刃に乗るのは不屈の意志と、古き神々の僅かばかりの力だった。
後少しで、その命は尽きる。
そこまで到っても、男は前に進む。
「────ッ!」
最早、言葉を叫ぶことすら叶わない。
進めと促す強敵達の魂は感じ取れず。
背中を押してくれる頼もしい臣下達の魂も、今は遠い。
だが、それでも。
男は刃を振るって前に出る。
ここまで来た。後一歩をどうして踏み出せぬ道理があろうか。
後一閃。
後一歩。
そうして愚直に積み重ね、更に20合。
肺は灼け、目は色を失い、耳は徐々に音を失っていく。
世界の主たる神と技と力を競って尚、敗れぬ程に男の意志は強靭である。
徐々に神たるアティブを追い詰め、その剣技の下に屈服させていく。
「オ──オォォオオアアア!!」
己を鼓舞するが如きアティブの咆哮。
そうせねばならぬ程、目の前の敵は強靭だった。真の言葉による攻撃を挟む暇すらない。そちらに意識を割けば、それだけで目の前の剣戟が己の体を飲み込み、粉砕するだろう。
そう確信を抱く程に、自らがこの世界に招いた魔物は強大だった。
限界など疾うに超えている筈。では何故その足を進め、剣を振るい、神たる自身に抵抗出来るのか? アティブには理解出来なかった。
理解できないが故に嫌悪し、そして──恐れた。
伸びきらぬ剣筋。踏み込めぬ足。そして何より、先程から一切攻勢に移れぬその姿勢──。
「有り得ぬ──ありえぬわっ!」
叫ぶ。駄々を捏ねる子供のように、狂いながらも理性的な部分を残す祖神が情けない悲鳴を上げる。
絶対者である筈の己が、恐れを抱く?
冷や汗が背筋を伝い、喉は枯れたように痛い。
何だ、これは? ──己を振り返る。
大剣が紫電を纏い、眼前を走り抜ける。
見える、見えているのだ。だというのに、体が動かない。
「がっ!?」
剣先が脇腹を掠める。
噴き出す血潮に、アティブは半狂乱となって叫んだ。
「ゼノビア!!」
顕現せしは赤き癒しの女神。人の呼び寄せたる影ではなく、その本質がレシア・フェル・ジールの姿を借りて降臨する。
癒しの女神の光は、アティブを瞬く間に癒していく。
当然だ。彼女はアティブに逆らえない。
「ふ──ふははは!! どうだ!? 我は死なない。お前がどんなに切り刻もうと! 我は死なぬ!」
「──ッ!」
剣閃が更に加速。
神の懐を切り裂いた大剣は、瞬息の間に今度は脇から肩へと駆け上がる。だが、再び傷は癒されていく。
桶で海の水を全て掬うが如き難業。それが神を殺すということだ。
ならば、そう。ならばだ──。
己に残っているものは何だと自問しようとして、答えは既に出ていることに気付いた。ならば迷う必要などないではないか。
例えそれが、己の何を犠牲にするとしても。
振り上げられる大剣。
「無駄だ! 死ねい!」
対して、神の構えた長剣からは光が迸る。暗き闇を照らす極光の奔流。地面を駆ける奔流が、男の体を飲み込もうとした刹那。
天に掲げられた大剣に、闇の女神の翼よりも一層暗き中に、炎が灯の如く再び燃え上がる。
その黒き炎は剣先から根元にかけて風を孕んだ戦旗のように風にたなびく。振り上げられ、天を目指して掲げられた大剣は、不朽の勝利を称える石碑のように聳え立つ。
「───ッ!!」
叫んだ男の声は聞こえない。
一閃。
光の奔流と闇の炎が激突する。ぶつかり、弾け、飽和する光と闇の中、互いの魂が勝利を描く。
アティブの左肩から右脇腹までを両断した一撃は、更に手元に一気に戻り、アティブの心臓めがけて突き出された。
「あ、が──ッ!?」
何を言う余裕もなく、アティブは蹌踉めいて後ずさる。
男には追う力はない。
既に満身創痍。魂までも捧げて戦い続けた男には、もう追撃するだけの余力はなかった。
大剣を突き刺された心臓は大量の血潮を吐き出しながらも、未だ脈打つ。
アティブは驚愕に目を見開いて後ずさり、血を吐きながらも、未だ立っている。
そうして。
そうしてその傷は、徐々に塞がり始める。
神の定めた理。魔物では神は殺せない。その意思がどうあろうと勝利し続ける為に体が復元されていく。癒しの女神の、その在り方の命ずるままに。
決定した勝利は、アティブの元へ帰り着く──。
「あぁ、愛しい人」
だが、そこに一石を投じる優しき女神の声。
顕現せし女神の姿は、神々しくも美しい。匂い立つ色香。他を統べるべき圧倒的な存在感。
「ア、ルテーシ、ア……! 我は、ま、けるわ、け……に、は」
瀕死のアティブの首筋にアルテーシアは腕を回す。
愛撫でもするように耳元に口を寄せると、彼女は睦言を囁いた。
「でも、貴方は負けてしまったの。死んでしまったの! あぁ、やっと手に入れたわ、愛しい人! 貴方の苦痛も、絶望も、恐怖も、涙の一欠片に至るまで、全て私のものよ! 決して離しはしない! 誰にも渡しはしないわ! ふふふ、あははははははは!!」
アティブの胸の中心。
致命の傷が再び開いていく。いや、それどころか、その傷口を中心として冥府の門が顕現する。それは嘗て戦神が傷付け、再び男によって穿たれた傷跡。
「ディー、ト、ナめ……! 我、を、喰、わん、とす、ル、カ……」
「私を裏切った愛しい貴方には、更なる苦痛を与えましょう! 更なる絶望を、更なる恐怖を! 私の部下を傷付けた、愛しい貴方にはっ!! アハハハハハ!!!」
軋む体を何とか動かし、アティブは視線をレシアに向けようとする。己の愛した癒しの女神へと。
「ゼノ、ビ……ア──」
最期に視界に収めようとしたそれを、アルテーシアは許さない。
「ああ、駄目よ、愛しい人。それは絶対に駄目。貴方の目に映るのは私でなければ……」
胸に穿たれた冥府の門の中で何かが蠢き、這い出てくる。それは亡者を連想させる黒い腕と、数えるのも馬鹿らしい程の蛇、蛇、蛇。何本もの腕がアティブを掴み、拘束し、女神の眷獣たる蛇達が次々と勇者の身体に巻き付き、締め上げ、或いは噛み付き、強引に冥府へと引き摺り込んでいく。
「ぎ、ギ、──ギ、ギウグウァ!!??」
この世のものとは思えぬ悲鳴と共に、アティブとその依代たる勇者の身体は、跡形もなく消え去った。
『お姉様──』
レシアの背後に顕現するゼノビアの影。
「失せなさい、ゼノビア。あの男は私が貰う。リューリュナも連れていくわ。この世界は私が統べる。貴女は、その子と共に自由になりなさい」
アルテーシアは振り返らない。視線を瀕死の男に向けたまま、妹神に別れを告げた。
『……はい。さようなら、お姉様』
如何なる葛藤があったのか、ゼノビアは姿を消し、倒れたレシアは地面に横たわった。
「我が愛しき寵児。よくぞ、我らの大願を果たしました。次は貴方の番よ。何か望みはある?」
「……何もない。冥府の女神にして勇気の女神よ」
「……気が付いていたの? 私が、遥か昔にディートナと同一化していたことを」
男は女神の問いに答えない。答えるだけの時間は男に残されていなかった。
「……もう一度言う。貴様ら神々に願うことなど、ありはしない」
悲願は、自ら切り開く。
そうして男はここまでやって来たのだ。
その在り方そのものが答えだと言わんばかりに。
「貴方は……」
言いかけた女神は、問いを投げるのを止めた。
「醜く、そして何よりも愛しい私の坊や」
優しい微笑みは、無限の愛で子を包む慈母のもの。
「ありがとう」
光がアルテーシアを包む。
世界は変わっていくだろう。冥府と現世、重なり合う二つの世界は奇跡の花を咲かせ、ゆっくりと神なき世界へと変わっていく。魔法も、魔物も、精霊も、神々さえも、何れ消滅していくのだ。
開いていた冥府は徐々に形を崩し、雲間に消えていく。それと同じくしてアルテーシアの姿も薄らいでいく。
アルテーシアが初めて男に出会った時、その矮躯を精一杯伸ばし、男は言ったのだ。
己の道は征服と支配。
女神はそれを思い出していた。
征服と支配。ならば男は神々の心さえも征服し、支配したのかもしれない。そのことに何とも言えない心地良さを覚えながら、アルテーシアは崩れゆく男を見送った。
男は成し遂げたのだ。
異界より招かれ、体を魔物としながらも、男は確かに成し遂げた。その魂は、間違いなく──。
男は大剣を地面に突き立てる。
そうでもしなければ、立っていることすら出来なかった。
崩れゆく体は、もはや何者にも防ぎ止めることは出来ない。罅割れた腕が自重に耐えきれず、音を立てて地面に落下した。陶器のように割れた男の腕は、土煙と共に塵芥となって風に消える。
戦の音が、戻ってきていた。
◇◇◇
アティブが消え失せた後、勇者の軍勢は冥府が消え去った時点で我に返った。
目の前には死に物狂いで戦う悪鬼羅刹の如きアルロデナの軍勢。
今までの戦意が嘘だったかのように流れる血に恐怖し、ゴブリン達の咆哮に悲鳴を上げて逃げ出していく。
反転攻勢に転じたフェルドゥークは、ギ・グー・ベルベナの指揮の下、敵軍の動揺を見逃さず追い打ちをかける。如何に優れた武器防具を持とうとも、浮足立った敵など大陸を制覇した彼らにとっては物の数ではなかった。
雪崩を打って敗走する勇者の軍勢は四散分裂し、忽ちの内に追われる獲物と化した。
20万を数えた大軍勢は、凡そ半数程の被害を出しながら蜘蛛の子を散らすように逃走。それを追うべくアルロデナ全軍が追撃の姿勢を取る。
「進め……! 王が、我らの王が、勝利を捥ぎ……取ったのだ! 敵を──」
その中で、血を流し過ぎたギ・グー・ベルベナが意識を失う。乱れた統制を纏め直して追撃にまで進めたのは、偏に三兄弟の奮闘の賜物であった。傷を負った者を後方へ下げると同時に、比較的軽傷な者達を引き連れて敗軍を追う。
勝利を完膚なきものにしなければならなかった。今まで最前線で戦い続けた、彼らの大兄の為にも。
ギ・ガー・ラークスは追撃を他の諸将に任せ、単騎で王の元へ向かう。
それはプエルも同様だった。
不吉な、これ以上ない程に不吉な予感を、信奉者たる彼ら彼女らは感じ取ったのだ。
彼らが辿り着いた時、ゴブリンの王を囲むのは100騎を残すばかりとなった近衛達。彼らは何も言わず首を垂れ、王の周囲に侍る。
「王っ……」
中央に立ったままのゴブリンの王の姿を発見して、プエルは思わず安堵の息を漏らす。だがそれでも、不吉な予感を見過ごせず、小走りに駆け寄る。
そして、それはギ・ガー・ラークスとて同じことだった。
微動だにしないゴブリンの王。
その視線の先には王の寵を一身に集めた聖女レシアの姿がある。寝顔を見守る視線は、まるで愛し子を見つめる親のようだった。
王の左腕が無くなっていることに気付いたプエルは悲鳴を上げそうになり、必死にそれを噛み殺した。
「プエル」
発せられたのは間違いなく王の言葉。だが、プエルは背筋を凍らせる程に慄いた。
まるで覇気を感じられない。
彼女は無意識の内に首を振っていた。予感は既に確定した悪夢となったのだ。導かれる結末を感じた彼女は顔面蒼白となり、残酷な現実を拒否しようとしていた。
「国の政治は、お前に任せる。俺より余程上手く纏められるだろう」
「王っ、あなたは──」
「レシアを、頼む」
「そんな……! 王よ、私は──」
その先は言葉にならず、気付けば彼女は泣き崩れていた。
何故。そればかりが頭の中を駆け巡る。
「ギ・ガー・ラークス。我が忠勇なる第一の臣よ」
「はっ!」
震えそうになる声を必死で押し殺し、ギ・ガーは膝を突いた。
「進めッ! 軍を率いて進むのだ! 我らゴブリンの大望を果たす為、この世界の果てにまで! 我らの旗を打ち立てるのだ!」
「ははっ!!」
ギ・ガーは震えた。
そして一度も振り返らなかった。
長年連れ添った黒虎もギ・ガーの心を察してくれたのか、常よりも更に従順に駆ける。直ぐに己の軍と合流を果たすと、敵の追撃に移る。
「ギ・ガー殿、王は、何と?」
問いかける部下に、ギ・ガーは込み上げる何かを堪えるように怒鳴り返した。
「進め! 進むのだ! 決して振り返ってはならん!!」
そう、振り返ってはいけない。
振り返ってしまえば──。
「進め! この世界の果てに我らの御旗を立てるのだ! 我らが王の! 我らが偉大なる国の!」
掠れそうな声でギ・ガーは必死に自身を鼓舞する。
敵は、未だ居る。王の命令を果たさねばならない。
「……あんまりではないですか。あなたは、これまで誰よりも頑張って来たではないですか。王よ、これでは、あまりに報われない!」
涙さえ浮かべて叫ぶプエル。そんな彼女は、まるで泣き叫ぶ幼子のようだった。終いには男の体に取り縋って泣く。
「世界とは、そんなにも理不尽なのですか? 王よ、これから私達は、いいえ、ゴブリン達は貴方無くして国を維持することなど出来ません! 折角、愛しい人を取り戻したのでしょう? なら──」
体に縋り付いて泣き喚くプエルの頭を、男は残った右手で優しく撫でた。
「プエル。俺は旅人だ。遠く、この世界とは異なる世界より、神に招かれて来たのだ」
優しく語って聞かせるのは、男の嘘である。
神の奸計に嵌って魂までも使い果たした男の話ではなく、この世界で役割を与えられ、その役目を果たした男の話。
「故に、プエル。俺は帰らねばならん。旅人は、役目を果たしたのだ」
「違います! 王よ、貴方の役目はそんなものではない……! 神など信じなくていい。元の世界になど帰らなくていい。ずっと、ずっと我らの王であってください……!」
「生きる者は何れ死ぬ。そこに例外は無い。そして、それこそが自然の流れなのだ。悲しみは、人を圧し潰すものではなく、前に進む為にこそある。プエル。我が宰相プエル。俺はお前と共に国を創った」
男の声は限りなく優しい。見上げたプエルは、涙で霞む視界で彼を見た。その姿は化け物ではなく、その魂に相応しい男の勇姿。
「俺は、先に行く。お前は、この国の行く末を見守ってくれ。そして、お前の望むように前に進むのだ」
優しく頭を撫でる男が言う。
「さあ、送り出してくれ。涙は門出に不吉だろう?」
無理矢理笑った彼女に、男は優しく微笑んだ。
一瞬の風が、彼女の視界を攫う。
抱き締めていた男の感触は、それきり消えた。
「……王よ」
ギ・ガー・ラークスは駆けた。
10万にも及ぶ敗残兵が居るのだ。逃げ惑う敵を一方的に倒し、倒し尽くしてアレンシアの平原を血で染めた。
だが。
そう、だが……。
敵の血潮に塗れたギ・ガー・ラークスは、滲む視界で遂に後ろを振り返ってしまった。
「王よ! 王よ! 我が王よ!!!」
ギ・ガー・ラークスの上げる声に、ゴブリン達もまた声を上げる。
『王よ! 王よ! 我らが王よ!!』
挙げる勝ち鬨が木霊する。その悲しみを言い表す術もない。
嘗て、これ程までに悲しい勝ち鬨があっただろうか。今や、この大陸で最大の武力を持つ者達は、その光景を見て悲鳴を上げて泣き喚いた。
その場所には、王の大剣が突き立つだけ。
彼らの王は死んだのだ。
だが、彼らの勝ち鬨が止むことはなかった。まるで、それが王に捧げる鎮魂歌であるかのように、彼らは天に向かって武器を突き上げ、声の限りに勝利を讃える──。
『王よ、王よ、我らの王! 偉大なりし、ゴブリンの王よ!』
──彼らの王の、名を呼んで。
そして王の死は一つの奇跡を起こす。
天を見上げ、武器を突き上げる勇壮な戦士達。彼ら一人一人の視界は歪み、胸は訳も分からぬ熱に突き上げられ、一人、また一人と膝を突いて顔を覆っていった。
彼らは泣いていた。
泣くことを知らぬ魔物は居なくなっていた。やがて、その声はアレンシアの平原を覆い尽くし、慟哭となって一人の王を悼む。
涙を流し、死を悼むことが出来るのは、彼らが魔物ではなく、亜人であることの証左。
だが、彼らにとってそんなものは慰めでも何でもない。王の死を知って、涙を流さぬ者は居ない。
彼らは、ただ一人の王の為に魔物たる己を捨てたのだ。
今はもう、居なくなってしまった王。
言葉を尽くし、何を引き換えにしても取り戻せない、彼らの偉大なる王。
ゴブリンの王。
アレンシアの丘に突き立つ傷だらけの大剣だけが、王が存在していたことを示してくれる。
だがそれも、時間の流れの中で朽ちてゆく墓標に過ぎない。
王歴5年、晩秋。
アレンシア平原で行われた決戦は、アルロデナ及びアーティガンド双方の主が戦死するという激戦となった。だが、王を失ったアルロデナは十日を待たずアーティガンド全土を占領。
黒き太陽の旗は、遍く大陸に突き立てられたのだ。
──数多の屍を積み重ね、神威吹き荒れた戦場に静寂が下りる。
それは一つの終焉を意味していた。
北風が吹き抜け、東の空から朝陽が差す。
暗き神話の時代は幕を下ろし、歴史という名の太陽が、新たな時代の幕開けを告げていた。
◇◇◇
ご愛読ありがとうございました。2012年より4年の長きに渡り連載させていただきた拙作「ゴブリンの王国」最終話となります。
エピローグでは余韻をお楽しみください。




