閑話◇最強のガイドガ
周囲を睥睨する瞳は暗緑色。偉大なるゴブリンの王が同じ階級であったときよりも、更に二回り程大きな身体である。黒の強い灰色の肌に、頭から背を通って尾の先まで生えている毛は、血の色の赤であった。
丸太のような太い腕と強靭な手は、並みのゴブリンの頭など握り潰してしまえそうだ。口元から伸びた牙は獰猛さを隠しもせず、冥府の悪鬼であると言われれば頷いてしまいそうだった。
更に、隻眼となって眼帯を付けている様は凄みすら感じさせる。
強靱に発達した尾は敵を打ち殺すことすら可能とし、その先端には敵を貫く為の角があった。ゴブリンの王が君臨する黒き太陽の王国で強者を5人挙げよと言われたなら、必ず候補に挙がる存在である。
それこそが、ガイドガ氏族の族長ラーシュカ。
氏族最強とも呼び声高いゴブリンであると共に、古くからの血を繋ぐ冥府の女神の加護を受けし者でもある。
ゴブリンの始祖と呼ばれる4氏族のラーシュカは、戦塵に飽きて稀にゴルドバの医療班の詰所へと顔を出すことがある。彼の目的はクザンにあった。
とは言っても、色恋などという艶っぽい話ではない。腐敗の主と呼ばれた双頭の水蛇の加護を無くしたとは言え、クザンは氏族にとって未だに気高き巫女であり、尊敬するべきゴブリンであったのだ。
幼き頃より怖いもの知らずであったラーシュカとて、縁薄い父親に徹底的に教育されたものだった。曰く、巫女に手を出す者は恥知らずである。曰く、巫女に手を下す者は氏族の敵である。曰く、巫女とは氏族の中にあって尊敬すべき者である。
巫女とはその身を捧げ、氏族の繁栄を願う者。王の再来を告げる者である。
権力は無くとも、権威はある。
幼年期の彼にはそこまで難しいことは分からなかったが、ラーシュカは最も荒れていた時期でさえ、クザンに手を下そうとは考えなかった。敬うべき存在というのがどのような者なのか分からなかったラーシュカだったが、クザンと初めて出会った時に手を下すべきではないと感じたものだ。
その後、ゴブリンの王が現れ、瞬く間に氏族を統一し、大鬼すらも追い払って深淵の砦を回復させてから暫くの時間が経つ。その間、ラーシュカとクザンの関係は少しも変化しなかった。
「あら、ラーシュカ殿」
治療の時間が終わったのを見計らって訪れたラーシュカに、クザンが頭を下げる。
「おう」
大人と子供以上に背丈の離れている彼ら二匹は、共にゴブリンの中で畏敬を集める存在だった。
「また話を聞かせてくれないか?」
「ええ、喜んで」
ラーシュカが特に気に入っているのは祖先の話である。初代冥府の女神と共に地上に現れたゴブリンの中で最も大きく猛き者。ガイドガの話を彼は好んでいた。
闇の女神の翼は周囲を覆い、赤き姉妹月が夜を照らす中、クザンはその勇士の物語を語り始めた。
◆◆◇
古き神々が冥府の扉を開いた時より、神々の大戦と呼ばれる戦が始まった。人の始祖たる勇者達と、冥府の門を潜り抜けてこの地にやって来たゴブリンを始めとする魔物達。
地に開いた大穴より、女神に率いられて地上に現れたのは古代の魔物だった。オーク達の始祖たる古代鬼獣猪。大鬼の始祖たる古代大鬼。知恵無き巨人達の始祖にして、唯一完全な巨人と呼ばれた知恵の巨人。
既に妖精族や亜人や竜、人間達が暮らしていた世界に乗り込んできた彼らの最初の接触は、当然というか戦争であった。ただ、当初奇襲で始まった冥府の軍勢と地上の種族達との戦いは、すぐさま膠着状態に陥ることになる。
圧倒的な個の力を頼みとした冥府の軍勢に対して、地上の軍勢は常に総数を増やして物量で対抗した為だ。繁殖という手段を考えもしなかった冥府の魔物達に対して、地上に住む者達は子供を産み育てて対抗していた。
冥府の軍勢には親も子もない。冥府に集まった魂から循環の過程で落ちて固まった淀みが魔物の姿を取るのだ。敢えて地上の関係性を当て嵌めれば、冥府の女神が全ての魔物の親である。
母なるディートナは、その存在を冥府に移しても尚、生み出す者であり続けたのだ。
繁殖という手段による生活圏の拡大。既にそれを始めていた地上の種族達に、魔物達の強大な個の力で対抗は出来ても、圧倒することは出来なくなっていた。
そこで魔物達は考えた。種族としての繁栄があるから、地上の種族は強いのだ。ならば、自分達もそれを取り込めば、奴らを駆逐出来る筈だと。
──我らにも種族としての繁栄を。
母なるディートナは、それを叶えた。自身の力、その大半を使って魔物達に雄と雌の区別を与えて繁殖することを許し、他種族の雌を使っての繁殖すら可能とさせた。
原初の神クティアルガ亡き今、冥府に居を移したとは言え、ディートナの力は古き神々の力を大きく引き離すものだった。
だが、願った魔物達も冥府の女神にも予想外だったのは、繁殖して生まれた個体が元の魔物と同じにならなかったことだった。
多様性の許容こそが地上での繁栄の礎。繁殖を繰り返す内に冥府の女神の命じる声さえ聞くことが出来ず、本能のままに暴れるだけの存在も生まれてくる。
知恵の巨人が生み出した知恵なき巨人などは、その最たる例だった。星渡りの神々達が生み出した巨人とは生態を別にする知恵の巨人は、己の生み出した者たちを見て嘆息した。
「まるで劣化ではないか! 何れも、我を上回る者が居ない」
最早産みの親である彼の命令も聞かなくなり始めた彼らを率いた知恵の巨人は冥府の軍勢を離脱し、大陸の西に拠点を構えて中立を宣言する。
ここにきて、母なるディートナ率いる冥府の軍勢と地上の生き物達との戦いはその様相を変え始める。世代を重ね、共に繁殖することによる敵の駆逐戦争。
今尚続く生存競争へと、その様相を変えていったのだ。
それでも尚、冥府の女神の軍勢は戦いを優勢に進めていたが、大陸の東の端に進む頃には疲弊の色が濃くなってきていた。
そうして東の端に住む人間達と対峙した時、ディートナの前に立ち塞がったのが、新しき神々と呼ばれる人間を守護する神々だ。
新たに勃興してきた人間という勢力は、圧倒的な繁殖能力と世代を重ねる毎の変化によって魔物達に対抗した。
そうして、数世代に1人の割合で誕生する力の強い個体に力を集め、“勇者”として最前線で戦わせるのだ。ディートナの生み出した魔物達は、勇者の力の前に次々と倒れていった。彼女に忠実な者達の消滅は魔物の軍勢の統制を著しく乱し、人間への攻撃を緩める結果になっていった。
中には魔物同士で争い、互いに喰い合う者達まで現れる始末。
世代を重ねることの弊害は魔物の軍勢を蝕み、冥府の女神の侵攻を頓挫させつつあった。
そんな中で、忠実に冥府の女神に従っていた魔物が混沌の子鬼である。体が小さく、他の巨大な魔物程強い我を持っていなかったゴブリンは、冥府の女神に従うことのみを誓っていた。
1匹の始祖に率いられたゴブリン達は繁殖を繰り返し、その数は魔物の軍勢の中でも抜きん出た数になっていた。その中で特に抜きん出た実力者が4匹。
ゴルドバ、パラドゥア、ガンラ、ガイドガである。
時は既に神々の大戦末期。ディートナは魔物達に力を与え過ぎた為に疲弊し、その隙を人間の神々に突かれて敗退の途についていた頃だった。
◆◆◇
ブル・オークの始祖の一匹が勇者によって討たれた戦場。冥府の女神に忠実だった彼に率いられて戦ったオーク達は勇者に続く人間達に押し込まれ、撤退の最中にあった。
冥府の武具で身を固めたオークの軍勢の只中に地を焼く強大な炎の魔法が降り注ぎ、火の神の加護篤き炎の熱線が幾重にも四方に放射される。地上に太陽を落とすが如き一撃は、星降らしと呼ばれた古代の魔法である。
ブル・オークを討ち取ったのは今代の勇者の1人である武神。そして並み居る軍勢を薙ぎ払うのは、もう一人の勇者たる炎の聖女であった。
ブル・オークの呼びかけでオークの総力を結集したその戦いは、戦力的には人間を上回っていたが、人間の狡知はオークの上をいった。
一騎打ちという勇気を尊ぶオークに避けられない戦場を用意し、戦場に出てきたブル・オークを武神が討ち取る。同時に浮足立つオークに向けて炎の聖女の星降らしが炸裂し、戦力では劣勢だった人間側に勝利を呼び込んだのだ。
冥府の武具で身を固めたとは言っても降り注いだメテオの威力は凄まじく、地上を燃やし尽くして着弾後も燃え続ける勇者の魔法に、オークは完全に劣勢だった。
「敵は浮き足立っている! 進め!」
長い黒髪をメテオの余波で揺らした武神が、輝く剣を背を向けるオークの軍勢に向ける。
凛とした武神の声に応えて、怒涛の喚声を上げた人間の軍勢が進む。動き易さを重視し、膨らんだ胸元を隠すように局所だけを守る武具に身を包んだ武神は、未だ年若い少女の姿であった。
自身も続こうとした武神の腕を、いつの間にか彼女の後ろに現れた炎の聖女が掴む。
「……貴方の体は限界よ」
「限界がどうしたと言うんだ。それでもボクは奴らを駆逐してみせる」
首を振る聖女を武神は睨み付ける。
「無茶を厭わないは昔から変わらないわね。私が前に出るから、貴女は下がっていらっしゃい」
「君は、今も魔法を撃ったばかりじゃないか!」
「それこそ、それがどうしたと言うところね。我が名は炎の聖女。勇者の名と炎を以って、敵を焼き滅ぼす者なり」
片目に眼帯を付けた炎の聖女は悪戯っぽく笑う。勇者の名に相応しい尊厳と覚悟を持って黄金色の髪を靡かせた彼女が、天に向かって手を翳す。
「天を焦がすは、我が涙」
中空に浮かぶ炎の色に輝く魔法陣が幾百。吐き出される炎の矢は、人類最高の魔素を持った人間の力を込めたもの。眼帯を外し、赤く染まった瞳で天と地を睨めば、それこそ文字通り天を炎の色に染めて炎の矢が雨となって敵に降り注ぐ。
遠目に見えるオークは、既に軍勢の体を成していない。
逃げる魔物を駆逐する追撃戦に移行したと思っていいだろう。
「これで貴女の出番はないわ。さあ、身体を休めなさい」
「無茶をするな! 死にたいのか!」
「貴女の為に死ぬなら、構わないわ」
「何をっ!」
「冗談よ。さあ、追撃戦ぐらいは任せても構わない筈よ。私も疲れちゃったし」
外した眼帯を付け直した炎の聖女は踵を返す。武神もオークを夢中で追撃する人間達を確かめ、踵を返したのだった。
大勢は決し、追撃戦に移った人間達に対して、オークは抗戦する者と撤退する者とで規律立った行動が出来ず、次々と討ち取られていった。
未だ世界各所に存在している深き森に逃げ込んだオーク達だったが、人間の追撃は終わらない。人間達は、この機会にオークの力を徹底的に削いでおくつもりだった。
「豚どもを狩り尽くせ!」
先頭に立つ男は勇者ではないが、力のある人間には違いない。背を向けるオークに槍を突き立て、馬蹄にかけていく。
「進め、すす──!?」
味方を鼓舞する先頭の人間の声が途中で途切れた。彼の胸元には鏃が突き立てられており、その勢いのまま落馬してしまった。
「吶喊!」
その叫び声と共に大型の魔獣の背に乗ったゴブリンが森の闇から跳び出し、勢いに乗っていた人間達に襲いかかる。同時に援護の為の矢が人間達に降り注ぎ、各所で人間の戦列を食い破って森の闇の中へと消えていく。
深い森の中での奇襲。更には、その機動力を遺憾なく発揮して人間側の追撃の手を瞬時に切って捨てる。だが、人間側も決して怯懦の徒ではない。狭い東方に押し込められていた時から飛躍の時を迎えた時代の寵児である。
「混沌の子鬼共だ! 迎え撃て!」
勇敢なる指揮官の声に励まされ、戦士達が剣と槍を構える。盾に身を隠し、闇から闇へ駆け抜けるゴブリン達の攻撃から身を守ると、虎視眈々と反撃の機会を窺う。
だが、彼らの正面。
オークの逃げ去った方から現れた一匹のゴブリンが居た。ゴブリンとしては類稀なる巨躯を誇り、オークにすら並ぶ。強靱な下顎から天に向かって伸びる牙は獰猛さの象徴のようだった。暗い森の中でも鋭く光る視線は魔獣も恐れを為す程であり、並みのゴブリンと比すれば、彼の身体は腕も胴も足も二回りは太かった。
ゴブリンの中で最強と名高いガイドガである。
人間達を睥睨すると、その広い肩に特製の棍棒を担ぎ、防御を固める者達に向かって吠え掛かる。同時に力任せに振るった棍棒が敵の兜を潰し、頭を割る。突進を始めたその巨躯は、巨大な魔獣が暴れるが如くだった。
手の付けられない暴風が直ぐそこにある。突き出す槍は弾かれ、振るった剣はあらぬ方向へ飛ばされる。近付いた者からガイドガの振るう棍棒に叩き潰され、或いは吹き飛ばされて、追撃の手は完全に途切れた。
その頃には、さしもの人間達もガイドガの猛威を前にして徐々に後退を始めねばならなかった。
ガイドガは逃げる人間達を睥睨すると、口元に獰猛な笑みを浮かべ、咆哮する。
「我が名はゴブリンのガイドガ! ゴブリン最強の戦士である! 我と思わん者は立ち会え!」
だが、今の今までガイドガの猛威に晒されていた人間達には、その咆哮に応える者など居ないように見えた。
「逃げる敵の背しか追えぬ臆病者共! 我と戦う猛き者はおらんのか!?」
ガイドガが一歩前に出れば、それだけ人間達は下がる。
「どけい!」
だが、人間の戦士達の構える盾の海を荒々しくも割って出てきた強者がいる。年の頃は30を幾つか超えた頃。戦士としての風格と所々の動作の一つ一つから歴戦の強者であることが見て取れる。
「矮小なゴブリン風情が、何を息巻くか!」
「くはは! 臆病な人間風情が、何をほざく!」
浴びせられた怒声をそのまま嘲笑へと変え、ガイドガは血に濡れた棍棒を一振りして、こびり着いた血を払った。
「ガイドガと言ったな! 我が名はベルシュカ! 東方十三武家ファーレン家エルドレッドの子!」
互いに名乗り合うと同時に、僅かに距離を詰める。ベルシュカの得物は短槍。
「親の名前を出さねば、威名も張れぬか!」
「貴様、愚弄するかっ!」
ガイドガの挑発に乗って前に出たのはベルシュカ。繰り出される短槍の速度は並みの兵士の比ではない。神々の恩寵篤きベルシュカの突きは、一度の突きで三段突きへと変化する。それが更に三度。九度繰り出された高速突きは、銀の線が走ったようにしか見えなかった。
だが、ガイドガは防がない。
大きく振りかぶった棍棒を構えたまま、ベルシュカの間合いの中へ猛然と突進する。
「──っ!?」
悲鳴すら上げる暇もなく、ベルシュカの脳天にガイドガの棍棒が叩き込まれた。
短槍を避ける素振りすら見せず、一気に距離を詰めたガイドガの一撃は歴戦の戦士をして予想外のことであった。胸に9つの傷跡を穿たれたガイドガだったが、その頬に浮かぶのは凶猛な笑み。
「討ち取ったぞ! さあ、次はどいつだ!?」
吠える巨躯のゴブリンに、人間側は完全に浮足立ってしまっていた。武勇の中心的な役割を果たしていたベルシュカを失った今、彼らの士気を支えられる者が居なかった為だ。
「退け、後退だ!」
それでも良く殿を守って、人間達は撤退していく。
追撃を仕掛けたいゴブリン側だったが、それもままならなかった。
「よぉし」
「止めよ」
勇将を失って尚崩れぬと知ったガイドガが再度の突撃をしようとした所で、彼を止める者が居る。ゴルドバの矮躯が、いつの間にかガイドガの後ろに立っていたのだ。
「おいおい爺様、止めんでも良かろうよ? 折角の勝利だぞ」
「崩れて尚、一つの子葉に過ぎぬ。他種族の撤退を援護することこそ肝要だ」
舌打ちをして逃げていく人間達を見送ると、ガイドガは踵を返した。
「パラドゥアの小僧とガンラの若造も集まっておる。次は北に向かうぞ」
「分かった、分かった。オーク共を助けるんだろう?」
「その通り」
知恵者のゴルドバは、類まれな力を持った3匹と共にオークの救援を目標に掲げていた。冥府の軍勢は、彼の目から見て既に敗退の途についていると見えた。
負けるのは仕方がない。彼らが忠誠を誓う冥府の女神の力が目に見えて弱くなってきているのだ。そう遠くない内に、地上からその影響力は一掃されるだろう。
だが、どうやって負けるのか? どこまで負けるのかが問題である。
既にゴブリンもオークも数多くの冥府の軍勢の諸種族も地上に居を構え、種族として盤踞している。ならば、冥府の女神が神々との戦いに敗れた後も生きていけるだけの地盤を、子々孫々にまで残さねばならない。
冥府の女神が戻ってきた時、先駆けとなって再び戦う為にも。
一敗地に塗れたオーク達と盟約を結び、ゴブリン達は更なる撤退戦を行う。長く苦しい撤退戦の中で幾多の命が失われ、そしてまた生まれていった。
彼らの撤退戦が最大の山場を迎えたのは、大陸中部での戦の頃である。ヘルムズ峡谷の戦いと呼ばれるその戦いにおいて、人間側は統一王国アルサンザークを中軸とした諸種族の軍を組織。人間・妖精族・亜人などの古くからの種族で形成された軍勢は、4万にも上った。
対する魔物達は混沌の子鬼・鬼獣豚・大鬼・知恵無き巨人・人喰い鬼・木人などの総勢5万。
総兵力では優っていても、魔物の軍勢には決定的に欠けているものがあった。
突出した戦力の不在。
初期の頃から戦い続けてきた強力な魔物は居なくなっていた。対して、人間側は武神と炎の聖女が健在である。嘗てブル・オークを破った戦から実に5年。
冥府の女神と共に顕在化した魔物は、その多くが勇者によって討ち取られ、或いは冥府の女神の軍勢を離れていた。知恵の巨人がギガントピテクスを差し向けただけで自身が出張ってこないのは、明敏かつ聡明なバッハルには戦の勝敗が見えていたからだろう。
統一的な指揮官も存在せず、数に任せた魔物の軍勢と建国の英雄アークスと二人の勇者を擁する諸種族連合軍。少し頭を使えば、勝敗は誰の目にも明らかであった。
だが、それでも知恵者のゴルドバは諦めていなかった。確かに敗北はするだろう。だが、少しでも人間達に打撃を与える事が出来れば、それだけ奴らの侵攻を食い止めることが出来る。
その胸の内を、ゴルドバは同じゴブリン達だけには語っていた。
「我らは捨て石、という訳か」
ガンラが鋭い視線でゴルドバを睨む。頷くゴルドバに鼻を鳴らして、彼は視線を外に向けた。パラドゥアは難しい顔で唸っている。
「別に構わんだろう。いつまでも生きていられる訳もなし。我が名を子々孫々まで伝えていけるとなれば、俺に異論は無いがね」
ただ一匹、ガイドガだけは、あっけらかんと言って頷く。
「……別に、俺とて死が恐ろしいのではない。問題は残った者を誰が率いるのか、だ」
「爺様でいいだろうよ」
ガンラの問いかけに、ガイドガは笑う。
「本来なら始祖殿の後は強き者が継ぐのが正当であろうに……。お前はそれでいいのか?」
ゴブリンの始祖も、既に敵に討ち取られてしまっている。疑わしげな視線をガイドガに向けるガンラだが、ガイドガは手を振って否定する。
「俺は強く猛き者であれば構わんよ」
「……強く猛き者か」
「爺様のことだ。既に戦えぬ者共の住む場所に見当をつけているんだろう?」
ガイドガの言葉に、ゴルドバは頷いた。
「オーク達とオーガ達とは既に約束を交わしている。深淵の砦の付近に居を構えると」
「……ならば、憂うことはない。我が槍先は敵を葬る為にある」
パラドゥアは頷いて自身の槍を一撫でした。
「未だ不満か?」
視線を向けられたガンラは、口元に獰猛な笑みを浮かべて笑う。
「馬鹿を言うな。そう決まっているのなら問題はあるまい。我が鏃は敵を射抜く為にこそ、だ」
「ははは! まぁ、そういうことだ。爺様よ。そう心配せずとも、我らで人間共を倒してみせよう! 我が棍と巨躯は、敵を叩き潰す為にこそあるのだ!」
笑い合うゴブリン3匹に、ゴルドバは頭を下げた。
「許せ」
◆◇◆
「で、どうなったのだ?」
話の続きを促すラーシュカに、クザンは悲しげに赤い姉妹月を見上げた。
「……戦は敗北しました。如何に勇を奮おうとも、ゴブリンが結束しようとも、やはり勇者を擁した人間達の前に彼らの力は及ばず、ガンラは亜人に倒され、パラドゥアも妖精族の鏃によって生命を奪われました」
「では、我らの先祖の戦いは無駄であったのか?」
「いいえ、そんなことはありません。戦いに赴いた最後の1匹ガイドガはヘルムズ峡谷に陣取り、率いた戦士達と共に魔物の軍勢が人間側の横腹を突く為の時間を稼ぎました」
闇の翼が降りた中でラーシュカは目を瞑り、ガイドガの勇姿を思い浮かべる。
「ガイドガが稼いだ貴重な時間で、魔物達は何とか人間側に反撃を加え、少なくない犠牲を出させたとされています。三日三晩戦い抜いたガイドガと戦士達は一匹の例外もなく全身に傷を負い、戦死したと聞きます」
「父祖たるガイドガは、何を思って逝ったのだろうな」
瞼の裏に描くガイドガは、幼き頃に仰ぎ見た父の顔をしていた。
「無念だけだったとは言い切れません。彼は最期の戦いに赴く前に、戦士達を鼓舞したそうです」
──我こそはゴブリン最強のガイドガ! 我に続きし戦士達よ! 滅び行く者の意地を、遍く天地に響き渡らせようぞ! いつか必ず、我らの子孫はこの地に戻ってくる! 我らの仰ぐ冥府の女神と共に、いつか必ず、我らの名と共に!
薄っすらと瞼を開けたラーシュカもまた、遠き先祖の声を聞いた気がした。




