閑話◇昔日の木洩れ陽
これは、ゴブリンの王が生まれる遥か前。
一人の人間と一匹のゴブリンの物語である。
その時代のゲルミオン王国には西方領域を所領として与えられた聖騎士が居た。鉄腕の騎士ゴーウェン・ラニード。王に仕える古参の騎士であり、個人の武は勿論の事、一軍の指揮官としても極めて優秀な才覚を持つゲルミオン王国でも屈指の人材だった。
後年には新兵を育て上げることに注力するようになるが、領主として辣腕を奮うのはもう少し年を経てからである。
その当時の西域には未開拓地域が数多く存在し、アシュタール王直々の遠征により、やっと魔物の動きが沈静化し始めたばかりであった。
アシュタール王の最後の遠征の最中、王は魔物の襲撃から生き延びた一人の冒険者を拾う。そして、その青年がゲルミオン王国に仕えるのもこの年からである。名前をガランド・リフェニン。後に嵐の騎士と呼ばれることになる男だったが、この時点では幸運にも命を拾った一介の冒険者でしかなかった。
アシュタール王の最後の親征は苛烈を極めた。
鉄腕の騎士ゴーウェンと隻眼の騎士ジゼ。2名の聖騎士を従えながらも、全体的に見れば押され気味であった。一度などは王の座所に魔物が侵入するという事態にまでなったのだから、その戦いの激しさが知れるというものだ。
親政を終えた王は、あまりにも多い被害に涙を流し、西域の本格的な開拓に乗り出すことを決意。己の右腕たるゴーウェンに西域を治めさせることにしたのだ。
アシュタール王は有能な王である。その年、在位23年目。若くして王位を継ぎ、己の才覚を頼りに聖騎士の国の王となった傑物であった。己の右腕と信ずるゴーウェンを西方の領主にするだけでなく、更にもう一つ策を講じることにする。
当時、シュシュヌ教国に居を構えていたある人物を王都に呼び寄せ、西域開拓の補佐を頼んだのだ。
“東方の賢者”。王都ではそう呼ばれていた。名をファルミア・デ・フローリア。象牙の塔に認められた学識豊かな壮年の淑女であるが、同時にかなりの変わり者としても有名であった。
彼女には、もう一つ渾名があった。“人形遣い”。魔物を使役する特異な魔法を学問として研究していたのだ。
魔法というものは、神々の戦から後に人間が使えるようになったのだという。
神々の数だけあった魔法の種類は、後に人間が使い易いように整理されていき、火、水、土、風の4大属性と、それ以外の亜種に分類されるようになった。4大属性の中でも、特に火の属性は扱える人間が多く、最も汎用性が高いとして約300年の時を経て人間の世界に大きく広がった。
だが、同時に廃れていく魔法を惜しむ声も多かった。
そこで知識の集積と研究発展の為の機関として成立したのが“象牙の塔”である。先の4大属性に加えて、光、聖、闇、死、雷、木、金……。象牙の塔にはありとあらゆる種類の魔法の知識が集められ、厳重に保管されている。
その中で、ファルミアは闇属性を研究することに没頭していた。彼女自身に適性があったのは言うまでもないが、それらの研究が許されていたのは、偏に彼女が知恵の女神の加護を受けていたことに起因していた。
後に白の長老となるターニャ・フェドーランや、赤の長老となるセリオン・ハーロンと並び称された彼女の才能は、既にその地位に就いていた青の長老、美貌のフロイド・ベルチェンによって広く認められることとなった。
長年に渡る研究と惜しみない努力の結果、彼女は一つの成果を実らせることになる。それは使役術。闇魔法の最も難しい分野とされる魔獣の魔素への干渉法を、不完全ながらも確立したのだ。
当然、彼女はそれで満足しなかった。
魔獣が可能なら、魔物を従属させることも出来る筈である。
理論的には可能だとされるそれを、彼女はどうしても試したかった。十二分に安全措置を取った上で比較的危険の少ないゴブリンを実験台にして試みた結果、何と彼女は成功を収める。
象牙の塔は彼女の偉業を賞賛し、何れは白の長老になれるとの太鼓判まで押される程であった。
しかし、人は欲深い生き物である。彼女はそれでも満足出来なかった。
魔物すらも従えることの出来る自身の魔法は、世に言われるような4大属性に劣るものではない。彼女はそれを証明したかったのだ。
彼女はフロイド・ベルチェンに別れを告げると、西方のゲルミオン王国へと向かった。彼女の後ろには、奇妙に愛嬌のあるゴブリンが荷物を持って同伴する。
「ご主人さま、今度はどちらに?」
「ああ、ゲルミオン王国というところだよ」
「げるみおん?」
首を傾げるゴブリンに、ファルミアは大げさな手振り身振りで言った。
「おお、騎士たらんとする者よ、いざ西を目指さん! そこには騎士達の国がある! 身分の貴賎、男女の差異、人種年齢、一切不問! ただ騎士たる力を証明せよ! 我らが仰ぐ、王の名は、アシュタール・ド・ゲルミオン! 英雄、強者、騎士も兵士も一手に束ねる、その名も高き尊厳王! ……ってね」
「凄い、凄いです!」
目を輝かせて頷くゴブリンに、彼女は微笑む。
「この前、お芝居でやっていたのさ。西域辺境第一の強国。それがゲルミオン王国だよ」
「僕の仲間も居ますか?」
「そうだね。居たらいいね」
嬉しげに笑うゴブリンに、ファルミアは頷いた。
それが決して叶わぬ希望だと知りながら。
◇◇◇
ゴブリンを連れた女が来た。
当初、ゲルミオン王国での彼女達の第一印象は巨大な衝撃であった。
“人形遣い”の2つ名を不動のものとしたファルミアは貴族街の一角に屋敷を与えられ、騎士の国としては異例の厚遇を受けることになる。
折しも彼女達が訪れた時は、未踏破地域に楔を打ち込む形で開拓が進められ、魔物の被害が激増していた時期であった。後年に発生したオークの狂化程ではなかったが、己の縄張りを侵された魔獣や魔物達が反撃とばかりに人間を襲っていた。
それ故に、彼女が開発した魔物を使役する術に期待が集まっていた。
彼女の魔法を使えば凶悪な魔物を手懐け、襲ってくる魔物と戦わせることが出来るのではないか? 西域開拓に乗り出したアシュタール王の狙いはそれであった。また、増え続ける被害に頭を悩ませていた王にとって、藁にも縋る思いがあったのも否定出来ない。
ある日、彼女は王の前で手懐けたゴブリンを披露した。王座には壮年のアシュタール。未だ武の気配を濃厚に漂わせる益荒男は、騎士の国の王たる威厳に満ちていた。その周囲を守るのは、名だたる聖騎士達だ。
「おはつに、おめにかかります。王様」
ぺこりと頭を下げるゴブリンに、アシュタールは目を細める。
「ほぅ、まさにゴブリン……」
鉄腕の騎士ゴーウェンと隻眼の騎士ジゼは、目を見開いて驚いていた。ゴブリンが流暢に言葉を話し、簡単な礼儀作法も心得ている。その事実が彼らに新鮮な驚きを与えたのだ。
「子供を中に入れている……訳では無さそうだが」
未だ半信半疑のゴーウェンとジゼは王の許しを得ると、興味深そうにゴブリンを観察する。
「危険はないのであるか、ファルミア殿?」
「それは我が魔法を疑っておられるということでしょうか?」
ジゼの質問に気分を害されたファルミアの硬い声。眉を顰めたジゼだったが、ゴーウェンが間に入って事なきを得る。
「このゴブリンは、戦えるのでしょうか?」
ゴーウェンから鋭い視線を浴びたゴブリンはその殺気に驚き、ファルミアの後ろへ隠れてしまう。
「こわい、こわい、こわい」
「……大丈夫」
ゴブリンの頭を優しく撫でるファルミアは、ゴーウェンに非難の視線を向ける。
「む、これは失礼した。どうも粗忽者でしてな」
「ゴブリンとは凶暴であると思い込んでいたが、一匹だとこれ程臆病になるのか……」
王の言葉に、聖騎士二人は頭を垂れてゴブリンから離れる。
「中々に興味深い。ファルミア殿。暫し我が国に留まり、研究を続けられよ」
「有難き幸せ」
それからの彼女は多忙だった。
与えられた一軒の家に長居することなく、ゲルミオン王国の各地を飛び回り、研究を続ける。与えられた家は、家事をこなすゴブリンが留守を任されて一日を過ごすことが多かった。
◆◇◇
ファルミアとゴブリンがゲルミオン王国に召し抱えられて3年目。彼女の研究は更なる飛躍を見せた。異なる二種の魔獣を交配させ、新種の魔獣を家畜化することに成功したのだ。
人を襲わない魔獣の育成。正に家畜化と言って良い。彼女の研究成果はすぐさまアシュタール王に献上され、王はファルミアに惜しみない賞賛と褒賞を贈り、更なる厚遇を約束した。
「ご主人さま、良かった」
「うんうん、我ながら自分の天才具合に惚れ惚れするよ」
彼女は、自宅で東方の葡萄酒を飲みながら上機嫌に笑っていた。ゴブリン自身も嬉しく思いながら料理など作っている。
「この調子で行けば魔獣の被害を更に減らせる。人と魔獣の共生という私の夢も、漸く現実味を帯びてきたね」
「人と魔獣のきょうせい?」
首を傾げるゴブリンに、ファルミアは笑った。
「そう。生きとし生ける者達は決して争うばかりではないと思うんだ。共に手を携えて生きていけるなら、それに越したことはない」
どこか憂いを帯びたその視線に、ゴブリンは主人を元気付けようと明るい声を出す。
「ご主人様、優しい! みんな、仲良し。良いこと!」
「うん、そうだね。私の願いは、私が生きている間に叶わないかもしれないけれど、それでもいつかきっと……いろんな種族が手を取り合って歩いて行ける時代が来ると思うんだ」
その掲げる理想の異端さと高さ故に、彼女は象牙の塔を出なければならなかった。
彼の塔は研究の為の施設である。彼女の手助けにはなっても、彼女の理想に共感してくれる訳ではない。
「そうだ! 君にこれをあげよう」
彼女は懐から本を取り出すと、ゴブリンに渡した。
「これは、本……?」
「文字を覚えなさい。最初は、私が教えてあげよう」
優しく微笑むファルミアに、ゴブリンは嬉しそうに頷いた。
ファルミアとゴブリンがゲルミオン王国に来て4年目。日常は平穏に過ぎて行く。彼女は研究を更に進める為の資料の収集に余念がなく、それには相応の時間が必要だった。
家に居る時間も増え、その間彼女はゴブリンに文字を教えた。
元々才能があったのか、或いは彼女の期待に応えるのが嬉しかったのか。ゴブリンは驚くべき早さで文字の読み書きを覚えていった。
そうして5年目。ゲルミオン王国にとっても彼女達にとっても運命を決する出来事が起こる。
オークの狂化である。
◆◆◇
ファルミアの研究成果は開拓村にも導入され、三角猪を家畜化した一角猪などが飼育されるようになっていた。彼女の試みは、確実にゲルミオン王国に利益を齎し続けていたのだ。
だがその年、王都を震撼させる情報がホルスの月に駆け巡ることになる。
開拓村の壊滅。村人は全員死亡し、彼女の生み出した家畜化された魔獣も全滅した。
外堀などに残った屍から元凶はオークだと推測された。問題はその規模である。何せ生存者が一人も居ないのだ。それ程の猛威を奮うオークの群れであるなら、聖騎士を派遣するのは決定事項としても、率いさせる兵力が問題となっていた。
折しも、南方の自由都市群とは関税を巡って小競り合いが絶えない時期であった。
兵力を集中させ過ぎれば、南方の領土を切り取られる可能性がある。アシュタール王は大陸中央の強国シュシュヌ教国に調停を頼むと共に、西方に兵力を集中することを決定した。
「聖騎士ゴーウェン、聖騎士ヴァルドー。各々手勢を率いてオークを殲滅せよ」
聖騎士ジゼに南方を警戒させると共に東方からヴァルドーを呼び寄せ、ゴーウェンとヴァルドーの2名をしてオークの狂化を止めようと、アシュタール王は策を巡らす。
2人の聖騎士は堅実な用兵をもって、この事態に対処しようとした。
開拓村に防備を固めさせ、各地を巡回することにより事態の沈静化を計り、同時にオークの被害を減らす。何よりも回避すべきは、恐怖に駆られた開拓村の民が土地を捨てて逃げ出すことである。
政治的な縛りと予測不可能なオークの襲撃を撃退するという、非常に困難な任務が与えられたのだ。
だが、二人の聖騎士は共に優秀で協調性に富んでいた。
常に連絡を取り合い、定期的な情報交換をしながら、オークの姿を探し求めたのである。
「此度の事はオークの狂化と言うらしい。“人形遣い”殿が、そう言っていた」
「敵は豚擬きの軍団か。オークは膂力と頑丈さに秀でた魔物だ。我ら二人は兎も角、一般の兵では徒党を組まねば分が悪い」
「そうだな。しかし、もう10日も経つがオークの姿を見たか?」
「見ていない。村に被害が無いのは良いことだが……」
二回目の情報交換の場で訝しむ二人。この所、全くオークの姿を捉えられていない。それもその筈で、この頃オークの群れは南方に下り、自由都市群の辺境領域にて猛威を振るっていたのだ。
「森へ帰った可能性は?」
「無いとは言い切れないが、嘗て東部でオークの狂化現象が起こった際、奴らは一切退くことを知らなかったそうだ」
「油断は禁物ということか。だとすれば、一体何処に? こちらの意図を察して動ける訳でもあるまいに……」
ゴーウェンもヴァルドーも、それぞれに無言のまま首を傾げた。
「急報!」
そして、彼らの元に最悪の報せが齎される。
「オークの群れが南方に出現! 聖騎士ジゼ殿が対処に当たっていますが数があまりにも多く、援軍を要請されています!」
「裏を掛かれたか!」
舌打ち混じりに吐き捨てたゴーウェンとヴァルドーは、すぐさま軍を反転させた。
◆◆◆
突如現れたオークの群れに、ゲルミオン王国の王都は大混乱に陥った。
真っ直ぐに王都に迫るオークの群れである。その数凡そ500。既に途上にある村々には避難勧告を出しているとは言え、その被害は計り知れないものだった。アシュタール王は城下に居る冒険者に緊急招集を掛ける。
即席ではあるが、オークに対抗するべく戦力の集中を行っていた。
そんな緊張の中、ファルミアも忙しかった。王城で重ねられる会議では魔物に対する意見を求められることが多くなっていた。ゲルミオン王国内では、彼女は魔物・魔獣研究の第一人者である。
王からの質問は多岐に渡り、貴族達の疑問にも応えねばならない。
元々あまり人付き合いが得意ではないファルミアは、日々の会議ですっかり心身を擦り減らしていた。元々少食だったが更に食が細くなり、元気が無くなっていく。
そんな様子にゴブリンは心を痛めたが、さりとて彼に出来る事は家事程度である。彼女の為に心を込めて料理を作るが、半分も食べずに食器を突き返される事も多かった。
ゴブリンは、何とか彼女に喜んでもらいたかった。
彼の主人は魔法が大好きである。
彼は必死に勉強して、魔法を会得することに成功する。それを彼女の前で見せれば喜んでくれる。そう思っての行動だった。
ほんの些細な行き違い。それだけで運命というものは大きく変わってしまう。
その日、深夜になって帰宅した彼女に魔法を見せたゴブリンだったが、彼女から浴びせられたのは激しい怒声だった。
「ご主人さまっ! 見てください。魔法です!」
「……私が、私が自分の魔法の研究も出来ずこんな苦労をしてるのに! お前はっ……」
てっきり喜んでもらえると思ったゴブリンは主人の怒声に驚き、縮こまってしまう。言いたいことも口に出せず震え上がったゴブリンに、彼女は決定的な一言を放ってしまう。
「出て行け! 出て行ってしまえ!」
そのまま机に突っ伏すと彼女は泣き出してしまう。
「ご主人さま……」
彼女から貰った魔法の本を胸に抱いたゴブリンは、肩を落として家の扉を開けた。
一通り泣き腫らして冷静になった彼女は、家の中にゴブリンの姿がないことに気が付く。
「おい、まさか……!」
その時になって、彼女は漸く自分の言った言葉の意味を正確に捉えたのだ。
「私は、なんてことをッ!」
家を飛び出すと、そのまま王都中を探し回った。
だが、結局ゴブリンを見つけることは出来ず、彼女は失意と自責の念に苛まれながら時間に流された。オークの狂化が鎮圧され、その功績で若い冒険者が準聖騎士の地位に就くこととなったが、彼女は一切関心が湧かなかった。
王からの感謝の言葉も謝絶し、彼女は与えられた家を買い取ると半ば隠棲するように密やかな生活を送ることになる。
◆◆◇
老ゴブリンは目を開ける。
長い夢。酷く昔の夢を見ていたようだ。
外から歓声が聞こえ、体を起こして外の様子を伺った。
「おお、長老殿! ご覧あれ、王の精鋭達ですぞ!」
若い水術師のゴブリンが彼に声を掛ける。穏やかに頷きながら彼が指差す方向を見れば、整然と居並ぶ若きゴブリン達の姿があった。
人間の世界から流れ込む豊富な食料は、偉大なる王の功績である。その食料を元にしたゴブリンの王の勢力は、拡大の一途を遂げていた。
「……ゲルミオン王国は滅びるであろうな」
「はい。我が王の力の前には、人間の国など風の前の塵に同じでございましょう」
「……儂も、行こうと思う」
「……は?」
「儂も、戦に加わらねばならん」
「えっ? いや、ですが……深淵の砦の管理もございましょう?」
老ゴブリンは首を振り、若い水術師の肩を叩く。
「お前に任せる」
「ですが……」
「老い先短い者の頼みじゃ。聞いてくれ」
僅かな逡巡の後、神妙な顔で頷く若いゴブリンに、老ゴブリンは優しく微笑む。
「ご主人さま……」
生きておいでになるだろうか? 彼は内心で問い掛ける。
貰った本は、もう無くなってしまったが……。
彼は槍を杖代わりにして、旅立ちの準備を始めた。