罅
【種族】ゴブリン
【レベル】92
【階級】インペリアル・大帝
【保有スキル】《混沌の子鬼達の覇者》《叛逆の魂》《天地を喰らう咆哮》《剣技A−》《覇王の征く道》《王者の魂》《王者の心得Ⅲ》《神々の眷属》《覇王の誓約》《一つ目蛇の魔眼》《魔流操作》《猛る覇者の魂》《三度の詠唱》《戦人の直感》《導かれし者》《混沌を呼ぶ王》《封印された戦神の恩寵》《冥府の女神の聖寵》《睥睨せしは復讐の女神》
【加護】冥府の女神
【属性】闇、死
【従属魔】ルーク・コボルト(ハス)(Lv56)灰色狼(Lv20)灰色狼(Lv89)オーク・グレートキング(ブイ)(Lv29)
【状態】《一つ目蛇の祝福》《双頭の蛇の守護》《土喰らう大蛇の祝福》
見覚えのある白い壁が目の前に聳えていた。煉瓦で作られたその塀の内側にあるのは、旧華族の広い敷地を買い取って作られた病院だ。名前は何と言ったか、もう思い出せもしないその病院の、良く手入れされた広い芝生の庭。
夏になる頃、そこから見上げた青空のあまりの青さが眩しくて、瞼の裏に焼き付いている。
ああ、覚えている。忘れるものか。
夏だった。茹だるような夏の合間に吹き抜ける涼風の心地良さに目を細めて、ベンチに腰掛けていたのだ。
4階の窓に吹き込む風に煽られた白いカーテンが、舞い踊っていた。
溢れ出そうな悔悟の念を噛み砕いて、その記憶を追う。
もう直ぐ、窓から帽子が飛び出す。
そして彼女が、慌てて手を伸ばすのだ。
ああ、畜生。心臓を抉り出してしまいたい程に苦しく、脳髄を掻き毟ってしまいたくなる。
嗚呼、名前は、あいつの。
俺の大事なあいつの名前は──。
畜生。
ああ、何故だ。何故出てこない……? 魂に刻んだ筈だった。それなのに、何かが抜け落ちているようなこの違和感。人間は忘れる生き物だとか、そういうことじゃあない。
毎日、毎日毎日毎日……あいつの名前を叫んだのに。還らぬあの日々を思って泣き叫んだのに。
何故だ、何故思い出せない?
日を浴びたことのないような白い手が、風に煽られた帽子を追って窓から出る。結局、その手は虚しく帽子を取ることは出来ず、虚空を掴むだけだった。
身を焼くような焦燥が、早鐘を打つように俺の心臓を叩く。
俺の手元に落ちてきた麦わら帽子の、その先に彼女の、あいつの姿が──。
ああ、何故だ!? 役立たずの眼球め! 役立たずの脳髄め!
何故逆光なんかで見えない! そんな筈はない。そんな筈は、ないんだ!
畜生、ちくしょう!
……還らなければならない。あの世界へ。
見えぬ逆光に彩られた彼女の顔を見上げながら、俺は心に強く誓わねばならなかった。例え何に成り果てようとも、それは変わらない。
あいつが居た世界へ、俺は必ず還らねばならない。
まるで運命のように重く囁く声に、俺は頷いた。
◇◇◆
冥府の女神の住まう神殿では、大鏡を覗き込むアルテーシアと傍に侍る一つ目蛇がいた。数多の蛇達を従える冥府の女神の眷属の中でも、神話にまで語られる最も力の強き内の一柱。主たる冥府の女神より真の黒と名付けられた蛇は、静かにその場に佇む。
絶対にして偉大なるヴェリドの主は玉座に腰掛け、その優美な足を組みながら背凭れにその身を預ける。その所作だけで、彼女の側に侍る者達に軽い魅了が掛かる。存在するというただそれだけで、力ある神々の一柱は世界に影響を及ぼすのだ。
魔法とは、力ある神々の動作一つ一つに起因する世界に及ぼす副作用。
況してや、冥府は彼女の世界だ。
ヴェリドは嘗て3匹の同輩と主を守る為に駆け抜けたあの世界へ、僅かに思いを馳せる。
──弟と呼んだあのゴブリンは、今も戦っているだろうか。
「……世界に罅が入ったわね」
鈴を転がすような楽しげな声と共に、ヴェリドの主が大鏡を覗く。
「御意」
あのゴブリンが成したことは、アルテーシアの望みに叶うものだった。
「嗚呼、待ちに待った時が来るのね」
僅かに上気したアルテーシアの頬に朱が差す。その火照りを覚まそうと掌を頬に当て、身悶えするように鏡から視線を離し、片腕で自身を抱く。
彼女の震えが大きくなると、まるで地響きのように嗤う声が聞こえてきた。
「──く、くく、あは、あははははははははははは! アハハハハハ!!」
彼女の視線の先には、アルロデナより遥か東の地にて1人佇む青年の姿がある。
「見つけたわ! とうとう、見つけたわよ!」
ぞわりと、ヴェリドさえも怖気を振るう声でアルテーシアは狂ったように笑う。それだけで世界が鳴動する。海は水を噴き上げ、雲は恵みの雨を降らせる。
「まさか、そんな姿になっていようとはね! 嗚呼、愛しい人!」
笑いを収めた彼女は一転、まるで感情を宿さないような怜悧な目でヴェリドを見る。
「ヴェリド……長らく待たせたわね。400年前の誓いを覚えているかしら?」
「忘れる筈もなく」
「宜しい。今暫し、静観を決め込もう。何れその時は必ず訪れる。あの矮小なるゴブリンが進む限り、必ず。その時が訪れたなら、迷わず誓約を果たせ」
「──必ず」
冥府の女神は瞳に地獄を宿らせ、満足気に頷いた。
◇◇◆
「王様、王様っ!」
呼びかけられる声と揺すられていることに気が付いて、ゴブリンの王は目を覚ました。重い瞼を開ければ、目の前には不安げな顔のレシアと思案顔のプエル、そしてゴルドバ氏族のクザンの姿がある。
「……ご気分はいかがですか?」
「……ああ、悪くはないな」
だが、口から出た言葉とは裏腹にゴブリンの王の思考ははっきりとしない。まるで霞が掛かったかのように頭の中に明瞭でない部分がある。確かに起きている筈なのに、眠っているのかのような倦怠感。
「王。貴方は自身がどうして眠って居られたか、覚えておいでですか?」
じっと見上げてくるクザンの瞳は真剣そのもの。
「……」
記憶を探るが、ゴブリンの王の記憶に思い当たる節はない。
「政務を執っている最中に、突如として倒れられました。レシア殿の癒しの力を持ってしても貴方の意識を回復させることは叶わず、近くに詰めていたゴブリン達の手を借りて寝台に運ばせて頂きました」
思い出せないのだろうと事実を知らせるプエルの言葉に、ゴブリンの王は眉を顰めた。
「倒れた? 俺が?」
「ええ。3日程も眠りの中にいました。その間に私がクザン殿を呼び寄せ、箝口令を敷かせて頂きました」
視線を背の低いクザンに移すプエル。それに釣られて、ゴブリンの王も視線をクザンに移す。
「……王よ。少し政務をお休みになっては如何でしょう?」
自身を取り囲む者達を見て、ゴブリンの王は頷いた。
「……分かった。そのような目で見るな」
苦笑を貼り付けた王は政務の軽減を約束し、目の前の者達を下がらせた。それでも体調を心配したプエルによって休息を必ず取ることを約束させられ、政務の大部分をヨーシュを始めとした文官達に預ける形に落ち着く。
結果として、これがヨーシュを始めとした文官達の急激な台頭を齎すのだが、ゴブリンの王1人で支えることが出来ない程、国は巨大になっていたのだ。
誰も居なくなった部屋の中、ゴブリンの王は己の手を見つめる。
夢の残滓が絡み付いてくるような錯覚を覚えつつ、王は独白した。
「帰る、だと? 俺は帰りたいのか?」
まるで自分自身が二人いるような奇妙な感覚を覚えながら、王は飽くことなく己の手を見つめていた。思考が深まっていくにつれ、王は考えねばならなかった。
そもそもの話、自分はどうしてこの世界に存在するのだと。
原初にして最大の疑問を前に、記憶を弄る。だが、誰しもそうであるように生まれた時の記憶など存在する訳もなく、ゴブリンの王は途方に暮れるしかなかった。
王の前から退出したプエル・レシア・クザンらは、別室で控えていた者達に王の病状を説明すると、今後の対策を練らねばならなかった。
幸いにして東部侵攻は順調である。
3匹の将軍に率いられたゴブリンの軍勢は、燎原の火の如くに人間の小国を攻略している。また、それを支える経済も若き才能の台頭を迎え、順調そのものであると言って良い。外征の成功と比例するように、内治においても大輪の花を咲かせ始めたかのように順調である。
国内の統治に当たっては、全く問題がない状態であった。
「王の体調はどうなのだ?」
鋭い視線に苛立ちを込めて、ギ・ザー・ザークエンドはクザンに問いかける。
「よろしくはありません」
きっぱりと言い切る彼女に、その部屋の住人達は一様に顔を顰めた。
「命の危機なのか?」
「分かりません。ですが、生活にすら支障を来たす程度には危ういと思われます」
クザンの言葉に、ギ・ザーは息を呑んで目を見開いた。直後に俯き、その表情を見られまいとするかのように絞り出すようにして言った。
「そうか……。手立ては、あるのだろうな?」
殺意すら視線に込めるギ・ザーに、クザンは怯えながらも首を振る。
「……貴様っ、それでもっ……くそ!」
激発し、クザンに手を出そうとしたギ・ザーだったが、既で思い留まる。そのような手段を取ってもゴブリンの王が回復することはないし、ゴブリンの医療において最も先を行っているクザンの見立てなのだ。
他の誰でも、為す術がないのである。
「私に提案があります」
暗く沈む部屋の住人達に声をかけたのは、プエル・シンフォルア。
「何だというのだ。王の病を治すことが出来るとでも言うのか?」
鋭い視線はそのままに、ギ・ザーが問いかける。
「可能性は無くはありません。但し、賭けの要素が大きいでしょう」
「勿体ぶらずに、さっさと言え!」
プエルは目を細め、部屋の住人達に確認を取るように全員を見回した。
「冥府の女神の眷属神である、翼なき空蛇を探します」
プエルの言葉に瞠目したのは、レシアを除く全員である。
「ガウェインだと?」
その神の名にギ・ザーの中の精霊が僅かに身動ぎする。ガウェインの使徒と名乗る蛇によって、精霊はギ・ザーと共にあることになったのだ。後悔などはしていないが、警句を発するぐらいはしても不思議ではなかった。
「嘗て冥府の女神は4匹の強大な蛇を従えて世界に戦いを挑みました。その内の一柱です。それとも、こう言った方がよろしいでしょうか? 氏族達が腐敗の主と崇めた、双頭の水蛇の同類であると」
その言葉にクザンは黙り込み、僅かに視線を伏せる。彼女の中には、未だに言葉を取り戻した時の、あの優しい声が残っている。
「……お前のことだ。居場所も分かっているのだろう?」
冷静さを取り戻しつつあるギ・ザーの問いかけに、プエルは無言の内に頷くと、地図を開いて一点を指し示す。
「西方未踏領域」
ゴブリンはおろか、人ですら踏み入っていない地域である。
「そこへ行けば、王は助かるのだな?」
「その可能性がある、という話です。これまで王は冥府の女神の眷属神を味方に付け、力を増してきました。ならば、ガウェインからも何らかの協力を得られるかもしれません」
「分かった。東征を撤回し、既存の軍をその地域の攻略に向けよう」
ギ・ザーにしてみれば、それはゴブリンの総意と言っても良い、当たり前の事であった。ゴブリンの王あっての王国である。例え大陸を制覇したとしても、ゴブリンの王亡くば、そんなものに意味は無くなる。
勝利も、栄光も、命を懸けた名誉も、王と共にあるからこそ価値があるのだ。
「いえ、それはいけません」
だが、ゴブリンの総意とも言うべき意見を真っ向から遮ったのは軍師プエルである。
「何故だ? 我らにとって王の快癒以上に大事なものなどないぞ」
「あなた方にとってはそうかもしれませんが、それでは王が納得されません」
そう言われてギ・ザーもクザンも考え込まねばならなかった。誇り高き王が、自身の健康の問題だけを理由に成し遂げてきた覇業を捨てるだろうか?
否だ。とてもそんなことをしそうにはない。
「……だとすれば、せめてラ・ギルミ・フィシガのファンズエルだけでも」
国内の治安維持に当たっているファンズエルならばと、舌打ち混じりに提案するギ・ザーにしても、これが弱々しい抵抗であることは分かり切っていた。分かり切っていて尚、提案せざるを得ない心情なのであった。
「……王の身辺を守るのは、精鋭の100名に限らせて頂きます。その程度なら王の護衛として説得し易いでしょう」
「たった100か」
「王を説得できる自信がおありなら、どうぞ」
舌打ちで答えるギ・ザーは、鼻を鳴らしてプエルを睨む。
「分かった。だが、俺も行くからな!」
「まぁ、仕方ないでしょう。ですが、王に続いて行こうとする将軍らを説得する役は貴方にやって頂きます。宜しいですね?」
「交換条件という訳か……! いいだろう、やってやる!」
ギ・ザーの言葉を聞くと、プエルはレシアに視線を移す。
「では、レシア殿。王の説得を宜しくお願いします」
「え」
「貴様……」
レシアの驚愕とギ・ザーから漏れる唸り声を同時に聞いたプエルは、口元に薄い笑みを浮かべてゴブリンの王の説得をレシアに依頼したのだった。
4月26日誤字脱字修正




