旅の途中
王の旅路は、それだけで政治的な意味を持つ。
プエルから言われたその言葉をゴブリンの王が本当の意味で理解したのは、出発して4日程経った頃だった。王の座す都から近隣の小さな村々を通り、臨東を経由せず西方未踏領域へと至る経路を選択したゴブリンの王だったが、その旅路はゴブリンの王の体調を慮って、実にゆっくりとしたものだった。
その気になりさえすれば終日駆け通しで北部火山帯に到達してしまえるゴブリン達。そんな彼らからすれば亀の歩みと言ってもいい程遅い行程を、確実に消化していく。
折しも、王暦4年の初春。
レヴェア・スー近隣では色付く前の背の低い麦穂が一面に揺れ、冬の寒さが和らいだ春風が心地良く肌を撫でる季節だった。逗留する宿の手配などは全て事前に先行した者達が済ませ、ゴブリンの王が滞在する為の丈夫な椅子や寝台なども用意させる。
村ごとの食事に関しても、その地方独特のものがあれば積極的に提供させた。勿論十分な報酬が約束されており、その臨時収入は僅かなりとも村々の懐事情を暖かくした。だが、味覚の失せているゴブリンの王には料理の良し悪しなど分かる筈もなく、それらを楽しんだのは専らレシアと人間達だった。
旅の初日には、レシアは既にゴブリンの王の体調を言い当てていた。
「王様はどこが悪いんですか?」
そう問いかけるレシアに、ゴブリンの王はプエルにするように誤魔化そうとするが、そこは聖女として各村を巡り、数多の病人や怪我人を診てきたレシアの方が一枚上手である。そのような誤魔化しなど一切通用せず、王に詰め寄ると説教すら始める始末だった。
「嘘はいけませんよ。それでは治るものも治らないではありませんか! 良いですか──」
嘗て小さな村で同居していた頃の思い出が王の脳裏を掠め、それを懐かしく感じて苦笑じみた笑みを浮かべる。それをレシアに見咎められ、更に説教の時間が長くなってしまうのだから救えない。
遂にはゴブリンの王が降参するという形で彼自身が把握している自身の不調を洗いざらい供述させられ、それを紙に書き留められてしまう。大陸を制覇しようという王にしては、随分な不手際だった。
それ以来、レシアは公然とゴブリンの王の体調不良を口にする。彼女に言わせれば、悪いものは悪いのだから隠しても仕方がない、とのことだ。
「どこに敵の耳目があるか分からぬのだぞ!?」
ギ・ザーも反論してみたが、レシアは胸を張って言い返した。
「それを何とかするのが、貴方やプエルさんを始めとした軍の皆さんの仕事でしょう!」
丸投げとも取れる発言だったが、ギ・ザーは黙り込むしかなかった。戦線は東部に移り、相手にしているのは国力差の隔絶している小国だ。ゴブリンの王が出張る必要のない戦が主体になってきている。
小国を併呑した先には聖王国アルサスと海洋国家ヤーマがあるが、小国までも含めた国力を比較してみても、それ程恐れる要因もない。4将軍らの力だけで制圧出来てしまうというのが、プエルを始めとした軍部の見解だった。
何より、ゴブリンの王の体調をこそ第一と考えるのはギ・ザーも一致する見解である。ゴブリンの王の体調の変化が即座に分かるのなら、それに越したことはないのだ。
「む、むぅ……!」
眉間に皺を寄せて唸るギ・ザーは、苦々しい顔で了承の返事をせざるを得なかった。
「王様は味が分からないのですから、これは頂きますね」
レシアと向かい合って食事をする時などに、しばしばそういった事態が発生したが、ゴブリンの王は実に寛容な心でそれを許した。努めて明るく振る舞うレシアの心遣いが分かるからこそ、王は彼女の好きにさせていた。
「ん~、もう少し味付けが濃い方が好みです。王様の名前で改善要望を出しておきましょう」
「いや、それは流石に拙いのではないか? 村の伝統料理なのだろう?」
無論、行き過ぎることが無いように口を出すことはしたが。
「お酒もあるみたいですが、飲まれます?」
「百薬の長とでも言うつもりか? 効くとは思えんが」
「いいですか王様? 百薬の長とは、身体だけを癒す物ではないのです。心に溜まった毒を吐き出させるからこそ、百薬の長と呼ばれる訳でですね」
「……お前が飲みたいだけではないのか?」
「何を仰るんですか! 卑しくも信徒たるもの、お酒を欲しているなど外聞が悪過ぎます。でも……そうですね。王様がどうしてもと仰るなら、ご相伴に預かるのもやぶさかではありません。因みに村の人に聞いたのですが、この辺り一帯は葡萄酒の産地だそうです。遠くはレヴェア・スーにまで出荷してるのですから、味は保証出来るでしょう。そして、この土地柄です。先程案内されて地下の倉庫にも顔を出してみたのですが、寝かせた葡萄酒の種類の豊富さと言ったら、レヴェア・スーの高級酒場にも引けを取りませんでした!」
「……まぁ、良いがな」
「では、頼みましょう! そうしましょう!」
鼻歌すら歌い出しそうなレシアは長い髪を揺らして葡萄酒を頼むと、ゴブリンの王の前に置く。
「さ、どうぞ」
薦められるがまま飲み干すゴブリンの王だったが、首を傾げて眉根を寄せた。
「やはり酔えんな」
「量が足りないからではないですか? 中々美味しいですけど」
杯を重ねるが、レシアもゴブリンの王もあまり表面に出る質ではないらしい。レシアは白磁の肌に薄っすらと朱が指す程度。ゴブリンの王に至っては、全く変化がない。
瓶が3本を超えた頃になると、レシアの目は酩酊感に緩み、眠気が襲って来ているのだろうというのが見て取れた。相変わらず酔えないゴブリンの王は苦笑と共に寝ることを薦めるが、レシアは思い付いたように薬箱を開けると、覚束ない手付きで丸薬を取り出す。
「今朝にですね、薬を、作ったんです。はい、王様の分」
何の薬なのかさっぱり分からぬまま、王は沈黙のままにレシアの差し出した丸薬を凝視して首を傾げていた。だが、酔っ払った信徒にはそれがいたくお気に召さなかったらしい。
「何れすか! 私の薬が飲めないと、でも!?」
呂律すら怪しくなってきたレシアを、王は何とも言えない微妙な目付きで見る。酔っぱらいは真面に相手をしてはならないとは、世界を超えた普遍の真理らしい。
「分かった、分かった。それを飲むから、お前は寝るのだぞ」
「ええ、よろひいでしょう。さあ、飲んでください。あ! それとも私に飲ませてほしいんですか!? 身体は大きな癖に、そんな子供みたいなことを考えていたんですね!」
「俺はそんなことは、一言も……」
「ええ、よろしいでしょう! 癒しの女神様の信徒として、私が手ずから飲ませてあげましょう!」
苦労してゴブリンの王の膝の上に座ると、顔を近付けて微笑む。
「さ、王様。口を開けてください」
「む、ああ」
なされるがままにレシアに薬を口に突っ込まれ、王はそれを嚥下した。
「……良くなりましたか? 王様」
「ああ、良くなった気がする。だから、安心してお前も休め」
「そう、良かった……王様が、元気に……」
そう言ったきり、倒れ込むようにレシアは眠りに就いた。穏やかな笑みを浮かべて眠る彼女の横顔は、正しく聖女と呼ぶに相応しいものだった。少なくとも、ゴブリンの王にとってはそう見えた。
眠ったレシアを寝台に寝かせると、ゴブリンの王は暫くその寝顔を眺めていた。
「酒は心の毒をも吐き出させる、か……。ならば、レシアよ。眠ったまま俺の毒を聞いておけ」
椅子に座り直すと、ゴブリンの王は杯を舐めるようにして葡萄酒を飲む。
思い出した記憶。まるで己の中に別人が潜んでいるような錯覚を覚えること。
そして、彼を襲う不安。
自分は一体何者なのか? 自らの内心に蟠る漠然とした不安を吐き出す。
レシアの施した薬が効果を発揮したのか、ゴブリンの王の瞼も自然と落ちる。心の毒を吐き出したからなのか、暫くぶりの安らかな眠りだった。ゴブリンの王の寝息を聞いていたレシアは、むくりと起き上がる。
自身に掛けられていた毛布を手に取ると、眠るゴブリンの王にそっと掛ける。
「……大丈夫ですよ、王様。きっと、大丈夫」
彼女は王の寝室を辞して自分の部屋へ戻り、眠った。
◆◇◆
ギ・ザーの容姿は、魔術師級となってから一層人間に近付いている。青白い肌と細身の体。魔素を貯め込む為に長く伸びた髪を後ろで一つに束ね、不機嫌そうに眉間に皺を寄せる様子ですら、その美形の前には大した意味を持たない。
ゴブリンと言うよりは妖精族を彷彿とさせるその容姿は、とてもギ・ゴー・アマツキやゴブリンの王と同種族とは思えない。錬金術士級のギ・ドー・ブルガにも同じことが言えるが、切れ長の瞳で怜悧な印象を与えるギ・ザーとは異なり、垂れ目気味で柔らかな印象を与える。
系統は違うが、美形という枠内に入る。そのことに大した違いはない。
それに比べて、ギ・ゴー・アマツキなどはゴブリンの王寄りである。
細く引き締まった筋肉は要な所に必要なだけ付いているかのように無駄が無く、背はすらりと高い。容姿は獰猛さが漂うものだが、ある種の強者としての魅力がある。動作の一つ一つから滲み出る威風が、ギ・ゴーの身体に宿っているのだ。
蓬髪の間から覗く天に反逆するかのような角。瞳は闇を見通す朱色。普段から感情を現すことが稀であり、牙を覗かせて怒り狂うことも稀である。
薄い上衣の間から覗く肌は鋼鉄のように引き締まった赤銅色。腰に差したる曲刀に、人間の履くような幅の広いズボンで足元を覆う。常に彼の後ろに控え、どこにでも付き従う雪鬼の族長ユースティアも、鬼の面を外そうとしない。
そしてゴブリンの王である。
見た目も凶暴な肉食らう恐馬に跨り、2メートルに迫る巨躯。腰に差したる大剣を隠すつもりもなく威風堂々と騎乗する様は、ゴブリン達からすれば崇拝の対象だが、村々の住民達からすれば恐怖の魔王が来訪するに等しい。
同行するレシアを別にすれば、村人がその一行の中で誰を頼るかと言われれば自然と自分達に近しい姿の者にならざるを得ない。つまり、明らかに人外な見た目の2匹ではなく、多少なりとも人間の容姿に近い者を頼りたくなるのは必然であった。
村に到着する度に、ギ・ザー・ザークエンドの元には村長らが嘆願に訪れている。その度に眉間に皺を刻みながら不機嫌に対応するギ・ザーだったが、王に負担を掛けてはならないと自身に言い聞かせている為、無碍に追い返したりはしなかった。
ギ・ザーはそういった嘆願の中で、どうしても王の判断が必要だと思われる案件のみを知らせることにしていた。他の些細なことは、ギ・ザー自身が領主やレヴェア・スーに居るプエルに一筆書いて改善を図る。
例えば隣村との境界線の明確化。泉を利用する権利。牧草地に関するいざこざなどである。人が住めばそれだけ問題が発生し、それらを調停する為の権威や権力が必要になってくる。実力行使などしていては、どれだけ人手があっても足りないのだ。
「いくら何でも多過ぎる。あの性悪女め……! まさかこの経路を選んだのは、山積する諸問題を片付けさせる為ではなかろうな」
行く先々の村で嘆願を受けるギ・ザーは不機嫌を隠そうともせずに呟くが、さりとて無碍にも出来ない。その為に、彼らの嘆願を一つ一つ聞かざるを得なかった。
「魔獣の討伐であれば、ギ・ゴーなどを差し向ければ簡単にケリが付くものを」
つらつらとそんなことを考えながら、ギ・ザーは嘆願を処理していた。
その中の一つが彼の目に留まったのは、旅を開始して5日目に滞在した村だった。レヴェア・スーとガルム・スーからは等距離。嘗てはシュシュヌ教国北部とされていた地域の村での出来事である。
「何、ゴブリンの被害!? ふん、丁度適任者が居るぞ」
嬉々として報告を受けたギ・ザーは、すぐさまギ・ゴーの派遣をゴブリンの王に求めることになった。王の横で話を聞いていたギ・ゴー・アマツキは、朱色の瞳で王に裁可を問う。鷹揚に頷く王の許可を持って、剣王は僅かに1匹のゴブリンとユースティアだけを伴い、ゴブリンの被害があるという地域へ出向いていった。
ゴブリンの王が覇道を進む中で、王の傘下に加わわって居ない、所謂“野良”のゴブリン達の処遇については、その対処に当たった上級のゴブリン達に任されている。
ギ・グー・ベルベナやギ・ギー・オルドであれば魔獣や配下を使って追い詰め、取り囲み、己の部下に加えることを最優先にするが、ギ・ガー・ラークスやラ・ギルミ・フィシガであれば、容赦なく撫で斬りにする事が多い。
そもそも人に認識されているという時点で、何らかの諍いが発生してる場合が多い為だった。多種族をその軍の中に纏め上げるギルミは必然的に自他共厳しくあらねばならず、ギ・ガーに至ってもそれは同様である。レオンハートやヴァルキュリアなどを内包しているアランサインでは、彼らは軍の主力に近い扱いだった。
一方でゴブリン至上主義を掲げるギ・グー・ベルベナは極端な話、どんなゴブリンが居ようと王や自身に出会う前の罪なら許す方針であった。これが出来るのは彼の軍がゴブリンを主体としており、他は補助程度の戦奴隷しか存在しない為である。
ギ・ギー・オルドも同様で、彼の軍には基本的に人間が存在しない。故に反発を生むこと無く野良のゴブリン達を麾下に加える事が出来るのだ。
さて、その対処に当たる上級ゴブリン次第で決まる“野良”達の処遇だが、ギ・ゴーのそれは実に徹底していた。
「群れの主を捕らえねばならん」
蓬髪の下から覗く鋭い視線で被害の報告された場所を確認すると、続いてきた1人と一匹に宣言する。頷く彼らを従え、木々を掻き分けてゴブリンの集落を探す。元々鋭い嗅覚を持っているゴブリンだが、階級が上がるに連れて、その能力は更に上昇している。
それ程苦労すること無く集落を発見すると、ギ・ゴーは堂々と姿を現し、集落の中に入っていった。騒ぐゴブリン達を頭4つ程も高いギ・ゴーが睥睨すると、彼らは一様に怯えて後ずさる。
「群れの主を出せ」
低く威圧するような声と、身に纏う強者の覇気に野良のゴブリン達は震え上がった。我慢の限界を迎えて逃げ出した群れの主であるゴブリンを見つけると、従えた者達に一言命ずる。
「斬れ」
途端に引き絞られた弓から放たれる矢のような速度で、1人と一匹は駆け出す。呆然と立ち尽くすゴブリン達の間を疾風のように擦り抜け、跳躍し、剣を抜く。レア級のゴブリンの首が刎ねられ、心臓を貫かれるのは、ほぼ同時だった。
首を刎ねたのはギ・ゴーに従ったゴブリン。心臓を貫いたのはユースティアである。
「……良し。貴様ら、我らに従い住居を移せ。断れば奴のようになる」
宣言するギ・ゴーに逆らえる者は居なかった。
「良き突きであった」
ギ・ゴーの褒め言葉に、嬉しそうに頷くユースティア。次にギ・ゴーが視線を向けたのは、未だレア級のゴブリンの剣士である。相次ぐ激戦の中でもギ・ゴーに従って来たゴブリンを一瞥すると、ギ・ゴーは曲刀を抜いてレア級ゴブリンの肩に当てる。
「名を授ける。これよりはゴ・ライと名乗れ」
傅くようにして首を垂れるレア級ゴブリン。
ゴ・ライと名付けられたゴブリンは斬り飛ばした群れの主の首を持って来ると、群れを掌握しつつゴブリンの王の下に戻っていった。
「あの、ギ・ゴー殿」
「何だ?」
去り行く群れの最後尾を眺めながら、ギ・ゴーは答える。
「何故、あの者達を殺さなかったのですか?」
「……昔、我が友はよく言っていた。ゴブリンと人間との共生を実現させてみたいと」
「その……王のお叱りを受けはしないでしょうか?」
「案ずることはない。王はそれ程狭量な方ではないし、もしこの件で咎めを受けるなら、その時は俺の首を差し出せば良い」
「ギ・ゴー殿!」
「……冗談だ。ふむ、どうやら俺は冗談が苦手らしいな。皆、本気になってしまう」
僅かに口元に笑みを浮かべるギ・ゴーに、ユースティアは胸を撫で下ろす。
「そんなことになってしまったら、私も死なねばなりません」
「……それは困るな」
ゆっくりと移動し始める群れを追って、ギ・ゴーとユースティアは歩いて行った。
ギ・ゴーの到着を待って、ゴブリンの王の一行は火山地帯へ出発しようとしていた。
4月26日誤字脱字修正




