その勝利は誰のために
ゲルミオン王国参戦という状況に、赤の王を攻め立てていたゴブリン勢は撤退をせねばならなくなった。疲労の極みにあるゴブリン達を率いて、更にゲルミオン王国まで相手にするのは自滅の道でしかない。ゴブリンの王は戦に負けたことを理解すると、目の前に広がる光景に口惜しく歯噛みする。
眼下に広がる惨状。クルディティアンから出陣したクシャイン教徒にゲルミオン王国の誇る聖騎士が襲い掛かっている。両断の二つ名の通り、シーヴァラ率いる騎馬隊がクシャイン教徒の陣形を紙のように切り裂いている。反撃しようと纏まるクシャイン教徒側に嵐の騎士の代名詞たる無慈悲な雷撃が叩き込まれ、次いでガランドが歩兵と共に突っ込んで行く。
騎馬隊の突撃に続いて、歩兵が崩れた陣形を蹂躙する光景。このままではクシャイン教徒側は早晩壊滅するだろう。
「……撤退する」
ここまで戦い抜いてきたゴブリン達の姿を振り返って、ゴブリンの王は呟いた。敗北を認めねばならない瞬間というのは、常に将の器が問われる。誰しも百戦して百勝という訳にはいかないのだから。
「ギ・グー、ギ・ズー! 先陣となって敵を蹴散らして帰還するぞ! 後方はラーシュカとギ・ゴーが守れ!」
今まで赤の王を追い詰めていたのが一転、今度はゴブリン側とクシャイン教徒側が追い詰められる番となった。兵力の差は逆転し、敵は攻め疲れたクシャイン教徒の脇腹を突く形で攻めこんできている。幸いにしてゴブリン側は陣営地の中を進んでいた為、ゲルミオン王国の攻撃に曝されることはなかった。
「奴らの後方を突っ切るぞ! 続け!」
後々の事を考えれば、ここでクシャイン教徒との繋がりを失うのは非常に痛い。群雄割拠の中で唯一同盟を結べる可能性がある勢力であるばかりでなく、北のゲルミオン王国を狙う際の玄関口に位置づけられる立地なのだ。ここがゲルミオン王国側に占拠されてしまえば、再びクルディティアンという巨大都市を攻めねばならない。クシャイン教徒には、可能な限りここで踏ん張ってもらわねばならなかった。
故にゴブリンの王は、大胆にも敵中を突破して辺境領域へ帰還することを宣言する。
敵の2つの強大な戦力である両断と嵐の聖騎士は、クシャイン教徒を蹂躙するのに夢中になっている。なればこそ背中を突いて混乱させ、その隙に離脱を計るのだ。
ゴブリンの王は戦場を見渡してゴブリン勢を一塊にすると、大剣にこびり付いた血と肉片を振り落として走り出す。その背を追うようにゴブリン達が続く。敗戦にも関わらず戦意を失っていない王の姿に、ゴブリン達は畏敬の念を強くした。
「王は強いな」
「だからこそ、我らが偉大なる王なのだ。挑む甲斐があるというものよ」
最後尾で敵を睨むギ・ゴーとラーシュカは、不敵な笑みを浮かべて撤退する王の姿を見る。最後尾として殿を引き受ける彼らの前には槍を構えた赤の王の兵士達。
「だが、取り敢えずは──」
ギ・ゴーの曲刀が、沈みゆく夕日に妖しく煌めく。
「ここで一暴れしてから、帰るとするか」
冥府の悪鬼も真っ青な獰猛な笑みを浮かべるラーシュカが、棍棒で肩を叩く。
「奴らは退いているぞ! 追え!」
赤の王の下士官の声に、ラーシュカは嗜虐の笑みを浮かべて息を吸い込む。
「木っ端共が! 潰れて死ね!!」
ゴブリンの軍勢が王を先頭に走り始めるのを見送って、ラーシュカが棍棒を振りかざす。ゴブリンの軍勢が逃げる時間を作る為に、逆に赤の王目掛けて突っ込んでいく。
「……」
無言のギ・ゴー・アマツキ。彼の握る曲刀が言葉よりも雄弁に死を語る。一突きで心の臓を貫いた次の瞬間、敵兵の首が宙を舞い、思い出したかのように血が噴き出す。
たっぷりと四半刻も暴れ回った後、2匹は屍の山を築いて撤退する。だが、それを追撃しようとする者は誰もいなかった。
◆◇◆
先陣を切ってゲルミオン王国の後方に襲い掛かったゴブリンの王と率いられたゴブリン達は、逃げる羊を追い散らすように敵を蹴散らしながら撤退を敢行する。それは遠くクシャイン教徒を破りつつある二人の聖騎士からも見えていた。
「くそっ、ゴブリンどもか!」
ガランドは歯噛みしたが、如何せん彼とゴブリンの間には味方の軍勢がある。勢いに乗ったゲルミオン王国軍はクシャイン教徒側へ雪崩を打つように攻めかかっている為、後方へ行くことは限り無く不可能に近かった。
「シーヴァラは……」
シーヴァラなら可能かと視線を転じてみるが、やはり両断の騎士もクシャイン教徒を破るのに精一杯だった。普通なら崩れてもいい筈の戦線が、驚異的な粘りを持ってゲルミオン王国側の攻撃を防ぎ止めているのだ。
或いは精鋭部隊が後方に控えていれば別だっただろうが、シーヴァラ率いる騎馬隊が先陣を切ってクシャイン教徒を切り裂き、その後ろに続いて戦っているのは聖戦によって流れてきた難民中心の軍だった。ガランドとシーヴァラは、事前にこれらの戦力をあまり当てには出来ないと判断しており、精鋭でもって陣形を崩した後に敵軍を蹂躙するという役割を与えていた。
拮抗した戦場なら彼らを戦力して見るのは危ういが、今回は明らかに勝ち戦だ。勝っているなら、数の暴力で敵を圧倒出来る。歩兵としての彼らの役割は十二分に果たせると言っていいだろう。
故郷を追われ、慣れない異郷で苦しんだ憎悪が、彼らの士気を否が応でも引き上げる。降伏など認める筈がなかった。未だ息のあるクシャイン教徒に念入りに止めを刺しながら、彼らは怒涛の勢いで進軍しているのである。
その勢いの中を逆流するのは、如何にガランドでも難しかった。
「くそっ!」
悪態を一つ付くと、ガランドは敵に向き直る。ここまで来た以上、取るべき手段は一つしか無い。目の前の敵を殲滅し、その勢いを持ってゴブリン共を追撃するのだ。ガランドは自軍の被害に目を瞑ると獰猛な笑みを浮かべた。
「てめえらは邪魔だ! 蹂躙する嵐!」
目の前にいるクシャイン教徒に向けて青雷の大剣の一撃を叩き込む。
「単純でいいじゃねえか! ははは!」
目の前の敵を叩き殺す。いつもと何ら変わらない。自身が出来る事を再確認し、ガランドは狂ったように笑った。
一方、ゴブリンとクシャイン教徒を上手くゲルミオン王国軍に噛み合わせた赤の王の軍師カーリオンは、軍の再編に追われていた。
「ゴブリン共が撤退していくが、追わなくていいのか?」
セーレの質問に、ここ数日で随分と窶れたカーリオンは苦笑する。
「今は未だ大丈夫です。本隊が合流してから追いますので。それに……」
「カーリオン様! クシャイン教徒の一部が」
呼びかけられたカーリオンはその続きを言わなかったが、もし言っていたらこう続いた筈である。
──将来の敵は、なるべく削っておくべきでしょう?
◆◇◆
ゲルミオン王国軍後方を散々に撹乱し、夜の闇に紛れて撤退に成功したゴブリン達だったが、その疲労は王が考えていたより深刻であった。体力に優れる筈のゴブリン達が、休憩を取らねば動けない程に疲弊し尽くしていた。戦場から離れた草原地域で一夜を明かすと、辺境領域を目指して行軍を再開する。携帯用の食糧を齧りながら黙々と歩くゴブリン達は、魔獣などに目もくれずに進む。
ゴブリンの王を始めとしたその数は3500にまで減少していた。敵との被害を見比べれば圧勝である筈だが、結局包囲は崩せず、それどころかクシャイン教徒達を見捨てて逃げねばならなかった。その悔しさに、誰も彼もが臍を噛む思いだった。
最後尾に索敵に優れたギ・ジーの暗殺部隊と耳の良い妖精族の部隊を配置すると、急ぎ辺境領域へと向かう。撤退の間際に襲われるということはなかったが、辺境領域に辿り着いたゴブリンの王の下には、事態が大きく動いていることを報せる一報が入ってきていた。
西域での緊張状態に加えて、南方地域に再びプエナから蒼鳥騎士団を中心に2万の兵が進出してきていた。次々にゴブリンが占領した地域を奪還され、ギ・バーとザウローシュでは太刀打ちできずに撤退したという報告。
更に東から赤の王が進軍していることが報告されると、流石のゴブリンの王も唸り声を上げざるを得なかった。いつの間にか最も恐れていた包囲の危機に曝されている。味方の援軍も無く、東と南から大軍が迫ってくる光景を脳裡に描いて、ゴブリンの王は苦悩する。
辺境領域を捨てて撤退すべきか。
──多大な血を流して得た土地を、明け渡せと?
「王よ。嘆願があって参りました」
ギ・バー・ハガルの声に、ゴブリンの王は思考の海から立ち戻る。
「今回の戦で負傷した者達を見舞ってやって欲しいのです」
ゴブリンの王は心中で感心した。ギ・バーは良くも悪くも戦闘的な性格で、味方の被害を気にせず敵である人間に如何に損害を与えるかだけを考えているゴブリンだと思っていた。ゴブリンの王は意外な物を見るような目で暫く沈黙した後、了承の返事をした。
「それは人間もか?」
「はい」
立ち上がったゴブリンの王は試すように質問したが、間髪入れずに返ってきた答えに今度は僅かに目を見開いて驚く。西域で冒険者をシュメアと共に撃退したと報告を受けていたが、それでも未だ己の耳を信じられない思いだった。
だが、徐々にゴブリンの王の胸の内に暖かいものが染み入ってくる。
日々の成長が目に見える形で現れるのは、上に立つ者としてこれ以上ない喜びだ。レベルの上昇や進化などではない。そんなものは些細なことだ。ここ最近のゴブリンの王は、そう思い始めていた。己の示した道が徐々に臣下に受け入れられてきている。
あれ程人間を忌み嫌っていたギ・バーでさえ、人間の負傷者を気遣ってほしいと頼みに来た。その事実に、純粋に心打たれたのだ。その後、ゴブリンの王は負傷者を見舞い、ゴブリンのみならず人間も妖精族も分け隔てなく激励して回った。
息も絶え絶えのゴブリンが、人が神の名を呼ぶのと同じ敬意を込めて王の名をか細く呼んだ時はその手を握り締め、苦痛に顔を歪める人間には治療薬の手配を約束し、戦意を失っていない妖精族の戦士には次こそ勝利を約束する。
そうする度に、ゴブリンの王の肩には積み重なっていくものがある。
ゴブリンの王は長い時間を費やして、全ての負傷兵に声を掛け続けた。
◆◇◆
赤の王の盟主ブランディカが主力を引き連れクルディティアンを囲むファティナ軍と合流したのはゴブリン達が撤退してから1日後のことだった。ギ・ジーの報告からゴブリンの王が予想した通り、丁度3日後に赤の王は戦場に到着したことになる。
既にクシャイン教徒の大半は討ち取られ、半ば壊滅しているが、ブランディカは本当に怖いのはここからだと判断していた。前教皇ベネム・ネムシュが引き起こした聖戦により発生した難民の憎悪を、既にクルディティアンの民は目撃している。
生きている人間を、文字通り八つ裂きにしても飽きたらないとばかりに徹底的に串刺しにしていく様子は、歴戦のブランディカをして嫌悪を催す光景だった。
「馬鹿なことをするもんだなぁ……」
あんな光景を見せ付けられれば敵も死に物狂いで抵抗してくるだろうに、そんな事も分からなくなっているのか。今、聖騎士達が火消しに当たっているようだが、恐らく手遅れだ。密約を結んでいるとは言え、ブランディカはクルディティアンの攻城戦にまで参加するつもりはなかった。
これでクシャイン教徒は身動きが取れなくなった。同時にゲルミオン王国もだ。
プエナの蒼鳥騎士団は、功を焦るその気持ちを上手く誘導してゴブリン共に向かわせている。今なら、赤の王は万全の体制を持って南方の制覇に乗り出すことが出来る。
「……で、そこまで手回ししたカーリオンの具合はどうだ?」
眉を顰めたブランディカの質問に、セーレは無言で首を振る。
「悪いのか?」
「何を言っても聞かない。まるで……」
「どこにいる?」
セーレにその先を言わせず、ブランディカは長柄の両刃斧を担いで歩き出す。その先に居たカーリオンは、遠目に見ても分かる程線が細くなったような気がする。
「おい、カーリオン!」
「無事の到着、何よりです。盟主」
振り向いたカーリオンの顔色を見た瞬間、ブランディカは何も言えなくなってしまった。その顔には明確な死相が浮き出ている。魔窟で、戦場で、或いは雇われた村々で。数多くの死者や死にゆく者を目にしてきたブランディカには、否が応でも見慣れたそれがはっきりと分かってしまった。
「カーリオン……」
「何も言わないでください。自分の体のことは自分が一番良く知っています。せめて南方を統べるまで、お伴させてください」
言葉を失うブランディカに、カーリオンは淡い笑みを向ける。
「馬鹿言ってんじゃねえ! お前は俺が王になるまで、這ってでも生きるんだ!」
「ははは……。それじゃあ、養生しないといけませんね」
「おうよ! 仕事は他に任せて、少し体を休めろ。これは盟主としての命令だからな?」
カーリオンを無理矢理天幕の中に押し込むと、ブランディカはセーレに向き直る。
「金は幾ら掛かってもいい。腕の良い医者か治療師を連れて来い」
「分かった」
立ち去るセーレを見送って、ブランディカは空を仰ぐ。
「馬鹿野郎。若え癖に、俺より先に死ぬだなんて口に出すんじゃねぇよ……!」