幕間◇友、遠方より来る
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「よしっ!」
メリシア・サリサは、気合を入れて自身の頬を張った。彼女は奴隷の娘である。年齢は花も恥じらう16と半年。メイド服に身を包み、鈍く光る鉄製の鏡の前で自身の身だしなみを確認していた。
「うぅ……」
気合を入れる為に強く張り過ぎた頬を撫でると、彼女はスカートの裾を翻して部屋から出る。
彼女が奴隷に堕ちたのは、両親に売り払われたからである。彼女の住んでいた貧村ではよくある話で、それなり以上の見た目に育った彼女は奴隷商人に売られた。その金で家族の一年分の食糧が賄えるのだから、決して悪い話ではない。
高価な商品は大事にされる。同じ奴隷に堕ちた者の中には現実を受け入れられない者も居たが、彼女は直ぐに順応していった。少なくとも、奴隷でいる間は食うに困ることはない。彼女の育った貧村では、毎日の食事すら危うかった。
彼女を買い取った奴隷商人は中々商才豊かな男だったらしく、従順で見目の良い奴隷には教養を身に付けさせるべく、読み書きを教えていた。労働力として売られる奴隷に文字を教えても無意味である。
だが、高級娼婦として売り出すのなら読み書き程度の教養は必要だった。奴隷に付加価値を付けて、より高く売り払う。メリシアには難しかったが、商人の考えていることはそういうことだったのだそうだ。
2年程国から国を渡り歩き、奴隷商人の男が目を付けたのは西の果てのゲルミオン王国である。辺境領域を切り開く聖騎士の国。その西域の領主は大変に出来た人物で、その下には優秀な若者が多く居るという話だった。
奴隷商人は南部と東部に見切りをつけ、将来性のある西域に根を下ろそうと決意したらしい。
彼女を領主に近しい騎士に売ることで、地位の安定と商売の庇護を願う計算だった。それを見込める奴隷商人の男は、返す返すも商才豊かな男であった。
少女は商人からそんな話を聞きながら日々を過ごし、自分はいつか高級娼婦となって有能な騎士の若者と結ばれる甘い夢まで抱いていた。
生きていれば一廉の商人となったであろう彼が死んだのは、魔物の襲撃によって西都が陥落した時だった。運悪く暴徒に襲われ、商人は死んだ。その後にやって来たのはゴブリンの大軍である。
巨大なゴブリンの勝鬨を、少女はどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
「おはよう。メリシア」
「おはようございます! ご主人様!」
「その呼び方、やめないかい?」
「では、西都総督ヨーシュ閣下!」
「……ご主人様の方が未だマシか」
がっくりと項垂れる彼女の主人は、凄腕の元剣闘士奴隷だという。とてもそんな風には見えない優しげな風貌と栗色の髪は、彼女の豊かな胸の奥底をぎゅっと締め付けてやまない。
噂好きの友人の話では、何でも炎槍のシュメアと炎撃のヨーシュと言えば、剣闘士の間では一目も二目も置かれる姉弟だったのだとか。
まぁ、彼女にとってはそんなことはどうでも良い。いや、本当はどうでも良くはないのだが、現実問題として、彼女は今眼の前に居るヨーシュが好きなのである。
「今日の書類はどのくらいある?」
「お昼までに片付けないといけない緊急のものが8件。お昼からは10件程あります」
「まぁ、頑張って片付けようか……」
ふぅ、と軽く息を吐き出すその仕草さえも、自身の心を元気にしてしまうのは何故なのだろう? メリシアは首を傾げる。
「……? どうかしたかい?」
「いいえ! 何でもないです!」
「そう? それじゃあ、早速頼むよ」
西都を統括するヨーシュの朝は早い。日が昇る前に起き出し、いそいそと着替えを済ませて日が登る頃には既に仕事を始めているという有り様だった。彼の下には商人からの陳情や、妖精族が勝手に家を壊して木を植えているという苦情の類まで、様々な案件が寄せられる。
最近になって他人に案件を任せ始めた為にヨーシュの負担は徐々に減ってはいるものの、未だに彼でないと対応出来ない類の案件は数多い。
その最たるものが、ゴブリン達への対応である。
ヨーシュが区画整理の為の人数割りに着手している時に、メリシアがゴブリンに関する案件を読み上げる。それを聞いたヨーシュがその場で決断を下すというのが最近の日課であった。
「ええっと、先ずは……ゴブリンが食い残しの骨とかを路地裏に押し込んでいるのを見たので対処してください。三丁目のクシナダさんからです」
「……」
書きかけの書類の手を止めて視線を寄せるヨーシュに、メリシアは心地良い痺れを感じていた。明らかに非難するような視線ですら彼女には愛おしい。
「取り敢えず兵士を派遣して、その片付けの出来ないゴブリンを叱責しようか」
「はいっ!」
輸送物資の護衛を兼ねてギ・アーが近くに来ていた筈だとヨーシュは提案する。
「ギ・アー殿ですね。分かりました」
彼女は厳めしい顔付きの赤いゴブリンを思い浮かべると、その書類に決済済みという印鑑を押して区別出来るようにしておく。
「次ですね。魔獣駆除の依頼です。西都と旧植民都市ミドルドの間の駆除依頼ですね」
「依頼主は?」
「メッサー・デオン商会です」
「……ふむ」
ヨーシュは考えを纏める為に暫く目を閉じた。その横顔を覗き見たメリシアは、何をそんなに悩むのか疑問に思いつつも知的な雰囲気を漂わせる横顔を見守る。
現在ヨーシュは西都の都市長という立場と共に、ミドルドと西都に展開するギルドの総責任者という2つの顔を持っている。仕事の斡旋という形を取った援助は、ただ単に物資を与えるよりも余程効果が高い。
仕事を与える方にしてみれば、自らの思い描く街の形を作れるだけでなく治安の維持にも役立つ。忘れてはいけないのは、西都とミドルドの住人にはかなりの割合で辺境領域を追われた難民が混じっているという事だ。
食を与えるだけでは、自尊心までは取り戻せない。
自分の力で家族と自分自身を養っているという現実こそが彼らの自尊心を取り戻し、治安の悪化に歯止めをかけるのだ。
「西都の総督府からも資金を提供しましょう。現在作っている街道沿いの討伐を優先。それでメッサー・デオン商会に交渉を持ちかけてください。断るとは思いませんが、念の為に」
「はい!」
「それと、町の入口にメッサー・デオン商会の名前を刻んだ石碑を建てましょうか」
「は?」
「その碑文には、街道の敷設に功績があったとしてメッサー・デオンの名前を刻むこと」
「宜しいんですか? 西都総督府の名前はないですが……」
メリシアの言葉に、ヨーシュは破顔した。
「金持ちは名誉を求めるものです。剣闘を開催する連中もね、金は腐る程有るのに名誉を得る為に無駄な……いえ、余分な金を使ったものです」
「そう、なんですか」
「ええ。宜しくお願いします。それに総督府にとっては、都の安定こそが最大の名誉でしょう」
「……了解しました!」
ヨーシュの仕事は深夜まで続き、国生みの最前線にいる総督の腕の振るわれる場所は、それこそ無限にあった。
◇◇◆
「エルバータ!」
壮麗な王宮の廊下でエルバータは足を止めた。季節風が北からの湿った風を運んでくるホルスの月。吹き抜けの廊下から見える庭園は、豊かな水脈を近くに持つエルレーン王宮らしく贅沢に水が引かれ、緑の木々が輝くばかりに葉を茂らせていた。
「何だ、ドルディアスか」
「何だとはご挨拶だな」
細身で顔色は青白く、学者のような風貌のエルバータ。それに対してドルディアスは、とても文官には見えない筋骨隆々とした大男だった。日に焼けた顔と放埒に伸ばした顎髭だけを見れば、山賊か何かと間違えそうな容貌ですらある。だが、彼も歴とした文官であり、纏う衣服は最下級ではあったが文官を示すものだった。
「それで、何の用事だ?」
「うむ、大したことではない。どうだ今夜」
ジョッキを傾ける仕草をするドルディアスに、エルバータは迷惑そうな顔をしながらも頷いた。
「構わぬ」
「おお、そうか。では宵月亭でな」
破顔して立ち去る男の背を見送って、エルバータは己の執務室に向かう。
宮廷司から宮廷長への異例の出世を遂げたエルバータは、部下を100人以上持つことになった。宮廷長の仕事とは、大雑把に言えば宮廷の管理である。
例えば王が後宮を形成するなら、その管理維持費や王族の使う宮殿の増改築。大規模な仕事ならそんな所だが、細々としたものならば後宮に仕える侍女の給料や支給される衣服の代金までも取り纏めるのが宮廷長である。
その権力は絶大で、以前ならその地位を射止めようと必死になる者も多かった。だが、今その魅力は日増しに目減りしているようだった。
理由は新たに王となった者の存在にある。
魔物の王。しかも南方を統べる日の出の勢いの王だ。更に言えば、非常に理知的で凡そ人間の想像する魔物という存在からはかけ離れた存在である。
後宮などには見向きもせず、新たな宮殿の建設などにも興味を示さない。贅を尽くした食事なども、あまり好まないようだった。それでは何に注力しているかと言えば、滞った政務の執行と軍事力の増強である。
全く、国を建て直す君主としてこれ程望ましい者は居ないだろうが、宮廷長として権力を振るうことを夢見る者達にとっては、これ程煙たい存在も居ないだろう。宮廷長とは、言わば君主の欲望によって自らの権限を拡大させることが出来る役職だからだ。
そんな魔物の王に抜擢されて宮廷長の職に就いて以降、後宮からの非難の声は止むことが無い。当然と言えば当然で、以前なら自由に使えていた金が凄まじい勢いで減らされていくのだ。非難が出ない方がおかしい。
元側妃の侍女や、その意を受けた官吏、酷い時には貴族まで動かしてエルバータに手心を加えさせようとしてくる。方法も恫喝や賄賂、女まで様々であった。
その何れにも首を縦に振らないエルバータに、後宮の勢力は遂に彼の娘に手を出すという暴挙に出るが、既の所でフェルビーという妖精族の剣士に助けられ、事なきを得る。
以来、護衛と称してフェルビーという妖精族の男に娘の面倒を診てもらうことが多くなっていた。これでいよいよゴブリンの王に逆らえないと苦笑して、エルバータは積み上げられた書類に向き合う。
そんなエルバータの姿は、他の官吏達から見れば異様であった。どんな妨害に会おうとも決して怯むこと無く、寸分の間を惜しんで書類を片付けていく様は、正に鬼気迫るという言葉が相応しい。
怒鳴りこんでくる侍女や貴族達を論破し、一切の妥協をしないばかりか必要があれば自ら出向き、他の官吏らと話をつけてくる。それは深夜に及ぶことも在ったが、翌日には誰よりも早く仕事を始めているのだ。
「おお、エルバータ! 待っていたぞ」
エルバータがその日の仕事を終わらせて宵月亭へと顔を出した時、ドルディアスは既に赤ら顔をして奥の席で晩酌を始めていた。
「少し遅れたな」
「なぁに、気にするな! 俺も楽しんでいたしな。地方回りの身からすれば、やはり王都の酒は旨い」
豪快に笑うドルディアスは更に葡萄酒を注文すると、残っていた麦酒を一気に飲み干す。
「……で、何の用事だ?」
「相変わらずせっかちな奴だ。せめて一品なりとも注文するものだぞ?」
「そうか。では……」
眉を顰めるエルバータにドルディアスは苦笑しつつ、酌婦を呼び注文を取り付ける。酌婦が注文の料理と葡萄酒を持って来た所で、改めて彼らは乾杯した。
「我が祖国に」
「変わらぬ友に」
軽く杯を打ち鳴らすと、二人は一口に飲み干すように葡萄酒を呷る。
「しかし、変わらぬ友とは嬉しい事を言ってくれる」
ドルディアスは杯を舐めるようにして口を離すと、赤ら顔をエルバータに向けた。
「……で、だ。お前の本意を聞きたい」
視線に寸毫も酔いを感じさせず、ドルディアスはエルバータの真意を問い糺す。
「本意とは?」
まるで味を分析するような表情で酒を飲んでいたエルバータが、ドルディアスに問い返した。
「セイディアノ門下の優駿たるお前が、何故率先して汚名を被るような真似をする。リシャンの為か? 生活が苦しいなら、俺に相談すれば良いではないか」
エルバータとドルディアスは、旧エルレーン王国内にある私塾セイディアノの中で共に優劣を競った仲である。豪放な性格のドルディアスと、ともすれば神経質にさえ見えるエルバータ。正反対の性格の二人は、何故だか気が合った。
「リシャンは関係ない。いや、あるのかもしれないが、それは今の王に仕える気持ちを後押しするものだ」
「魔物の王だぞ? 地方を回ればいろいろ良からぬ噂も聞こえてくる。嘗ては宮廷長にも堂々と意見したお前が、今では魔王の走狗などと悪様に言われているのだ」
抑えた声ながらも、ドルディアスの怒りは徐々に熱気を上げていく。
「ドルディアスよ、怒っているのか?」
「怒っているかだと? 当然だろう! 友を侮辱されて怒らぬ者がどこにいる!?」
摘まみの炒り豆を口の中に放り込むと、乱暴に噛み砕く。
その様子に、エルバータは苦笑を見せる。
「何が可笑しい? 俺は本気だぞ!?」
「友、遠方より来る豈嬉しからずや、とな」
「……揶揄っているのか!」
それはセイディアノ門下で最初に習う一文だった。門下生時代のエルバータとドルディアスも机を並べて声を張り上げ、その文章を素読したものだった。当時を思い出したのか、ドルディアスの声はやや落ち着きを取り戻していた。
「我が友ドルディアス。国とは何だ?」
「何?」
「俺は、国とは民だと思う」
黙って聞くドルディアスに、エルバータは言葉を重ねる。
「王とその側近達の横暴で、この国は疲弊しきっていた。我らが祖国エルレーンは、自壊する寸前だったのだ」
王はその権能を使うことを知らず、貴族はそれを良いことに地方で勝手な暴政を行う。そのツケは軍に回り、国を守るべき兵士達は無意味な戦いに命を散らした。国庫は破綻寸前で、八方塞がりである。
それをあのブランディカ・ルァル・ファティナが利用した。
国は荒み、民は路頭に迷う。
ファティナの税収と商人達からの膨大な借金で食糧を買い集め、食えない者達を兵士に仕立てあげた。無尽蔵かと思われた赤の王の兵力の源泉は何の事はない、エルレーン王国で職にあぶれた者達だったのだ。
そして赤の王は敗れた。
次に現れたのは、何と魔物の王だった。
「これでエルレーン王国も終わりだと、俺は思ったよ」
しみじみと呟くエルバータに、ドルディアスは頷く。地方を回る最下級の官吏とはいえ、魔物の王の襲来は当然ドルディアスの知るところだ。
「……だが、あの王は違った。人の王の誰もが荒らしたこの国を本気で救おうとしている」
「そんな馬鹿な……」
「俺も、初めはそう思った。だがな、日々片付けられていく懸案事項と僅かだが上がっていく収益を見て、その考えを改めざるを得なかった」
「……」
「信じられるか? 先日から朝議に王が出席することになったのだぞ」
「先々代の頃から、宰相が代理を務めていた朝議に……?」
「我が友ドルディアス。俺は、国とは民だと思う」
「ああ」
「誰もが顧みなかったこの国を、あの魔物の王は救うと言う。例え歴史が魔物の王の功績を消し去ろうとも、俺はこの国で育った者として恩義に報いねばならん」
「……だから、魔物に従うのか」
「その通りだ」
それ故に、最初にエルバータはドルディアスに問い掛けたのだ。
──国とは何だ?
我らが守るべき、仕えるべき国とは一体何なのだと。仕えるべきは民である。その幸せを実現出来るのなら、例え魔物の王が治めようとも自身が裏切り者の汚名を被ろうとも本望であると、エルバータは言い切った。
「疑った俺を赦せ、我が友エルバータ。やはりお前はセイディアノ門下の優駿……エルバータ・ノイエンだった」
その夜、エルバータとドルディアスは酒を酌み交わしながら、未だ任官もしていない若者の頃のようにこの国をどうしたいかを語り合った。
後に、ドルディアスはその交友関係の広さを生かしてエルバータに何人もの人材を推挙することになる。セイディアノ門下からなるそれは、エルレーンにおいてゴブリンの王の治世を支える家臣団の形成と結び付いていくことになった。
◇◆◇
“若き英雄ヴィラン・ド・ズール。
若干20歳にも満たぬ少年なれど、その才は千軍万馬を統率するに足る。幼少の際、バーネン王国の国王がその才幹を認めて聖女ミラの護衛に抜擢した俊英であり、国王の慧眼を証明するかのように次々と戦果を打ち立てる。
エルレーン王国の侵略阻止から始まって、赤の王の侵略戦、ゲルミオン王国籠城戦、最も新しいものではファティナ攻略戦であろう。クシャイン教徒が危機に陥いる時、まるで彗星のごとく現れた一代の英雄。同盟国の強猛なるゴブリンからも尊敬を集める名将。
それが、若き英雄ヴィラン・ド・ズールである。”
「……正気ですか、猊下?」
「ええ、勿論本気よ?」
読み上げられた文面のあまりの仰々しさに、ヴィランは思わず顔を引き攣らせた。
「何か問題でも?」
助けを求めて視線を軍の最高司令官たる老人に向けるが、孫の我儘を聞く老人そのものの表情で頷いた。
「猊下のお考えに異などある筈もございません」
これは駄目だと視線を巡らせ、ヴィランは堅物な文官に視線を転じるが、笑ったことなどないような厳しい顔をした文官は、あからさまに顔を背けた。
僅かに震える文官の肩を見て、自分が如何に情けない顔をしているのかと疑問に思ってしまう。
視線をクシャイン教徒の枢機卿達に転じる。
俗世とは何の関わりもないという顔をした柔和そうな老人が、退路を断ち切るような笑顔で頷いていた。
「猊下のご提案、正に慧眼というべきものです」
腹黒いとは、この老人の為にある言葉だと感じて、ヴィランは更に助けを求めるべく視線を動かそうとしたが、まるで巌のような手が肩に置かれ、それを阻止する。
本当に齢60を越えた老人なのかと疑ってしまう程の剛力でヴィランの動きを阻止すると、最高司令官たる老人はヴィランの意志など全て分かっていると言わんばかりに彼の言葉を代弁する。
「ヴィラン殿は未だ若輩なれど、その武功は比類なきもの。ゴブリン達との共同戦では実質ファティナを攻略するなど、その素質は充分なものです。猊下の提案を待つまでもありませんな。軍部の総意として、彼を将軍に任じたい程です」
ヴィランの内心とは正反対の意見を口にする老人の目は、悪戯を楽しむ悪い大人そのものであった。どこか既視感すら覚えるその圧力に、ヴィランは反論の言葉を口に出そうとする。
「……ヴィラン。私のお願いは聞いてくれないの? ゴブリンのお願いは聞いたのに?」
だが、目の前の悪女が先手を打った。
瞳を潤ませたミラは、ほぼ確実に嘘泣きであろうその擬態を装いながら胸の前で手を組む。これ程分かり易い姿勢もないだろう。些かあざと過ぎると言えなくもないが、擬態と分かっているヴィランでさえ一瞬言葉を詰まらされた。
「……ヴィラン君。儂はなァ、恐れ多くも猊下を孫のように思っておるんじゃ。それこそ目に入れても痛くない程のォ」
そして、ミラとの付き合いがそれ程長くない者達は言うまでもなかった。
ヴィランの肩に置かれた老人の手が圧力を増していく。まるで骨を握り潰すかのような恐ろしい握力だった。悲鳴を上げそうになったヴィランの耳元に、悪魔が囁くような老人の嗄れた声が響く。
思わず視線を向けたヴィランは、即座に後悔した。
いつもは糸のように細くなっている老人の目は見開かれて血走り、まるで狂信者のような危険な色を孕んでヴィランを見つめている。否、睨んでいた。
率直に言って怖い。
或いは先日会ったゴブリンよりも、この老人の方が迫力は上なのではなかろうか?
断ったらどうなるのだろう。クシャイン教徒の暗部が編み出した拷問術の数々をその体に刻まれてしまうのだろうか?
「……不肖の身ではございますが、受けさせて頂きます」
「おお、それは重畳! 若者はそうでなくてはの」
ヴィランの肩に置かれていた手の力が緩むと、すっかり元通りになった老人の声が聞こえた。
「流石はヴィラン・ド・ズール。これからも益々職務に励んで、クシャイン教徒の希望となることを望みます」
ミラが締め括り、その日の会議は終わりを告げる。
その後、ヴィラン・ド・ズールに征東将軍の位が授けられると共に、その麾下に親衛隊とも言うべき常備軍を組織することが決定した。
訓練の予定から予算の獲得、人事に至るまで将軍位に伴う権力は絶大である。だが、それに比して仕事の量は膨大なものになっていった。
若き英雄の虚名に引き摺られるようにヴィランの地位は上がっていき、休日すら真面に無いような多忙な日々に叩き込まれることとなるのだった。
その激務ぶりを見て、流石にやり過ぎたと反省したミラと老将軍が有能な副官や参謀を彼の元に差し向けなければ、ヴィランは心身を病んでいたかもしれない。
ともあれ、功績の大なるを称されて設立された親衛隊は、クシャイン教徒の対外戦力としてゴブリン達との共同戦線を張ることになる。
赤一色で染め抜いた装いから、後に“赤備え”と称される親衛隊はこうして誕生したのだった。