ズー・ヴェド
土煙を濛々と上げて迫るアーティガンド義勇軍。その数凡そ30万。その姿を認め、ギ・ズー・ルオは獰猛に笑った。
「相手にとって不足はないな!」
「けど親父、流石に30万は……。俺達は1000でしかねえですし」
肩から胸にかけての大きな古傷が特徴的なズー・ヴェドが、躊躇いがちに口を開く。
「30万だと?」
「へい」
「なぁに、たったの300倍だろ?」
「ええ、そりゃまぁ……そうなんですが」
「なら、難しいことは考えるんじゃねえ! そういう事は頭の良い宰相殿やギ・ザー殿達に任せておけ。俺達は、俺達の役目を果たすんだ」
軽く拳を握ってズー・ヴェドの胸を叩くギ・ズー。
「役目ですかい?」
「ああ、そうだ。俺には俺の、お前にはお前の、果たすべき役目ってやつがちゃんとある。それを見誤らなきゃ、王は間違いなく俺達を導いてくださるさ」
「へぇ、そんなもんですか」
「そういうもんだ。さしあたっては、目の前の奴らを一匹当たり300程倒さなきゃならんな!」
豪快に笑うギ・ズー・ルオを見て、ズー・ヴェドは敵わねえなと、頭を振った。
ヴェドがギ・ズーに付き従っているのは、未だ王が暗黒の森で地盤を固めている最中のことである。深淵の砦から北西。鬱蒼と茂る森林を掻き分けたその先に、知恵無き巨人と大槌牛の跋扈する一帯がある。
地を這い蹲り、泥を啜るようにして水を飲み、ギガントピテクス達の捨てた腐肉を漁って生きてきたヴェド達にとって、ギ・ズーの示した真心は真昼に輝く火の神の胴体よりも眩しいものだった。
犬畜生同然に生きてきた彼らを一端の戦士として扱ってくれたのはギ・ズーだけであり、だからこそヴェドと北西ゴブリンの一党はギ・ズー・ルオを“親父”と呼び敬う。
犬畜生は、生まれて巣立つと親を忘れる。
温情も恩義も忘れ、果ては殺し合い、自分が生き残る為に共喰いさえする。そのような暗澹たる状況から救い出してくれたギ・ズーの強さと真心は、確かにヴェド達を改心させていた。
泥沼のような状況で腐っていた自分達を引き上げてくれたギ・ズーに従い、その地域を離れると目の前には広大な世界が広がっていた。王の支配する深淵の砦。森の切れ目から広がる平原。そして人間達の世界。彼らの狭い世界で最も強いと思っていたギ・ズーが仰ぎ見る、偉大なるゴブリンの王の姿。
同じゴブリンとは思えぬ巨躯に、大鬼すらも凌ぐ圧倒的な実力。この世界にこんなにも強い同族が居るのかと驚き、仰ぎ見る王の姿は正しく神をこの目で見たような衝撃だった。
偉大な王に侍るゴブリンの実力者達と、妖精族や亜人、人間ですらも支配してみせる王の器。それは戦いしか能のないヴェドらにとって、まるで夢物語のような驚天動地の連続だった。日々、彼らの知る常識が音を立てて壊れていく。それに動じぬ日はなかった。
剣の申し子ギ・ゴー・アマツキ。南部広域を収める支配者ギ・グー・ベルベナ。魔獣を数千匹単位で操るギ・ギー・オルド。種族の別なく自在に使いこなすラ・ギルミ・フィシガ。
そして、ギ・ズー・ルオが心から尊敬する忠義の騎士ギ・ガー・ラークス。
海千山千の猛者達が犇めく王国の末席に名を連ねた彼らは、最初恐怖で震えた。
これ程の実力者達が揃っているのなら、自分達は当然下っ端だろう。
弱肉強食。ギ・ズーに救ってもらったとばかり思っていたが、実は更なる泥沼に嵌り込んでしまったのではないだろうか? ふと、そんな弱気がヴェドの頭に浮かんだ。
「とてもやっていける自信がねえです」
手下達の前では威張り散らすヴェドだったが、ある時、ギ・ズーと2匹だけの時に弱音を零した。それに対するギ・ズーの答えは単純かつ明快だった。
「だったら強くなりゃ良いだろう。俺も、お前も、これからだ!」
爛々と覇気に満ちる瞳を輝かせたギ・ズーが睨む先には、冥府の悪鬼でも裸足で逃げ出すに違いない凶悪な面を、ゴブリンの王と互角かそれ以上の体躯の上に乗せた豪傑が居た。
ガイドガのラーシュカ。
“暴威の化身”、“隻眼の悪鬼”などと異名を取る戦場の鬼である。
事あるごとにギ・ズーを子供扱いする化物のようなゴブリンを前に、ギ・ズーは常と変わらず啖呵を切って胸を張る。
勇将の下に弱卒無しと言われるように、ギ・ズーの下に配置されたゴブリン達は無類の戦い好きだった。寧ろそのようなゴブリン達しか残らなかった。
「俺達は戦士の中の戦士! 漢の中の漢だ!」
ギガントピテクス。ゴブリン達からすれば振り仰ぐ程の強大な体躯と凶暴な性質を備えた森の蛮族を相手取り、その地域の覇権を賭けて戦いを挑んだ時、ギ・ズーは先頭に立って部下達を叱咤した。
「怯懦に震えそうな時、死にそうな時、苦しい時。そんな時は、真っ直ぐに相手を見据えて吠えればいい」
犬歯を剥き出しにして手にした槍を握り締め、ギ・ズーは猛々しく笑う。
「俺達は戦士の中の戦士! 漢の中の漢だ! ってな」
軽く胸を小突かれたヴェドは、蹌踉めきながらも小突かれた部分から広がる熱に震えた。
魂を震わせる本物の漢の言葉だった。
「さあ、お前らも言ってみろ!」
促されるままに口に出した言葉を聞いて、ギ・ズーは首を振る。
「声が小さいぞ! そんな体たらくで戦士の中の戦士と言えるのか? 漢なら、胸を張って吠えやがれ!」
強くて優しい男の言葉に勇気付けられ、ヴェドは吠えた。
俺達は畜生じゃねえ! 戦士の中の戦士、漢の中の漢だ!
言葉に出した瞬間、ヴェドは胸の奥に熱い何かが宿ったように感じた。
「さあ、いくぞ! 付いて来い、野郎共!」
手にした得物を振り翳し、ヴェド達は雄叫びを上げてギ・ズーに従った。
色褪せることのないギ・ズーへの本物の忠誠を誓った瞬間である。
それから幾多の戦争を経験し、ギ・ズーは独自の兵を持つことを許された。それは、あの偉大なるゴブリンの王がギ・ズーとその配下一党の実力と忠誠心を認めたことの証だった。
並み居る強大なゴブリン達と伍するように実力を認められたギ・ズーは更なる高みへ昇ろうと日々試行錯誤し、それだけの戦果を上げ続けている。
そして大陸を西から東へ駆け上った最後の段階で人間達の最後の国に差し掛かった時、それは起きたのだ。あのラーシュカが死んだ。
いつか越える筈だった大戦士の訃報を聞いたギ・ズーは、憤怒と共に猛り立った。そして、最も危険な任務に志願したのもギ・ズーであれば当然だった。
それでこそ千鬼兵を率いるギ・ズー・ルオであるし、そうでなければならなかった。あの偉大なるゴブリンの王の為に何が出来るか? それを突き詰めていけば当然の帰結だと、ヴェドは考えていた。
◆◆◆
まるで蟻の大群が大地を這い進むかのように、バンディガム要塞へ向かって進む人の群れ。手にした槍と剣が東から昇った陽光に照らされ、それぞれが自己主張するように好き勝手に煌めく。
盛夏の頃とは言え、朝の気温は低く、透き通る空気は遥か地平まで見渡すことが出来た。だが、その地平の彼方まで敵が続いているのには、ヴェドをして圧倒させるものがある。だが、それも一時のことである。すぐに気分を入れ替えると口元に余裕の笑みを取り戻し、ギ・ズーに防衛の為の準備状況を知らせる。
「そろそろ罠の地域です」
「先頭を狙え」
「へい」
サザンオルガにおいて、実務的な面を取り仕切るのは専らヴェドの役割だった。ギ・ズーは多くの場合、大まかな指針を決めて部隊の方向性を示す。
魔物を倒す時でも、人間の国と戦う時でも、それは同じだった。かといって、ギ・ズーが何も出来ない訳ではない。ゴブリンの王に習って、責任を取るのは常にギ・ズーであるという姿勢は変わらない。
ただただ圧倒的な敵の数。それを認めて尚、不屈の闘志を燃やせるのは、ギ・ズーにある種のカリスマが存在していたからだ。
ギ・ズーの言葉と共に、大地を埋め尽くす勢いで駆けて来る勇者の軍勢に丸太が投げ落とされる。ラ・ギルミ・フィシガ率いるガンラ氏族や斧と剣の軍の戦奴隷を除き、ゴブリンらが使える罠と言えば、落とし穴ぐらいしかない。
ゴブリンは基本的に不器用で、弓すら自在に操れないのだ。故に、その罠は単純なものにならざるを得ず、だからこそ力で攻めてくる敵には有効であった。
「奴ら、上手く引っかかりやしたねぇ」
「数が多過ぎて避ける隙間がないんだろう」
事前に掘った落とし穴に向けて何の躊躇もなく突き進む敵兵の姿を見て、ギ・ズーは眉を顰める。確かにヴェドの言う通り、敵が罠に掛かったのは喜ばしい。折角用意した罠だ。少しでも活用して彼我の戦力差を縮めておかねばならなかった。
ヴェドには1匹につき300人倒せば良いと啖呵を切りはしたが、実際には限りなく不可能に近い。少なくとも、この目の前の敵は正々堂々たる一騎打ちなど望めぬ相手だということは分かる。
罠に落ちた人間を踏みつけにして進む敵兵を見て、ギ・ズーは相手の士気が異様に高いことを感じずにはいられなかった。
斜面状になった城壁の上からサザンオルガの兵達による投木と投石。事前にギ・ザー・ザークエンドからの助言を得て、斜面には常に油を撒いてある。
滑る斜面を必死に登ろうとしてくる敵に思う存分投石を喰らわせ、被害を増やしていく。四周を高い城壁に囲まれているバンディガム要塞だったが、その一部を作り替えることによって態と敵を一箇所に集中させる企図だった。
ギ・ザー・ザークエンドの手腕により、バンディガム要塞から後方の山岳地域は強固な防衛陣地として整えられていた。ラーシュカの死に意気消沈していたプエルが現場に復帰してから多少の助言は与えはしたが、殆ど修正を加えなかったことからも、その防衛陣地が完成度の高いものであることは周知されている。
大軍を少数で防ぎ止めることにおいて無類の実績を誇るプエルでさえ殆ど改修の余地がなかったところに、ギ・ザー・ザークエンドの手腕の高さが伺われた。そして、そのギ・ザーの指示に従って実際に動いたのがサザンオルガのゴブリン達だったのだ。
たった1000の兵力で30万に及ぶ兵力を防ぎ止める。その途方もない作戦に、ギ・ザー程の切れ者が無為無策でギ・ズーを送り出す訳がない。
ギ・ザーが立案し、ギ・ズーが成し遂げようとしていたのは、一言で現すなら遅滞行動である。徐々に後退しながら敵の勢力を弱め、本隊に合流する。無論これには様々な要素が加味されるが、彼らが企図していたのは時間を稼ぐことであり、30万を打ち破ることではなかった。
だが、最初から逃げ腰の発言などギ・ズーはするつもりはなかった。そんなことをすれば士気に係る。常に先頭を切るギ・ズーをして、時間を稼ぐことが第一だということは分かり切っており、ヴェドを始めとするサザンオルガの主要なゴブリン達も分かっていた。
では、バンディガムで何日粘るのか? これについてはギ・ザーもプエルも頭を悩ませたが、凡そ一か月程だろうと見積もっていた。
だが、この見積もりは大きく覆されることになる。
攻め寄せる30万の軍勢には統率者というものがなかった。狂気すら感じさせる程に只管前進を続けるその姿勢は、ギ・ズーをして低く呻かざるを得なかった。
罠に落ちた同胞を踏みつけ、落石や投木に巻き込まれた同胞を無視し、或いは踏み越え、一挙に斜面を駆け上がってくる。そして、油で滑り落ちる同胞を踏み付けて進んでくるのだ。
装備は武器以外殆ど真面な者は居ない。
革鎧すら着けていない者が殆どであり、それも男ばかりでなく、髪を振り乱す女や目を血走らせた子供、或いは呆けた顔で涎を垂らす老人まで含まれている。それだけを見ても異様な軍勢であった。
「こいつァ……」
ヴェドの声にも困惑が混じる。
敵の勢いが全く衰えない。一体何を信じているのか、或いは何に急き立てられているのか。喉が潰れる程に声を振り絞り、我武者羅に走り寄ってくる敵には命を惜しむという感情が完全に欠落している。
そんな予想を頭に浮かべ、まさかと首を振る。
今まで戦ってきた人間達は良くも悪くも人間らしかった。だが、ことアーティガンドの敵に関してはその限りではないらしいと、ヴェドは薄気味悪さに身震いする。
「火だ。燃やせ」
ギ・ズーはそんなヴェドの声を聞きながら、自らが前線に出る必要を感じていた。副官のヴェドからして迫りくる敵に怖気を感じているようなら、最前線の手下共はそれ以上だろう。
「序でに、俺が最前線に出る」
「……へい」
ギ・ズーが最前線に姿を見せると、それだけでサザンオルガのゴブリン達は勇気付けられる。
「どうした!? まさか、この程度で臆した訳じゃァあるまいな!」
よく響く声でギ・ズーが手下を励ますと、今まで正面の異常な敵の勢いに呑まれていた手下達がはっとした顔で“オヤジ”を振り返る。常に堂々と、自信満々にギ・ズーがそこに居るだけで、手下達は今まで恐れていた目の前の敵に対して不敵に笑う余裕を思い出す。
何も恐れることはない! 常に“オヤジ”が、俺達の戦いを見ていてくれるのだから!
ギ・ズーは各正面で戦っている手下を全て回って督戦すると、尖塔の上に登って再び全ての正面を視界に収める。
「一か月は持たんな」
「……ですか」
小さく呟いたギ・ズーの言葉に、ヴェドは相槌を打つことしか出来なかった。その日の戦闘が終わったのは夜も深くなってからだった。夜目が効く訳でもないのに執拗な攻撃を仕掛けてくる人間側の攻勢は包囲する軍勢を入れ替えながら続いたが、サザンオルガも良く耐えた。
死傷者こそ出なかったものの、疲労はかなりのものだ。明日もこれが続くのかと考えれば、如何に猛者揃いといっても暗澹たる気分にさせられる。
「手下共をニ組に分けるぞ」
「へい」
ギ・ズーの指示によって、ただでさえ少ない兵士を日毎に交代させるサザンオルガ。手下の消耗を少しでも減らそうとしたギ・ズーの配慮だったが、それは半ば成功し、半ば失敗する。
要塞としてのバンディガムは5000からなる兵力を収容出来る。それを1000ですら少ないというのに、その半分の500で防衛をするのは難しかった。疲労を取ることに関しては成功していたが、徐々に被害が出始めていた。
5日を過ぎた頃から重傷者が出始めた段階で、ギ・ズーはバンディガム要塞からの撤退を考え始める。これはギ・ズーが攻め寄せる軍勢に対して砦の物資を景気良く使ったのと、攻め寄せる軍勢が尽く罠に掛かったことが挙げられる。
そのお陰でバンディガム防衛の為に蓄えられた資材が徐々に目減りしてきたのと、敵の勢いにも陰りが見えてきたことが理由だった。
「夜陰に紛れて山岳地域に退く」
「へい。で、時刻は?」
「1刻後だな」
まんじりともせず眼下に広がる闇へ視線を這わせていたギ・ズーの声に、ヴェドは頷いて静かに手下達を起こしに行った。
「後、二か月と25日か……」
命を賭ける必要がある。ギ・ズーは再度決意を新たにし、同時に口元に笑みを浮かべた。
ギ・ズー率いるサザンオルガは闇の中で全員を集めると、傷だらけの城門を押し開く。必要最低限の声すら押し殺しながらサザンオルガは走る。夜目の効くゴブリンだからこそ出来る、一糸乱れぬ統率による夜間行動であった。
無言の内に敵を打ち払い、吐き出す息すら惜しむように駆け抜ける。吹き出る血飛沫を浴びて初めて敵が目前に迫っているという事態に、30万に迫る大軍勢だからこそ対処するのには時間が掛かってしまう。
その隙を突いて、ギ・ズーは殆ど抵抗を受けぬままに包囲網を突破し、山岳地帯へ撤退した。
◆◆◆
だが、状況は決して楽観出来るものではなかった。
徐々に追いつめられているのは、包囲されている時とそう変わらない事実である。山岳地帯に築いた砦は10日を待たずに攻略され、続いて野戦築城による抵抗を試みたが、それすらも圧倒的な大軍の前には濁流に抗う小枝も同然であった。
後二か月の時間を稼がねばならないというのに、既に最終防衛線である山岳地域の坑道へと追い詰められてしまっていた。更に悪いことに、食料が心許なくなっていた。
「飛翔艦か」
空中で打ち合う飛翔艦と龍達の咆哮が、地下に潜ったギ・ズー達まで響いてきている。
アーティガンドは7隻からなる飛翔艦群を使って、一息に山岳地帯を突破しようと試みていた。頑強な抵抗を続けるサザンオルガに手を焼いた30万からなる地上軍は、補給の問題と山岳地域で神出鬼没に現れるサザンオルガによって苦戦を強いられ、足止めされている状態だった。
ここまでは予想の範疇である。だが、飛翔艦の真価は人員や兵器を載せて行動出来るという点にこそある。飛竜達を満載して飛び立った飛翔艦が、それらを空中で展開させ、翼無き空蛇率いる龍達よりも有利に空域での戦いを進めている状況だった。
圧倒的な魔法弾の支援の下、飛竜騎士達は手にした竜槍を携えて龍達に襲い掛かる。ガウェイン率いる龍達ですら遠距離から飛翔艦の対魔障壁を打ち破ることは出来ず、接近戦では飛竜騎士団によって身体を切り裂かれる。
敗色濃厚な空の制空権は、徐々にアーティガンド側へ傾きつつあった。その中で細々と続けられるアルロデナ側からの補給支援も、断ち切られようとしていた。
更に地上で決着が着かないことに業を煮やしたアーティガンド側は、その理由を網の目のように張り巡らされた地下通路だと断定。それを潰す為に飛翔艦による地上への一斉射撃を断行し、蟻人の掘り進めた地下通路の幾つかを物理的に潰す手段に出た。
生き埋めになったのは数十人。
多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだったが、問題はそれによって補給路が寸断の危機に陥ったことだった。無限とも思える魔法弾の、しかも高威力かつ高出力のものが雨霰の如く降り注ぐ山肌は岩が剥き出しになり、その岩すらも砕いて地盤を沈下させる。
残り一か月という期間を残し、サザンオルガとゴブリンの王率いる本隊との連絡は完全に寸断されてしまった。
「後30日、か」
1000居た筈の兵力は既に700にまで減っている。長く激しい消耗戦で3割の損害を出し、残り7割の手下達も多かれ少なかれ傷を負っているのが現状だった。
その頃になると地上の30万と号する軍勢も地下通路をかなり正確に解明しつつあった。何せ、人数だけは豊富である。如何に暗闇が前に立ち塞がっても、その圧倒的な人数で埋めてしまう。
歯軋りながら手下の消耗と敵軍を足止めするという策を遂行するギ・ズーだったが、体力は無限ではない。手下と共に敵前に体を晒し、どの地点で抵抗するか考える負担は、想像以上にギ・ズーの体力と気力を蝕んでいた。
ロード級にまでなったギ・ズーからすれば、目の前に迫るのは圧倒的な弱者でしかない。狂信に身を焦がしていようとも、女子供に手傷を負わせられるなど不覚以外の何物でもない。
だが、その女子供の持っている武器だけは厄介だった。まるで小さな羽虫が群れ集まったような敵の大群。その羽虫の一匹一匹が手に負えない毒針を持っているようなものだ。
力は無くともゴブリンの肌を切り裂き、致命傷を与える。
当たり所が悪ければ骨すらも砕きかねない。気を付けるのはそれだけなのだが、それを無数に繰り出してくる敵勢を押し留めていれば、いつかは傷を負うのは必然である。寧ろ、まで擦り傷程度で済んできたことが、ギ・ズーの類稀な戦闘技術の高さと運の良さを物語っていた。
「この程度の傷でッ!」
脇腹と右足を貫かれたギ・ズーはそれでも前線に出ようとしたが、体は言うことを聞かない。
「くそ、いよいよか……! 後20日、何とか保たせねば、我が王に何の面目があって……!」
ギ・ズーは動かぬ体を引き摺るようにして坑道の中を進む。敵の食料を奪取し、代わりに坑道の一部を敵に占拠されて撤退中だったのだ。
その途中、遂にギ・ズーはヴェドの肩に寄り掛かるようにして意識を失う。
「……おい、てめえら」
ヴェドは体力の残っている200を選抜すると、ギ・ズーの身柄を預けて後退を指示する。
「夜の闇に乗じて地上を進め。プエル殿が御健在なら、救出の手を出してくれるだろう」
「叔父貴は、どうするんで?」
「俺か? 俺はなァ……」
壮絶に笑うヴェドは、残った手下を見渡して冥府の悪鬼すら怯ませるように嗤った。山岳地帯の地上部分は既に30万もの勇者の軍勢に支配されている。その中を突破させるのだから、無茶無謀を通り越して不可能と言い換えていい。
だが、ヴェドは全員の生還を考えていなかった。
「オヤジさえ生き残れば、俺達の勝ちだと思え!」
動き出したサザンオルガだったが、一つ問題が生じた。手筈は整え、後は実行するだけとなった段階でギ・ズーが意識を取り戻したのだ。
「……これは。くそ、どういうことだ!?」
意識を失っている間に地上に陣取ったサザンオルガ全軍。その姿を目にしたギ・ズーはヴェドに詰め寄る。
「ヴェド! てめえ、一体何考えてやがる!?」
「オヤジ……勘弁してくだせえ」
「何が勘弁だ! てめえ何を──」
「──オヤジは、俺達の太陽でありやした」
「──ヴェド。てめえ……!?」
その瞬間、ギ・ズーはヴェドが何をしようとしているのか思い当たった。
「戦が始まる前に教えてくださいやしたねぇ……。役目の話」
「それは、俺の!」
「お役目、確かに俺が引き継がせていただきやす。どうぞ、オヤジは王の下にあって忠勤をお働き下せえ」
「ヴェド、俺がそれで納得すると思ってやがるのか!」
抑える手下の手を振り払ってギ・ズーはヴェドに掴み掛かる。だが、ヴェドはそれを軽々といなして、ギ・ズーの鳩尾に強烈な一撃を打ち込む。咄嗟に屈み込むギ・ズーの首筋に手刀を叩き落として意識を刈り取った。
「親に手を挙げる不孝は、どうぞお許しを。だがまぁ、以前に貰った一発のお返しですぜ」
戯けるヴェドだったが、表情を正すと膝を折った。
「これでお別れです。オヤジ、どうか生きてくだせえ……!」
意識を失ったギ・ズーに膝を突いて頭を地面に擦り付ける。ヴェドは心底詫びを入れた後、振り返らずに手下に命じた。
「行け! サザンオルガの長ギ・ズー・ルオは、てめえらの命に替えても守り通して落ち延びろ!」
ヴェドは、ギ・ズーを連れた一団が闇に消えて見えなくなるまでその影を目で追っていたが、未練を断ち切るように手下に叫ぶ。
「おい、てめえら! 俺達の死に場所は此処だぞ!」
包囲せしは、無数に湧き出る人間の軍勢。
「親を生かす為に死に場所を得るなんざ、俺達にゃあ上等過ぎる! ここを突破して後20日、時間を稼いでから死ね! 分かったか!」
手勢を纏めると、ヴェドは包囲の一角を突き崩すべく突撃する。ギ・ズーが逃げて行った方角とは反対側へ突撃したヴェド達の目的は陽動である。
散々に暴れ回った後、再び地下通路の中に舞い戻る。500は居た筈のサザンオルガは、既に300にまで減少していた。
◆◆◆
ギ・ズーが目を覚ました時、周囲には心配そうに見守るゴブリン達と妖精族の姿があった。
「目が覚めたか」
声を掛けたのはギ・ザー・ザークエンド。冷徹なその表情を見上げている内に、徐々に意識が戻ってきたギ・ズーは思わずギ・ザーに掴み掛って怒鳴った。
「ヴェドは、俺のサザンオルガは!?」
「……」
ギ・ザーが無言で視線を飛ばしたのは、飛翔艦から猛射を浴びる山岳地域だった。
「……王は、我が王はどこにいらっしゃる!?」
「何をするつもりだ?」
「直訴する! もう一度俺を戦場に、あいつ等の所へ!」
「その傷でか?」
「こんなものが何だ!? 親は子供を見捨てない! 俺はあいつらを見捨てない!」
「却下だ。そんな必要はない」
「必要ないだと!?」
「お前のサザンオルガは壊滅状態だ。お前を守って脱出してきた者達も満身創痍で碌に動けん。どこにお前が率いる戦力が居る?」
「俺だけでも行く! いや、行かせてくれ! 頼む、ギ・ザー殿!」
「王の裁可は既に下っている」
「だから、その王に会わせてくれ!」
「必要を認めない。傷を治して次の戦に備えろ」
取りつく島もないギ・ザーの言葉に、ギ・ズーは唸り声を上げて拳を振り上げる。
「グルゥゥアアアア!」
咆哮を上げたギ・ズーはギ・ザーを殴り飛ばす。
「俺は行くぞ! 邪魔をするな!」
「……錯乱しているようだな。やはり戦場復帰は無理だ。取り押さえろ」
殴り飛ばされた衝撃で口の端から流れた血を拭いながら、ギ・ザーは努めて冷静に命令を発する。ギ・ザーの命令を実行しようとしたゴブリン達を振り解き、ギ・ズーは暴れる。
それを止めたのは、宰相プエルの言葉だった。
「王がお会いになります」
静かになるギ・ズーと、余計なことを、と聞こえよがしに呟いて舌打ちと共に非難の視線をプエルに向けるギ・ザー。
「尖塔にてお待ちになっておられます」
プエルの言葉に従い、血の滲む体を引き摺り荒い息を吐き出しながら、ギ・ズーは王の下へ向かう。
「……憎まれ役を引き受けずとも」
「そんなつもりはない。だが、もしギ・ズーが王に叛意を抱くようなら即刻処分する」
「分かっています」
「ならばいい。それに……」
「それに?」
「いや、何でもない」
思わずプエルに本音を吐露しそうになったギ・ザーは、鋭い視線を逸らした。
ギ・ズーが自身の命じた策で部隊を失った事実に変わりはないのだ。恨んでくれて結構だと思っていた。王に叛意を抱くより、自身を憎んでくれた方が未だマシである。
プエルの指示に従い、尖塔に登るギ・ズー。
その間にも傷を負った体は痛み、呼吸は荒くなっていく。だが、それでも休むことなく登り続ける。手下達は絶望的な戦いを行っているのだ。自分だけこんなところで休んでなどいられない。
やがて、尖塔の頂上で大剣を突き立てて山岳地域を見守る王の姿が目に入る。
「ギ・ズーか」
僅かに振り返ったゴブリンの王の背中は大きく。ギ・ズーはこんな時でもその雄大さに安堵を覚えた。
「王よ。我が偉大なる王よ。何とぞ、俺にヴェド達の救出の許可を!」
王は、直ぐに視線を山岳地域に向けた。
「……ならん」
「力不足は分かっています! ですが、何とぞ、何とぞ!」
尖塔の石畳に頭を擦り付けるようにして懇願するギ・ズー。だが、王の裁定は覆ることはなかった。
「……ならん。分かってくれ、ギ・ズーよ」
思わず叫ぼうとしたギ・ズーは王を仰ぐ。だが、王の握り締めた大剣の柄頭から血を滴らせているのを見て、思い留まった。
「……彼らは、今だ我が命を遂行しようと戦っている」
王の絞り出すような言葉に、ギ・ズーは山岳地域を見つめる。
「恨みたくば恨め。お前の意を汲んでやれない俺を、存分に恨むがいい」
「いいえ、そんな! 我が王を恨むなど!」
歯軋りしながら戦況を見守るのは、ギ・ズーもゴブリンの王も同じである。
「決して目を逸らしてはならん。そんなことが許される筈もない。ギ・ズーよ。気高き戦士達の戦いを邪魔してはならん」
「ウゥゥ……ウゥウウグルウルウォオオオアァアアアア!」
ギ・ズーは血を吐くように叫ぶ。そして拳を地面に壁に叩き付け、己の感情を制御しようと試みるが、その度に瞼の裏に浮かぶのはヴェド達サザンオルガの面々だった。
「俺はァ……俺はァ……アアアァァアアガアアアァアア!!」
ゴブリンの王は、無言のままに血を吐くようなギ・ズーの叫びを聞いていた。拳を、額を、地面に叩き付け、血塗れになったギ・ズーはまるで血涙を流しているようだった。
「死んで……死んでくれるぞ! ヴェドォ──俺はァ!!」
その後、サザンオルガは最後の十日間を山岳地帯で戦い抜き、王からの命令を完遂した。
その代償として、ズー・ヴェド以下サザンオルガの主力をなしたゴブリン達は全員戦死。山岳地帯を血に染めた遅滞行動は成功したのである。
ヴェドらの稼ぎ出した貴重な時間を使って、アルロデナは編成を完了。
王歴5年。初秋の頃を以て、アルロデナは再びの全面攻勢に移ることとなった。




