幕間◇神々の黎明
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──私達は、どこで間違ってしまったのだろう?
見下ろす大鏡に映る勇者の成れの果てと、それと争う己の子同然の配下の姿を見て、アルテーシアは憂いに瞼を落とした。
古き冥府の女神の侵攻から始まった大戦の際、確かに新しき神々は団結し、世界を創った筈だったのに。
◆◇◆
未だ世界は混沌の中に有り、原初の神たるクルティアルガと、母なる神ディートナの生み出した古き神々が強大な力を振るっていた時代である。
最後に生まれし火の神は、己の分身とも言うべき新しい神々を生み出した。
アティブ、ヘラ、アルテーシア、ヘカテリーナ、グルディカ、リューリュナ、ゼノビアである。
生まれたばかりの人間という種族と新しき神々にとって、既に存在している古き神々は正に“荒ぶる神”であり、他種族は圧倒的な力を持っていた。自然現象そのものの、圧倒的な力を備えた存在。それが古き神々である。その恩恵を受けた人間以外の種族は、人間よりも強い力、長い寿命、豊富な知識を持ち合わせていた。
現に、原初の妖精族や巨人や竜達などは、それぞれが神々に近しい力と知性を持ち、アティブを筆頭とした新しき神々と同等の力を持っていた。
そして、彼らの上位に君臨する荒ぶりし古き神々は自らの顕身を地上に降臨させ、他の神々と争うことを半ば公然としていた。一夜にして地形が変わることなど日常茶飯事であり、酷い時には火山が隆起し、湖水が干上がることも多々あったのだ。
原初の神と母なる神の亡き後、古き神々の力に対抗出来るものはなく、彼らは自由に世界を作り変え、数多の種族を創造し、また滅ぼしていった。
厳然たる弱肉強食。神々と神々の生み出したる者達もまた、その渦中に居たのだ。
新たに生まれたアティブを筆頭とした人間の神の力は弱かった。当然、彼らを襲うのは理不尽な現実である。種族として確立したばかりの人間では、当然神々に比する巨人や妖精族、竜達に勝てる筈もなく、ほんの気紛れで殺され、時には愛玩動物のように飼われることもあった。そんな時代が長い間繰り返される。
当時、その人間達の惨状に最も心を痛めていたのはアティブだった。生まれたばかりの神は無色の神であった。古き神々は、原初の神に自らの神たる座と意味を与えられて圧倒的な力を世界に振るう。だが、新しき神々は火の神の分身であり、神たる座は与えられはしても、神として存在する意味を与えられていなかった。
圧倒的な力は持ちながらも、その使い方を知らず、人間の為の神であるという前提だけがあり、どのような力を振るえるのかは全くの未知であった。
彼は自らと同じ立場のヘラを説き伏せることに成功する。
「私たちは協力し、他の神々に対抗して人間達を守らなければならない」
光輝に包まれたアティブは、“協力”することで古き神々に対抗しようと考えた。彼が後世において人間達に“国産みの祖神”と呼ばれるのは、神々に協力することを説いたからだった。
「ならば、私は彼らが生き残れるように知識を与えなければいけないわね」
アティブの熱意に賛同したヘラは、笑いもせずにアティブに助言を与える。
「では、先ず貴方に助言を与えましょう。アルテーシアを説得なさい」
「彼女は、人間の現状にあまり心を傷めていないようだが……?」
「だからこそ、貴方が説得する必要があるのではなくて?」
「……成程。そうなのかもしれない」
アティブの熱意に動かされたヘラは自らの定義を“知恵”とし、後世に知恵の女神と呼ばれることとなる。アティブの熱意にヘラの知恵が加わり、次第に他の神々を動かしていくことになる。
当時、アルテーシアは未だ幼い神であったが、気の強さと他の新しい神々に比べて力が強いこともあって、一目置かれている存在だった。だが、人間の神と言われつつも人間自体にそこまで強い愛情を感じていた訳でもなく、そもそも人間にそれ程強い関心を抱いていなかった。
「頼む、アルテーシア。君の力が必要なんだ」
燃えるような情熱的な瞳と灰褐色の髪。青臭い理想を語る青年の姿のアティブは真摯にアルテーシアの下に通いつめ、次第に彼女との距離を縮めていった。
「何故、貴方は人間の為に自分のあり方まで変えてしまえるの?」
「愛しているからだ。私は人間を愛している。その為なら私自身が変わってしまうことも怖くはないのさ」
優しげに微笑むアティブの言葉は、アルテーシアの心を動かすには十分だった。正直、羨ましいと思ったのは否定出来ない。神たる自分達が何かに執着し、心を砕くことが出来る。そんな経験は、彼女には無かったからだ。
幼いアルテーシアは、その時に誓いを立てる。
「貴方が人間を守るなら、私は貴方を守ってあげる」
「ありがとう……アルテーシア。嬉しいよ」
必然的に衝突するであろう古き神々と直接的に刃を交える立場となったアルテーシアは、その時に“勇気”の女神となった。
アルテーシアがアティブと協力関係になったことにより、グルディガとヘカテリーナ、そしてリューリュナやゼノビアが加わることになる。
6柱の神々が協力し合い、徐々に人間達はその生存圏を広げていくことになるが、未だその力は微々たるものだった。
擦れ違いというのは、気付かぬ内に忍び寄るものだ。
幾度と無く顕身として世界に降り立ち、古き神々の猛威と戦うアルテーシアに、アティブは次第に眉を顰めるようになる。人間達の力が徐々に大きくなるに連れて、アティブ達の力も強くなっていたのだ。
そして決定的な事件が起きる。アルテーシアが顕身としてとある巨人と戦い、勝利こそしたものの、山を削り、地形を変える程の被害を出してしまった。
「アルテーシア。私達は世界に顕身として現れるのを止めようと思う」
「それでは被害が増える一方でしょ? 未だ人間達では他種族に勝てはしない」
平行線を辿る両者の主張に、一定の妥協点を与えたのはヘラの提案だった。
「……ならば、我々の力の一部を人間達に貸し与えてはいかが?」
そうして加護が生まれた。
「それだけでは不安だな。俺は彼らの為に武器と魔法を創造してみよう」
グルディガは神々の力の一部を貸し与えると同時に人間でも扱える武器と魔法を創り出し、神々のものだった力を人間達に僅かずつ与えていった。
武器と魔法を手に、神々から加護を受けし人間達は、その力を今までの比ではなく増大させていく。大陸東岸にのみ生存していた彼らは、徐々にその数を増していった。
アティブは人間達を纏められる者に加護を与え、ヘラは考えることが好きな者に加護を与える。
そんな中、アルテーシアもアティブらに押し切られる形で目ぼしい者に加護を与えねばならなくなった。彼女が選んだのは、いつも集団から離れて興味の赴くまま歩き回る人間だった。
時折魔獣を狩り、それを生活の糧にしている若者。
気の向くままに外敵と戦うその姿に、いつしかアルテーシアは自身の姿を重ね、加護を与えていた。
「アルテーシア。君も私の考えに賛同してくれたんだね」
「……ええ」
アルテーシアが初めて人間に加護を与えた。それを見たアティブは嬉しそうに彼女の肩を抱く。
「どうやら、彼の伴侶は人を纏める事も出来るようだね」
彼女が加護を与えた者を見ていたアティブは、その者の伴侶に自らの加護を与える。
「私と君が、いつまでも協力出来るように贈り物をしよう」
「……」
裏表のない好意に、アルテーシアは戸惑いながらも頷いた。胸の奥に暖かなものが溢れてくるのを感じたが、その正体を確かめようとはしなかった。
やがて、彼らが加護を与えた者達が中心となって国を創る。
陽光いづる王国と名乗ったその国は、後世に統一王国との尊称で呼ばれることになる。とは言え、それは人間世界唯一の国という程度の意味合いだった。
未だ狭い人間の世界は、徐々に、しかし確実に順調な発展を遂げていく。村から街へ、街から国へ。安定した統治とグルディガが創り出す武器と魔法によって齎される安全。
その二つが、他のどの種族の国よりもアルサンザークを発展させた。
数が増えれば当然、その勢力範囲を広げようとする。それは人間も他種族も同様だった。加護を受け持つ人間達を中心に最初は少しずつ、次第に規模を増やし、彼らは生息域を広げていく。
最も近くに勢力圏を築いていた妖精族と争いになり、そして徐々に圧倒していった。
妖精族は確かに強大な力を有していたが、大きくても家族単位でしか勢力圏を築かずに広大な領域を支配していた為だった。故に、被害は出ても徐々に人間達が有利になっていくのは当然だった。
アルテーシアの加護を得た人間達も数を増やし、戦となれば先駆けとなって他種族と戦った。アティブは徐々に拡大していく人間の勢力圏に、満足そうに笑っていた。
妖精族の次は亜人、遂には巨人にまで勝利を収めた人間達の勢力範囲は、いつの間にか大陸の半ばまで進出してきていた。
協調を知らない他種族では、人間の創った国の力にどうしても勝てなかったのだ。
当時、新しい神々は絶頂期であっただろう。戦う為の勇気をアルテーシアが、勝利の為の知恵をヘラが、勝利する為の武器や魔法はグルディガが、僅かな幸運を引き寄せるのはリューリュナが、傷付き倒れた者にはゼノビアが、そしてそれら全てを纏めるアティブが協力し、勝利を得ていた。そして、その勝利をヘカテリーナが謳い、更なる勝利の呼び水とした。
種族としての人間の優位は確立され、他種族は西へと追われる一方になっていた。アルテーシアの認識では、大陸の生存圏を巡る争いでは人間の勝利は決まったようなものだった。
異変は、西にある最果ての地より天を覆う暗雲となって押し寄せてきた。
神々の戦いと呼ばれる冥府の女神の地上侵攻である。率いるのは、冥府に住まうとされる悪鬼の類。
「……古き神々の盟約破り?」
アルテーシアの疑問の声にアティブは頷き、ヘラは無表情に考え込む。グルディガは顔を顰め、ゼノビアは悲しげに目を伏せた。リューリュナは興味なさげに、ヘカテリーナはどうしたらいいのか分からずに、それぞれ視線を交わす。
「そうだ。彼らは冥府の女神を蘇らせた」
「何の為に?」
「私達への復讐だよ」
「復讐? 何故?」
アティブの言葉に、アルテーシアは納得がいかなかった。
古き神々と戦い、人間達は勢力を広げ、新しい神々は力を得た。だが、それは古の時代の古き神々も同じだった筈だ。なのに、何故復讐となるのか? アルテーシアは理解出来なかった。
「彼らは、私達が力を付け過ぎたと思っている。彼らの創造物の中には、既に我らに追われ、種族として絶えそうな者達も居るからね」
「だからって……!」
アルテーシアはヘラに視線を向ける。
「……兎に角、最果ての地から禍々しい者達が来るのは確かだ」
ヘラの言葉に、グルディガが同意を示す。
「武器と魔法の準備はもう少し掛かりそうだが、必ず間に合わせてみせる」
「今度の敵は、どんな奴らなのかしらね?」
リューリュナは酷薄な笑みを浮かべて、視線をヘカテリーナに移す。
「きっと大丈夫ですよ~」
周りを安心させるような笑顔を見せるヘカテリーナ。リューリュナとヘカテリーナは共に幼いが、それぞれの性格は真逆と言って良い。酷薄にして怜悧なのがリューリュナ。温厚にして篤実なのがヘカテリーナ。見事に正反対な女神達だったが、だからこそ気が合うようだった。
「良いね? アルテーシア」
「それが皆の総意なら、私は戦うのに異存はない」
僅かな違和感を感じながら、アルテーシアは頷いた。それぞれ己の加護を与える人間の様子を見に動く神々だったが、アティブはヘラとアルテーシア、そしてゼノビアを呼んだ。
「……聞いてほしいことがある」
そう切り出したアティブの言葉は、アルテーシアだけに向けられていた。
「ディートナとは何か?」
そこから始まるアティブの話は、アルテーシアですら知らない神々の話だった。
世界の理を決める装置。それがディートナだと。
嘗て原初の神はディートナを使い、この世界の理を定めた。神々と、その創造物達の関係。力と加護。武器と魔法のことまで、全てだ。
「これは好機なんだ。ディートナを奪い、私達がこの世界の理を定め直す」
「……世界を創造し直す、と?」
押し黙るヘラとゼノビアを確認して、アルテーシアが問い糺す。
「ああ、そうだ」
力強く頷くアティブに、アルテーシアは頷き返す。
「全ては勝利の後に、だな」
「また期待させてもらうよ。アルテーシア」
「アティブ……」
アルテーシアが立ち去ったのを確認し、ヘラはアティブを睨む。
「……アティブ。何故、アルテーシアを騙すんだ」
「……彼女は純粋過ぎる。分かってくれ、ヘラ」
古き神々は長き闘争の果てに往年の力を失い、新しき神々の代表たるアティブに降伏を申し入れていた。その条件としてアティブが出したのが、世界変革装置の引き渡しだ。
敗れて屈辱を感じている古き神々が、ディートナを簡単に引き渡す筈がない。そんなことに気が付かないアティブではない。
故に、ヘラはアティブがこの戦を引き起こしたのだと糾弾する。
「ならば、何故ゼノビアをこの場に呼ぶ?」
「私は……」
「彼女は、この企みに同意している」
驚きと怒りに目を細め、ゼノビアを見るヘラ。
悲しげに瞼を伏せ、ゼノビアはアティブの言葉に頷く。
「ディートナは既に解放されてしまいました。このままでは地上世界は闇に覆われます」
そんなことはヘラにも分かっている。分かっていて尚、その原因を導いたアティブの味方をするのかと、ヘラはゼノビアを睨め付けた。
「人間達のこれからの繁栄を考えれば、これが最善なんだ」
「その人間達の過半数と数多の種族を滅ぼした上で、か?」
「我らは人間の神だ。そうだろう? ヘラ」
ヘラは、その言葉に歯噛みして踵を返す。
「協力はする。ディートナは止めなければならない」
「……」
無言で見送るアティブの傍には、ゼノビアだけとなった。
「……ゼノビア、私を愚かと笑うか。私は恐ろしいのだ。ディートナを使い、世界を定めたクルティアルガは、もう居ない。それはつまり、神々にすら死があるということだ」
嫋やかな乙女のゼノビアに縋るように、彼女を抱き締める。
「私は恐ろしい。私が死んだ後、愛する人間達はどうなってしまうのか……! 私は、私は……」
「……大丈夫です。きっと大丈夫」
慰めることしか出来ないゼノビアは、己の力不足を嘆きながらもアティブの不安を和らげようと、彼の髪を撫でる。
そして、世界の理を決める戦いが始まった。
◆◇◆
押し寄せる冥府の軍勢に、勇気の女神の加護を受けた者達は必死に抗った。そして顕身を自ら禁じたアルテーシアは、彼らに加護という形で自らの力を分け与える。
その加護が最も色濃く反映されたのが勇者である。人間の中に突如として現れ、神の加護に適応し、より多くの力を受ける者達。彼らの傍らには、目には見えなくとも常にアルテーシアが降り、神威をもって冥府の悪鬼達を怯ませていた。
また、勇者がその武運拙く生命を閉じる時、必ずアルテーシアがそれを看取った。
長く、多大な犠牲を伴う戦だった。
古き神々はその戦で弱りきり、そんな古き神々をヘラの提案で味方に付ける。また、古き神々の創造物達も同様だった。最早大陸を制覇する勢力は人間を置いて他に無く、彼らもまた冥府の軍勢に敗北を喫するよりは人間と共に戦うことを選んだのだ。
冥府の軍勢も、地上の世界の理に縛られながら戦を続けた。
数代を重ねる内に冥府対地上の構図は崩れ、生存競争の様相を呈してきていた。地上に根を張り、繁殖を繰り返す魔物の軍勢を、人間側が駆逐していく。
長く続いた戦で、アルテーシアの力は神々の中でも群を抜いていくようになる。人間だけでなく、共に戦う妖精族や亜人にも加護を与えていた為だ。
当然、アティブはそれに反対する。
「人間以外に力を分け与えるのは危険だ!」
だが、アルテーシアはアティブの意見を一蹴する。
「彼らに力を与えねば、人間が危機に陥る!」
アルテーシアにとっては些細な衝突だと考えていたことが、アティブにとってはそうではなかったのだ。間の悪いことに、この頃になるとアティブとアルテーシアでは、アルテーシアの方が強くなってしまっていた。
アティブは、密かにアルテーシアを排除することを決断する。
冥府への進入路は深淵の砦の奥深くにしかない。冥府から溢れ出す魔素で森の木々は撓み、拗れ、そこに生息する動物は異常な進化を遂げている。
そこに軍勢を差し向け、少数精鋭で冥府への入り口を封鎖する。
人間の中から選ばれたのは、当代の勇者2人。歴代最高の炎の使い手とされる炎の聖女と武神。他にも、妖精族から黄金の大鷲。軍の指揮者としてアルサンザークの赤き剣持つ王太子などが参加した。
当然、激しい抵抗が予想されたが、その予想された尽くをグレコの指揮で切り抜ける。アティブの加護を持つ彼は、後にアルサンザーク最高の将軍と讃えられる。
アルテーシアも勇者2人の傍らにあり、その戦の行く末を見守っていた。
そして、人間側は遂に魔物の激しい抵抗を防ぎ止め、深淵の砦の内部に勇者達を送り込むことに成功する。ファルコらが露払いを買って出たに、勇者2人の力は温存され、殆ど無傷で冥府の門に辿り着くことに成功する。
アルテーシアすらも見上げる巨大な門。その門扉の内側は、神すら見通せぬ深い闇が広がっていた。
──冥府の門は、外側と内側から協力せねば開くことはない。
アティブの助言に従い、勇者2人は冥府の中に入って門を閉めねばならない。体を張って彼女らを導いたファルコ達とは門の前で別れ、冥府の門を潜る。常に勇者と共にあるアルテーシアも同様だ。
その通路は、不思議なほど静かであった。
冥府の者達は全て地上へ出てしまったのか、暗闇の広がる通路に敵の姿はない。
そうして勇者2人と女神の一柱は遂に辿り着いた。
世界を変革するディートナの亡骸だ。
岩盤の中に半ばまで埋まり、背からは羽だったものが生えている。半ば朽ちた背の羽は白骨化していた。巨人と見紛うばかりの巨躯。既に骨だけになった筈のディートナの亡骸は、未だ生きているかのように威容な存在感と圧迫感をもって、そこに佇んでいる。
白骨化した眼窩の落ち窪んだ奥底から見つめられているような、そんな錯覚を覚えた。
──何が起きるか分からない。気を付けて行き給え。
その時、アティブの言葉がアルテーシアの脳裏に反芻された。物憂げな彼の態度と、何かを押し殺すようなゼノビアの表情。何かが引っ掛かるような違和感。
「……これは」
「罠、という訳ですか」
2人の勇者の声がアルテーシアの思考を中断させた。見れば、死せるディートナの亡骸から這い出てくる蛇の群れ。その力は、彼女が今まで打ち払ってきた原初の生物達に近い。
当然のことに、アルテーシアはその場になって初めて気が付いた。
内と外から協力せねば扉が開かないというならば、誰が内側から開けたのか? その中には、当然外に出たがっていた何者が封印されていなければならない筈だ。
少なくとも、古き神々の誰かしらは冥府と連絡が取れ、彼らと取引が出来る筈ではないのか?
炎の聖女の雨の如き炎が蛇達の頭上へ降り注ぎ、武神と呼ばれた女の剣撃が巨大な蛇を両断する。だが、ディートナの亡骸を守る蛇達は冥府の住人である。炎に焼かれても脱皮するように皮を脱ぎ捨てて炎を抜け出し、両断した蛇の体からは新たな肉体が生え出す。
二人の勇者を励ますアルテーシアだったが、勇者達の奮闘は涙ぐましい程だった。寿命すら削って奮闘する勇者達の活躍もあり、蛇達は徐々に大人しくなっていったが、最後の蛇を暗き闇の向こう側まで押し込んだのと、変化が起きたのは同時だった。
死せるディートナの亡骸が細かに振動し、咆哮を上げたのだ。まるで生み出した子の死を嘆き悲しむ親の如く悲痛に、どうにもならぬ痛みに胸を掻き毟るように、死して白骨と化したディートナは悲嘆の声を上げると、突如として岩盤の中に埋まっていた体を引き抜き始めた。
危険を察知したアルテーシアだったが、それは勇者達も同じだった。そして退く訳にはいかないのも、また同じである。勇者達はあらん限りの魔法を放ち、剣を振るったが、蛇達との激闘を終えた直後の彼女らに力が残っている筈もなかった。
傷付き、疲れ果て、今や命すらも風前の灯火となった彼女達。加護を与えし神に祈りの言葉を吐き出した彼女らの前に顕現せしは、弱き人の守護神にして怯懦を振り払う勇気の女神の御姿。暗き夜に旭が昇り、一条の光が闇を割って世界を照らす神々しさ。
恐怖に震え、意志を折られそうな時、その者を助け、意志を貫かんとする一条の光のように、彼女は姿を現す。
アルテーシアが顕現したのは、彼女ら勇者を助けるのと同時に、地上に居る人間の神々を救う為でもあった。
二人の勇者の眼前に姿を現すアルテーシアの手には、鍛治神が鍛えし神代の剣。それを一切の容赦なくディートナの頭に振り下ろす。
その一撃は輝ける勇気の在り所を示し、力無き者を守らんと欲する女神の恩寵である。
砕け散るディートナの亡骸と、冥府を満たす新たな光。その瞬間、冥府は新たな神の存在に鳴動した。
神無き世界に、新たな神が降臨した瞬間である。新たな支配者にして、その世界における全知全能の神。その座が、たった今アルテーシアに引き継がれたのだ。
そして、砕け散ったディートナの亡骸は風となって冥府の入り口に向かう。
反射的に流れ込む知識。その世界を包む全てが書き換わる。その瞬間こそが、アティブが待ち望んだものだった。流れ込む知識からそれを理解した瞬間、アルテーシアは駆け出していた。
冥府の入り口へ。アティブが望んで已まない筈の、その場所へ。
彼女が辿り着いた時、そこには既に厳重な封印が施されていた。遅れて来た勇者達の目にも映った筈である。彼女らを生贄に、冥府を閉じようとする者達の姿が──。
「アティブ……! 裏切ったな!」
「グレコ……貴様っ!」
既にその世界の神となったアルテーシアは冥府から出ることが出来ない。厳重な封印もさることながら、古き神すらも手を貸していたからだ。だが、生前の姿である光輝満ちる七対の羽を持つディートナに、何事かを願うアティブの姿は容易に想像出来た。
勇者2人を冥府まで送り届けた者達の亡骸と、その背後で血塗れた剣を引っ下げたグレコ・ベル・アルサンザークの姿を見た時、勇者達も裏切りを知った。
ディートナはアティブの言葉を聞き届けると灰となって崩れ落ち、再び冥府の底へ沈んでいった。まるで湖水から顔を出した妖精のように、地上世界では麗しき女神でありながら、冥府の底にある半身は白骨化した死者のもの。
「さらばだ」
冷笑すら浮かべるグレコの言葉にシルヴィアは絶句し、エリザは血を吐くような復讐の言葉を叫んだ。
「必ず復讐してやる! お前らの国、民、血筋! 私はその全てを決して許しはしない! グレコ! グレコ・ベル・アルサンザーク! 貴様の全てに永劫の呪いあれ!」
全てを知っていてアルテーシアを導いたアティブもまた、同様である。
「アティブ……っ!」
彼女の怒りは、既に世界の怒りである。
山は火を噴き、空は荒れ狂う。冥府にあるもの全てが彼女のものであった。
だが、どれほど怒り狂っても彼女の力は冥府以外には及ばない。それこそがアティブがディートナに願った世界の理である。荒ぶる神々の力を抑制し、愛する人間達の生きていける世界の実現。アティブは自分を信じた神すら欺き、その世界へと踏み出したのだ。
「アティブ!!」
徐々に閉じていく冥府の門の内側で、彼女は裏切った愛しき者の名を呼ぶ。深い絶望を憤怒に変え、彼女は冥府の奥底へ沈んでいった。
◆◆◆
そうして彼女は冥府の女神となり、自身が荒ぶる神となって世界を敵に回すこととなる。
冥府の門の厳重な封印を解く手引きをしたのは知恵の女神。事情を知り、アルテーシアに同情的だった彼女はアティブの齎した平穏と腐敗が地上を包む中、姿を隠して冥府へと向かい、アルテーシアと話し合いの場を設けた。
だが、冥府に取り込まれたアルテーシアは、その精神をも半ば冥府のものとしていた。最早アティブとの和解は不可能であった。何より、彼女は暗き冥府の底で考え続けていた。
世界をどうすべきか。
冥府に落ちて尚、人の神たるを剥奪されていない彼女は考え続けていたのだ。アティブが自身の司る団結と協調を捻じ曲げてでも成し遂げたかった人間だけの世界。
それと対立出来る概念を持ち出さねば、戦いにすらならない。彼女の冷静な部分は考えるのを止めなかったが、感情的な部分ではどうしても裏切った者を許せなかった。
怒髪天を衝くが如き憤怒に身を焦がす彼女は、どうしても裏切りを飲み下すことが出来なかった。著しく力を弱めて地上へ抜け出る方法を知ったアルテーシアは、力を最低限にまで抑えて地上に顕現。
4匹の巨大な力を持つ眷属神を従えて、再び神々の戦を始める。
その中には魂すらも同化し、地上世界へ復讐を誓ったあの勇者達の姿もあった。
しかし、如何に強大な力を誇ろうとも世界を敵に回しては勝てる筈もなく、結局敗退を強いられる。だがその際、アルテーシアとアティブの世界を導く理の明確な違いが明らかになった。
人間だけの世界を築こうとするアティブに対して、それ以外の種族をも受け入れるアルテーシア。勝利者に従うという条件付きではあるものの、アティブの理に賛同出来ない者達を従え、纏め上げる明確な概念を得たのである。
そして、それ以来400年。彼女の、そして無念の内に死したる者達の満願成就を地上に現出させる駒を地上に持つことが出来た。
あと一歩。あと一歩で宿願が叶う。
その筈なのに、彼女の瞼に浮かぶのは愛しき人の面影ばかりであった──。




