撤退戦Ⅳ
赤い姉妹月さえ姿を隠す夜の闇。その中に紛れ、疾駆するその軍勢は手負いの獣そのものだった。傷付き疲れ果て、だがそれでも彼らが統率された行動を取るのはゴブリンの王の存在があるからだ。
戦いとなれば先陣を駆け、撤退となれば殿を務める王の背中にゴブリン達は付き従い、戦士達はその背に続かんと生命を投げ打つ。だが、そんな王でも戦いの中で散りゆく者の死には未だに慣れることが出来なかった。
蒼鳥騎士団の追撃は執拗を極めた。付かず離れずゴブリンの後を追跡し、ほんの少しでも気を抜けば即座に追い討ちをかけられる。戦の間合いを知り、耐える事を知るアレンは将星としての素質を開花させつつあった。
時間を掛ければ、後続から冒険者中心の雑軍が追い付いてくる。
その事実がアレンの指揮に余裕を持たせ、蒼鳥騎士団は徐々にゴブリン側を追い詰めてきていた。
戦には機というものがある。分岐点と言い換えてもいい。
ゴブリン側は蒼鳥騎士団に追われ、その進路を微妙に変えながら北側に向かって走っていた。ジグザグに進むゴブリン側と纏わり付くようにして進路を妨害する蒼鳥騎士団。ゴブリン達の撤退戦の転機は、プエナの雑軍の到着だった。
「追い付いてきたかっ!」
日夜ゴブリンを追う激務の中で無精髭が生え、頬が痩けたアレンだったが、瞳だけは肉食獣のように爛々と輝いていた。
「雑軍1万が到着!」
その報告に、アレンはこの戦が終結に向かうことを予感し、獰猛に笑う。
「ゴブリン共には翌朝仕掛ける。各人交代で休憩を取れ!」
夜の神の支配する闇の女神の翼の中は魔物の領域だ。如何に砂馬の機動力があると言っても、ゴブリンに合わせて行軍を繰り返した蒼鳥騎士団の疲労は無視出来ない。アレンは追い付いた雑軍を前面に出すと、蒼鳥騎士団を休ませる。
決戦の予感を感じながら、アレンは指揮を執り続けた。
一方その頃、如何なる偶然か、或いは死した戦士達の無念がゴブリンの王をその場所へ引き寄せたのか。ゴブリンの王率いる軍勢が夜の闇に紛れて辿り着いたのは、ギ・バー・ハガルの戦死した戦場跡だった。
「……これは」
夜の闇をものともしないゴブリン達の視界に映るのは、守りきれなかった民の姿と無残に殺された同胞の姿。
「ギ・バー……」
魔獣か何かに半ば食い荒らされた戦士の屍の前で、王は片膝を突いた。
「我が君、死体の数が少な過ぎます。どうやら民は西域へ逃げたようで──」
周囲を見回って報告を口にするギ・ヂー・ユーブが、ギ・バーの亡骸を見て言葉を失う。
大地に真っ直ぐに突き立てられた長剣が、まるで墓標のようだった。
「何匹やられていた?」
片膝を突いてギ・バーの屍を見下ろす王の問いかけに、ギ・ヂーは一瞬の空白の後に答える。
「……ノーマル達が、200程。ガンラや妖精族の姿はありません」
「……そうか」
再び王は沈黙し、役目を果たした臣下に短い黙祷を捧げた。
「何れ、冥府にて会おうぞ」
勢い良く立ち上がると、王はもう振り返りはしなかった。本来ならば埋めて丁寧に弔うべきなのだろう。だが、今はそんなことをしている余裕はない。
「ギ・ヂー、進むぞ。足を止めるな!」
「──はっ!」
頭を下げたギ・ヂーは、部下を集める為に駆け去る。
「……この代償は大きいぞ。人間ども」
軋る歯の音を止めようともせず、ゴブリンの王は北へ向かう。
その胸に再戦を決意して、王は一度だけ南を睨んだ。
◆◇◆
夜が開けると同時に、雑軍はゴブリン側を追う。砂馬に数日追い立てられ、それでもゴブリン達が統率を崩さないのは驚異的なことだったが、疲労は既に彼らの足から速度を奪っている。
「ゴブリン達に我らが南を侵した報いを受けさせろ! 連れ去られた民を取り戻すのだ!」
ギ・バーの死んだ戦場跡を見たアレンは絶句して暫くその場に佇んでいた。魔獣に食い荒らされた女子供や兵士達の亡骸。そして多数のゴブリンの死体。それを見たアレンは、ゴブリン達が民を連れ去り、赤の王が奪還に失敗したのだと考えた。
赤の王の動きも気にはなったが、確認している暇はない。胸の奥から沸き上がる激情のままに眦を釣り上げ、疲労を怒りで塗り潰していく。
「許せることではないッ! ゴブリン共に殺された民の無念を晴らすのだ! 進軍!」
大義というものは何時の世でも一定の支持を受け易い。事実は違うのだが、プエナの軍勢の誰一人として、まさかゴブリンが人間を守ったなどとは思い至らず、彼らは義憤に燃えて追撃に移った。
常には金を第一に考える血盟の者達も、幼い童の亡骸や無残にも魔獣に食い荒らされた老人の屍を見るに至って、段々とアレンの怒りが伝わってくるかのようだった。
「俺達は端金で命を賭けるロクデナシだが……女子供まで手にかけたりはしねえぞ! 魔物どもめ!」
中堅規模の血盟の盟主の言葉に血盟員達が頷き、アレンの指揮に従って速度を上げる。
「魔物を殺せ! 奴らに血の報いを!」
血気盛んな冒険者が剣を掲げると、幾つかの血盟が同調して速度を上げた。
見渡す限り地平線まで続く草原地帯に林が点在している辺境領域最北部。あと少し北上すれば西域に入る場所で、プエナの軍勢はゴブリン達に追い付いた。
走るプエナの軍勢の前に、逃げ足の衰えたゴブリンの軍勢の後ろ姿が見える。時刻は未だに火の神の胴体が昇ったばかり。意気上がる雑軍に、アレンは休憩を挟まずそのまま攻勢に入ることを許した。隊列を整えることもなく血盟ごとに魔物に襲い掛かる雑軍だが、そもそも血盟とは単独で魔物の集団を狩る為に生まれたものだ。
単独での魔物狩りは彼らの得意とする所。盟主の指示に従って前衛が敵を食い止め、後衛は前衛を援護する。アレンの役割は、その血盟同士の距離を僅かに調整してやることだけだった。
まるで百の頭を持つ蛇を相手にするかのような困難な戦いだった。一つの血盟がそれぞれに独自の攻撃を繰り出し、ゴブリン達はそれに対処せねばならない。左翼では遠距離からの攻撃を中心に組み立て、右翼では牽制しつつ、中央では前衛戦力で押してくる。それぞれが規模も違う血盟同士、自分達の出来る事を出来る範囲でやりつつ、ゴブリンと戦う。
ゴブリンの王も、対処出来るのは3正面程度でしかない。それぞれが独自の考えで動く複数の血盟集団を相手にするのは至難を極めた。疲労で働かぬ頭は重く、配下のゴブリン達も疲労でその動きが鈍かった。動きの鈍った者から人間側の猛攻の餌食になってしまう。
一匹が欠けた穴を埋めようとした傍から、人間の剣に倒れる。
ゴブリンの王ですら、満身創痍で人間達を追い散らすのが精一杯だった。重く伸し掛かる疲労は感情を殺し、目の前の危険にのみ反応するように心の動きを抑制する。血で滑る黒緋斑の大剣を振り抜いて人間を真正面から叩き潰すも、すぐさま横手から鋭い槍の穂先が突き出される。
ゴブリンの王が声を枯らして咆哮を上げても、人間達は決して引かない。僅かに動きが鈍るだけだったが、ゴブリンの王はそれを好機と捉えて全力で撤退を命ずる。
背を向け逃げるゴブリン達は恐怖と屈辱を噛み締め、それは上位のゴブリン程、顕著であった。
「おのれぇ! おのれおのれ人間ども!」
「……無念」
ガイドガ氏族の長ラーシュカの咆哮も、逃げよと命ずる王の命令の前に打ち消される。剣王ギ・ゴー・アマツキは、己の無力さに小さく悔悟の言葉を漏らした。
最後尾で敵を食い止めるゴブリンの王とギ・ヂー・ユーブ、ギ・グー・ベルベナの軍勢は徐々に侵蝕されていった。
「……好機だ! 今こそ我らが武名を蒼天に響かせん!」
アレンは剣を抜くと、蒼鳥騎士団に出撃を命ずる。
「我が友アイザスに!」
アレンの咆哮が戦場に轟く。
「敵の御首を捧げん!」
それに応えた団員達が声を揃える。血盟中心の雑軍が離脱を図るゴブリン側に猛烈な勢いで攻撃を仕掛ける中、蒼鳥騎士団は大きく右翼に迂回した。その類稀なる機動力を駆使して一撃を加えんと、槍を揃えて遮る者のない草原で徐々に加速する。
ゴブリンの王率いるゴブリン側の殿は目の前の戦況で手一杯であった。誰も蒼鳥騎士団の動きにまで目を配る余裕が無い。そんな悠長なことをしていれば、忽ちの内に殺到する人間達に殺されてしまうだろう。
殺到する剣と槍。弓矢や魔法の遠距離攻撃。それらを打ち払い、統制を保ったまま後退し続けていられるのが奇跡的ですらあるのだ。どれ程の精鋭を揃えた人間の軍勢でも、ここまでの統制は保ち得ない。だが、そのゴブリン達の奮戦に終末を告げる蒼鳥の一撃が刻々と迫る。
天高く輝く日輪を受け、砂煙を巻き上げる砂馬が勇猛に地を駆ける。乗り手たる騎士達は一国の名誉を背負うに相応しく、一糸乱れぬ統率の下に猛り立つ内心を抑えて先頭で駆けるアレンに従う。
アレンの手により掲げられる細身の長槍が日差しに煌めき、その矛先は葬るべき敵を真っ直ぐに指し示す。
「構えェ!」
アレンの声が風に流れて後方に響く。騎士団員全員が砂馬に括りつけてあった細身の長槍を抜き放つのを見計らって、アレンは再び号令をかける。早ければ疲労が溜まり、遅ければ突撃に支障を来す絶妙な間合い。
「雁行陣!」
今まで一塊でしかなかった騎馬隊が、アレンを中心に鏃の先のように陣形を変える。まるで一個の生き物のように姿を変えた騎馬隊がゴブリン側との距離を詰める。アレンを中心とした一点突破から、衝撃力を最大限に活かして敵の陣形を崩す雁行陣。
先頭を駆けるアレンに絶対の信頼を置く蒼鳥騎士団は、穂先を揃えて草原を疾駆する。蒼鳥騎士団のシンボルでもある青い外套が風に翻り、草原の中を飛ぶ鳥のように彼らは獲物に襲い掛かる。
ゴブリン達までの距離は、凡そ300メートル。その時点で、漸くゴブリン側は騎馬隊の接近に気がつく。
「我が君──!」
その加速と、一糸乱れぬ陣形から敵の練度を見て取ったギ・ヂー・ユーブは悲鳴染みた声を上げるが、全てが遅かった。ゴブリンの王がギ・ヂーの声に反応して蒼鳥騎士団を視界に入れた時には、その距離は更に詰まっていた。
「ぐっ──」
敵の槍の穂先の煌きまでもが、ゴブリンの王の目には鮮明に映る。その速度の前には、ゴブリンの王が判断を下す暇も無かった。
「──突撃ッ!!」
アレンの咆哮と蒼鳥騎士団の咆哮が重なる。天地を震わす気迫を伴った騎馬の突撃が、ゴブリン達に襲い掛かった。
「──グルゥゥォォオオア゛アァァアア!」
ギ・ヂー・ユーブの率いる軍を易々と蹂躙し、ゴブリンの王直属のゴブリン達を突き崩す騎馬隊。突撃を成功させた蒼鳥騎士団に、ゴブリンの王の怒りの咆哮がぶつかる。王の握る大剣に宿る黒き炎が勢いを増す。踏み出す一歩は地面を砕き、振りかぶられる大剣には鬼気すら宿っているようだった。
「散開ッ! 避けろ!」
アレンは咄嗟に部隊を3つに割る。半ばゴブリンの軍勢の中に突撃していた騎馬隊は、アレンを先頭にしていた雁行陣から即座に鏃の先を3つに増やす。アレンはゴブリンの王が何をしようとしているのか、正確には分からなかった。だが、首筋を走る悪寒に後押しされ、咄嗟に叫んでいたのだ。
曲芸染みた馬術操作で、即座に騎馬の向かう方向を変えるアレン。だが、全員がそれに従える訳もなく、ゴブリンの王目掛けて突撃していく騎馬兵全てを止めることは出来なかった。
直後、ゴブリンの王の振るった大剣から黒の炎が剣風となって騎馬隊を切り裂く。50騎程が巻き込まれ、文字通り撫で斬りにされた騎馬隊は悲鳴を上げる間もなく戦場に骸を晒す。
だがそれでも、大半の騎馬はゴブリンの陣営を突き抜けることに成功していた。
「最早奴らに我らを追う足はない! 再度の突撃を仕掛けるぞ! ここを奴らの死に場所とせよ!」
「くっ……」
意気上がるアレン率いる蒼鳥騎士団は、距離を取ると再び集合する。アレンの指摘通り、ゴブリン達には既にそれを追うだけの体力の余裕はなかった。
ゴブリンの王は重く伸し掛かる疲労と消費された魔素に歯噛みして、敵との距離を測る。文字通り必殺の一撃を放ったゴブリンの王には、最早打つ手が存在しなかった。
後は只管に防御を固めて北に逃げるのみであった。
「撤退! 撤退だ!!」
ゴブリンの王は屈辱に身を焦がしながら一匹でも多くのゴブリンを逃がす為、迫る冒険者を薙ぎ払う。
「我が君……これではっ」
騎馬隊の突撃を受け、最早防御の陣形を取れないギ・ヂー・ユーブの軍。その中にあってギ・ヂーは敗戦の形を明確に見て取っていた。もう幾許かもしない内に騎馬隊が再度の突撃を仕掛けてくる筈である。先程の騎馬突撃を受けて、未だに統制を保っているのが奇跡的なのだ。
ゴブリンの数が減っていて王の声が届く範囲に全てのゴブリンが居たことが大きいのだが、ギ・ヂーは二度目はないと判断する。
冒険者側から向けられる圧力が相当に増している。蒼鳥騎士団の突撃に呼応する形で、各血盟が攻勢を強めてきたのだ。後退するゴブリンに容赦なく降り注ぐ矢と魔法の雨。雨の合間を縫って接近戦を仕掛けてくる戦士達。
もう一度騎馬突撃を受ければ、ゴブリンの軍勢は川の激流に揉まれる枯れ葉のように散り散りにされて全滅するだろう。
ギ・ヂーは周囲を見渡す。
己の手勢とする為、心血を注いで作り上げた軍。その総数は討ち減らされて100を少し超えるかどうかという程度しかいなくなってしまった。
「だが、それでも!」
食い縛る歯の間から言葉が漏れる。
囮程度にはなる筈だ。王ならば、その隙に撤退してくれるだろう。大を生かす為に小を殺す。嘗て妖精族との戦いで、プエル・シンフォルアが見せた戦術の妙である。
号令を下す為に息を吸い込む。
王の為に死ねと命じようとしたギ・ヂー・ユーブの視界に、後方から降り注ぐ矢の群れが映った。
◆◇◆
「なにっ!?」
その声は奇しくも撤退戦を繰り広げるギ・ヂーと追撃を仕掛けるアレンの双方の口から出た。ゴブリンの軍勢を追撃するのに夢中になり過ぎて周囲の警戒を怠ったアレンだったが、それを非難するのは酷というものだ。現実に、後一度の突撃でゴブリン側は崩れる。その勝負の場面において、総指揮官であり蒼鳥騎士団団長であるアレンが先頭に立たない訳にはいかなかった。
勝利の興奮に疲労を忘れている蒼鳥騎士団だが、つい先日までゴブリン側を追撃していた彼らの体力は、実はかなり際どいところであったのだ。アレンがギリギリまで突撃態勢を取らせなかったのも、その体力を慮ってのことだった。
アレンが先頭に立つことによって疲労を忘れさせることが出来る。そしてそれが、北側からの襲撃に対応を遅らせる結果となった。
「すり抜けながら奴らの足を止めよ! 王に馬を近寄らせるなッ!」
パラドゥア氏族のハールー率いる騎獣兵が、突撃態勢を取ろうとしていた蒼鳥騎士団の両脇をすり抜ける形で北から南へ駆け抜ける。同時に雑軍の正面に降り注ぐ大量の矢。
見れば、妖精族とガンラ氏族が牽制の為に矢を射かけていた
「遅れるなよ、野郎ども!」
威勢のいい声を上げて牙の一族の族長たる暴虐のミドが灰色狼と共に草原を駆ける。大きく戦場を迂回するように移動して後方を遮断する形を取るのがアレンの立ち位置から確認出来る。
「威嚇の声を上げろ! 人間どもに我らが住処を渡すな!」
人馬族の族長ティアノスが、人馬族を率いて林の中から出てくる。
「……罠、だと? いや、だが……」
「団長、後方に煙!」
包囲されつつある状況に、アレンは一瞬だけ戸惑う。あまりにも手際の良い敵の配置。ゴブリンを追い詰めいていた筈の状況から、罠に引き込まれようとしている錯覚に陥る。将星としての素質を開花させつつあるアレンだからこそ、その違和感が拭えなかった。
もしこれが、猪突猛進なだけの以前のアレンだったなら、包囲など構わずゴブリンに突撃を敢行しただろう。或いは、アイザスが存命中であるならアレンは突撃を主張出来た。
だが、頼るべき親友は既に亡く、彼の双肩には雑軍1万と蒼鳥騎士団の全てが掛かっている。
そして転じた視界の先に立ち上る黒煙。
「……補給部隊の方向かッ!?」
補給の為の物資を積載した部隊は負傷者と共に後方に残置していた。距離にして半日。戦場からそう離れては居ない距離だが、もし今襲われているのなら絶望的に遅過ぎる。
補給物資無しで西域へ攻め込むかと問われれば、答えは否である。それどころか、このまま撤退することすら危険を伴う。1万人を超える人員の食糧を確保しながらの撤退は悲惨なものになるだろう。
動きのない蒼鳥騎士団に、雑軍にも動揺が生まれ始める。後方に見える黒煙に、その攻勢が鈍ったのだ。彼らの殆どが後方に負傷者を置いてきている。癒し手が居るといっても、その数は決して多くない。全軍の人員を即座に回復させるような人数ではないのだ。
「後方部隊が襲われているぞ!」
上がる悲鳴に、攻勢を強めていた血盟は足を止める。
「団長、北から軍勢! その数……約15000!」
思わず北を振り向くアレンの視界に、自由への飛翔の血盟旗を掲げた軍勢が目に入る。
「罠だったというのか……今までの追撃が全て!」
意気を上げる北からの軍勢に、足が止まった蒼鳥騎士団は気勢を削がれる形になってしまった。周囲の心持を察してしまったアレンは、悔しさに歯を噛み締めながら屈辱的な撤退をさせねばならなかった。
「撤退する! ゴブリン達の追撃は諦めよ! 味方を回収しながら辺境領域まで撤退だ!」
無念に顔を歪める蒼鳥騎士団の団員達を叱咤して、アレンは雑軍にも命令を伝えさせる。
追撃が予想されたゴブリン側からの攻撃はなく、プエナの軍勢は南へと撤退していった。
◆◇◆
ゴブリンの王率いる軍勢は、突然目の前に現れた大軍に目を丸くしていた。それは王とて同じことだったが、少なくとも敵ではないと認識して軍勢の進路をそのまま北に取った。
1万五千もの大軍に抱き抱えられるようにして収容されたゴブリンの王の軍勢は、再び驚愕する事になる。
「これは……」
よくよく見てみれば、彼らは辺境領域を捨てた民を筆頭に西域に住む奴隷や女や老人などで構成されており、とても戦えるような人員ではなかったのだ。旗と木の槍だけを持たせた正しく張子の虎の軍勢。もし、あのまま交戦に入ったなら一瞬で殲滅されてしまっただろう。
「これを率いたのは?」
「お久しぶりです。ゴブリンの王」
瞠目しているゴブリンの王に、彼らの間を割るようにして姿を表した風の妖精族の女戦士の姿。
「プエル・シンフォルア……」
片膝を突く彼女が、ゴブリンの王へ進言する。
「ご挨拶も叱責も後回しに。今は戦の最中です。この先に砦を建設していますので、どうぞ其方までお越し下さい」
頷くゴブリンの王を確認すると、プエルは直ぐに人をやって軍を動かす。その動作は流れるように迷いなく、閉じていた筈の目に映っているのは冷徹なる意志そのものだった。
姿形は殆ど変わっていない筈なのに、纏う雰囲気はまるで別人である。驚きを内心に押し留め、兎にも角にもゴブリンの王率いる軍勢は砦に入ることに成功する。
辺境領域からの撤退戦は、ギ・バー・ハガルや辺境の民に犠牲を出しながらも、ここに完了したのだった。