忠誠
ゲルミオン王国歴232年。スネクの月も27日を数える頃に、ゴブリンの王率いる軍勢はゲルミオン王国の王都を目前にしていた。元々プエルの方策で住民は逃がしても構わないとのことだったので、ゴブリン達は西側に固まって布陣していた。
西軍を率いるギ・グー・ベルベナと南軍を率いるギ・ガー・ラークスを筆頭とし、レギオルを率いるギ・ヂー・ユーブ、武闘派ゴブリンを率いるギ・ズー・ルオ、魔術師級ゴブリンのギ・ザー・ザークエンド、ドルイドを率いるギ・ドー・ブルガらのギの集落出身のゴブリンが参戦していた。
またガイドガのラーシュカ、パラドゥアのハールー、ゴルドバのクザンも自らの氏族を率いて参戦していた。
亜人からは牙のミドと人馬のティアノス。人間からは誇り高き血族のザウローシュを筆頭に、足の速い者達で周辺地域の索敵と制圧を行っていた。
ギ・ヂー・ユーブは、投石機の唸りを聞きながら遠目にゲルミオン王国の城壁を見守る。視線を北側に向ければ、難民だろうか人の群れが城壁から離れていくところだった。
「追わなクて、よろシイのでスか?」
レア級ゴブリンの問い掛けに、ギ・ヂーは首を振って答えた。
「プエル殿が不要と仰るなら必要ないのであろう。我が君も、それを支持していなさる」
ギ・ヂーはゴブリンの中で最も人間の戦術や兵器に関心を寄せている。学ぶことに貪欲なその姿勢は特筆すべきものであり、特に戦術面に関してはプエルを師と仰ぎかねない勢いであった。
「それよりも、投石機の投射角度を少し調整する必要があるな」
城壁を飛び越える石弾を確認し、ギ・ヂーは即座に指示を飛ばす。狙い通りに城壁に着弾する石弾を認めると、満足そうに頷いた。
「伝令! 城門ガ破レ次第、突入スル! 準備セヨ!」
レア級ゴブリンの伝える言葉に頷くと、ギ・ヂーはレギオルに前進準備を命じた。
◆◇◆
断続的に続くゴブリン側の投石攻撃に、王都の民は恐慌状態に陥っていた。今すぐにでも城門を破ってゴブリン達が押し寄せてくるのではないか? その恐怖は次第に疑心暗鬼となって、ゴブリン達を王都に招き入れようとしている犯人がいるのではないかという不穏な噂となって駆け巡っていた。
現実から目を背けようとする彼らは怒り、居もしない犯人探しを始めた。
そうして人々の口の端に上ったのが、昔ゴブリンを連れていた老人だった。
王宮内で“人形遣い”にして“東方の賢者”と呼ばれる彼女のことなど、王国の下層で暮らす民達には分からない。彼らが欲していたのは都合の良い生贄である。
恐怖を忘れさせてくれる何かを彼らは求め、そして彼らを満足させてくれる生贄は力もない老人であるという。
断続的に響く投石の残響は、下層民達の精神の安定を徐々に蝕んでいった。
恐怖に駆られた民衆の中には兵士の姿もあった。命令系統すら既に機能せず、動きようがない兵士にとって、民衆の声は彼らを動かすに充分な理由であった。
裏切り者がいるぞ!
裏切り者がいる!
民衆は叫び、熱狂のままにファルミア・デ・フローリアの住まう邸宅を襲った。
だが、彼女も“人形遣い”とまで称された研究者である。研究者であるということは優秀な魔法使いであることと同義であった。多分に幸運にも恵まれたことであったが、その日の彼女の元には細々と研究を続けていた人に仕える魔獣の研究の成果があった。
暴徒と化した群衆が自身に向かってくる恐怖に、彼女は邸宅に籠城すると魔獣を解き放って、自身の護衛に当てた。
「私は未だ死ぬ訳にはいかない……。そうだろう?」
彼女の決意と共に鎖から解き放たれた魔獣は、邸宅の入り口で熱狂する群衆に威嚇の声を上げた。
それとほぼ同時刻、王城からはゲルミオン王国国王アシュタールが国務大臣ルフェルと聖騎士ツェルコフ率いる近衛400と共に出陣した。ゴブリン側も城門を破ることに成功し、王都の中へと雪崩を打つように侵入を開始していた。
落城の際は混乱を極めるものである。誰もが生きようと踠き、誰もが助かろうと他者を蹴落とす。混乱の坩堝と言ってもいい状況で、寧ろ冷静である方が異常なのだ。
勝利者側であるゴブリン達も、その熱狂の中では落城する人間側と大差なかった。
この時投入されたのは、ギ・グー・ベルベナの斧と剣の軍、徴募された新兵達、そしてギ・ガー・ラークスの虎獣と槍の軍とガイドガ氏族である。王都内であるということを考慮し、アランサインからは黒虎に乗るパラドゥア氏族が投入された。
森を駆け巡る黒虎の跳躍は、王都の町中でも十分機能するであろうというギ・ガーの判断である。
そして一国を堕とす歴史的瞬間に立ち会っている筈のゴブリンの王はプエルに臣下の活躍を見守ることを約束させられ、ギ・ザーも全面的にそれを支持した為、渋々王都の外で戦果の報告を待っていた。
不意の奇襲や予期せぬ遭遇戦を警戒したプエルの考えによるものであり、戦いに赴く程自身の身を削る王の体調を気遣ったギ・ザーの配慮でもあった。ただ本人にしてみれば気遣いは有難いと思うものの、敵の首魁を自身の手で討ち取ってきた今までに比べれば、自身の命を危機に晒さないのは兵や民を率いる者としてどうなのかという思いがある。
だが、彼の体調は無理を重ねる度に風雨に耐えかねた岩が崩れ出すように悪化の一途を辿っていた。色彩に異常を抱え、鼻は効かず、暑いのか寒いのかの区別さえ出来なくなっている。そのような中にあっても自身の矜持を失わないのは、彼が間違いなく多種族を率いるだけの素質を持っていることの証左であった。
放火の為か王都から立ち昇る黒煙を見上げて、ゴブリンの王は僅かに憂いを感じていた。
「国破れて山河あり、か」
「何ですか、それは?」
妖精族のプエルの問いに、ゴブリンの王は苦笑で答えた。
「古い詩だ」
「……王が詩を嗜んでいらっしゃるとは存じ上げませんでした。ですが、ここは戦場。未だ勝利が確定した訳ではありませぬ故、油断は禁物です」
「無論だ。俺は死ぬまで戦い続ける。その覚悟も無しに、王を名乗りはせぬ」
ゴブリンの王が気持ちを入れ替えたのを確認したプエルは伝令を走らせ、突入した全軍にアシュタール王の御首を挙げよと号令を下した。
◇◆◆
王城から出陣したアシュタール王達だったが、呆然としていたツェルコフは空に立ち昇る一条の黒煙を見つけると、高笑いを上げて跳躍する。
一息に邸宅の屋根に着地すると口元を歪ませて笑い、黒煙に向かって屋根伝いに走り出した。
「ツ、ツェルコフ殿!?」
ルフェルは狂える聖騎士の突然の奇行に混乱するも、アシュタールは無感情に遠ざかる背を視線で追った。
「構わぬ。進め……」
「はっ、陛下がそう仰るならば」
生きた屍のような顔色のアシュタールの下知に従い、ルフェルは再び進軍を命じる。
黒煙が上がっていたのは貴族の邸宅街の一角であった。ファルミアの邸宅の門番の如くに立ち塞がる魔獣の姿を目撃した群衆は、その魔獣が邸宅に入ろうとする者を容赦なく噛み殺す事を知ると裏手に回って侵入を試みた。
だが、やはりそこにも魔獣が居り、侵入しようとした者達は忽ちに噛み殺されてしまう。
業を煮やした民衆が邸宅に松明を投げ入れた為に、その火は一気に燃え広がった。如何に魔獣で防備を固めているとはいっても、ファルミア邸には使用人すら居ない。消火活動が出来ない以上、彼女には炎に巻かれて家から出るしか選択肢がなかった。
魔獣を自身の周囲に侍らせると、彼女は身の安全を確保しつつ家から出る。
「居たぞ! 裏切り者だ!」
目敏く炎の中から逃げ出してきたファルミアを見つけた群衆が叫ぶ。彼女には何のことだか全く心当たりのないことであった。
「死ね、裏切り者!」
罵詈雑言と共に石を投げる群衆に、ファルミアは魔獣を盾にして身を守るしかなかった。その群衆から突如悲鳴が上がる。彼女への罵声も何もかも忘れて逃げ惑う暴徒らを伺うと、屍の上に佇むツェルコフの姿があった。
その両腕には湯気を上げる人間の腸が絡み付き、焦点の合わない瞳は煙を上げる邸宅に向けられていた。
「あ、あ、あ……」
呆然とした顔で呟くツェルコフは、腕を振るって悲鳴を上げる民の頭を掴むと恐ろしい握力で握り潰す。彼が一歩踏み出す度に新たな屍が積み上がっていく。
群衆は互いに押し除け合ってツェルコフから逃げることに必死になった。その過程で転んだ者を踏み付けて死傷者が出るのも構わずに彼らは離散し、その場に残るのは二頭の魔獣に守られたファルミアと哀れな屍の傍らに立つツェルコフだけになっていた。
「ツェルコフ殿……」
唸り声を上げる魔獣を待機させると、ファルミアは一歩前に出てツェルコフと対峙する。
「牢から出られたのですね」
「……」
彼女に声を掛けられたツェルコフは悄然と俯き、言葉を発することなく虚ろな視線を彷徨わせていた。
「……ツェルコフ殿?」
「ファ、ル、ミアァ……」
返事をしようとした彼女の胸をツェルコフの貫手が貫いた。僅かに開こうとした口から血を吹き出し、彼女はその場に崩れ落ちる。
「ファルミィィアアアァ!!」
崩れ落ちた彼女に向かって叫ぶと、ツェルコフは背を向けて再び跳躍する。その時には既に彼女に見せた悄然とした様子など欠片も残っていなかった。理性も善性も人格も全てを投げ捨て、ツェルコフは狂い笑う。
「ふ、ふははは! ファルミア! ファルミアァ! ふははははは!」
屋根伝いに走る彼の視界には、城門を破ったゴブリンの群れが映っていた。
◆◆◇
アシュタール率いる近衛軍400は、間も無く王都に侵入してきたゴブリンの群れと衝突することになる。通路に満ちたゴブリンを目の当たりにしたルフェルは、声を裏返しながら前進を命じた。
王の周囲を守るのは騎士の国に恥じぬ精強な近衛兵である。ゴブリン側の3匹1体の攻撃を見切る者も存在し、巨大な盾で攻撃を防ぎながらゴブリンを倒していく。
対するゴブリン側だったが、最初にアシュタール王の近衛と交戦したのは今回の戦が初陣の新兵達である。3匹1体の攻撃を防がれてしまえば、彼らには為す術がなかった。徐々に押し込まれていく新兵のゴブリン達だったが、その情報はすぐさま後方にいる経験豊かなゴブリン達に伝達される。
最も早くアシュタール王の元に辿り着いたのはガイドガ氏族を率いるラーシュカだった。ロード級の巨躯に隻眼。同族のゴブリンですら一歩道を譲る強面の豪傑である。アシュタールを発見したラーシュカは、肩に担いでいた青銀鉄で補強された棍棒を地面に叩き付けて吠えた。
「この程度の敵に苦戦するとは何事か!!」
直属の上官ではないが、自分達よりも遥かに高位のゴブリンから叱咤を受けた新兵達は恐怖に身を縮こまらせ、次いで獰猛さを隠しもせずに近衛に襲い掛かっていった。
勢いを取り戻した新兵達を確認したラーシュカは満足そうに頷いて顎を撫でると、冥府の悪鬼が舌舐めずりするような笑みを浮かべる。
「そうそう、若い奴らはこのぐらい勢いがないとなァ」
「族長、このまま静観ですか」
ガイドガ氏族の次代の有力者ダーシュカの質問に、ラーシュカは笑った。
「馬鹿を言うな! 獲物の一番旨いところは俺達が貰う!」
地面に叩き付けていた棍棒を担ぎ直すと、自身が先頭に立って突撃していく。
「若造共に、戦いとはどういうものか教えてやれ!」
自身の率いるガイドガ氏族に命じると、圧倒的な腕力で道を切り開く。隻眼の悪鬼の棍棒が振るわれる度に全身を鎧で固めた人間が冗談のように吹き飛び、果物のように潰れていく。笑いながら迫り来る巨躯のゴブリンに、流石の近衛と言えども恐怖を感じずにはいられなかった。
「ひ、ひぃぃ」
ルフェルはそのあまりの迫力にたじろぎ、アシュタールの王の傍らから一歩後ろに下がる。その肩を意外な力強さで掴んだのは、誰あろうアシュタール王であった。
「へ、陛下……?」
「……貴様がどのような野心を胸に抱こうとも構わぬ。だが、貴様には必ず為さねばならぬことがある。儂をイシュタールの所まで連れて行くことだ」
薬に狂い、理性を失った者とは思えぬ明確な物言いと冷徹な視線。嘗ての聡明さを取り戻した瞳でアシュタールはルフェルを見つめていた。
「ルフェル。貴様の忠義は分かっているつもりだ」
「へ、陛下……! 私は、私は権力に溺れた無能者にございますれば……」
「ルフェルよ。儂をイシュタールの元へ」
「ぎ、御意に、ございます! 陛下!」
最早声を張り上げる力もないのか、アシュタールはそれきり迫り来るゴブリンを冷然と眺めた。
「近衛よ、何をしているか! 陛下の御前で死ぬのが貴様らの役割であろう!?」
ラーシュカの恐怖に支配されていた近衛に、ルフェルの声が響く。
「王はお前達に望まれておる! 己の役割を思い出せ! 近衛の役割とは何だ!?」
「陛下の御身を守り、敵を殲滅することである!」
若い近衛が言葉を発すると、ガイドガ氏族の前に飛び出して戦いに参加する。奮戦する若い近衛に感化され、他の近衛達も前線に身を躍らせてゴブリン達と死闘を演じる。
だが、それでも戦力差は如何ともし難かった。
奮戦する近衛も一人、また一人と倒れ、遂にはルフェルとアシュタール王を残すのみとなる。震える足でアシュタールの前に立ったルフェルに、殺到するゴブリン達の槍。
「陛下……! 我が無能を、お許し、下、さい……」
全ては王の為である。ルフェルの言葉に嘘はなく、彼なりに考えて王の為に動いたのだ。例えそれが、国を滅ぼすことになっても。血族を失い、王の座を降りることすら出来なくなったアシュタールの為に何が出来るのか? 偶然にも手に入れたツェルコフという手駒を使って。
宮廷内を恐怖によって纏め、最後の戦力である近衛を動かし、民が王都外に避難する時間を稼ぐ。王都を落としたゴブリンが、気分次第で追撃してくるかもしれないからだ。
愛する孫を失ったアシュタールを心安らかにする為に、幻覚作用のある薬を服用させた。毒と言われれば毒に違いない。王をこれ以上の争乱から守る為に聖騎士を排除し、最期の時まで安らかに過ごさせようと努力を惜しまなかった。
矢鱈と挑発的な言動も、王に批難が向くのを避ける為である。
後世、ルフェル・マルコンドの名は無能者の代名詞として使われることになる。彼の忠義を知る者はなく、歴史の闇に埋もれていく。
「貴様がアシュタール王だな?」
「……ゴブリンめ」
眼前のラーシュカに、最後の忠臣を失ったアシュタールは吐き捨てるように呟いた。
二度目の問い掛けはなく、ラーシュカは敵の王を一撃で葬った。
「ふん……。王に伝えろ。アシュタール王は、ラーシュカが討ち取ったとな!」
◆◆◇
老ゴブリンは数多の新兵達に混じってゲルミオン王国の王都を走っていた。心臓は早鐘を打つように脈打ち、息は荒い。老境に差し掛かっている彼にとって、新兵と共に駆け抜ける行軍は体力的に厳しかった。
だが、それでも彼は進まねばならない。
全ては過去のしがらみに決着を付ける為である。
最早殆ど記憶に無いとは言え、この国に来た時のことは良く覚えている。高い城壁と、その中に囲まれた街並み、彼の“ご主人様”に連れられて歩いた道である。ゴブリン達は濁流のように進む。老ゴブリンは、その中で見覚えのある景色を必死で探した。
あの時逃げ出した景色を。
あの時並んで歩いた景色を。
幾つかの通路を曲がった時、老ゴブリンは漸く見覚えのある場所に辿り着く。
「……ここだ」
荒い息の合間から確信を口に出して、彼は目を見開いた。
老ゴブリンは足を進めようとし、突如響いた悲鳴に思わずそちらを振り向く。
「ふははははははは、はっははははは! ゴブリン、ゴブリン、ゴブリンッ!!」
そこには人の形をした恐怖が立っていた。
突き出された槍は、しかしその男の身体には突き立たない。新兵の手加減無しの一撃が容易く弾き返され、次の瞬間には頭を握り潰される。骨の髄にまで染み込ませた三匹一体も、通用しないなら只の三連撃でしかない。
すり抜けようとした両側に手を伸ばし、まるで赤子を捕まえるが如くにゴブリンの頭を握り潰す。
聖騎士ツェルコフ。或いは破壊の騎士ツェルコフ。
ゴブリン達は知り得ないことだったが、王都で最も危険な人間と遭遇してしまったのだ。
ツェルコフの口元が愉悦に歪む。まるで獲物を前にした肉食獣だった。大きく両手を広げる様は、暗黒の森の斑大熊のような圧倒的な捕食者の気配を放っている。
老ゴブリンの身体は知らず後退っていた。彼がその年齢になるまで森の生存競争の中で生きてこられたのは、偏に臆病であるからだった。強者には決して逆らわない。逃げることこそ最善。争いを好まない性格故に、群れの頂点に立つこともドルイドに進化することも無かったが、それでもこうして長い年月を生きてきた。
そんな彼の本能が告げていた。
この敵は、出会ってはいけない類のものだと。
思わず一歩退がる。誰がそれを責められよう。目の前の敵に挑めば死ぬ。確実な未来を避けるのは卑怯でも何でもない。
そうして二歩目を退がった時、彼の視界に映ったのは“ご主人様”と歩いた街並みだった。
「……」
彼は無言で街並みを仰ぐ。人間用に作られた街並みはゴブリンの彼からすれば見上げるばかりものだった。だが、それが彼に“ご主人様”の記憶を呼び起こさせる。
三歩目で振り返って逃げれば生き延びられる。
だが、その三歩目が退けなかった。
身体は震え、心臓が早鐘を打ち、喉は干からびたように乾いていた。
だが、それでも退けなかった。
吐き出す息が白く煙る。
「う、ぬ……」
駆け抜けねばならない。思い極めた瞬間、彼は動いていた。出来るだけ身を縮こまらせ、振るわれる腕の下を通り抜けようとし──。
その瞬間、老ゴブリンは後方へ大きく飛び退いていた。
先程通り抜けようとした場所に、振り抜いた直後の裏拳の如くツェルコフの腕が戻ってきていたのだ。もしあのまま突っ込んでいたなら、老ゴブリンの頭は粉々に砕け散っていただろう。
「ぬ、う……」
鎧を着込んだ全身に冷や汗が浮かぶ。
その時、神の悪戯かツェルコフの視線が老ゴブリンを捉えた。
死である。圧倒的な死が彼を見つめていた。
全身の勇気を奮い起こして進もうとした老ゴブリンの足を止めたのは、狂気の視線であった。
全ての決意を圧し折られ、震える足で背を向けようと三歩目を退こうとした時──。
「無事で何よりだ。長老」
「ギ・グー殿……!」
後ろから声を掛けて来たのは、ロード級ゴブリンにして4将軍の一角。血塗られたフェルドゥークを率いるギ・グー・ベルベナだった。
「随分やられたようだな」
若いゴブリンの屍を見渡して怒りを噛み締めるギ・グーは、左右に自身の配下を配して老ゴブリンを庇うように前に出ていた。
「大兄! こいつ危険!」
グー・ナガの声にギ・グーは頷く。
「ああ、分かっている。だが同胞を殺されたこの怒り、奴にぶつけねばどうしようもあるまい」
牙を剥き出しにして怒りを露わにするギ・グーを前にしても、ツェルコフは笑みを崩さない。
「ゴブリン、ゴブリン、ゴブリン! くははは、ははは!!」
獣染みた前傾姿勢を取るツェルコフ。対峙するギ・グーが怒鳴る。
「来い!」
直後、ツェルコフが跳躍する。地面擦れ擦れを飛翔するが如く突撃した聖騎士は、ギ・グーの顔面に向けて低い角度からの拳を放つ。姿勢も何もあったものではない。普通なら軽く払って終わりの一撃が、凄まじい威力を伴って防ぎに回った長剣に叩き付けられる。
「ぐ、ぬぅぅぅ!?」
長剣を押し込んだ拳が、全力のギ・グーを吹き飛ばす。空中で態勢を整えたギ・グーだったが、あまりにも異常な腕力に思わず舌打ちした。
「化け物め! 本当に人間か貴様!?」
「くはははははははは!」
高笑いを返すツェルコフの様子を窺いながら、背中に庇った老ゴブリンに声を掛ける。
「あれを突破して、向こう側に行きたいのか?」
「……」
黙り込み俯く老ゴブリンに苛立ち紛れに再びギ・グーは問う。
「どうなのだ!?」
「……その通りだ」
「ならば仕方あるまい。おい、聞こえているだろう!! 長老の為だ。協力するぞ!」
周囲の建物に向かって叫ぶギ・グー。その声に応じるように建物の上から姿を現したのは、黒虎に騎乗したギ・ガー・ラークスだった。
「承った!」
ツェルコフを挟む形で建物から騎獣を着地させると、槍を一振りして屍に視線を落とす。
「……これが聖騎士か」
槍を構えるギ・ガーの視線は鋭い。
「そうだ」
剣と斧を構えたギ・グーも応じる。
「名も名乗れぬ聖騎士よ。ゴブリンの王が一の家臣、ギ・ガー・ラークス参るッ!」
「死ね! 人間!」
「ふふふははは! ゴブリン! ゴブリン!」
前後から高位のゴブリンの挟撃を受けて尚笑うツェルコフ。ギ・ガーの鋭い槍の一撃を躱し、ギ・グーの振るう斧を受け止める。
だが、ギ・ガーとギ・グーは、それをこそ待っていた。
「行け、長老!」
脇を駆け抜ける小柄なゴブリンの姿に、ツェルコフの哄笑が止む。一瞬の後に最古参の2匹を弾き飛ばすと、小さな背に向かって手刀を繰り出す。
「させぬ!」
間一髪、ギ・ガーの繰り出した槍がツェルコフの手刀を抑えるが、その余波で老ゴブリンの足が絡れて転倒する。
怒声を上げてギ・グーが躍り掛かるが、片腕一本で攻撃を受け止めるツェルコフの腕力は尋常なものではない。立ち上がるのに苦労する老ゴブリンを庇うギ・グーだったが、徐々にツェルコフの力が増し、斧を押し返していた。
「ふ、ふ、ふはははは!」
「くそっ!」
ギ・ガーの槍とギ・グーの斧を弾き、再び老ゴブリンに攻撃を加えるべく拳を振り上げたツェルコフだったが、その懐に入り込む影がある。
「グルウウゥオアアア!」
気迫の声と共にツェルコフを吹き飛ばす豪拳。敵と味方の血に濡れた狂い竜ギ・ズー・ルオが、体当たり気味に割って入ったのだ。
「遅れました!」
「遅いわ!」
怒鳴りながらも笑うギ・グー。ギ・ガーも安堵の表情を浮かべる。
「王からの伝言です。長老をお助けせよとのことで、急遽此方に」
その言葉は老ゴブリンの耳にも入っていた。
「王……! 感謝致します」
「長老! 何が目的か知らんが早く行け! ここは俺達が抑える」
ギ・グーの声に頷き、老ゴブリンは再び走り始める。
「ご武運を!」
ギ・ガーの声に見送られ、老ゴブリンは只管に走った。
◆◇◆
背中の痛みを堪えながら走る。
あまりの痛さに立ち止まってしまいそうだった。恐怖は去った筈だが汗は止まらない。全身から吹き出るそれが、既に熱いのか冷たいのかすら分からなくなってしまっていた。
だが、それでも荒い息を吐きながら走る。
記憶を辿り、足を進める。
角を曲がり、派手な装飾の家々を横目に見ながら、必死で記憶を掘り返す。
──今日から此処が、私達の住む街になるんだ。
どこか誇らしげな彼女の姿が脳裏に過る。その度に、痛くて堪らない筈の背中を押すものがある。
──どうだい! 我ながら見事なものだろう! 王様にも褒められた! きっとこの研究は後の時代に残る筈だよ!
大人しくなった筈の魔獣に引っかかれた記憶が甦る。
あの時の彼女は、驚く程慌てふためいていた。
──ほ、包帯はどこだ!? ああ、消毒薬が先か!? ええい、どうしてこうも片付いているんだ!? い、痛くないかい? いいや、痛くない筈がないか。もうちょっとだからね!
家中をひっくり返し、手当の道具を探し当てた時には夜中になっていた。
その頃には既に瘡蓋が出来ていたが、彼女は大丈夫だというのに強引に手当をした。
──君の回復力の高さには驚かされるね……。いや、そうではない。ええと、良いかい。怪我をしたら消毒をしないと駄目なのだよ。細菌……いや、目に見えない悪いものが虎視眈々と体の中に入る機会を狙っているからね。
怯える彼に、彼女は優しく頭を撫でながら傷口を洗う事を教えてくれた。
その夜、彼女は彼の頭を膝の上に乗せて眠らせてくれた。
──ご褒美とお詫びを兼ねてね!
そう言って笑う彼女は美しかった。
何もかもが、懐かしい思い出だった。
もうすぐ。
もうすぐ、我が家に着く。
「くっ……!」
背中が痛かった。
まるで、そこから命を吸いだされているようだった。段々と走る足に力が入らなくなっていく。瞼が重くなっていくのを必死に堪える。
あの通りを抜け、この角を曲がれば──。
彼が見たのは燃え上がる思い出の家と、その傍らで血を流す彼女の姿だった。
「ご主人様……!」
槍が音を立てて手から滑り落ちる。
倒れた場所から這って動いたのだろう。庭の石に背中を預けるようにして動かない“ご主人様”の姿を見つけた。
髪に白いものが混じり、顔には皺が増えたのだろうか。
だが、見紛う筈もない彼の“ご主人様”だった。
僅かに彼女が目を開けた気がしたのは、彼の気の所為であっただろうか。
「……ご主人様。戻りました。やっと、やっと……戻って参りました」
今まで無理をしてきた反動で彼は膝を突き、そのまま俯せに倒れてしまう。
「ご主人、様……」
彼の背中は割れ、血が溢れ出している。
今まで走ってこれたのが不思議な程、その傷は深い。
彼は這って彼女の元に向かう。彼女に喜んでもらわねばならなかった。きっと彼女は笑ってくれる。
もう一度。あの美しい笑顔を、せめてもう一度だけ見たい。
「戻って、戻って……まい、り、ました……」
彼女の流した血の中を、同じように血を流しながら彼は進む。
そうして、やっと彼は彼のあるべき場所に辿り着く。
「ご、ほう、び……ご、しゅじん、さ……」
「……が……と……」
今際の際の言葉は吹けば飛ぶような小ささで、だが一人と一匹にはそれで充分であったのだろう。
老ゴブリンの表情は、使命を果たしたかのように穏やかであった。
並んだファルミアの顔も、まるで長年の煩いから解放されたように穏やかであった。その目元から一筋の涙が流れる。
老ゴブリンとファルミアは再会を喜び、安らかに息を引き取った。