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ゴブリンの王国  作者: 春野隠者
群雄時代
268/371

同盟交渉Ⅱ

 ミラ・ヴィ・バーネン。齢17の、花も恥じらう乙女である。彼女は生来の美しい顔立ちと類稀な血筋を持って生まれ、磨き上げられた美貌は男女問わず多くの人間を魅了して止まない。一国の姫としても申し分のない気品を併せ持つ彼女は今、人生の岐路に立たされていた。

 目の前には巨大なゴブリンが居る。自身よりも頭4つは高いであろう身の丈に、巨木のように太く隆々とした筋肉。気の弱い人間なら卒倒しそうな凶悪な顔立ちと、人を射殺さんばかりに爛々と輝く血のような赫い瞳。口元から覗く牙は、ミラの体など一噛みで喰い千切ってしまいそうな鋭さである。

 その牙が己の肌に食い込むのを想像して、ミラは思わず身震いした。

 彼女は内心で必死に考える。別に殺される訳ではないのだと。少しばかり娼婦の真似事……つまりは、お酌をしたり体を寄せて誘惑するだけなのだと。そこまで考えて、ミラは伏せていた視線を少しだけ上げてゴブリンの様子を伺う。

 どうして二人きりになりたいなどと言ってしまったのだろうと、ミラは即座に後悔した。巨大なゴブリンは、ミラが話を切り出すのを待っているのだろう。その赤い瞳でじっと彼女を見つめている。ミラは決意した。無理でも何でもやらねばならない。

「き、今日は、暑いですわね」

「そうか……?」

 ミラは頭を抱えたくなった。自分は何を言っているのだ。何か世間話でもして、そこから会話の方向性を探ろうと思ったのだが、考えてみればゴブリンの趣向など知っている筈もない。何か共通の話題でもあれば良いのだと考えて、彼女は思いつく。

「ゴブリンの方々は、普段何を食べていらっしゃるのでしょう?」

「……肉だな」

 ミラは、自身の喉がゴクリと鳴る音を聞いた。

 それは人間の肉も含まれるのかなどと、怖くて聞ける筈がない。ゴブリンの口元から覗く巨大な牙が輝きを増したような気がした。

「そ、そうですかぁ……」

 思わず視線が泳ぐのを誰が責められよう。肯定された次の瞬間に、お前も喰ってやろうと言われても抵抗できる気がしない。血塗れの一寸先を思い浮かべてしまったミラの魂が冥府に旅立ちかけたが、頭を振って何とか意識を保つ。

「気分が悪いのなら人を呼べ」

「いえ、決してそのようなことは」

 無様な姿を晒してはいけないと己を叱咤して、座っていた椅子から立ち上がる。足と手が震えているが、それでも何とか微笑むことには成功した。

「ほ、ほら、何ともございません」

「なら、良いが……。それよりも願いとは何だ?」

 目の前のゴブリンが不機嫌になっていると感じたミラは焦る内心を抑え込もうと必死になるが、それが返って彼女の言動を怪しい物にしていく。

 ゴブリンの王としては、目の前の具合の悪そうな娘を早く解放してやりたいとの親切心から出た言葉だったが、生憎と王自身も忘れていたことに、王の外見は化け物以上に化け物である。ゴブリン達ならまだしも、相手は魔物に一切接したことのない人間の少女で、しかも蝶よ花よと育てられたお姫様である。

 オークですら怯んで一歩下がるゴブリンの王を見て、普通に会話が出来ると思う方がどうかしているのだ。

 当然、感覚のズレているシュメアやヨーシュなどは普通の人間には当てはまらない。肝が座り過ぎた女傑と、相手が誰だろうと文句を言える仕事の鬼である。二人を基準にしてはミラが可哀想というものだ。

 ゴブリンの王が困惑に眉を潜めたのを、ミラは不機嫌になって睨んでいると解釈した。時間が無いと焦る彼女は、最終手段に打って出る。

 ──男なんてものは、押し倒して胸の一つでも揉ませれば、後はどうとでもなるものよ。貴女もオトナになったら試してみることね。

 嘗て奔放な母が言い放った言葉が、彼女の背を無意識の内に押した。

 ええい、ままよ! 彼女はゴブリンの王との距離を一気に詰め、その大きな腕にしがみついた。恥も外聞もなく、彼女の母の言った通り、コルセットで引き締めて強調した胸を固い皮膚に押し付けた。

 王の太い腕を両腕で抱き締めて胸を押し付ける。

 で、この後はどうしたらいいのかしら? 記憶の中の母に問いかけてみても、彼女の母はそこからは全く助言をしてくれなかった。どうしたものかと視線をゴブリンの王に向けると、目と目が合う。

「……」

「……」

 互いに無言である。互いに困惑である。

 彼女は、このゴブリンはおかしいと考えた。同じくゴブリンの王も、この娘はおかしいと考えた。ミラは、自分が胸を押し付けているのに全く反応しないのはどういうことなのかと首を傾げた。

 ゴブリンの王はゴブリンの王で、何故いきなり腕に抱きつき、見上げてくるのだろうと不思議に思った。若干どころでなく大幅に彼女の評価を下方修正せねばならないのかと冷静に分析していた。

「……何を、しているのだ?」

 ゴブリンの王が、重々しく口を開く。せざるを得なかった。

「えっと……」

 まさか体を使って貴方を誘惑しようと思っていましたとは言えない。ミラは不自然な程に視線を逸し、まるで出来の悪い人形が軋みながら動くように顔を背けた。

 対してゴブリンの王は、腕に抱きつく彼女の背後に何か見えないものかと目を眇めていた。ゴブリンの王が感じていないだけで、或いはクシャインとかいう神が彼女を操っていたりするのだろうかと。

 だが、どこにもそれらしい影は無いし、神々の放つ押し潰されるような圧迫感も感じない。だとしたら、この娘は何を狙っているのかと再びミラを見る。

「……ふむ」

 神々の意思を感じないのならば、この娘の行動は自身の意思なのだろう。ゴブリンの王は彼女の体を上から下まで眺める。

 肩口から覗いた白い肌と、盛り上げられ強調された胸。腕に巻き付く細い腕は、まるで陽の光を浴びたことが無いような白さと脆さを感じさせる。丈の短いスカートからは、これまた白い足が覗く。

「……まさかとは思うが」

 ここまで来てゴブリンの王は、ようやくその可能性に思い当たった。

 無いだろうと、プエルに言外に否定した女の色香を使った籠絡。

 ゴブリンの王に襲われたと言い掛かりを付け、戦意を盛り上げて再び敵に回る腹積りかと考えて否定する。プエルの言う通り、ここで敵対するなら皆殺しにしてしまえば良いだけなのだ。

 では、どういう意図があるのか? 状況を整理する為に自身の置かれている状況を客観的に見つめ直してみる。

 年端もいかぬ娘に露出度の高い格好をさせ、化け物とはいえ男の腕に抱きつかせている。

「誘惑しているつもりなのか……?」

 ミラの肩がびくりと震えるのが見えて、ゴブリンの王はこれ以上ない程に深い溜息を吐いた。

「ひっ!?」

 しがみついた彼女を腕ごと持ち上げ、テーブルの上に乗せると、その顔を真正面から見る。

「よく聞け、ミラ・ヴィ・バーネン。貴様の検討外れな行為は互いの為にならぬ。我らに必要なのは一個人の快楽などではなく、お互いの群れを生き延びさせる為の協力体制だ」

 一瞬、何を言われたのか分からなかったミラだったが、徐々にその言葉と意味が彼女の脳裡に染み渡ってくる。

「では……本当に? ゴブリンが、私達と交渉を?」

「他に何がある」

「……協力出来ることが無ければ、又は条件の折り合いが付かなければ?」

「その為の議論の場だろうが。少なくとも、我らは貴様らに価値があると思ったからこそ同盟を結び、ゲルミオン王国の包囲から救い出したのだ」

 ここまで直裁に言われては、ミラとて眼を見張るしかなかった。

 このゴブリンは、本気で人間と対等な交渉をしようとしているのだと。そこまで諭されてはミラとて応じない訳にはいかない。先程までの挙動不審な少女の顔から瞬く間に為政者の顔になると、ゴブリンの王の腕から離れ、威儀を正して向き直る。

「……数々の無礼を御許し下さい。隣国の王よ。単刀直入に訪ねますが、貴方方は何をお望みなのでしょう? 我らに兵力は無く、軍事での協力が出来るとは思えません」

「公に我らを同盟者と認め、その支配地域を認めよ。そうである限り、我らは貴様らに牙を剥かぬことを約束しよう。先ずはそこからだ。細かな部分は追々詰めればいい」

 ゴブリンの王の目を見つめながら、ミラは脳裡に彼らを同盟相手と認めることで生じる利害を考える。隣国たるゲルミオン王国とシュシュヌ教国との摩擦。不安から逃亡する者達が出るかもしれない。周辺諸国から裏切り者と非難されることにもなるだろう。

 だがそれよりも、この話を断った場合、他の誰が同盟を受けてくれるのかという切実な問題もある。ゲルミオン王国は潜在的な敵国であり、シュシュヌ教国も通商条約を結んでこそいるが、聖戦を起こしてしまった手前、決して好意的ではない。

「認めましょう。先ずは同盟の更新をクルディティアンの民に納得させ、その後に隣国へ向けて宣言を出します」

 幾つかの条項を決めた後、休憩を取ろうとしたゴブリンの王は訝し気な目でミラを見た。

「何故そこから動かぬのだ」

「……腰が抜けてしまいまして」

 羞恥に顔を染めたミラを、ゴブリンの王は子犬を抱えるがごとく両脇を抱えて抱き起こす。

「も、申し訳ありません」

「気にするな。よくあること──」

「姫、そろそろ……」

 鉢合わせしてしまった彼らの誤解を解く為に予定よりも長引いた会談だったが、それでも双方に実りある結果を残して終わった。

 その後、ゴブリンの王はクシャイン教徒により亜人と魔物による国家の成立を認められた。この宣言に対して、周辺諸国からは正気を疑うとの言葉と共に絶縁状が叩き付けられることとなった。

 だが、ミラは内心で舌を出しつつ毅然とした態度でそれらを撥ね付け、決して一国の姫が口にしてはならない下品な罵詈雑言を並べ立てた後、悪辣な顔でヴィランに語ったという。

「頭に蛆でも湧いてるんじゃないのかしら? 敵が絶縁状を叩きつけてきたって、痛くも痒くもないでしょうに」

 ヴィランの叱責の言葉を聞き流しながら、ミラは微笑みを浮かべる。

「それにしても、不思議なことってあるものね。まさかゴブリンと対等な話し合いが出来るなんて」

 それはヴィランが幼い日によく見た、好奇心に目を輝かせる少女の眼差しだった。


◇◆◆


 クシャイン教徒と不可侵の同盟を結んだゴブリンの王は、未だ混沌とした南部地域に怒涛の勢いで兵を進める。先に任じた4匹の将軍に兵を任せ、各地域の攻略に乗り出したのだ。

 真っ先に標的に挙げられたのはエルレーン王国である。内乱と赤の王の乗っ取り工作。それによる有力な将軍達の離脱。その全てが、エルレーン王国の軍事力を最低限にまで落としてしまっていた。治安を維持する程度の兵力しか持たない各都市を、4将軍は攻略していく。

 しかも事前にクシャイン教徒から宣戦布告をさせ、それを理由に参戦するという念の入れようだった。

 今起きているのは魔物の侵略ではなく国同士の戦争なのだということを周知させると共に、降伏した者を寛大に許すことも忘れない。瞬く間に14の都市を抜き去ると、一ヶ月も掛からぬ内にエルレーン王国の首都にまで迫る。

 降伏勧告を無視して決戦を挑んできたエルレーン王国だったが、ゴブリンの王の誇る4将軍の前に完敗を喫する事となる。

 露払いとばかりにギ・ギーが魔獣で敵陣を崩せば、ギ・グー・ベルベナが容赦の無い攻撃を仕掛けて左右から敵陣を揉み潰す。更に王直属の兵力であるギ・ゴーやギ・ヂー達が進んでそれらを補助し、敵の組織的な抵抗を完膚なきまでに叩き潰す。

 夜の闇に紛れてラ・ギルミ・フィシガが敵の都市に矢を射込み、ギ・ガー・ラークスが騎馬兵と騎獣兵を率いて離脱を図る敵の機動力を削ぐ。

 それはまるで、王の意思で振るわれる4本の凶悪な腕のように機能し、王はエルレーン王国の王都を一望出来る場所で、腕を組んで泰然と構えているだけで良かった。

「はっきり申し上げますが、この戦に王の武勇は必要ありません」

 プエルから釘を差され、ギ・ザーやギ・ヂーすら前線に出るのを止めるよう諫言してきた。王は僅かに不機嫌を漂わせながら戦場を眺める。

「だが、俺としてはな」

「王の力が必要な時と場所は、私に選ばせてもらえる。そういう約束で軍師を引き受けたのです。それとも早速反故になさいますか?」

「ぐ、む……。分かった」

「それに、ここも一応は最前線です。流れ矢に注意していただかなくてはならない程度にはですが……」

 言質を取られているのは王である。

 プエルに理屈で勝てる気もしなかったので、王は引き下がるしかなかった。

「ここで兵を睥睨なさるのも決して無駄なことではありません。兵も将も自身の力を発揮しようとそれぞれが奮起するのです。貴方には配下の方々の力を認め、抜擢する義務があることもお忘れなきよう」

「分かった。今回の戦に、俺は出ん」

 (スイ)の上で腕を組み、戦場を睥睨する王の姿は、前線で戦うゴブリン達をこれ以上ない程に奮起させた。

「我が君の前で怯懦に慄き、一歩でも下がってみろ! 我が君が許されたとて俺が許さぬ! 進め!」

 ギ・ヂー率いる長槍兵達は雄叫びを上げて敵陣を突き破り、のたうつ敵の陣形に止めを刺す。

「我が王の御手を煩わす程の敵ではないぞ! 蹴散らせ!」

 ギ・ザー・ザークエンド率いるドルイド部隊による掃討を経て、戦は完全に決着した。

「武器を捨て、降伏せよ! 王は敗者を寛大に許される!」

 ギ・ガー・ラークスが戦場を駆け回り、降伏を呼びかける。

 一時は南方の自由都市の中心でもあったエルレーン王国は、ゴブリンの軍勢の攻勢の前に呆気無く落ちた。降伏を願い出た中には王族の姿もあり、調印を経てエルレーン王国はゴブリンの王国に併呑されることとなる。

 これを境にゴブリンの軍勢は四方に別れ、将軍達はそれぞれ神代に謳われた4匹の蛇のように南方諸都市を侵食する存在となる。ゴブリンの攻勢に耐え切れる都市は少なく、占領後の統治が人間達が想像していたものより遥かに緩やかなものだった為、瞬く間に支配地域は拡大していった。

 4匹の将軍は、王の下を離れた戦では今までと同じ戦い方は出来ないと考えた。王の指揮下で戦う時は、彼ら全員が力を発揮すれば良い。だが、単独で戦う時は、己の力しか頼るものがないのだ。4匹の将軍は、そこで初めて圧倒的に駒が足りないという現実を目の当たりにする。

 4匹はそれぞれに工夫を凝らして兵力不足を補うことになる。また、将軍位を与えられたゴブリンには、エルレーン王国を落とした際に紋章旗を掲げることが許された。

 王が掲げるのは、赤地に黒き太陽(アルロドゥ)の紋章旗。ギ・ガー・ラークスは騎獣と槍を、ギ・グー・ベルベナは斧と剣を、ギ・ギー・オルドは獣と斧を、ラ・ギルミ・フィシガは弓と矢を。それぞれが自身の得意とするものを紋章旗としたのは、王への戦果を誇示する為であった。

 勿論、ゴブリンにそのような繊細な物が作れる筈もない。従ってクシャイン教徒や西都の人間達に依頼するという形で整えられた。

 己の武功を示す為の紋章旗は、美的感覚に優れる職人達の手によって彼らの特徴を示すものへと昇華させられた。

 虎獣と槍(アランサイン)を掲げるギ・ガーは迷宮都市方面へ。

 斧と剣(フェルドゥーク)を掲げるギ・グーはプエナ方面へ。

 双頭の獣と斧(ザイルドゥーク)を掲げるギ・ギーはファティナ方面へ。

 弓と矢(ファンズエル)を掲げたラ・ギルミ・フィシガは北上し西域へ戻る。

 それぞれに区域を定められたゴブリン達の進撃は、人間達を震え上がらせた。盟主たるべき者を失い、大規模な反抗が行えない人間達にゴブリンの侵攻は容赦なく続く。ゴブリン側の戦術の前に人間側は敗退を重ね、都市を失っていった。

 

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