遭遇戦
地下道が開通するまでの間、陽動をかける必要がある。
そう言い出したのはガイドガ氏族のラーシュカである。軍議において、その発言を耳にした者は一人の例外もなくラーシュカを凝視し、次いで己の耳を疑った。それは常に超然としているゴブリンの王も、冷徹なる宰相として辣腕を振るうプエルも含め、1人の例外もなくである。
「……あのラーシュカが、真面な戦術を提案しただと……?」
ギ・ズー・ルオが思わず呟いた言葉は、その場に居る全員の思いを代弁していた。
「……まぁ、その必要は在る、と思いますが……」
普段は決然とした態度で物事を進めるプエルが、歯切れの悪い言葉と共にゴブリンの王をちらりと見た。
「……尤もな意見だ」
何とか威厳を取り繕ってラーシュカに答えたゴブリンの王だったが、内心では首を傾げていた。
「そうだろう、そうだろう。当然だな!」
満足そうに頷くラーシュカは、周囲を見渡すと口元を好戦的に歪める。
「で、だ。当然ながら、その役目には少数精鋭であり強力な部隊が必要になる」
その意見も至極真っ当であったので、ラーシュカを除く全員が頷く。
「少数精鋭の兵といえば、我がガイドガ氏族を置いて他にはおらん。つまり……」
王の特務兵として数の充実を図っていたラーシュカ率いるガイドガゴブリンは、その兵数を1000近くにまで増加させていた。
ガンラゴブリンが作る鉄製の武器防具で身を固めたガイドガゴブリンは、滅多なことでは死ななくなった。また、王が最前線に出ない間、ラーシュカも積極的に最前線に出ようとはしなかった。東征が始まってから、ラーシュカを始めとするガイドガ氏族は数を増やすことに重点を置いていたのだ。
「この任務は、我らにしか──」
「いや、それは違うぞ!」
視線を鋭くしたギ・ズー・ルオが、ラーシュカに食って掛かるように発言する。
「我ら千鬼兵とて、ガイドガ氏族に劣るとは思えぬ!」
「ほう? 小僧っ子が言うではないか」
狂神の加護を受け、戦闘になれば比類なき勇猛さを発揮するギ・ズーを小僧扱いするのは、ラーシュカぐらいのものだろう。
角突き合わせるが如き喧々囂々の言い合いの結果、二匹は王の裁定を仰ぐ。
「ラーシュカに任せる」
「何故です!? 王は我らの力をお疑いか!?」
如何なる敵に対しても臆さないギ・ズーの悲鳴に、ゴブリンの王は苦笑する。
「今回の陽動の任、その重要性を認識し先に必要性を説いたのはラーシュカであろう」
「それは、確かに……」
悔しさを滲ませながらもギ・ズーは認めざるを得ない。
「であれば、その任務を最も理解していると考えられる」
王の裁定は理に適ったものである。少なくとも、ギ・ズー以外のゴブリン達はそう考え頭を下げた。
「……王の裁定に異を挟むなど、我が不明でした。ご容赦を」
「良い。ギ・ズーの戦意に免じて、許す」
「有難き幸せ」
ラーシュカ率いるガイドガ氏族は、鉄の国エルファからアーティガンドへ向かう山脈地域にて陽動を掛けることになった。それと前後して、ギ・ズー・ルオは配下のズー・ヴェドを伴って、ギ・ヂー・ユーブの元へと通い詰めることになる。
「俺に戦術を教えて欲しいのだ!」
「俺ァ、別に良いんですが……ってぇ!?」
必死なギ・ズーは消極的なヴェドの頭を殴りつけると、自身とヴェドの頭を地面に擦り付けるようにしてギ・ヂーに頼み込む。
「ギ・ズー殿が戦術を覚えれば、より一層我が君の力となり得ます。是非とも協力しましょう」
ギ・ヂーは、東征の間行動を共にしていたギ・ズーの実力を高く評価していた。部隊の運用は荒削りだが、その突破力は他の人間の部隊を始め、ゴブリンの部隊さえも追随を許さないものがある。
そんな彼らが戦術的に動くとなれば、ゴブリンの王の覇道において大きな力となるだろう。
そう思うからこそ、ギ・ヂー・ユーブは自身の知る戦術の知識を惜しみなくギ・ズーに分け与えた。
だが、この時のギ・ヂーは何事にも得手不得手というものが在るのだということを知らなかった。
根気強く戦術の何たるかをギ・ズーに教えるギ・ヂーだったが、模擬戦をする度に弱くなっていくギ・ズーの部隊の運用に頭を抱えることになる。
悩みに悩んだギ・ヂーは、自身が戦術の師と仰ぐプエル・シンフォルアに教えを請うことにした。
「プエル殿。どうぞ、私の……いえ、我が軍の危機に知恵をお貸しください」
真摯に頼み込むギ・ヂーに対して、プエルは二つ三つの助言だけを与える。
「本当に、それだけで?」
「恐らく、それで充分でしょう」
半信半疑ながら、ギ・ヂーは教えられた通りにギ・ズーを指導する。すると、見違える程に部隊の動きが良くなった。ギ・ズーも、そしてそれを教えたギ・ヂーですら、その変化に驚いていた。
数日後、これでラーシュカに勝てると息巻くギ・ズーを放置して理由を聞きに来たギ・ヂーに、プエルは微笑みながら答えた。
「簡単なことです。ギ・ズー殿に難しいことは分かりません。当然、彼の下に集まった者達もそうでしょう。ですから」
「命令を突撃と後退だけにして、ギ・ズー殿の旗を追わせる形にした……ということですか」
「ええ。命令とは単純な程効果が高いものです。特にギ・ズー殿のような、常に先頭に立つ将が兵を巧みに動かそうとするなら、より簡潔な命令が効果的でしょう」
「つまり、私はギ・ズー殿に教え過ぎていた、ということでしょうか?」
「そうなりますね」
「……成程」
深く頷いたギ・ヂーだったが、ふと思いついたように疑問を呈する。
「ですが、今まで打ち破った者の中には最前線で巧みに全軍を動かす者も居ましたが」
「何事にも例外はありますよ。それに、戦とは理性と直感の狭間にある、と言われています」
「直感ですか……」
「本来、ギ・ズー殿は直感で動く将です。だからこそ、迷いの中に居るのでは?」
「かもしれません」
蛮勇と直感を頼りに戦を組み立てるという発想は、ギ・ヂーには全く未知のものであった。明確な力の差と積み上げられた理論こそが、戦全体を動かす。激情を知るからこそ、その危うさを知っているギ・ヂーはプエルの話に考え込む。
「良い知見を学ばせて頂きました」
退出していくギ・ヂーは、新たな境地を開かれたように嬉しげであった。
◆◇◆
旧エルファの国境と神聖帝国アーティガンドの境にあるバンディガム要塞。
隣国エルファとの主要な経路の一つを塞ぐこの要塞の重要性は、勇者による軍政改革後も揺らがなかった。西方に混沌の子鬼の打ち建てたる黒き太陽の王国が勢力を伸ばし、隣接する今となっては、寧ろその必要性は更に上がっていると言っても過言ではない。
東方最大の宗教組織である“教会”が直属の聖騎士団を派遣していることも、それを裏付けている。前任の総大主教が聖女戦役に巻き込まれて行方不明となった教会は、アルロデナを神敵と認定し、勇者を魔物の侵攻から人間の世界を救う救世主であると宣言した。
その一環として、教会は勇者と軍事的な同盟関係を結んでいる。
その為の聖騎士団。その為のアリエノール率いる3番隊である。
祖神アティブこそが至高の神であるとする“教会”の教えは、人間は神々の寵愛を受ける最優の種族であると説く。主流と傍流の違いこそあれ、人間至上主義の彼らの中から強固な意志と高い戦闘力を認められた者が聖騎士団に入る資格を有するのだ。
「魔王軍が攻めてきたと?」
宿の一室で向き合うラスディルは疑問を口にすると、視線を正面の少女から彼女の後ろで静かに佇む青年に向けた。
「山脈地域を越えている軍があると、狼煙で報告がされています」
未だ少女と言って差し支えないアリエノールの言葉に、ラスディルは僅かに眉間に皺を寄せる。
「で、我らに何をせよと?」
「この度、我が聖騎士団3番隊は魔物の軍の討伐を命じられました。その討伐にご協力頂きたいのです」
断られることを微塵も考えていない少女の願いに、ラスディルは僅かに視線をユアンに向ける。軽く頷くユアンを確認して、ラスディルはその申し出を受けることにした。
「……分かりました。我ら鉄牛騎士団、敗北という汚名を雪ぐまたとない機会」
「ありがとうございます」
満足気に頷くアリエノールと別れると、ユアンとラスディルは実務的な話に移る。
「兵数は?」
「我ら三番隊及び義勇兵を少し加えた1000程です」
「そこに我らを加えて、約3000か」
兵種は当然歩兵が主体だった。山脈地域は騎馬戦が展開出来る地積がなく、指揮者と伝令用の騎馬が用いられるくらいで、騎馬隊を組織する意味を成さない為だ。
兵糧・武器・防具・負傷者が出た場合の治療と手当、そして報酬。
軍という組織を維持していく為には、作戦面まで見てこれだけの雑多な実務をこなさねばならない。国家ならば兵站部門などを立ち上げ、そこに管理を任せたりもする。
現に、アルロデナで東征軍の兵站を管理しているのは“失言多き天才”の異名を取る敏腕の官僚である。
「飛竜騎士団は参加するのか?」
空から俯瞰出来れば、得られる情報は格段に増すだろう。それを期待したラスディルの質問に、ユアンは首を横に振る。
「残念ながら指揮系統が違います。それに、飛竜達は高い山々は苦手としています」
「敢えて苦言を呈させてもらうが、万全の態勢で臨んだとて魔王軍に勝てるかは分からんのだぞ?」
「ご尤もです。私の方から再度上申させて頂きます」
深く頷くユアンを確認して、ラスディルはもう一歩踏み込む。
「……まぁ、それはいいとして、問題は報酬だ。我ながら浅ましいと思うが、それを口にせねばならんのが私の立場だ。理解して頂けると思うが」
「ええ。充分とは言い難いでしょうが、出来る限りのことはさせて頂きます。無論、旧エルファの方々にも」
「ご配慮感謝する」
ラスディルとしては、旧エルファの避難民への少しでもマシな待遇の改善を要望せざるを得ない。
手に職を持つ者は未だ良い。着の身着のままで逃げてきた住民も居るのだ。食べていくだけなら、提供されるパンなどで死にはしない。だが、それは本当に最小限のことなのだ。それに加えて、不安定な生活は精神的な余裕を奪う。一国を代表する立場になって初めて、ラスディルは先の戦を悔いていた。
──誇りで飯は食えねえ。
いつだったか、レッドキングの盟主サーディンが皮肉げに笑ったのを思い出す。
民を食わせていかねばならない。
一国の騎士団長には、荷が重過ぎる責務だった。
だが、それでも彼の双肩には旧エルファの民の生命が掛かっている。それを放り出す程自分勝手にはなれず、若きラスディルは傭兵紛いの方法でしか民を養う術を知らなかった。
◆◆◇
軍隊と娼婦は、切っても切れない関係である。
力の強い者は男が多い。如何に魔法や武技があろうとも、純粋な筋力という面では男の方が圧倒的に強いからだ。故に軍人と娼婦は持ちつ持たれつの関係であり、当然バンディガム要塞にも娼館は存在する。
その娼館には“格”というものがある。
勇者の軍政改革前は貴族御用達の店と兵士が利用する店は別であったが、軍政改革後は士官用と兵士用に分かれている程度になっていた。
ガランドは個室に席を取り、独り酒を飲んでいた。
辺境伯軍は、義勇軍の任務を解かれていた。エルファは陥落し、脱出する民を救ってアーティガンドへ戻ったものの、当初の目的である隣国の救援は失敗したという形になっているのだ。
「……」
ガランドとて不本意ではあるが、捨て駒にされたというのが実情だろう。
だが、ガランドが無性に腹立たしいのは捨て駒にされたことではなかった。戦で無傷で終わる筈がないのだから、捨て駒が存在するのは仕方ない。死んだ奴は運が悪かったか実力が足りなかったか、そのどちらかなのだ。
問題は、その捨て駒を使ってさえ、ゴブリン共に大きな損害を与えられていないということだ。
今回の義勇軍派遣を決定した中心人物は、勇者だという。
「ふん、勇者……か」
貴族の力を削ぐ為に今回の義勇軍を仕組んだのだとしたら、とんだお笑い草だ。
そんなことで本気でゴブリン共に勝てるつもりなのだろうか? あのゴブリンの王が擁する兵達は強靱にして精強である。
結局、アーティガンド内の派閥抗争か。その程度の先見の明しかないのなら、遅かれ早かれこの国も滅ぼされるだろう。
不愉快な気持ちと共に、酒を喉の奥に流し込む。
「……失礼します」
いくら飲んでも少しも酔えないガランドの耳に、怯えたような声が聴こえる。
視線だけで開いた扉の方を確認すれば、未だ少女と言って良い年齢の娘がおずおずと進み出てきていた。
「呼んだ覚えはねぇぞ?」
「……女将が相手を、と」
目を細めたガランドに、少女は目を伏せる。
「……」
「……」
見れば、病的と言っていい程、痩せぎすな少女だ。
この世の不幸を一心に背負ったかのような暗い表情。暗い深緑の髪が俯いた顔に掛かり、その表情を隠している。
「……座れ」
「……はい」
僅かに足を引き摺るような仕草でガランドの隣まで来ると、寄り添うように座る。
「失礼します」
黙って酒を飲み続けるガランドの横に座ると、怯えたような視線でガランドを伺う。高級娼婦と言われる女達なら、相手に合わせた会話や話題を提供するものだが、彼女は少しもそれらしいことをしない。ただ黙ってガランドに酒を注ぐだけである。
「……元は、武家の娘か」
見下ろされる形になった娘は思わず硬直し、その拍子に注いでいた酒が零れてガランドの膝を濡らす。
「も、申し訳ありません」
慌てて濡れた衣服を拭く少女だったが、その様子は暴力に怯える奴隷に近しいものを感じさせた。
「……帰る」
「っ……はい」
悔しそうに唇を噛みしめる少女に背を向けて、ガランドは個室を出る。
「おい、女将」
帰り際に店を取り仕切る女主人を呼ぶと、財布から金貨を投げ渡す。
「あの娘に心付けしておけ」
娼婦に与えるには法外な金額に驚く年増の女将を無視し、ガランドは店を出る。
「下らねえぜ。全くよ」
割り当てられた宿舎に戻ると、己の大剣を取り出し、誰も居ない練兵場でただ只管に剣を振るった。
◆◇◆
「首尾は?」
「うむ。上々だな」
ガイドガ氏族が陽動の任務を引き受ける。それをラーシュカが提案した背景には、影から糸を引いていたギ・ザー・ザークエンドの存在があった。
鋭い視線をラーシュカと交わし合うと、ギ・ザーは首尾良くガイドガ氏族が陽動の任務を引き受けたのを確認する。
「知恵者と言われるだけはあるな、細いの」
「ふん。当然だ」
ギ・ザーは、プエルが宰相の任務に付いてから軍師として戦場で指揮権を振るう余裕が無くなったことを見抜き、独自に軍学を学んでいた。蓄えた知識を更に実戦で磨く為、ラーシュカの偵察の任務を提案したのだ。
これには、ラーシュカも無論同意済みである。
元々ラーシュカは、己の氏族の数が増えてきたことでその力を発揮できる場所を探していた。
今、アルロデナで最大の功績を立てているのはゴブリンの王麾下の4将軍である。辛うじてラ・ギルミ・フィシガはその中に入っているが、後方の守備部隊という功績を上げ辛い地位に付いている。氏族の数が少ない為、自身が大軍を要する将軍という地位に就くことが難しいのはラーシュカとて分かっている。
だからこそ、武功を立てる場所をラーシュカは望んでいた。
嘗て、始祖たるガイドガは壮烈なる玉砕によって歴史に不朽の名を刻んだ。最後の最後まで戦い抜いたからこそ、彼の名は朽ちること無く氏族に受け継がれて来たのだ。
「人間の反撃は強烈なものになる。覚悟の上だな?」
ギ・ザーの言葉に、ラーシュカは頷く。
「無論だ。そうでなくてはならん」
獰猛な笑みを浮かべるラーシュカに、ギ・ザーは鼻を鳴らして視線を逸らした。
「それならいい」
2匹の思惑が重なった陽動任務は、ラーシュカを主将としてギ・ザーが補佐をするという形で出発した。
ギ・ジー・アルシル配下の斥候兵達から情報を集めると、人間の監視網を一つ一つ潰すことを選択する。
「逃げる相手を殺す戦では、武勲は生まれんなァ」
気乗りしないラーシュカに、ギ・ザーは苦言を呈する。
「態々此方の情報を敵にくれてやる必要はない」
「こんな退屈な仕事は、それこそ斥候兵にでも任せれば良いだろうに」
山脈地域はエルファ側とアーティガンド側に分かれているが、そのエルファ側から進む行軍は遅々として進まない。ギ・ザーは陽動が目的であるのだから敵中深くにまで入り込む必要はないと考えていたが、ラーシュカは陽動とは言え実際に戦わねば意味が無いと主張する。
「……慌てなくとも、敵は直ぐに出て来る」
「本当だろうなァ?」
「無論だ」
自信満々に言い切るギ・ザーに、ラーシュカは首を傾げる。
人間側は飛竜騎士団という強力な駒を持っているが、ギ・ザーの見たところ決して万能という訳ではない。
気象が悪ければ飛べないだろうし、長時間飛ぶことも難しいようだ。何より火炎龍ドゥーエの存在。これがある限り、そう易々と此方に攻撃を仕掛けてくることはないと考えられる。
だとすれば、敵が情報を得る為には地道な偵察が必要になってくる筈だ。
それを潰されれば、奴らはどう思うか。敵が攻めてくると考えるのではないだろうか?
敵が接近してくれば迎え撃たねばならない。飛竜が使えないなら地上軍で迎撃するしかないが、山脈地域では騎馬が使えない。とすれば敵の主力は歩兵となるだろう。
「敵が大軍で来ることはない。精々が3000といった所だろう」
「ふむ。倒せぬ数ではないな」
太い青銀鉄製の棍棒を担ぎながら、ラーシュカは顎を摩る。隻眼で笑う悪鬼の表情は、敵からすれば恐怖の的だろう。
「それに……」
「ん?」
言いかけて、ギ・ザーは思い留まる。
意気揚々と進むラーシュカには悪いが、ギ・ザーはこの陽動で敵と出会わなくても構わないと考えていた。
最も大事なのは、地下道を建設していることを敵から隠すことなのだ。最悪、敵が迎撃に出て来ずに要塞に引き籠っていても問題はない。
人間側の監視網が潰され、それに呼応して敵が迎撃に出てきてくれれば撃退し、ラーシュカの鬱憤が晴れる。ギ・ザーも知識の実践を積む良い機会になる。その程度のものだ。
「今度は、あそこだな」
指差す先には、一層小高い山。頂付近に狼煙台が見えている。
「……登るのか、あそこまで?」
「軍を分けてもいいが、あまり感心はせん」
「何故だ?」
「分けた所を敵に狙われるからだ」
無駄な被害を抑える為と言われては、ラーシュカも頷くしか無い。
ラーシュカは、戦いを好んでも敗北が好きな訳ではない。況してや、氏族の若者達を無為に死なせるなど族長としてあってはならないことだ。
やっとのことで山を登り、狼煙台を破壊するガイドガ氏族。眼下に見下ろすのは、西に沈もうとする火の神の胴体。革と鉄を組み合わせたガンラ製の武具を装備しての登山は流石のガイドガ氏族でも堪えたらしく、その足取りは重い。
「全く、何故こんな所まで来て山登りなどせねばならんのだ」
不満を口にするラーシュカを無視し、ギ・ザーはある一点に吸い寄せられるようにして視線を固定する。
「山を登ったのも無駄ではなかったな……敵だ」
「ん? おお!」
ギ・ザーの指差す先を見たラーシュカは歓喜の声を上げて肉食獣の笑みを浮かべる。
先頭を進むのは、白き装束に身を包んだ部隊だ。後方には雑多な部隊が遠目に見える。
「先頭が精鋭部隊だろう。故に叩くなら先頭だ」
「ほほう。では、軍師殿?」
戯けるラーシュカに、ギ・ザーは冷徹な表情に獰猛な笑みを浮かべて眼下の敵を見下ろす。
「狙いは先頭集団の横腹。横合いから思い切り殴り付けろ」
「その後は?」
「夜の闇は常に我らの味方。闇に紛れて逃げる敵を叩く」
口元に浮かべた笑みを深くするラーシュカは、部下を蹴り飛ばして激励した。
◆◆◆
「アリエノール殿、急ぎ過ぎでは?」
「しかし……魔王軍はもうすぐそこまで来ているのでしょう? せめてあの山の麓まで急がねば」
「地形的にはたしかにそうですが……」
ラスディルの意見に、アリエノールは困ったように眉を寄せる。
ユアンを後方で義勇軍の纏め役として行かせてから、ラスディルは何かとアリエノールの判断に口を挟む。
ラスディルにしてみれば、彼女の求めに応じて軍に参加したものの、不安が常に付き纏っていた。
アリエノールの意見も確かに分かる。周囲は視界の悪い山脈地域だ。森という程ではないが其処彼処に木々が生えており、このままでは野営する場所にも不安を覚える。彼女の指し示す山の麓は地形的に開けているし、背後が断崖に守られている為、絶好の野営場所である。
後ろを振り返ったラスディルは疑問に首を傾げた。
あの実直な男は、本当にこの娘の判断に全てを委ねているのだろうか? 人の命が掛かっているのだ。少なくとも、ラスディルは名目上は兎も角実際はユアンが指揮を執るのだと思っていた。
戦場において、そこを占領すれば有利不利になるという地形は必ず存在する。
アリエノールはそれを考えて導き出しているのだろうが、やはり不安が勝る。ラスディルがもう一度アリエノールへ声を掛けようとした時、アリエノールはいい加減我慢の限界と言わんばかりにラスディルに対して声を上げた。
「ラスディル殿、ご忠告痛み入りますが軍の指揮権は私にあります! 参戦して頂いた以上、そこは織り込み済みの筈! 根拠の無い心配は兵を怯えさせるだけです! 控えて頂きたい!」
「……ご尤もです」
ラスディルも、まさか貴女が若輩過ぎて心配だとは言えず、それ以上の事は言えなかった。
確かに彼女の言うことも一理ある。
だが、戦場とは理屈だけではないのだ。その戦場の霧とも言うべき部分を、彼女は本当に分かっているのだろうか?
若くして騎士団長としての立場を確立したラスディルには、同輩の指揮官に知己が居なかった。鉄の国エルファの団長達は皆年上であり、ラスディルからしてみれば敬うべき先達であった。
逆に彼より年下となると、騎士団では小集団の指揮官くらいしか居ない。しかも少女の指揮官となれば完全にラスディルの経験の枠外であり、結果アリエノールを全く扱いあぐねてしまっていた。
不安を抱きながらの戦というのは、大抵碌でも無いものになる。少なくとも、兵士がそれを感じている時は特にそうだ。
火の神の胴体が山々と雲の合間に消えゆく頃、彼らは漸く目指した山の麓に到着し、野営の準備を始めた。荷を降ろし、天幕を張り、防衛の為の柵を設けていく。
「……一塊になって、決して警戒を怠るな」
ラスディルは部下に命じると、アリエノール率いる聖騎士団と義勇軍とは距離を取りつつ野営の支度を始めた。聖騎士団は兎も角、義勇軍は明らかに練度が低い。そのような者達と一緒では、いざという時に余計な手間を食ってしまうのが目に見えていたからだ。
闇の女神が、その翼を広げようとしていた頃、それは起こった。
まるで地の底から湧いて出たように、突如として現れたゴブリンの群れ。しかも重厚な装備と巨躯を誇る猛者揃いである。
「敵襲ッ!」
叫ぶ歩哨の声に咄嗟に反応出来たのは、やはり鉄の国で激戦を戦い抜いてきた鉄牛騎士団だった。
「──円陣防御! カズン隊、ガノーシュ隊、マッシュ隊、盾を前に!」
言葉少なに命令を下すラスディルを中心に、見事な円陣を組むエルファの生き残り。
だがそれと比較して、義勇軍と聖騎士団はあまりにもお粗末だった。
義勇軍は、上がった敵襲の声に反応すら出来なかった。指揮官が声を上げるも、末端の兵士に伝わる前に敵の突撃を許してしまう。
「押し潰せ!」
指揮官らしき一層巨躯のゴブリンが、闇の合間から猛牛も斯くやという速度で走り出る。それに続く雄叫びは、義勇兵達のなけなしの勇気を吹き飛ばしてしまうのに十分だった。
振るわれたのは、青銀鉄で補強された棍棒。
先ず一番近くに居た兵士の頭蓋を叩き割り、返す刀で振るった棍棒が右に居た兵士の体を高々と空へと舞い上げる。続いて、呆然として身動きも取れない兵士の頭を掴み上げると地面に叩き付け、首の骨を圧し折る。更に頭上で死体を振り回すと纏まった兵士達に向けて投げ付けた。
炎に照らされた巨躯のゴブリン。凄惨な返り血を浴びた片目の無い凶悪な風貌は、正しく冥府の悪鬼だった。
「我はラーシュカ! ガイドガ氏族の族長なるぞ! 我と思わん者は、前に出よ!」
吠えるラーシュカに、人間達は完全に気を呑まれてしまっていた。
静まり返る周囲を睨みつけ、ラーシュカは怒声と共に宣言する。
「腰抜け共め! 蹂躙せよ!」
一斉に声を挙げるラーシュカ配下のガイドガゴブリン達が、義勇兵に襲い掛かった。
野営の為に装備を外して作業をしていた兵士達に、完全武装のガイドガゴブリン達が襲い掛かったのである。結果は火を見るより明らかであった。瞬く間に勝敗は決し、義勇兵は悲鳴と断末魔を上げながら四散敗走した。
「進め、進め!」
義勇兵を文字通り蹂躙したラーシュカは、次なる目標を聖騎士団に定める。
義勇兵の敗残兵を回収しようと陣を乱したのを、ギ・ザーが鋭く指摘した為だ。
ラーシュカ自ら先頭に立って、まるで埃でも払うかのように人間達を吹き飛ばす。周囲を睥睨する暗緑色の瞳が、次なる獲物を求めて左右を見渡す。
「第1小隊盾を前に! 第2小隊槍構え!」
悲鳴のような声で指揮をするアリエノールだったが、残念ながら遅きに失した。
黒の強い灰色の肌に返り血を浴びたラーシュカが、指揮官に狙いを定める。その進路を塞ごうとする者は、容赦なき棍棒の一撃を以って叩き潰されていく。ラーシュカの背中を襲おうとした者は尾による一撃を受け、鶏冠状の毛並みに赤を足すだけだった。
如何にアリエノールの指揮が正確だったとしても、残念ながら彼女は若輩に過ぎた。
「何故、命令通りに動かない!」
恐怖と怒りに震える唇を噛み締めて、指揮杖を叩き付けるアリエノール。
そこに味方の混乱を抜けたユアンが駆け付けた。
「アリエノール様、一旦御退きを! 部隊の立て直しをお願いします!」
腰の長剣を抜くと、ユアンは自身の率いる小隊に命令を下す。
「第5・第6小隊は我に続け! 敵の攻撃には必ず3人で盾を連ねよ! そうすれば死にはせん! グラッサ、ミガル! 小隊に命令を!」
年若い小隊長達は、ユアンに名前を呼ばれたことで自身の役割を思い出し、喉を枯らす程の大声で小隊に命令を下す。
先頭を切ってガイドガゴブリンに向かっていく副長の姿に勇気付けられ、聖騎士団は盛り返しを見せる。
だが如何せん、初動の勢いは既に覆せなくなっていた。
ユアン率いる2個小隊が猛進を続けるガイドガ氏族の進撃速度を僅かに緩ませた所で、大河に一石を投じる程度でしかない。
更に悪いことに、算を乱した義勇兵達が恐慌状態に陥って聖騎士団の連携を乱したのが致命的だった。
満足な陣形を組み上げることも出来ず、ガイドガ氏族の猛攻に聖騎士団も敗走を余儀なくされる。
「貴様ら、あの時のっ!」
恐怖よりも怒りが勝った感情を押し殺し、ユアンは冷静に敵を見定めていた。
暗き森からの敗走。平原での敗北。敬愛するゴーウェンの死に様が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。全てゴブリンの手によるものだ。恐怖と怒りで噛み締めた奥歯が鳴る。だが、それでもユアンは聖騎士団全員と義勇兵、更には鉄牛騎士団の命を預かるアリエノールの副長である。若過ぎる指揮官を支えねばならない。
沸騰する感情を押し殺しながら凶悪なゴブリンの一撃を回避。首筋に一撃を見舞うと、すぐさま離脱し、次なる敵からの攻撃を盾で防ぐ。
アリエノールの為に時間を稼ごうとしたユアン達だったが、押し寄せるガイドガ氏族は濁流の勢いであった。如何に盾を連ねようとも、押し流され、次第に周囲をゴブリン達に囲まれていく。
そして何よりも──。
「我と戦う猛き者は居らんのかッ!? 腰抜けの人間共め!」
──先頭で猛威を振るう冥府の悪鬼が止められない。
軽々と人間一人を吹き飛ばす膂力。他を圧する武威。嘗て出会ったゴブリンの王には劣るものの、正に暴威の化身が暴れ狂っているかのようだった。
丸太のような太い腕が、黒の強い灰色の肌が、暗緑色の瞳が、他を竦ませる為にあるのでないかと錯覚するような恐怖を感じさせる。
そしてその瞳が、孤軍奮闘するユアンを捉える。
「ほう、活きの良い奴が居るではないか!」
ガイドガゴブリンを切り捨てたユアンに目を留めたラーシュカが笑う。
出会った獲物の美味さを想像し、舌舐めずりするような笑みを浮かべたラーシュカがユアンに向かって走り寄る。振り上げられた棍棒は既に血で染まり、肉片がこびり付いている。
「我が名を刻んで死んでいけ! 人間!」
「ゴーウェン様の仇がァ!」
ユアンは覚えていた。ゴーウェンと戦う目の前の悪鬼の姿を。
怒りに脳が焼ける。吐き出す声に、普段押し込めている憎悪が交じる。
振り下ろされた棍棒の下を潜るように、身を屈めて通り過ぎる。反撃の剣を突き出そうとしたが、即座にその考えを捨てて全力で飛び退く。
今までユアンが居た場所をラーシュカの強烈な尾が薙ぎ払ったのだ。
ユアンが躱した一撃は、その下にあった岩石を破壊し、地面を抉り取っていた。
「よく躱したな!」
喜悦を浮かべる悪鬼と、怒りに燃えるユアン。
再び踏み出そうとした両者を止めたのは、鉄牛騎士団の突撃であった。
「前進! 味方を救え! エルファの精鋭騎士団の実力を魔王軍に見せ付けてやれ!」
ラスディルの檄と共に、重装騎士団の誇る突撃が開始された。
「……」
「……」
互いに無言で睨み合うラーシュカとユアンだったが、背を返したのはラーシュカが先だった。
それに呼応するように、ユアンは弾かれるように率いた小隊を纏め上げて踵を返す。
「隊を纏めて脱出だ! 鉄牛騎士団に呼応するぞ!」
ユアンの指揮に従った聖騎士団の生き残りは、ガイドガの攻撃から辛くも逃れた。対して、ラーシュカ率いるガイドガ氏族は横腹を突かれる形になっていたのをラーシュカの再度の突進で戦況を逆転させる。
戦況の逆転を知ったラスディルは、聖騎士団の脱出を見届けた後、鉄牛騎士団にも離脱を指示したが、ギ・ザーの指揮とガイドガの猛進が合わさったゴブリン達の手強さは4将軍に匹敵する程の脅威だった。
結局、敗走中に1割程の損害を出しながらも、鉄牛騎士団はガイドガ氏族の追撃を振り切ることに成功する。
遭遇戦は、アルロデナの勝利で幕を閉じた。
ラーシュカとガイドガ氏族は、恐怖の代名詞としてアーティガンドにその名を刻まれることとなる。
聖騎士団及び義勇兵達は、要塞に辿り着くまでに4割近い損耗を出し、最も被害の軽かった鉄牛騎士団ですら2割の損害を出す惨敗だった。
噂はアーティガンド本国にまで届き、その動揺は計り知れない恐怖となって伝播する。“教会”は、更なる聖騎士団の派遣という形で1・2番隊を追加。アーティガンド本国も、軍政改革後の神聖帝国軍を派遣するという事態にまで発展した。
地下道完成までの陽動という意味合いしかなかったこの戦いの結果は、アーティガンドにとって重く伸し掛かり始めていた。




