綱渡りの同盟
クシャイン教徒から同盟を結びたいとの使者が訪れた時、ゴブリンの王は軍議の最中だった。目標は東部クシャイン教徒領。そんな時ノコノコと使者が訪れたのだから、軍議に参加していたゴブリン達が獰猛に笑うのを誰が責められようか。
その場に居合わせた使者は顔面蒼白だった。人間よりも巨躯のゴブリン達が、まるで舌舐めずりするような視線で自身を見ているのである。蛇に睨まれた蛙、飛んで火にいる夏の虫。或いは獅子に狩られる兎の心境であったろう。
ただ一匹、軍議の中心となっていたゴブリンの王だけは静かに目を閉じて同盟の可能性を考えていた。同盟を組んだ場合の利益と不利益。或いは予想される戦の展開。脳裡に描くそれらを口には出さず、黙して使者の口上を聞く。
「こ、このたびは、ま、魔物の、あ、あるじ殿には……」
その聞き苦しい口上に、気絶しないだけマシだと考えたゴブリン達は各々が凶悪な笑みを浮かべた。
「ククク……同盟、な。今まさに死のうとしている人間が、我らに同盟な」
悪企みをしている風にしか見えない冷たい目付きで、ギ・ザー・ザークエンドは口の端を釣り上げて笑う。
「ほぉ、同盟なァ……」
ゴブリン達の中でさえ、その強面と巨躯で冥府の悪鬼と噂されるラーシュカが、棍棒を肩に担ぎながら人間を見下ろしている。顔には獰猛過ぎる笑み。使者は脂汗を流して己の周囲を歩き回るラーシュカを見守った。
「……」
無言を貫き、鋭い視線だけを向けてくる剣王ギ・ゴー・アマツキ。同じく無言ながらも手にした槍の握りを確かめ、いつ王の命令が下っても即座に動けるよう準備をするギ・ズー・ルオ。
デューク級以上の者達だけでもこれなのに、外ではギ・ギー・オルドが魔獣を半ば放し飼いにして遊ばせ、ギ・ジー・アルシルはガンラの氏族に習った手入れの方法で、短剣を研ぐのに余念がない。
無言で瞑目するゴブリンの王の前で、使者の魂は今にも天に召されそうだった。
「その同盟……受けよう」
ゴブリンの王の声はそこまで大きくもなかった筈だが、自然と辺りに響く。ゴブリンの王が言葉を発する間は、臣下のゴブリン達は自然とその言葉に聞き入る為だ。
「は、はひ」
その一言を返すだけで疲れきってしまった使者は、己の神に祈って最後の力を振り絞る。
「そ、その我が国は、げ、げ、現在、ファティナから侵略してきた軍に包囲の危機にあり──」
「まさか、助けてくれと?」
ギ・ザーが氷のような視線を向ける。使者は半ば断ち切られつつある生命を感じながら、黙って頷くしかなかった。
「王よ、こんな世迷い言は聞くに及ばぬ。東で戦があるなら、南下の好機だ!」
ギ・ザーの言葉にゴブリンの王は視線を向け、使者は体を震わせる。
「我らが敵を殲滅すべきだ!」
「……使者殿、同盟は誰の発案か?」
一度ギ・ザーの意見を聞くと、使者に再び目を向ける。
「おお、お、恐れ多くも、教皇猊下にて」
再びゴブリンの王は目を閉じて考え込む。ミラ・ヴィ・バーネン。ザウローシュが集めた情報では、中々に才覚豊かな人物だった筈だった。
「良かろう。同盟の誼を以って、兵を出そう」
「あ、ありがたき幸せにて!」
平身低頭した使者は、駆け去るようにその場を退席すると、馬に鞭を入れてクルディティアンへと逃げ帰る。
「……本気で同盟を受ける気か?」
先程まで、どこか遊びのような雰囲気だったギ・ザーが一転、真面目な表情でゴブリンの王に問う。
「無論。だが、我らが兵を向けるのは南だ」
広げた地図上に指し示される場所はエルレーン王国。そこから弧を描くように北上して、クルディティアンを目指す。南の防衛線を下にすることにより、本当に確保したい辺境領域を守りつつ支配地域を拡大する。
今まで南を目指さなかったのは悪戯に他国を刺激して無用な戦を仕掛けられてはたまらないというゴブリンの王の考えに基づくものだったが、蒼鳥騎士団と激突してプエナと本格的な抗争状態になってしまった以上、其れ等の一切を考慮をする必要が無くなった。
「アシュナサン同盟に与する国は全て敵と見做す。立ち塞がる者に容赦するな!」
今までにない王の力強い言葉に、ゴブリン達は一斉に頭を垂れた。彼らも、それ程の覚悟を持っての戦だと悟ったからだった。
10日程の猶予を持ってクルディティアンに助勢に行くと約束したゴブリンの王は、ザウローシュを呼ぶと同盟の件を告げると共に南下の意志をはっきりと伝える。
「危険でしょう。もし万が一、南へ行く途中で敵とぶつかり合えば援軍どころではない」
「充分に配慮する」
「ですが……」
「これは決定だ。同意しかねるなら、辺境地域の守りを任せたいが」
ゴブリンの王の言葉を受けてザウローシュは一瞬考え込むが、遠征に同行すると答える。確かに軍事的には禁忌を犯しているが、それは人間同士の戦の場合だ。ゴブリンの王という傑出した存在が居るなら、或いはそれも可能なのかもしれないと考え直した為である。
南方のアシュナサン砂漠地域への牽制は確かに必要だった。
蒼鳥騎士団との激突以来、プエナは大人しく騎士団の再建をしているのだろうが、その隙を突く形でエルレーン王国勢力が徐々に力を伸ばして来ている。
一度打ち破った筈が、その力は弱くなるどころか逆に強くなってすらいる。底知れない人間の国の実力を目の当たりにして、ザウローシュならずとも危機感を覚えていた。
その夜の内に、ゴブリンの王は全軍を3つに分けて辺境領域を立つ。
ラ・ギルミ・フィシガ率いる右翼部隊。
ゴブリンの王率いる本隊。
ザウローシュ率いる左翼部隊。
西域に移住を完了した誇り高き血族から500程の援軍を得たゴブリン達の総数は4500。妖精族からフェルビーなどが参加しているが、それも含めての数である。
ゴブリンの王が狙ったのは、城壁などの整っていない小さな村落だった。夜の闇に紛れて奇襲を敢行し、次の街に連絡が行く前に更に次の街を襲う。攻略した村の代表者に対してゴブリン側に敵対しないことを誓わせると、周辺の地図を供出させる。食糧や人質すら取らず、すぐさま次の街の攻略に走り出す。
人間の常識では考えられない速度で次々に街を占領したゴブリン達は3日で20の街を陥落させると、すぐさま次の敵を求めて北上する。ギ・バー・ハガル率いる200とザウローシュ率いる人間達200を残すと、ゴブリンの王は残る全軍を北に向ける。
この進軍の速度は南方の全ての国の予想を超えるものであり、赤の王の軍師カーリオンですらも耳を疑う程であった。
◆◇◆
王が不在の間、西域を任されているのはナイト級ゴブリンのギ・ガー・ラークスである。王の信頼厚い忠臣の元に、緊急の報告がなされていた。
ゲルミオン王国、動く!
秘密裏に赤の王と盟約を結んだゲルミオン王国が、その重い腰を上げて西域へ軍を発したというのだ。西域とゲルミオン王国の国境を閉ざす八砦には既に2000近い兵が集結し、気勢を上げている。ギ・ジー・アルシルの残していった暗殺部隊が持ってきた情報の大きさに、ギ・ガーはすぐさま全力を以ってそれに対処することを決める。
「王に伝令を! 鉱石の末と妖精族にも伝令を走らせろ!」
ギ・ガーは王が去る前に危機の場合の対処を聞いていた。それを思い出しながら、ゴブリンだけでなく妖精族や亜人達にもこの事実を告げる。文官の代表格であるフェイに事情を話すと、彼はゴブリンには成し得ない円滑さでその事実を西域全てに公布。西都に援軍の集結を呼びかけた。
その数3000。亜人の有力な一族である暴虐のミド率いる牙の一族などは、一族の男総出で西都に駆けつけていた。5日で援軍を集結させると、ギ・ガーはその全てを東へ向ける。
砦に集結している人間たちを威圧し、王が戻る時間を稼ごうとしたのだ。
砦に近づき咆哮を上げるが、ゲルミオン王国側も負けずに気勢を上げる。その先陣を任されているのは、嘗てゴーウェン・ラニードの指示で西域を脱出した民達だった。故郷奪還に燃える彼らの士気は高く、咆哮を上げるゴブリン側に勝るとも劣らなかった。
西域の民を率いるユアンは、砦の物見の塔から3000にも及ぶゴブリンの軍勢を見下ろしていた。
「……ゴブリン以外の数が大分多いな」
目につくだけでも亜人やオークなどが、かなりの数混じっている。
「南方に進出しつつ、こちらも守る。不可能だと思っていたが」
ガランド不在の八砦を守るユアンは、守りに徹しろという命令を受けた己の身を恨めしく思いながら眼下の光景を見つめた。攻めてくるなら撃退する自信は充分にある。だが、既にユアンは平原でゴブリンと戦って無事で済むとは考えていなかった。
ゴーウェンの下での戦の経験とガランドの考えに触れたユアンは、ゴブリンの危険性をしっかりと認識していた。最も厄介なのは回復力の凄まじさである。戦う度に強大になっていくゴブリンの軍勢に、ユアンは底知れぬ恐怖を感じていた。
「頼むぞ。ガランド」
王の特命を受けたガランドに、聞こえる筈もない声援を送った。
◆◇◆
クルディティアンを包囲したファティナからの軍勢は、酷く緩やかに包囲を完成させつつあった。まるでクシャイン教徒側が守りを固めるのを待っていてくれているような、のんびりとした包囲。だが、率いるカーリオンの性格を反映したその布陣に隙はない。
クシャイン教徒側に援軍がないのを承知の上で、充分な包囲の陣地を作ることを優先させたエルレーン王国軍。攻城兵器の据え付けも、設置をしているだけで一向に使う気配がない。
士気高揚の為に高い城壁の上で兵士を激励していた聖女ミラは、エルレーン王国の様子に眉を顰める。だが、瞬時に己の役目を思い出し、表情を笑顔に戻すと兵士達に声を掛け続ける。小さなことだが、その積み重ねこそがクシャイン教徒軍の士気を上げるのだ。
クシャイン教徒達にとってミラは、今や最後に縋るべき存在である。地獄に降ろされた一本の細い糸そのもの。或いは現人神にも等しい存在。嘗てベネム・ネムシュに抱いた敬意以上の崇拝を以って、民は彼女に祈る。
「聖女様」
その一言に言い知れぬ重みを感じて尚、彼女は颯爽と聖女を演じてみせる。民の希望そのものである優しい笑みを彼らに向ける。胸に野心と毒を秘めた聖女は、眼下に広がる敵軍を僅かに視界に収めた。
エルレーン王国軍が包囲を敷くのは半ば分かっていた為、驚くには値しない。問題は、その構築している包囲陣地があまりにも強固なことだ。
現在クルディティアンにいる民の数は凡そ15万。その気になればその全てが兵士になるとはいえ、聖戦の発令は使ったクシャイン教徒側にも負担を強いる。故に専属の兵士としてクシャイン教徒軍に数えられるのは約2万程度である。
敵の数は1万5千。
数で劣るが故に強固な陣地を敷き、自分達を封じ込めようとしているのだと考えられる。
城壁を囲むだけでも大変な作業である。多い時には30万の民が暮らしたクルディティアンを包囲しようとすれば、どうしても密度は薄くなる。それを補う為の強固な包囲陣。まるで、どちらが防御側なのか分からなくなる程の陣地線を構築しつつあるエルレーン王国軍は、不気味な沈黙を保っていた。
特に南西から南側が分厚く、北側は薄い。
「まさか……」
民の慰撫が終わり、一人その包囲陣を眺めていた彼女はぽつりと呟いた。
──エルレーン王国軍が待っているのはゴブリン達なのではないか?
ミラの頭の中で急速に組み立てられていく仮説。
殺し尽くしたと思っていたエルレーン王国軍の間諜が、未だにクルディティアンの中に存在していて、情報をエルレーン王国側──否、赤の王の軍師カーリオンに流している。
そう仮定して考えれば、全て辻褄が合う。
ゆっくりした包囲は、クシャイン教徒側と本気で戦うつもりがないから。
まるで防御陣地のような強固な包囲はゴブリン側の侵攻を予想したもので、それを迎撃することに彼らは力を注いでいる。南西から南にかけて分厚くなる陣営地が証拠だ。
「でも、だとすれば」
赤の王がどこまで掴んでいるのかが重要だった。
クシャイン教徒がゴブリン側と同盟したことまで知っているのか? それとも漁夫の利を狙ったゴブリン達を血祭りに上げて、意趣返しをしようとしているのか。
先日、死に物狂いで戻ってきた使者から聞いたゴブリン側の返事は“受諾”である。10日後に援軍に来ると言っていたゴブリン側に合わせて挟撃することが出来れば、赤の王を撃退することは可能だろう。
「だけど」
そう、以前読み合いで負けた記憶が彼女の足を竦ませる。
本当にそうなのか? これ程明々白々な推理をするに足る事実があって尚、彼女は躊躇ってしまう。前回の失敗は、本来明晰な彼女の思考に大きな傷を与えてしまっていた。
考えが纏まらず、溜息をつく。
結局、最悪の事態を考えて動くべきだと彼女は結論づける。
「落ち着きなさい。ミラ・ヴィ・バーネン。貴方は聖女、民を導く存在なのよ」
誰にも聞こえないように呟いた彼女の視線の先に、土煙を上げて南方の陣地に運び込まれる物資の山が見えた。恐らく糧食だろう。
「……食糧?」
彼女の脳裡に雷が走る。
人は生きている限り食糧が必要になる。それは当然だ。だが、そうだとしても運び込まれている食糧が多過ぎる。1万5千の人間を養う為に必要な食糧を計算しようとして、辞めた。そういうことが得意な人物なら彼女の身近に控えている。
焦る気持ちを精一杯押し殺し、ミラは部屋に戻るとヴィランを呼ぶ。
「ヴィル! 1万5千人の兵を養うためにどのくらいの食糧が必要?」
「は、え?」
部屋に入るなり質問を投げ掛けるミラに、面食らうヴィラン。彼女は敵の陣営地に必要以上に食糧が運び込まれている事実を告げる。
「敵は長期戦を考えていると?」
「そう……だと思う。第一段階として南から来るゴブリン達を殲滅した後、こちらの飢えを待つつもりよ」
考え込むヴィランの反応を、ミラは伺う。
ゴブリンとの同盟は漏れていると考えた方が良いだろう。それを利用して引き寄せたゴブリン達を、彼らと同じ方法で殲滅することにより再起不能な傷を与える。ファティナからの軍とエルレーン王国側からの攻撃で、ゴブリン達は挟み撃ちになるだろう。
如何に人外の力を持っていても、挟撃されたならひとたまりもない。
「確かに、奇妙な形をした防衛陣だとは思っていましたが」
南方の陣地に集積されている糧食は、恐らく援軍に来るエルレーン王国側が接収する為のものだ。ゴブリン側とクシャイン教徒側の両方からの攻撃を受け止めることが可能な強固な陣地は、最早半ばまで完成しつつある。
「彼らはこちらが守りを固めれば固めるほど優位に立てる。ゴブリンさえ殲滅してしまえば、エルレーン王国軍を使って辺境領域を占領するのも、弱ったプエナを手に入れるのも容易だもの」
守りを固めれば固める程、俊敏な動きは取り難くなる。
「では、こちらは」
「ゴブリン達と呼吸を合わせて、一気呵成に彼らを攻め立てる。他に手は無いわ」
最後の切り札として“聖戦”の発令も視野に入れて、ミラは宣言する。
「今度は私達が勝利する番よ!」
大きく頷いたヴィランに、彼女は出陣の準備を命じた。
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