斜陽
ゲルミオン王国歴232年ドラゴの月。一ヶ月前に雪鬼が発見されてから北方戦線は膠着状態が続いていた。決定的なぶつかり合いに発展しないのは、雪鬼達の戦い方が決戦を避けるものであるからだった。
「今月に入ってから二度目の襲撃……」
展開された地図上に記された被害の範囲に、リィリィは唇を噛み締める。一度に受ける襲撃は微々たるものだ。精々10人程度が数日分暮らせる食料が奪われるだけだが、その襲撃が止まらない。
広域に警邏の兵を派遣して警備を厚くしても、ゴブリンに蹴散らされて捕捉すら難しいのが現状だった。数で押すしかないのだが、それを集中する為の情報が彼女の元に集まらない。
リィリィを含めた少数精鋭だけでは、複数箇所を襲撃されて終わりだった。
ガランドも苦戦したゲリラ戦法である。
王都に救援を依頼しても返ってくるのは現地を死守せよとの命令のみである。あまり気の進まない方法であったが、彼女は個人的に親しい貴族に手紙を送って情報収集に努めた。
結果、今現在ゲルミオン王国が四方から攻め込まれ、滅亡寸前であることを知る。
北方の兵力差など、未だマシな方であった。
西方ではゲルミオン王国側が2000程であるのに対して、敵は判明しているだけで6000。
東方では新たに東部兵を率いた両断の騎士シーヴァラでさえ、反乱の鎮圧に手間取っているという。
南方は既に国境を突破され、領地持ちの貴族達は各個撃破されているという有り様だった。
ここにきて彼女は亡国の縁に立っていることを自覚せねばならなかった。援軍を期待した東方では、今やゲルミオン王国随一と言っても良い名将シーヴァラが反乱を鎮圧を出来ずにいる。シュシュヌ教国とは連絡が取れたのだろうか? 彼の国の助力が無ければ、ゲルミオン王国は四方からの圧力に負けて自壊するだろう。
国王が政務に意欲を失った中、代わりに指揮を執る軍務卿ベードルは最も被害の甚大な南方に兵力を集中する事を決意したらしい。
以前から国の屋台骨が軋む音は聞こえていた。
アシュタール王の後継者喪失。政争による実質的な聖騎士の国外追放。力を集中すべき外敵に対処するよりも先に、内憂による痛みが国を引き裂いていた。
箍の外れた細工物のように分解しつつある国を思った彼女の背筋に冷たいものが走る。
彼女には今、守るべき領民がいる。
率いるべき兵がいる。
領主という立場上、彼らを守り導かねばならない。とうの昔に失った筈のオルレーアの家門が今になって彼女を縛る。魔剣の使い手。魔物を狩る者。何れもオルレーア家の当主達が受け継いできた称号である。
死して英雄となった者達の称号である。
聖女レシアとあの森で過ごしたことにより、リィリィは変わった筈だった。
一人の騎士として愛する者達を守る。その力の及ぶ限り、決して折れぬ剣の誓いを立てた。そこに嘘偽りはなく、間違いとも思わない。
だが、剣が折れた後、残された領民達はどのような扱いを受けるだろうか? 恐らく自身が戦っても勝てぬ戦いである。相手の強大さを知るからこそ蛮勇に踏み切れない。
領主館から離れた仮の陣地の天幕で、彼女は深い苦悩の中にいた。
◇◆◆
北方の戦線が膠着している間に、西方の戦線では大きく動きがあった。
ギ・グー・ベルベナ率いる西軍が、攻城兵器の威力と闇夜を友とする種族的な有利を背景に、次々と砦を落としていたのだ。
唸りを上げて投射される石弾が煉瓦で補強された砦に直撃する衝撃と音は、昼夜を問わぬ攻撃に疲労した西域の民に重く伸し掛かる。今日で通算10日目の攻撃である。
数に勝るゴブリン側は、全隊を3等分して連続攻撃を仕掛ける。当初は射返されていた矢の数もめっきり減少した敵陣を見やりながら、ギ・グー・ベルベナは傍らのラ・ギルミ・フィシガに相談を持ちかけた。
西軍を率いるのはギ・グーとされ、ガンラの英雄ギルミは西軍の後方支援という位置付けであった。これで互いに猛将という性格だったなら対抗意識を剥き出しにするだろうが、ギルミはそのような態度は微塵も見せず、一歩引いてギ・グーに前を譲っていた。
「降伏の使者を出した方が良いと思われるか?」
「無用だろう」
決して謙ることなく言葉を返すギルミに、続きを促すべくギ・グーは頷く。
「ふむ?」
「此処を守っているのはゴーウェン・ラニードを慕う民だと聞いた。自らの住処を追い出された者達だ。略奪者に頭を垂れるぐらいなら死を選ぶのではないかな」
「劣勢は誰の目にも明らかだと思うが」
「変わっておらぬなら、敵の将はユアンと名乗る者だ。粘り強い戦い方をする。油断はしない方が良いだろう」
「肝に銘じよう」
ギ・グーはギルミの話を聞き終えると、直属の手下に攻撃の手を緩めるなと指示を下す。再び活気づく投石機の投射に、ギルミは意外なものを見るようにギ・グーに視線を戻した。
「随分投石機を多用するのだな?」
「俺は人間が嫌いだが、人間の作る兵器や技術は別だ。此方の兵が死なぬからな」
ギ・グー・ベルベナといえば、その血塗られた紋章旗と共にゴブリンの中でも好戦的で血を好む印象が強い。対比されるギ・ガー・ラークスが慈悲と寛容を武器に人間を切り崩している為でもあるが、それにも増してギ・グーはゴブリンらしい暴力的な戦法が得意である。
「意外か?」
その問いに、ギルミは何と答えたものかと少しだけ考えた。
「うむ」
結局、嘘をついては余計に関係を拗らせるだけだと判断して素直に答える。
「正直だな!」
吹き出すように笑ったギ・グーは、一通り大声で笑うと眼下に広がる自軍を指差した。
「グー・タフは400を率いさせて人間と共同で当たらせているが連携が甘い。グー・ビグは300の兵と共に人間の兵器を使わせているが、扱いが粗い。兵器の構造を理解していないのが原因だろう。最初期から付き従う弟達でさえ、この様だ。先頃進化した者達は当然これ以下でしかない。だがな……」
僅かに頬を緩めたギ・グーの表情は、肉親を想う家族のそれであった。
「俺達はゴブリンだ。そうであることに俺は誇りを持っている。人間に甘く接するのも良いだろう。他種族との協調も良いだろう。だが、決してゴブリンはそれらに劣る者ではない」
言葉の一つ一つに宿る熱に、ギルミは瞠目した。あの王の下ではこのようなゴブリンが育つのかと、僅かばかりの嫉妬を覚えたのだ。
「我らはゴブリンである」
その一言に幾万語の誇りを込めて、ギ・グー・ベルベナは胸を張る。
もしゴブリンの王が居なければこのようなゴブリンが台頭していたのではないかと夢想して、ギルミは直ぐにその考えを改めた。
危険な思想である。
王が居なければ。そのような考えは、氏族を守る上で抱いて良い考えではない。
少なくとも、王が生きている間は決して口にも顔にも出してはならないものだ。
何やら禁忌に触れてしまった気がして、ギルミは軽く頭を振った。
◆◇◆
南方戦線ではゴブリン側が侵攻を開始して間もなく、その有利は不動のものとなっていた。
大地を揺るがす馬蹄の響きが迫る度、対峙するゲルミオン王国の貴族と兵達の思考は恐怖に塗り潰された。構えた突撃槍は人間では扱うのが困難な程の長さである。黒虎を始め、三つ目の悍馬や肉食らう恐馬を率いた彼の軍勢は立ち塞がる者達を容赦なく貫きながら、鮮烈な勢いでゲルミオン王国南部を攻略していった。
南部最大の都市グラウハウゼを攻略し終えたギ・ガー・ラークスだったが、ここまでの順調な行程に慢心することなく、片腕とも言える誇り高き血族のザウローシュを交渉役に立てると、自身は引き続き軍を率いて抵抗する小領主達に降伏を迫る。
「ヴィラン殿。補給の方はどうだろうか?」
また、彼はクシャイン教徒からの援軍である軍師ヴィラン・ド・ズールを一時的に招聘していた。
「問題ありません。略奪も最小限に抑えていますし」
粘り強く冷静と称される彼の軍才は、兵站の維持にこそ最も発揮された。ゴブリンの兵站線は魔獣軍の総帥にして4将軍の一角たるギ・ギー・オルドと、ギ・ブー・ラクタに代表される後ろの者達が担っていた。
だが、それを最も効率的に運用出来たのはゴブリン達ではなく、奇しくも外部から招いたヴィラン・ド・ズールであった。
移動距離の計算とゴブリンや魔獣の消費する食料の計算。それらの概念は、残念ながらゴブリン達では難し過ぎた。ゴブリンの王であれば別であったろうが、彼の王は多忙であり、戦況を整えることに大半の時間を費やしていた。
大事な戦線とは言え1戦場の兵站にまで手を出せる程、万能でも時間が有り余っていた訳でもなかったのだ。
「ならば」
「はい。ザウローシュ殿からも調略は概ね問題ないと聞いていますゆえ」
頷いたヴィランに、ギ・ガーは獰猛な笑みを見せた。
「我が王に南部攻略の総決算を御覧頂こう」
「では、状況を整理しておきましょう」
「是非頼む。クルディティアンの英雄に解説して頂けるなら、皆の理解も早い筈だ」
英雄という単語に若干顔を顰めたヴィランだったが、咳払いをして居並ぶゴブリンやその他の種族に説明を始める。
南部の国境線を突破した虎獣と槍の軍は、その進軍速度を以って小貴族達の軍を蹂躙。硬軟織り交ぜた交渉により、その内の半数を無力化していると言って良い。
あくまで反抗的な態度を取る貴族の軍は被害を抑えつつ叩き、北方へ追いやっていた。
「先頃、南部を救援する為に軍務卿ベードル率いる王国軍が発ったとの連絡がありました。総数は凡そ1000程。今まで故意に見逃してきた南部諸侯と合流すれば2000程になるでしょう」
王国軍の質は玉石混交である。
第一線を退いた二線級の人材が主力だが、それ以下の戦力として最低限の訓練すら終えていない農民兵も相当数混じっている。ただし軍務卿ベードルが率いているのは、間違いなく国王が集めた一線級の戦力であった。
編成としては魔法兵・騎兵・長槍歩兵である。それぞれの数は800・300・900。一線級の力を持っているのは魔法兵のみである。
「最も警戒する必要があるのが魔法兵です」
パラドゥアの族長ハールーが頷き、人馬の族長ティアノスらを確認したヴィランは話を進める。
「此方の兵力は騎兵3000に歩兵500」
重装備の歩兵は居らず、軽装の剣兵のみという移動を重視した編成になっている。人間の騎兵をも組み込んだゴブリンの騎兵戦力だったが、その過酷な調練に付いてこれる者が少なく、ゴブリンと比べると、どうしても数の少なさが問題となっていた。
質を維持しようとすれば数を増やせず、数を増やそうとすれば質を維持出来ない。軍隊における永遠の命題に頭を悩ませながらも、ギ・ガーは3500の兵力を有していた。
「はっきり申し上げれば、数でも質でも此方が圧倒しています。戦場の選定さえ間違わなければ、勝ちは揺るぎません」
「聞いた通りだ」
ヴィランの説明を受け継ぐ形で、ギ・ガーは自身の案を口に出す。
「我らは此処まで駆けて来た。ならば、これからも駆け抜けて勝利を得ようと思う」
獰猛に笑うギ・ガーは広げられた地図の一点を指し示し、戦場を選定する。
「戦場はガードル丘陵だ」
騎兵の力が最も発揮できる平原での戦いを選択したギ・ガーだったが、その場所はかなり王都寄りだった。
「強行軍で2日。平常行軍で3日程ですか」
考え込むヴィランに、ギ・ガーは軍議に参加した面々に向き直る。
「我が軍はゴブリンにて最も速き者。その鉄脚を以って、迅雷の速度で駆け抜けん!」
それに、と付け加えてギ・ガーは笑った。
「我らの強行軍は、今少し速い」
呆気にとられるヴィランに不敵な笑みを見せると、ギ・ガーはアランサインに出陣を命じる。
「遅れるものは置いて行く! 同盟国の英雄殿に、アランサインの神速をご覧に入れよう!」
麾下に集った俊足の兵達が、ギ・ガーの檄に応えて喚声を上げた。
一方で、戦を交えた小貴族達からゴブリン軍の編成を聞いた軍務卿ベードルは、敵が恐らく平原にて決戦に挑んでくると読んでいた。だが、その到着時間を読み間違えることになる。
軍務卿ベードルは、ゴブリン達の布陣していた南部最大の都市グラウハウゼから戦場となるガードル丘陵まで、ゆうに3日は掛かると読んでいた。その間に罠の設置や騎馬兵を防ぐ馬防柵などの設置を進めるつもりであったが、その計算を裏切るようにアランサインは僅か1日で戦場に姿を現した。
それは人間の常識を覆す驚異の行軍速度であった。
準備も整わないまま戦闘に移行してしまったベードル率いるゲルミオン王国軍は縦横無尽に戦場を駆け抜けるアランサインの兵に押され、瞬く間に蹂躙されることとなる。
魔法兵達の攻撃を物ともせず、突撃を敢行するギ・ガー・ラークスとハールー。敵の騎兵と歩兵を一撃離脱戦法で寄せ付けない人馬の族長ティアノス。更には駄目押しの戦力としてザウローシュ率いる人間の騎馬兵も投入される。
自らの手足のように騎兵を操るギ・ガーの鮮烈かつ大胆な攻撃。寄せ集めのゲルミオン王国軍ではアランサインの猛攻を凌ぎ切ることが出来ず、敗北を喫することとなる。戦の最中に軍務卿ベードルが戦死すると、最高指揮官を失ったゲルミオン王国軍は瞬く間に壊滅した。
この戦いに敗れたゲルミオン王国軍は南部奪回に失敗したばかりでなく、アシュタール王が心血を注いで作り上げた魔法兵団まで失う致命的な損害を負うこととなった。最低限の軍事力すら喪失した王国の敗亡は、既に誰の目にも明らかであった。
◇◆◆
東部における反乱の鎮圧に手間取っていた聖騎士シーヴァラだったが、漸く一定の目処をつけることに成功する。反乱軍を壊滅させるまでには至らなかったが、東部に追い払うことで治安を回復することに成功していたのだ。
だが、彼が反乱勢力に手を焼かされている間に、ゲルミオン王国の情勢は引き返せないところまで来ていた。
「何故、後少しだけ我慢出来なかったのだ! ベードル卿!!」
悔しさを滲ませながら南部救援軍の壊滅の報せを聞いたシーヴァラは、今後の戦略を練り直さねばならなかった。
彼が東部の反乱鎮圧を優先したのは、第一にシュシュヌ教国からの援軍が期待していたからである。ガランドを通じて、戦姫ブランシェとの繋がりは未だ保たれている。それを利用して何が何でもシュシュヌ教国からの援軍を呼び込み、王都のベードルと東部のシーヴァラ、そしてシュシュヌの援軍で南部を救援する。
それが可能であれば、少なくとも戦況を好転させることは出来た筈だった。
王都へ出した手紙でその可能性を示唆した筈だったが、彼の思いとは裏腹にベードルは単独で出陣してしまい、王国の主力は壊滅。南部を攻略したゴブリンの勢いは止まらず、更に西方に攻勢を掛けている。
「若……いえ、お館様。事態は急を告げております」
傅役の老騎士の言葉に、シーヴァラは自身と守るべき領地の領民の運命を決めねばならなかった。
最早ゲルミオン王国の滅亡は秒読みであり、シーヴァラは一人の貴族として、先頃亡くなった父の跡を継ぐ領主として決断せねばならなかった。
第一案は東部を守り抜き、ゴブリンの攻勢を凌ぐ。
この案はシュシュヌ教国の援軍を頼りに自らの領地を守り抜くという案だった。しかし、同時にゲルミオン王国を見捨てることを意味する。ゴブリン達が王都を蹂躙している間に東部の守りを固め、自身の領民だけでも守り通すのだ。
ゲルミオン王国を救うことは出来ない。となれば、最悪守れるところだけを守っておこうという手堅い案だ。
シーヴァラ自身にシュシュヌ教国へ鞍替えする覚悟さえあれば、決して悪い案ではない。ゴブリン達の攻勢は西部と王都に集中しており、東部には向いていないのだ。
第二案として、東都の救援に赴き、国王と監禁されているジゼを救出して東部に遷都する案だ。
これは博打の要素が強い案である。ゴブリン側との衝突は必至であり、それを撃破して国王若しくは王族の血縁者を無事に脱出させねばならない。だが、友人とも言えるジゼを救出して瓦解したゲルミオン王国の勢力を糾合する可能性に賭けるなら、この案は魅力的だった。
第三案は東部を捨て、シュシュヌ教国に亡命する案だった。
ゴブリンの攻勢は既にゲルミオン王国の半ばを浸食しており、敗亡は明らか。シュシュヌ教国を頼り、一族郎党を率いてシュシュヌに亡命する。領主としての責務と自身の矜持にさえ目を瞑れば、最も現実的な案だった。
今なら未だ間に合う。家族の安全を重視するなら第三案だ。領地経営の手腕と軍の指揮官としての経験を併せ持つシーヴァラは、内乱の影響で人材が擦り減ったシュシュヌ教国にとって有益な駒と成り得るであろうし、自身にもその自覚がある。
「ああ、分かっているさ」
張り詰めていた空気を察して、シーヴァラは息を吐く。
「王都に向かう。軍を西に向けよ」
そう告げた彼に、傅役の老騎士は跪いて礼を返した。
「潔い決断でございます。我ら一同、どこまでもお館様に付いて参ります」
「ありがとう。最も辛い道を歩むことになる。だが、僕は聖騎士だ。国を守ると誓った自分自身に嘘はつけない」
シーヴァラ率いる東部軍は、王都を目指して進軍を開始した。その数凡そ1500。
私兵も交えたその総数は、ゴブリン側に対抗するにはあまりにも心許なかった。
◆◆◇
ゲルミオン王国が滅亡の危機に瀕しているのをガランドが知ったのは、戦姫ブランシェの小国巡りに一通りの決着が付いた後であった。
「馬鹿なッ!?」
報告を聞いたガランドは顔を蒼白にして怒鳴り、すぐさまブランシェに帰国する旨を伝える。
「そう急くな。今から向かってもどうせ間に合わぬし、大した戦力にもならんじゃろう。それよりは此処に残って──」
「ガランド殿。それ以上はいけませんな」
その先の言葉はガランドの大剣によって遮られた。ブランシェの嫋やかな首を刎ねる直前で刃が静止し、同時にガランドの首筋にもブランシェの副官である優男の短剣が突きつけられていた。
「──此処に残って、報復の機会を待ってはどうじゃ?」
敢えて口に出したブランシェの言葉に、ガランドは眦を裂く。
「巫山戯るなよ! 俺は、俺はなァ!」
言葉にならない怒りを噛み砕くガランドに冷徹な視線を注いでいた副官だったが、主が手を翳すとガランドの首から短剣を退けた。
「ガランドよ。国の要たる聖騎士ガランドよ。お主は何の為に戦うのじゃ? 友や民の為か、王への忠義故か。或いは憎悪か?」
その柔らかな指先でガランドの突き付けた大剣を優しく退かすと、ブランシェはガランドに近寄る。ガランドに触れようと腕を伸ばすが、彼は拒絶するように背を向けた。
「俺は国を守る騎士だ。今度こそ、俺は……」
虚ろな視線を彷徨わせるガランドは、それ以上言葉を返すこと無くブランシェの差し出した手を擦り抜けるようにして歩み去る。
「……振られましたな」
盛大な頬を張る音が響く。副官の出過ぎた言葉を窘めると、僅かに憤慨したような口調でブランシェは命令を下す。
「もう少し言葉を飾ったらどうじゃ」
「生来のものです。お赦しを」
「赦す」
ブランシェは僅かに考えると、副官に問い掛ける。
「ふむ……。ゲルミオン王国からは援軍の要請が来ておるのじゃろう?」
「正式な要請ではありません。東部を守る聖騎士シーヴァラと名乗る者からです」
「既に国の中枢すら麻痺しておるか……」
冷たい視線を副官に注ぐと、彼女は豪奢な外套の裾を翻して自身の部屋へ向かう。
「愛しき国王陛下に謁見を請う。支度をせよ。魔導騎兵を500で良い。急げ」
「はっ」
頭を垂れる副官を一顧だにせず、ブランシェは自身の部屋に戻ると謁見用の衣装に着替える。
謁見を果たした彼女は、国王に西部のゲルミオン王国との同盟破棄を訴えた。最早彼の国に力は無く、寧ろ侵略すべきであると。
彼女の提案に驚嘆したのは国王だけではなく、文官を始めとした官僚達も同様であった。
「彼の国は助け得ぬ病人に等しい。苦しまぬよう、早めに引導を渡してやるのが慈悲でもありましょう」
「だ、だがな? 一方的な同盟破棄は、周囲の国に我が国への不信を産みはせぬかのう?」
壮年の国王は目の前の少女に気圧されながら口を開いた。
「愛しき国王陛下。このまま手を拱いていては、シュシュヌ教国はゲルミオン王国からの流民に圧し潰されます。彼奴らゴブリン共は意図的に東部を残しておるのです」
三方向から攻勢を掛けながら逃げる者達を追撃しないのは、東部に民を集めて圧迫し、シュシュヌへ追い立てる腹積りであると彼女は訴える。
「国務大臣殿。ファティナから供給を止められた今の状態で、食料や物資の余剰はあるのかの?」
怜悧な視線を向けられた国務大臣は言葉を返せない。
「魔物にそのような知恵が……」
「有る無しの問題ではありませぬ。現にそうした状況に追い込まれているというのが問題なのです」
国務大臣の言葉を遮り、彼女は笑う。
「我が麗しの戦姫よ。では、ゲルミオン王国を侵略すれば危機は回避出来るのだな?」
「国王陛下!?」
悲鳴を上げる文官達を制して、彼女は笑う。
「ゲルミオン王国とクシャイン教徒共への宣戦布告の御許可を頂ければ、必ず」
暫く瞑目した国王だったが、直ぐに彼女に許可を与えた。
シュシュヌ教国の戦姫ブランシェ・リリノイエによるゲルミオン王国との同盟の破棄と、それに伴う宣戦布告は時を追ってゲルミオン王国へと到達する。衝撃を受け止めきれない中、それでもゴブリン達の攻勢は止まず、動乱は加速していった。