閑話◇シンシアの冒険Ⅱ
【個体名】湖畔の淑女
【種族】グレイウルフ
【レベル】45
【階級】幼生
【保有スキル】《疾風の一撃》《突進》
【加護】なし
【属性】なし
首根っこを咥えられて運ばれる屈辱に耐えて、放り投げられたのは、灰色狼の巣だった。
こんないっぱいの灰色狼初めて見た。
でもどうしよう、お父様のところ帰らなきゃ。
『長老……この娘は』
私を加えてきた狼の声だ。重くて渋い。聞いてるだけで尻尾がくにゅーんとする。
『いや、良い。聞こえていた。娘、どこから来た?』
その中で一番のおじいちゃんが私に聞く。片目が潰れてる。痛そう。
「グルゥ」
太陽の昇る方。
『なるほど……お前の父親はどんな方だ?』
片方しかない目を細めて、私を見る。なんだか怖くないのはなんでだろう。声が温かいからかな? 尻尾もだんだんとぐにゅー! となってきた。
「グルルゥ」
強くて優しいよ。
『……そうか。苛められたりはしなかったか?』
厳しいけれど、いつも守ってくれるよ。
『長老!』
重く渋い声の狼が、なんか苛々してる。
『うむ。獰猛なる牙よ。年寄りは話が長くなっていかんな』
『いえ、失礼しました』
長老って呼ばれてるおじいちゃんが私のところに鼻を突きつけてにおいをかぐ。
なんかくすぐったい。
『良かろう。しばし我が賢き者の一族で預るとしよう。牙の一族にもそう伝えよ』
周りの狼たちが一斉に頭を下げる。偉いんだねおじいちゃん。
『幼き牙よ、今日はここで眠りなさい。お前の身は古き牙の名においてわしが守ろう』
「グルゥゥゥ」
うれしいけれど、私お父様のところに帰らないと。
周りの狼立ちの苛立ちの気持ちが伝わる。
『それは大変だ。だが、夜の森は我らとて危険が待ち受けている。お前にもしものことがあれば、お父様も悲しむのではないかね?』
「グルゥ……」
うん、そうかも。レシアお母様のときも、お父様悲しそうだった。今でも時々、遠くを見てるもの。ガストラも一緒に攫われちゃって……。
『……なら、今日はここで休みなさい。お父さんへはこの爺が必ず連絡を取ってあげよう』
「ぐるぅ?」
本当?
『爺は嘘などつくものかね』
「ぐるぅ!」
うん。じゃ今日はここでお休みするね。
『皆の者、東より新しき血がこの地に来た祝いぞ。今日は大いに狩り、大いに喰らえ!』
遠吠えの声とともに、おじいちゃんが宣言する。
びりびりと空気を揺らすその声に、思わず尻尾もびゅんびゅんだった。
◆◆◇
お話を聞かせてほしいというおじいちゃんのお願いで、私はおじいちゃんと陽だまりのぽかぽかしたところで寝そべっている。
ふわふわした草が気持ちいい。
『そうか、シンシアのお父様は強いのじゃな』
そうだよー、お父様おっきな蜘蛛だって鹿だって倒しちゃうんだからっ!
ミドとのことも話してしまった。秘密なのだけれど、二本足で走る方法を知りたいっていうのもおじいちゃんなら何か知ってそうだと思ったのだ。
『……のう、シンシアよ』
おじいちゃんの一つしかない目は優しく悲しそうだった。
「グルゥ?」
なぁに?
『……おぬしは賢い子じゃ。自分がお父さんと違うのは分かっておるんじゃないかね? だから二本足で走るすべなどと──』
「グルゥゥゥ!!」
──違うっ! 私はお父様の子供だっ!
聞いてはいけない。言わせてはいけない、というのがなんとなくわかった。
今は四足だって、いずれは二本足で立てるようになるんだっ!
私はお父様の子供で、レシア母様の子供だっ!
『シンシア……』
「グルゥガウゥゥゥ」
おじいちゃん、なんでそんなこと言うのさっ!
ほかの狼や、ミドはお父様のこと言うと何を言ってるんだって顔するけど、おじいちゃんは違ったじゃないかっ! それとも、おじいちゃんもそう思ってたの!?
『シンシア、違う。それは違う』
「グルゥゥウ」
違わないっ!
みんな、みんな私をお父様の子供と認めてくれないっ! 私が、四足で歩くのがいけないのなら、私は二つの足で歩いてみせる。もう誰の力も借りないっ!
私はお父様が大好きなんだっ!
お父様の子供じゃなきゃ嫌なんだっ!
なんで、なんでそれをっ!
胸の中がぐちゃぐちゃだ。尻尾もよくわからなくて、ぶんぶんだ。
『シンシア!』
「ウォォォンン!」
その声から逃げるように、私は走り出した。
訳も分からず叫び声をあげて、私は走った。
◆◆◇
しばらく走って、草と木の間をでたらめに走り抜ける。
シンシア、呼びかけられた名前が追ってくるようで、前脚が動かなくなるまで走り切って、大きな木の根元にたどり着く。
「グルゥ──」
違う。いつかは、お父様やお母様みたいに、二本足で立てるようになるんだ。
今はちょっとそれが遅れているだけなんだ。
木の幹に前脚をひっかけて、立ち上がる。
ほら、こうすれば二本足で私だって立てる。
このままちょっと練習すれば、私だって歩けるようになるさ。
よたよた、と三歩歩いて前脚をついてしまう。
もう一回。いつかきっとできる。
よたよた、と三歩歩いて前脚をついてしまう。
もう一回。
よたよた、と三歩歩いて前脚をついてしまう。
もう一回。いつかきっと……。
ぺたりと、後ろ足が疲れてしまって、座り込んでしまう。
──本当は。
本当は、わかっているんだ。
お父様とお母様は似ていないし、私とガストラだけが他の人たちとは違うんだって。
それは、それはきっと……。
その先を想像して、胸が苦しくなる。なんだか目の前がにじむ。
ぅぅ、おかしいな。おかしいな。
『何をしている。幼き牙』
重く渋い声の狼が、いつの間にかそこに立っていた。
「グルゥ」
二本足で歩く、練習。
ため息をつく目の前の狼が、座り込む。
『少し昔話をしてやろう。我らが長の話だ』
そんな話聞きたくないよぉ。
『いや、聞くべき義務がお前にはある』
睨んでくる目の前の狼の迫力はものすごかった。
『我らの長の名前を賢明なる大牙という。若く、強く、賢い狼だった。長老の一人息子にして、我が従弟。一族の期待を一身に集める次代の狼だった』
ここではないどこかを見る狼の視線は、優しい。
『当時、我らは飢えていた。いや、それは今も変わらぬが、その当時の飢饉は凄まじかった。何せ同族を食らってまでも生き延びねばならなかった程だ。原因は、わかっておらん。だが、事実我らは飢えていた。故に、一族の誰かが新たな住居を探さねばならなくなったのだ』
段々とその声に悲しみの色が混じってくる。この狼は悲しいのだろうか。
『ところで、我らには一つの伝説がある。遠く祖先より受け継がれた話だ。東に楽園あり。天敵のおらぬ豊穣の地。そこに住まうは牙をもたぬか、持っても小さな獲物ばかり…とな』
狼の口元が吊り上がる。
『では誰が、という段になり、名前が挙がったのが未だ若い長だ。若く強く賢い。我らの中で困難に立ち向かうには彼をおいて他にはなく、彼自身もその一族も皆賛成の上で送り出した』
遠くを見ていた視線が、私の上に戻ってくる。
『……だが彼は戻らなかった。幸運にも飢饉は去り、我らは危機を脱することができた。だが、それでも彼は戻らなかったのだ。そうして月日は流れ、目の前には東からやってきたお前がいる』
縋るような、愛おしむような難しい色をした瞳が私を射る。
『お前は知っているか。我らの長、賢明なる大牙の行方を』
「……ぐるぅ」
ごめん、知らないよ。
『そうだろう。もし生きているなら、幼子をみすみす己が敵の手の内になど留めておくものか!』
牙を剥きながら唸り声をあげる。
『お前の父が賢明なる大牙を殺したのだ! 許せぬ! 我が愛する従弟を、その妻を殺し、腹にいたお前たちを自らの子として育てるその欺瞞っ! 許しておけようものか!』
「グルゥぅ!」
違うよ! お父様はそんなことしない。お父様は優しいもん!
『違わぬ! お前の父がお前に優しいのは、お前を従順な家畜に落とそうとしての所業だ! 幼き牙よ。誇りを思い出せ』
厳しい声が一転、優しくなる。
『幼き牙、先ほどお前の遠吠えを聞いた。あれは、あの声は……間違いなく賢明なる大牙の血の成せるもの。我らの心を震わせ、我らを率いることのできるもの。お前がこそが群れを率いる次代の長だ。幼き牙よ。我らと共に来るのだ。お前が我らの先に立つのなら、我らは再びあの飢えることのない時代を迎えられるかもしれない』
「ウォゥン……」
わかんないよ。そんなのわかるわけないよ。
『今夜一晩じっくり考えるがいい。我らと共に来るなら、皆お前を歓迎する』
そう言うと、重くて渋い声の狼は立ち上がり背中を向けて去っていく。
「グゥゥウ」
なんだよ。勝手なことばっかり言って、私はお父様と一緒にいたいのに。
賢明なる大牙ってなにさ。
でも。
「ウォゥン」
賢明なる大牙。なんて懐かしい響きなんだろう。どこか安心するその名前。
私は、どうしたらいいんだろう。
シンシアいい子・゜(ノД`)゜・。