撤退戦Ⅰ
赤の王率いる2万5千の大軍は、プエナ攻略の手を引くと同時に西へ向かって進軍する。その際に友軍としてゲルミオン王国から聖騎士ガランド率いる一隊が赤の王に合流し、総数は2万6千となっていた。
「心配せずとも、戦に横槍など入れん」
事前にそういう条件でガランドは同行を許されていた。手の内を知られる危険性はあるものの、今度のゴブリン討伐は威圧で事足りる。少なくとも、カーリオンはそう読んでいた。敵ながらゴブリンの王が戦上手であると認めた上で、それ程の戦巧者が圧倒的多数に対して態々戦を仕掛ける事はないだろうというのがカーリオンの予想である。
それぐらいなら、西域に戻り態勢を整える筈である。
彼らには未だ退くべき場所があり、その退くべき場所は今ゲルミオン王国の圧迫により危機に瀕している。南からはプエナの軍勢が迫り、東から赤の王が迫る。この状況で打って出てくることはない。
「それなら、尚更お前が出張ってくる必要はないだろう。盟主の言う通り、養生するべきだ」
全軍を率いねばならない盟主ブランディカの代わりに、カーリオンの傍に付いているのはセーレだった。ブランディカからの休養の命令をカーリオンは頑として聞き入れず、辺境領域への同行を願ったのだ。
「これは好機でもあります。この一手で南方統一の道筋を作る。僕は王佐の才ですから」
ゴブリン側の出方によっては、プエナを叩き南方を統一出来る。カーリオンの言葉に、セーレは溜息を付いた。
「構わない。私の役目は護衛であって、医師じゃない」
「セーレさんにも先生にも、ご迷惑をお掛けしてます」
セーレの連れてきた医師はカーリオンの症状を見るなり、匙を投げた。最早助からんという医師の言葉に激怒したサーディンが、その医師を叩き斬りそうになったのを必死で止めたのはセーレだった。
「もって、半年……充分です」
名医と評判の医師に宣告された余命を数えて、カーリオンは薄く笑う。
「それに、痛み止めも貰いました。随分楽になりましたよ」
「……ふん」
セーレに向ける透き通った笑顔に、彼女は痛々しさを覚えて顔を逸らした。
◆◇◆
ゴブリンの王は決断の時を迎えていた。
撤退か、決戦か。
勝ち目はあるのか。そもそもこの戦は何をもって勝ちとするのか?
「撤退する」
ゴブリンの王の決定に、配下のゴブリン達は顔を伏せる。その決定の席に呼ばれたザウローシュも悔しさに顔を歪め、フェルビーは憮然としてその決定を受け入れる。
今の兵力では勝てないとゴブリンの王が認めた瞬間だった。問題は辺境領域の処遇についてだ。
「ザウローシュ、彼らに決定を伝えてくれ」
「はっ」
「だが、一戦もせずに下がるというのはどうなんだ?」
フェルビーの質問に王は首を振る。
「……まぁ、決定には従うが」
フェルビーはこれまでの戦いでゴブリンの王の判断を信用していた。だが、それとは別に人間に遅れをとることが我慢ならないのだ。
「明日をもって辺境領域を放棄。逐次西域に撤退する」
ゴブリン達にとって王の決定は絶対である。内心で悔しさを押し殺して、命令に従う。
「王よ。だが、人間達が追ってきた場合はどうする?」
ギ・ザーの質問に、王は淡々と答えた。
「その際は、暗黒の森まで退いた後に迎撃する」
それは西域の統治の放棄を意味していた。流石にゴブリン達も王の言葉に目を剥く。
「恐らくだが、人間共もそこまでは追ってこれないだろう」
問題は糧食である。辺境領域から西都までかかる日数はゴブリンでも6日以上、人の足なら10日程と見て良い。それも何万という大軍を引き連れての行軍となれば、それだけで日数は嵩む。それだけの糧食を用意し、西都を落とした後に暗黒の森を落とすだけの利益が彼らにはないように思えたのだ。
南方は豊かである。
流通は砂漠を物ともせずに発達しているし、それに伴って人と金が集まる。南方の豊かさは人口の比率に現れていた。いくら大国といっても、ゲルミオン王国はその大部分を辺境地域が占めている。彼の国の人口はクルディティアンと同程度の30万程だが、その威勢は近隣に鳴り響いている。
自由都市群が結成された時はエルレーン王国や交易国家プエナ、迷宮都市トートウキなどが名前を連ね、更に大小の都市国家が参加していたのだ。それで互角の戦いを演じていたというのだから、ゲルミオン王国にとって聖騎士の制度が如何に重要なものなのかが分かる。
ゴブリンの王は辺境領域を一旦捨てることにより、赤の王に積極的な出血を強いる策を考えていた。所謂ゲリラ戦法である。ただし、潜むのは魔獣の跋扈する草原地帯。
占領したならば守らねばならない。でなければ領主としての権限を奮うことは出来ないし、強行すれば反乱が起きる。辺境領域は自主自律の気風が根強く、大領主にも揃って反抗することもある。
ゴブリンの王の説明を聞き、撤退ではなく一時的に後退するだけと理解したゴブリン達の顔に生気が戻る。
王の命令に従いゴブリン達が忙しく立ち働く。撤退が決まったからといって、直ぐに帰れる訳もない。持ち込んだ物資を纏め、負傷者を担ぎ、撤退の準備を進めねばならないのだ。
「ゴブリンの王。……お話が」
指示を出し終えた王に、領主達の元へ行っていたザウローシュが話しかける。その後ろに続く小領主達の姿に、王は胸中に嫌な予感を覚えた。
彼らの話を聞いたゴブリンの王は、唸り声を上げて目を閉じた。眉間の皺は苦悩と同じ程度に深い。
「我らは西都での新たな生活を希望しているのです。お察しくださいゴブリンの王」
ラズエルの領主が必死の面持ちでゴブリンの王に訴える。
話を聞けば彼らはゴブリン達と共に辺境領域を去り、西都への移住を希望しているのだ。しかもその総数は、辺境領域の人口のほぼ全てである。
ゴブリンの王はこの事態を想定していなかった。人間はゴブリンを嫌悪しており、その支配が終わるなら喜んで人間同士の繋がりを取り戻そうとするだろうと考えていたからである。
「理由を聞かせろ。納得できん。同じ人間達と生きていけるのだ。我らの支配に甘んじるよりは良いのではないのか?」
口ではそう言いつつ、ゴブリンの王は半ば答えを予想していた。思えば、ゴブリンの王の統治は真っ当過ぎたのだ。武器や防具は暗黒の森で生産可能だし、食糧は魔獣を食する故に自給自足であり、然程費用は掛からない。更にゴブリン達には税収が殆ど必要ない。
言ってしまえば強力な上に安い軍隊である。為政者にとってこれ程重宝するものはなく、しかも王の統制の下で配下の忠誠には一糸の乱れもない。ゴブリンの統治を納得させる為の餌として一年間の税収を採らないとしたことも、それに拍車をかけた。
ゴブリンの王が辺境領域を支配して半年程。その間に、辺境領域の全ての民がゴブリンの王の統治に慣れてしまったのだ。
「我らは考えを改めたのです。以前は魔物とは共存できぬものだと考えていましたが、貴方の下でなら、それも可能なのではないかと」
寧ろ今まで厄介な敵であっただけに、その魔物に守ってもらえるとなれば安心感も一入なのだという。ゴブリンの王は、今度こそ本当に頭を抱えたかった。
自身の行った統治が成功を収めたことは間違いない。だが、よりにもよって撤退しようとしている今この時になってついて来ると言われても、迷惑以外の何者でもなかった。ゴブリンの足でなら逃げきれるものも、人間のしかも女子供まで連れているとなれば、とても逃げ切れるものではない。
「考えを変えるつもりはないか? 我らと来れば敵の追撃を受ける可能性もある」
「もしお引き受け願えないなら、我らだけで辺境領域を捨て、西都を目指します」
その時は魔獣に食い殺されるか、赤の王に捕まるか。無事に西都まで来れる者は、極々少数になるだろう。死ぬと分かっていて見捨てるのは後味が悪い。例えそれが人間であろうと、一度支配下に入り王に従順であったのなら尚更だった。
それに、連れて帰った時の利益も期待出来る。
小領主だけでも官僚の育成に役に立つ。加えて人間が居れば、後々の戦いに何かと有利だ。誇り高き血族2000だけでも相当に戦術の幅が増えたのだ。辺境領域の民全てともなれば、その幅は更に飛躍的に上昇するだろう。
「期限は2日だ。それ以上は待てぬ。足の遅い者は置いていく。それで良いな?」
「ありがたく」
騒めきから一転、シラーク領主が代表して礼を述べる。
「……参ったな、どうにも」
領主達が退出した後、珍しく弱気なゴブリンの王の言葉に、ザウローシュは笑った。
「王の風格というものですな」
「撤退は厳しいものになる。覚悟は出来ているのだな?」
「弱い者を見捨てて、どうして冒険者を名乗れますか」
王は頷くと、計画の修正に入らねばならなかった。
◆◇◆
ゴブリンの王の計画修正は、翌日からゴブリン達の作業を変えた。撤退の準備と平行して、広範囲に渡る罠の設置。特に集落から真っ直ぐに西都に伸びる道沿いには多くの落とし穴が掘られ、近くの森から柵を作る為の木が切り出された。
だが、それでも僅か一日である。人間達が追って来た際の撃退の要領を決めると、ゴブリンの王自ら穴を掘り柵を作る。如何にゴブリンが精強であろうと、人間を庇いながらの撤退は苦しいものになる。撤退の際に最も重視されるのは、何をおいても速度だった。
王は人間達に可能な限りの荷車を持ってこさせ、同時にギ・ギーに命じて力の強い魔獣にその荷車を引かせるという手法を取った。特に足腰の弱い者をそこに乗せると、男達にはなるべく軽装になるよう指示し、ゴブリンの前衛と後衛で挟み込むように護衛しながら歩かせる。
先頭には忍び寄る刃のギ・ジー・アルシル、魔獣軍を率いるギ・ギー・オルド、そしてラ・ギルミ・フィシガらを配置した。後衛にはゴブリンの王を始め、ラーシュカ、ギ・ズー・ルオ、ギ・ゴー・アマツキら突破力に優れたゴブリンとギ・ザー・ザークエンド率いるドルイド部隊を配置する。もし襲われるなら後ろからであるとのゴブリンの王の予想に従い、防御を分厚く固める為の処置だった。
最後尾にギ・グー・ベルベナを配置し、罠を設置しながら本隊に付いて来させる。その他、パラドゥアゴブリンには周囲の警戒を任せて遊撃とし、ザウローシュ率いるレオンハートの一群とギ・バー・ハガル、妖精族のフェルビー率いる戦士達は、人間達の護衛として彼らの周りを囲む。
取り敢えずの態勢を整えたゴブリンの王は、北に向けて撤退を開始する。
長い長い人の列に一抹の不安を覚えながら、ゴブリンの王は多くの血を流した南の地を振り返った。
「……一向に進まぬな」
不満気に呟くラーシュカに、ギ・ゴーは気のない返事を返す。
「だが、王の裁定に間違いはない。少なくとも、俺は賛成だ」
「弱い者を見捨てぬか。相変わらず甘いことだ」
ギ・ザーは、前を進む大きな背中を見て彼らの会話に参加した。
「お前なら、弱い者は斬り捨てるべきだと言うと思ったがな?」
ラーシュカはギ・ゴーの振るう剣の凄まじさを確かめると、自然と好感を寄せていた。彼の好みは単純に強い者である。それだけで純粋な好感を持つことが出来るラーシュカは、ある意味とてもゴブリンらしい。
そのラーシュカをして、ギ・ゴーの剣は見ていて寒気がする程のものだった。文字通り技の冴えが違う。一対一で戦って勝てるかどうか分からないのは、このギ・ゴーとゴブリンの王ぐらいなものだった。
「昔、灰色狼に追われたことがある。あの時も、王は俺と俺の群れを救って下さった」
曲刀の柄を握るギ・ゴーの手に、力が篭もる。
「王なればこそ、俺は従うのだ。例えそれが他の誰であろうと、俺は王以外についていくつもりはない」
決然と言い切るギ・ゴーの視線は、ただ王の背中を追っていた。
ラーシュカもギ・ザーも、それぞれに思い当たる節があったのか、自然と視線は王の背中を追いかけていた。
「だが、王も無限に生きる訳ではない。死したる後はどうするつもりだ?」
ギ・ザーの問いかけに、ギ・ゴーは笑いもせず答える。
「旅に出ようと思う。我が内なる剣神の命ずるがままに」
「その時は俺が王を目指すだろう。お前はどうするのだ?」
ラーシュカが自信満々に答え、ギ・ザーを見る。王の腹心は口の端を釣り上げて笑った。
「考えるまでもない。王が死ぬ前に俺が死ぬ。それで万事解決だ」
「成程。確かに考えるまでもないな」
妙に真面目に頷くギ・ゴーに、ラーシュカは眉を顰めた。多かれ少なかれ、ギの集落出身のゴブリン達には王に対する崇拝の心がある。ラーシュカとて畏敬の念自体はあるが、崇拝までいくかと問われれば疑問が残る。越えるべき壁であり、目指すべき目標であるというのが実質的な答えだろう。
氏族とギの集落のゴブリン達の何が違うのか考えながら、ラーシュカは進まぬ人間達の列を見渡した。