包囲網《地図あり》
クシャイン教徒の本拠地クルディティアンの教皇の為の住まいでは、聖女ミラがとても人には聞かせられないような悪態をつきながら、腹心のヴィラン・ド・ズールに愚痴を溢していた。
「あ~もう! やられた!」
丁寧に櫛を入れた髪を抱え込んで頭を振る様子は年頃の少女としては微笑ましいものだが、聖女と呼ばれ、一国の姫君でもある高貴な身分の淑女としては、色々と台無しであった。
「ひ、姫さま……その、あまりにもはしたないかと」
しどろもどろなヴィランが言い終わるや、彼女が手にしていた枕が勢い良く投げられ、軽い音を立てて彼の顔に命中する。
「悔しがるぐらいはさせなさい! もぅ、小領主達の再度の抱き込みに失敗しちゃったじゃないのよ!」
「は、はぁ?」
理解の及ばないヴィランに、噛んで含めるようにミラが話す。
「私の言動が、何故だか小領主達に伝わってるのよ。それも意図的に意味を誤解するようにねっ! 誰の仕業か知らないけど……ん?」
不満たらたらで頬を膨らませていたミラは、自身の発言で何か気付くことがあったらしく、途中で言葉を切ると考え込む。
「どうか、なさいましたか?」
「ねえ、ヴィル。小領主達を押さえているのは魔物よね?」
「ええ、先のクルーゼル会戦に参加した者からも確認は取れています。見たこともないような巨躯を誇るゴブリンだそうですが……」
「小領主達のところに、どこかの血盟が居たわよね?」
「ええっと、確か誇り高き血族ですね。戦乙女の剣と並んで傭兵稼業で有名な巨大血盟です。あ、でも東部に地盤がありますので、小領主達に雇われただけかと」
ヴィランの話を途中から聞いていなかったミラは、口元に手を当てると小言を呟く。
「でも、いえ、あり得るの?」
思い立った彼女は、ヴィランに向き直る。
「レオンハートの経済状況を調べて! そのくらいなら直ぐ手に入るでしょ?」
「ええ、一刻もあれば可能ですが」
「だったら早くする!」
追い立てられるようにミラの部屋から追い出されたヴィランは、一刻後にレオンハートの経済状況を記した書類を持って彼女の元を再度訪れる。
彼女はそれを確認すると、やっぱり……と頷き、暫く黙考した。
「どうかなされたのですか? レオンハートが何か?」
未だについていけないヴィランを尻目に、ミラはニヤリと笑う。
「この南部の混乱。手引きしたのはレオンハートね。ゴブリンと組んで小領主達を騙している」
「……ご冗談でしょう? あそこは東部を本拠地とするクランですよ?」
「推測だけど、確度は高いわ。この書類を見て何か気が付かない?」
「いえ、健全なものかと……」
「健全過ぎるでしょうが! 今東部は、赤の王と自由への飛翔が影響力を競い合ってるのよ? その渦中で、どうしてここだけ健全でいられるのよ?」
「でも、まさか……利益は……新天地を求めて?」
「ようやく頭が回ってきたようね。そう、彼らは新天地を求めた先で、ゴブリン共と出会ったってわけ」
「魔物ですよ?」
「恐ろしく統率のとれた、ね?」
至近で見つめ合う二人の脳裏に、共通の認識が生まれる。この敵は危険だと。
「でも、今は手を出せないわ。ゲルミオン王国側がきな臭くなってるし」
「聖騎士シーヴァラとジゼですか。牽制だと思いますけど……」
「正確にはそこに流れ込んだ難民ね。抑えられる? 兵は2万までなら出せるわ」
「10日程なら」
クシャイン教徒には敵が多い。ベネムの聖戦の影響で南のアシュナサン同盟とは敵対関係であるし、長年争っているゲルミオン王国も同じだ。教皇を討ち取ったゴブリン共も油断ならない。
彼らが欲しているのは時間であり、手を携えられる同盟者だった。
「レオンハートそれ自体に調略の手を伸ばすわ。それとゴブリンの治世に興味があるから、それについての情報収集も忘れないように」
「はい」
頷き、出て行こうとするヴィランの耳に、扉の向こうから使者が来たとの声が聞こえた。
「どちらさま?」
「エルレーン王国からです」
その言葉に、二人は思わず見つめ合った。
「ん~~もうっ! 嫌なときに嫌な相手からっ!」
ミラの悪態はもう暫く続き、ようやく治まった段になって使者と面会する。その時には、既に聖女の仮面を二重三重に被り直した少女の姿があった。
「エルレーン王国国王ユグノー陛下は、今の状況を憂慮していらっしゃる」
その一言から始まった使者の長い口上を、常に微笑を讃えながら耳に入れる。要は降伏勧告だった。どこまで此方の状況を知っているのか、ミラは使者の口上からそれを探り出そうと情報を噛み砕く。
滞り無く終わった会談は、無論のこと拒否の一言でその提案を退けるが、ミラはエルレーン王国側からゲルミオン王国の蠢動を指摘されたことが気になっていた。
「どこまで諜報の手を伸ばしてるっていうのかしら」
クシャイン教徒側としては周囲の敵を制し、南部を統一するのが最大の目標である。嘗て教皇ベネム・ネムシュがそうしたように、聖戦の名の下の大量動員を繰り返せば僅かなりとも可能性はあるが、自身も含めた4つもの巨大勢力が跋扈しているような状況では背後を突かれかねない。
一つの正面ならヴィランがいる。だが、2つ以上の戦線を持ってしまうと、安心して任せられるような人材がクシャイン教徒の中にいないのだ。
だが、それは他の勢力にも当てはまる筈だ。一つの戦線を維持しつつ、他の戦線を支えるというのはどの勢力でも難しい。
「悔しいけど、今は静観しかないか」
肩を落として呟いたミラは、ゲルミオン王国への対処の為ヴィランを北部へと派遣し、ゴブリンの跋扈する西とエルレーン王国側の南に対しては静観を決め込む。
輝くような金色の髪を弄び、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
エルレーン王国が今この時期に降伏勧告を出してきたということは、何か行動を起こすと見て間違いない。クルディティアンへと攻め込んでくるつもりなのか、或いはプエナか、ゴブリンか。
攻め込まれたとしても策が無い訳ではない。或いは、他の勢力にちょっかいを出すなら背後を突ける。ファティナには大量の間諜を放っているのだ。だからこそ、エルレーン王国側の動きを捉えることも出来た。
「ふん、今に見てなさいよ」
誰にともなく悔し紛れに呟くと、午後の紅茶を嗜む。
エルレーン王国を乗っ取った赤の王が動くようなら、容赦なく背後を突いてやる。決意を固めながら飲んだ紅茶の味は、仄かに甘かった。
◆◇◆
交易国家プエナは、猛烈な勢いでその勢力範囲を北へ広げている。
届けられたその情報に、ゴブリンの王はクシャイン教徒側へ向かっていた軍勢を呼び戻した。西域の騒擾も収まり、ギ・ザー・ザークエンドは王との約束通り、新たなゴブリンの兵士400を伴って南下した。
小領主達の治める辺境領域にてゴブリンの王と合流を果たす。更に、未踏破区域を進んでいたギ・グー・ベルベナが新たな戦力を従えて西域を抜け、王の元へ合流すべく進軍中であるとの情報がギ・ザーから齎された。今、ゴブリンの王の手元には2500ものゴブリンが集結している。
ギ・グーの軍勢が合流すれば、兵士の数は更に増えるだろう。
王は直ちに軍議を開き、率いているゴブリンと妖精族の中から主要な者達を招集すると共に、ザウローシュに集まっている情報の開示を求めた。
「プエナの勢いの源泉は、やはり砂漠を苦にしない砂馬にあります。その機動力は凄まじく、旧プロティア派の諸都市を一気に抜いて北上を続けています」
誇り高き血族を通じて齎される情報を、ゴブリンの王は黙って聞く。
「率いているのは蒼鳥の騎士団の騎士団長アイザスと副団長アレン。万全の布陣というやつですね」
「戦力を分ける愚は冒さぬか」
ゴブリンの王の言葉に、ザウローシュは頷く。
「二人共、若いながらに戦を心得ています。率いるのは蒼鳥騎士団を中心に、約3000の精鋭。このままの速度で行けば、あと数日でラズエル領に侵入されます」
「むざむざ小領主達の領域を荒らされる訳にはいかん! こちらも打って出る!」
ゴブリンの王としてはギ・グーとの合流を優先させたかったが、小領主達を服従させ続けるには彼らの領域を守ってこそだと知っているが故に、出撃せざるを得なかった。
「ギ・グーにはその旨連絡せよ」
合流地点を示すと、伝令を使ってギ・グーに場所を伝える。
「敵の機動力を潰さねばな」
ギ・ザーの進言に王も頷く。
「戦場は平原地域で、敵の機動力が最も発揮される場所だ。ならば、こちらは夜の闇に紛れて奇襲を掛け、機動力を活かす間を与えず敵を殲滅する! ギ・ジー・アルシル!」
「はっ!」
「先行し、敵の位置を特定せよ。接触は必要最小限とする。敵の位置を補足したならば手を出さず、此方への連絡を最優先に動け」
「御意」
走り去るギ・ジーから目を離し、次なる命令を下す。
「それぞれ部隊の間隔を広く保ち、敵の突撃に備えよ。ギ・ジーが敵を補足出来なかった場合、こちらが奇襲を受けることになる。警戒を厳にし、部隊同士の連携を心がけよ!」
王の命令に指揮官級のゴブリン達は頷き、頭を垂れる。
「出陣だ! 奴らを蹴散し、南方に安定を齎すぞ!」
◆◇◆
「ファティナの軍勢が、クルディティアン郊外を進軍中!」
その悲鳴のような報告に、聖女ミラの眦が釣り上がる。喧騒に揺れる教皇の間にはクルディティアンの有力者達が集まっていた。
「……数は? それに攻城兵器の有無を」
だが、彼女は内心の激情を堪えながら、静かに伝令に問い返した。
「凡そ1万。盟主ブランディカ率いる赤の王の旗も見えますが、攻城兵器は見受けられません!」
「……やられた」
小さく出た彼女の苦鳴。誰に聞かれる訳でもなく喧騒の中に消えたそれは、彼女の偽らざる本心だった。
ゲルミオン王国南部の蠢動に最高の手札であるヴィラン・ド・ズールを切ったのが3日前。当初の予定通り2万の兵を率いさせて北部に向かわせたのは、ファティナに潜り込ませている間諜から異常なしの報告を受けたが故だった。
元々ファティナもクルディティアンも30万という巨大な人口を抱える大都市であり、農耕を中心として経済が回っている。農民を兵として招集し、戦場へ向かわせるのは、それ相応の時間と準備が必要になってくるのだ。
その為に潜り込ませた間諜が軍の動く時期さえ知らせてくれば、対処の時間はいくらでもあると思っていた。情報収集の焦点を西のゴブリンと南のエルレーン王国側に向けていたのが裏目に出たと言って良い。
なまじ優秀であるが故に、ミラは最初から自分が踊らされていたことに気付く。エルレーン王国軍の動きを察知し得たのも、それを撃退出来たのも、全ては赤の王の描いた戦略の想定内でのこと。こちらの放った間諜は敢えて泳がされていたのだ。
「読まれていた。何も、かも……!」
誰にも見られないように固く拳を握る。
ファティナから出た軍の目的はクシャイン教徒側の行動を掣肘することだろう。攻城兵器が確認出来ないのが、その証明だ。
だが、背後を突くつもりでいたミラの思考を読んだかのように、堂々と軍の威容を見せつける赤の王。その行動に彼女は臍を噛んだ。油断している所に兵を出してこそ、相手の意表を突けるのだ。ここまで堂々と行軍されては罠を仕掛けられるのが落ちである。
「クルディティアンの市民達に布告を出しなさい。エルレーン王国の進軍は我が領内を狙うものにあらず。魔物の討伐を企図するものであると」
ミラの発言に枢機卿の一人が頭を下げ、その場を後にする。
「異例の発言ではございますが、これで民も安心することでしょう」
柔らかな表情で納得する有力者達に、ミラは内心で唾を吐いた。
これはクルディティアン内部に潜り込んでいる誇り高き血族の間諜へのメッセージだ。恐らくクルディティアンから辺境領域に使者を出しても、進軍する赤の王に先んじることは出来ないし、ファティナの間諜の立て直しもある。間諜を無駄に使うことを許されない彼女に出来る精一杯の赤の王への嫌がらせであった。
「ええ。民の平穏こそ、始祖クシャインの教えですから」
美しい顔に慈愛の表情を作ってミラは微笑む。抱え込んだ毒を外に出さないように心に蓋をした彼女の内心を知るものは、有力者達の中には居なかった。
◆◇◆
エルレーン王国をほぼ掌中に収めた赤の王は、次なる狙いを交易国家プエナに絞った。北のクシャイン教徒達は、確かに旧エルレーン王国上層部を上手く退けたが、ゲルミオン王国側が楔となって彼らを引き止める。
長年争い合ってきたゲルミオン王国と自由都市群では、早急な関係の修復は難しいだろう。
「クシャイン教徒達に対するゲルミオン王国の反応は冷淡の一言です。更に、聖戦によってゲルミオン王国に流れ込んだ難民達を上手く扇動すれば北部の動きをほぼ封じられると考えて良いでしょう」
流れるようなカーリオンの説明に、今や一国を領する血盟である赤の王の幹部達は頷く。
「次に狙うのは交易国家プエナの資金。プエナを奪った暁には、概ね南方は制したと言っても宜しいかと」
エルレーン王国が抱える穀倉地帯と交易国家プエナの税収。この2つを抑えれば、南方での絶対的優位が確立する。
「でもよ。プエナとは、この前同盟を結んだばかりだろう?」
首を傾げるサーディンの言葉に、カーリオンは頷く。
「ええ。対魔物・対クシャイン教徒という名目で同盟を結びました」
「ならば同盟を組んだままの方が良くはないか? 背後から襲い掛かるにしても悪名を被るぞ」
老付与術師グレイブの言葉に、カーリオンは更に頷く。
「ですから辺境領域を抑えるゴブリン達に向けて、こちらも軍を発します」
「それじゃあ、プエナの連中と一緒に戦うのか?」
「ええ。表面上は、ですが」
「表面上?」
「ゴブリン側の諜報に、意図的にプエナの進軍だけを流しました」
その言葉に、その場に居る者達は顔を見合わせる。
「辺境領域に潜り込ませた間諜からの報告では、ゴブリンの軍勢の中には亜人や妖精族などもいるそうです」
「だが、それが……」
サーディンの言葉を遮って、カーリオンは言葉を続ける。
「ゲルミオン王国に潜り込ませた間諜の調べでは、魔物達は奇襲を得意とするそうです。当然ですね。彼らは夜の住人。我々人間とは一線を画する身体能力と五感を持っているのですから」
「妖精族が居るなら全滅するまで戦うなんてことはないな。少しでも勝算を高めようとする筈だ。つまり、奴らは奇襲を考える。ゴブリン共に大規模な騎馬隊は無いんだろう?」
「確認されていません。居ても少数でしょう。とても真正面から蒼鳥騎士団を相手に出来るとは思えませんね」
「つまりプエナ側にゴブリンどもを嗾けて、連中が襲っている所を更に俺達が襲うって訳だな」
ブランディカの言葉に、その場に居た者達にも理解の色が広がっていく。
「その通りです。狼虎競食の計、とでも名付けますかね」
「だが、それには此方の接近を悟られないことが絶対条件では?」
グレイブの問いに、カーリオンは微笑んで返答する。
「それについてはご安心を。セーレさんに既にお願いしてあります。こちらの諜報能力は向こうより大分上手ですよ」
「よし。そんじゃあお前ら、策は分かったな?」
確認するブランディカに、一同は猛る気持ちを目に宿して無言の返事とした。
「王佐の才の策だ。これで負けたら、俺達は良い笑いものだぜ!」
士気上がる赤の王を率いて、ブランディカは騎馬隊を出陣させる。
カーリオンの策により、赤の王は他の勢力よりも一歩先んじて態勢を整えることができた。
「ああ、それとなカーリオン」
「はい」
「ゲルミオン王国の件だが、どうせなら堂々と同盟を結んじまおうじゃねえか」
「……成程。餌はファティナですか?」
口元に手を当てて考え込むカーリオンに、ブランディカは獰猛に笑う。
「いいや、クルディティアンさ」
目を剥いて驚くカーリオンにブランディカは満足そうに笑うと、騎馬隊を率いて北西へ向かう。
「仰せのままに」
カーリオンは、深く深く頭を垂れた。
◆◆◆
◆◇◆