生まれいずる
ここは、どこだ?
目の前に広がる闇と、腹が軋みをあげる極度の空腹。
これは空腹というより、飢餓だった。
「ギギ──」
──腹、減った。
まともに言葉もでないのか、俺の喉から出たのは引きつった掠れた悲鳴みたいなものだった。
目を閉じる。
耐え切れない飢餓に襲われて、目を開いているのも億劫だった。
「──ガグルル!」
そう遠くない所で喧騒が聞こえる。
「──ギ?」
近づいてくる喧騒が、俺の前で止まる。鼻につく異臭と目の間に投げ出される肉のようなもの。
何の肉なのか、考えるまでもなく俺はそれにかぶり付いた。
──美味い!
──ふははは! 美味い!!
何の肉なのかは知らないが、肉がこれほど美味いものだったとは知らなかった。
かぶりつき、引き千切り、咀嚼する。
肉を骨ごとかじりつき、骨まで全く躊躇せず噛み砕く。
「ギギ──ギギギギ!」
気がつけば目の前の肉は俺の胃の中へ消えていた。
──もっとだ、もっとほしい!
足りないのだ、もっともっともっともっと! この体の中に渦巻く飢餓がもっと肉をほしがっている。
突如首の後ろを引っつかまれてすごい力で持ち上げられる。
「ギ?」
見上げれば大きな手が俺をつかんで、歩いていってるのだろう。風を感じる。
徐々に光が……視界に光が入ってくる。
とたんに俺は目を細めた。まぶしすぎる。これまで一生穴倉の中にいたのかのような、それは網膜を焼く光の洪水のようだった。
目を細め、ゆっくりと光にならしていけば。
「ギギ?」
──ああ?
そこは鬱蒼と茂る大森林だった。
そこで初めて、乱暴に揺れる視界に気がつく。
生まれてからこの方20年ぶりぐらいに、こんな運ばれ方をしているんじゃないだろうか。
いや、赤ん坊のときですら、もうちょっとまともな運び方をしてるはずだから人生初……?
いったい何者なのかと視線を転じたその先は、冗談としか思えない緑の巨躯が俺をぶらさげてあるいていた。
「ギ?」
いや、これはどう見ても。
人間じゃなかった。
いわゆるアレ。俺の知ってる知識の中では、ほかに言葉を知らないんだが。
「ギギ」
──ゴブリン。
そう表現するしかない。化け物の姿。
俺のつぶやいた声に、そのゴブリンは醜悪な顔と憎悪に歪んでいるとしか思えない視線を俺に向ける。
──やべえ、死ぬわ。俺。
にらまれただけで死を覚悟するほどの、視線。
だが、一瞥しただけで化け物はそのまま歩き続けた。
そうしてひょい、と俺を鬱蒼とした森を抜けた湖畔に投げ捨てた。今時珍しい綺麗な水がたゆたっていた。
「エサ。トレ。ダメナら、シネ」
片手には棍棒らしき凶器を背負い、俺を投げ捨てた化け物はそういってプイっと背を向けた。
餌取れ。だめなら死ね?
餌?
さっきの肉だろうか? しかしあれって、何の肉だったんだ。
不思議と化け物の言葉に、逆らう気も起きず、とりあえず水でも飲もうと湖へ向かう。
のめるよな?
水でも飲んでこの空腹を紛らわそう。
逃げ出そうか、しかし状況が掴めない。自分でも不思議なほどに落ち着きながら、水面をのぞきこんだ瞬間──俺は一切の思考が停止した。
「ギ?」
──あ?
水面に映る、醜悪な緑の化け物。
「ギギ?」
──あぁ?
俺が手をひねれば、水面のそいつも生意気に手をひねる。
俺が疑わしそうに、顔を触れば同じ動作を繰り返す。
そして水面に手を入れれば、揺れる水面とともにそいつは波に掻き消えた。
「ギギ? ギゥ」
化け物? 俺が?
そうして自分の手を見下ろす。
緑色の醜い、これが人の手だというなら、豚も犬も人の手をもっていることになる。
そうしてその手で、自分の顔を触り、水面を確かめる。
「ギギ」
──化け物だ。
作り物かと思ってつねったり、引っ張ったり、他に色々してみたが、これが偽者であるという確証をついに俺は得られなかった。
それどころか、俺は自分の手で体を触れば触るほど、これは自分の体であるという実感を抱かざるを得なかった。
「ググググ」
──クックックック。
「ギャーガッグググ!」
──アッハッハッハ。
笑うしかない。何の冗談だ? 誰か出てきて説明しろ。
俺はどうした?
何不自由なく育ったはずだ。
後数ヵ月後には就職も決まっていた。
なのに、なんだこれは?
化け物? なぜ? 夢か?
乾いた笑いに続いて沸いてきたのは、怒りだ。
なぜ、と。誰も答えてくれるはずのない怒りに、俺は水面から目を背けて、地面をたたきつける。
この地面の手触り、草の感触。
潰した羽虫の汁までも、この現実を俺に突きつける。
「ギグルア!!」
叫びたいのに、俺の喉からほとばしるのには、意味不明で言葉にすらなっていない不毛な音だ。
獣の叫びですらないこれは、あるいは、赤ん坊の泣き声と変わらない。
理性の叫びのすぐあとから、本能の叫びがあがる。
腹が減る。
さっき肉をむさぼったばかりなのに、何なんだこの飢餓感は?
目を背けながら湖に顔から浸かり、がぶ飲みの勢いでその水を飲む。
喉を鳴らし、腹が水でたぷんたぷんになるまで飲んだ俺は、湖から離れて地面に横たわる。
体を焼く日差しと、網膜を焼く太陽の日差しが忌々しい。
くっそ、馬鹿らしい。
寝るぞ俺は。
あまりにもまぶしい日差しに、木陰に入るとそのまままぶたを閉じる。
空腹に耐え切れない腹でも、湖の水は幾許か満たしてくれたようで、あっさりと俺は眠りに落ちた。
△▼△
目を覚ませば、そこはやはり木陰のまま周囲はすでに夜だった。
「ギ」
くそっ。
毒づいて瞼を開ける。
喉から漏れる声はやっぱり、意味不明の音で。
持ち上げてみた手は、当然のごとく緑の醜い手だ。所々瘤ができ、優美さなど全く感じさせない。
「ギ──?」
──おい?
ごろごろと転がり木陰の外に出て、空を見た途端俺は、ガツンと頭を殴られたような衝撃に襲われた。
天上に輝く満月。
俺の常識より遥かにでかく、そして二つあるソレは、俺が知らないものだった。
ふと、以前に読んだ小説の一端がよみがえる。
異世界。
だが、その物語じゃ、異世界にきた少年少女は特別な力があって勇者になって、ついでに魔王を倒してハッピーエンドで終わるという、ありふれたヤツだった。
内容すらまともに覚えてないようなものだったが。
酷似する状況に、俺は初めて冷や汗をかいた。
だが、人間ですらないのは、神様の悪意というヤツか?
馬鹿げている。
馬鹿げている……そうは思っても、俺は醜い化け物だ。
腹が減った。
思考を巡らしている間にも急激な飢餓感が俺に襲い掛かる。
意識せず、それは思考を麻痺させ、周囲を見渡す視線は次第に獲物を探すものへと変わっていくほどだった。
とりあえず、再び湖の水を飲む。
腹に溜まるほどソレを飲むと、俺は立ち上がった。
空腹を満たそう。
今の状況も、俺が元に戻れるかどうかも、とりあえずはどうでもいい。
肉が食いたい。
肉が。
──食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい!!
不思議なほど夜目が利く。
これも化け物になった利点だろうか。
周囲を見渡して、獲物を探す。
視界の端で、動く影を見つけて、俺は瞬時に駆け出した。
「グルアア!」
草むらで動く、ウサギだ。
こちらに気づいて逃げ出すソレを、驚くほどの跳躍で追い詰めると、一気に絞め殺して頭からかぶり付く。
牙を立てた毛皮から滴る血潮すらなめ取って、俺は一心不乱に獲物をむさぼった。
頭蓋骨すら噛み砕き、脳漿を啜る。
そうして飢えをわずかながら満たして、思い出す。
そういえば昔、虎になった男の話を読んだな、と。