始まりの鐘2/ シルフィーア・W・エドウィン
仄かな月明かりの下、二人の人間が向かい合っていた。
一人は燕尾服に似た服を纏う黒の美貌の女。
右手に流麗な細剣を持ち、緩やかな風の様に立っている。
一人は白の道衣と紺の野袴を穿いた青年。
右手に武骨な短刀を持ち、静かな巌の様に立っている。
対照的とも言える両者の間に流れる空気は殺気。
事実、場に満ちる張り詰めた緊張感は何時爆発してもおかしくはない。例えその充満した迸りの殆どを女一人が放っていたとしても、鍛錬に裏付けられた青年の気は起爆剤に成り得るモノを持っている。主導権を握る女は、青年の確かな存在感に唇を柔らかに歪めた。久しく無かった緊張感。詰まらないと思っていたがこんな楽しみが待っていたはね。
女の気が膨れ上がると同時、風が鳴き月が隠れた。
満ちた空気が破裂し、炸裂した様に女が走る。闇に紛れた強靭な疾走は常人には視認すら許すまい。だが、対するは巌。待ちに徹していた青年であれば捉えられない速度ではない。迫りくる女の細剣の刺突に鎧通しを合わせる。金属が擦れ合う音が丘に響き、そこからは絶え間ない剣戟が鳴り響いた。
猛烈な刺突の嵐が青年を襲い、その死を青年は必至に掻い潜る。
女の刺突は繊細ながら鋭い疾風の如く。一呼吸の間に十数の突きから繰り出される攻撃は点では無くもはや面とすら言えた。だが、それでも青年を殺すには遠い。閃く刺突を悉く見切り、気を浸透させた鎧通しは空間を引き裂く連突の全てを阻む。その卓越した防御技術は鉄壁の様ですらある。
まるで、マンゴーシュだな。
全長120cmに及ぶ細剣のリーチを活かし、間合いの外から攻撃を続ける女は思う。マンゴーシュとは、西洋における盾代わりに使う短剣の事だ。青年の持つ鎧通しは刃長28㎝全長が40㎝であり、その意匠こそ違えどマンゴーシュと思うのも無理はない。
事実、青年が使う「冨田六合流」は刀を盾として戦闘する事を旨とする流派だ。
あくまでも刀はサブで、拳足による攻撃こそをメインとする。小太刀では無く頑丈な鎧通しを用いるのはこの為だ。攻め気を誘い隙を撃つをコンセプトに持つ流派だけに、守りの技術は特化していた。
もし、青年が女と同じ間合いを持つ刀使いだったら、既に勝敗は決しているだろう。
守りよりも攻めに比重がある刀と青年の技量では、女の刺突を防ぎきる事は出来ない。短刀という守りに適した武器だからこそ、ここまで粘れる事が出来ている。
その堅固さ、その頑強さこそ、青年の武術の要だった。
「ギアを上げようか」
攻防の最中、女が不意に口を開く。
それは教師が生徒に勉強を教える様な優しさを含んでいた。だが、生徒たる青年は苦笑する余裕すらない。現在を膠着させるだけでも全力なのに、これ以上になったら間違いなく青年の防御は破綻する。それは死を意味していた。
刺突のスピードが上がる。
正しくギアを入れ替えた刺突はもはや疾風を超え電光の域。縦横無尽に煌めく白銀の光は、容易く黒鉄の壁を越えていく。青年の体に幾筋もの赤線が奔り、白の道衣は忽ち深紅に染まる。
しかし、それでも青年は倒れなかった。
閃光を弾く手腕、それを維持する体捌きは驚嘆に値するだろう。それでも、急所を守り致命傷だけを避け続けている青年はじわりと死の淵まで追い詰められている様に見える。いずれ青年の命は貫かれると、足掻きに過ぎないと思わせるそんな攻防。
だが違うと、青年の守りは足掻きでは無いと、女は確信していた。
眼の光が消えない、何よりも青年の技量が戦闘中に上がっている。何時の間にか女の刺突は再度壁に阻まれ、青年の体を傷つけるのは十に一つになっている。青年は意識していないだろうが、何と末恐ろしい天分か。
息を付かせぬ連突の中、青年は必死に決死に女を観察していた。
流派の基礎である「観応」相手の呼吸から体捌き、さらには気の運用までも読み取る見の技。女は凄かった。細剣を扱う戦闘技量も眼を見張るものがあるが、何よりも気の運用。
いくら「循気」で気を練磨しようとも、青年の考える気と、この世界に来て宿った気は似て非なる物だ。それを我流で鍛えていたのだから当然祖語がある。幸い全が違った訳ではなく気の基礎力だけは上がっていたが、それでも違和感はある。例えるなら、それは車の性能は上がっているがドライバーの技量が追い付けていない様なもの。その事実に狼は気付いていたが、違いを真に伝える術を持っていなかった。
そして今、青年の前に飛びっきりの教本が現れた。
眼を凝らせば女が教えてくれる。それは違う、ここはこうだ。そうだ、それでいい。丁寧とは言えない、優しいなんてもっての外。だが、女は確実に青年を指導していた。基礎という場に散乱していた欠片が、あるべき場所に納まっていく感覚。
幾合も幾合も矛を交え、ここに来て女は気付き始めた。
青年の急激な成長の根底を。決して優れた才能を持っては居まい。ましてや天賦という言葉で片付けていいものでは断じて無い。鍛え上げた、磨き抜いた基礎力。これこそが、青年の要であり芯なのだ。
ああ、と。女は恥じた。
青年の武を、才能という一言で片づけてしまった事に。それは一瞬の心の揺らぎ。戦闘中にあってはならない明確な隙だった。そして、千載一遇のチャンスを逃す程青年は甘くは無い。
ほんの僅かに鈍った剣先。
そっと鎧通しを合わせ、滑らせるように細剣を刀身に這わせる。シャリンと鈴の音が響くのと踏込は同時。細剣は鎧通しの鍔元に流れ、手首を捻って刀身と鍔で細剣を固めた。細剣と鎧通しは青年の右手側に逸れるが、拳はまだ遠い。
「しっ!」
左足が飛び立ち鋭く弧を描きなら女の頭部に迫る。
凶器と化した蹴りに女が笑うと、頭を後方にずらした。躱し足先が女の前髪を掠め飛び去って行くのと、細剣のロックが外れたのが同時なら、青年の体が独楽の様に回ったのもまた同じ
「らっ!」
軸となった右足を跳ね上げ体の回転に合せながら右足で胴回し蹴りを放つ。
一切淀みの無い連撃は流麗とすら言えた。だが、その視認すら困難な蹴撃ですら女には届かない。スウェーした状態から屈む事によって、女は青年の二連撃を回避した。
その反射神経とバランス感覚は驚嘆というしかない。だが、青年の二連撃を躱した女が尋常では無いというのなら、青年もまた異常だった。身動きとれぬ宙にあって仰向けになる様に倒れ込むと、地面に手を伸ばしそのまま逆立ち蹴りを放つ。脳のリミッターを外した渾身の一撃は、さながら砲弾の様に女の顔に向かって放たれた。
「やるねえ」
それでも、女には届かない。
青年の蹴撃は紙一重の所で外されると、そのまま女の後方へ飛んで行った。女の眼鏡が地面に落ちていく。その数秒に満たない間に勝負は決するに違いない。今や青年の体は完全に地を離れ女の刺突を待つばかり。いかに体勢が崩れていようと女の攻撃は必殺となって青年の体を貫くだろう。
女は細剣を構え直すと青年に向かって刺突を放つ。
しかし、その瞬間女の直感に閃くモノがあった。刺突への全エネルギーを回避運動に変換する。体勢が崩れる事など構っている場合では無かった。女は自分の直感という経験則に従って全力で体を傾ける。
「ちぃ!」
その直後、女の後頭部を掠めるように必死の弾丸が通った。
それは突き抜けた青年の蹴撃。終わった筈の蹴りは、膝を折り畳み、上体を起こす動作と連動する事によって、後頭部を狙う踵落としとなる。躱した直後に死角から襲う攻撃は、初見では躱せない必倒の一撃だった筈。だが、女は躱した。その危機察知能力はもはや予知に等しいだろう。
青年の背筋にぞわりと怖気が走る。
ああ、本当に何て怪物、何て化け物か。それは恐怖であり歓喜であり諦観だろう。気付かぬ内に青年の唇は弧を描いていた。
かしゃりと地面に眼鏡が落ちた。
勝負は未だ決せず眼前には青年が立つ。女ははっきりと笑みを浮かべていた。今の四連撃。刀で剣を固める技術も然ることながら、そこからの自然な連撃は瞠目に値する。
何よりも、戦闘が始まってからの一連の流れ。
一瞬の機を得る為の堅固な守り。綻びを逃さぬ瞬時の判断力。やると決めたら躊躇わぬ決断力。思考を忠実に実行できるだけの身体能力。地力で負けている相手にここまで徹底出来る者はそう居ない。稀と言ってもいい。青年に対する興味が、此処に来ていよいよ湧き上がる。女は隙の無いゆったりとした動作で眼鏡を拾うと、口を開いた。
「イズミと言ったね。君は何者だい?」
「理知的なお姉さんが好みな17歳です」
女の問いに間髪入れずに答えた。
我ながら惚れ惚れする程の即答っぷり。戦闘前じゃ間違いなくこんな軽口は叩けんかったな。あの重圧は戦闘が始まると不思議と無くなり、今じゃ何とか平常を保てていると思う。思いたい。
まあ、それはそれとして、女は俺の言葉に一瞬虚をつかれた表情をすると、直ぐに余裕のある微笑を宿した。やばい、ぐっと来た。言ってる場合じゃないけど。
「そうかい。因みに私の好みは前途ある若者だ」
しかも、乗って来たー!
「あれ?意外と俺達って相性良いんじゃないすか」
「前途ある若者と言っただろう、ここで死ぬ君には当て嵌まらないよ。なにより、私より弱い男では話にもならない」
「その言葉を聞いてさらにやる気が上がりました。一応、俺は完璧には諦めて居ないんでね」
「ふふ、理解しているのにそんな言葉を言えるとはね。あの子にも見る目があったという事かな」
女は言葉を弾ませながら目を細める。
それは観察する様な視線だった。やっぱり、ばれてるよな。こっちは既に疲労困憊。無理やり笑みを浮かべているが、通じる訳無いか。それでも、会話を止める訳にはいかない。
「あの子ってあいつの事ですよね。やっぱ教えてくれませんかね、気になって戦闘に集中出来ないんですよ」
「君には関係の無い事だからね。残念ながら教える事は出来ないよ。しかし、君が私の質問に答えてくれたら口が軽くなるかもしれないな」
「だから、俺の好みは理知的なお姉さんタイプですって」
「先にも言ったろう。弱い男に惹かれはしないと。私が聞きたいのは、よく知りもしない相手の為に死地に出向いた理由だよ」
むう、結構本気で言ってるんだがなあ。
ともかく、女の質問は前提条件からして間違っている。
「すみませんけど、俺は知りもしない奴の為に命は捨てれません。そこまで突き抜けた善人ではないので」
「だが君は今ここに居る。まさか本気で私が君を見逃すとは思っていないだろう」
「はは、そこまで楽観はしていませんよ。ただ、俺はあいつの過去を知りませんけど、あいつの事は多少は知っているつもりです」
「ほう、それは興味深いな」
そう。俺はヒメの事を知らない。
「あいつは、我が儘で意地っ張りで、人の飯を勝手に食う馬鹿野郎です。あいつと出会わなかったら、もっと楽に生きていけたと思います」
けど、出会ってから数か月ヒメとは色んな事をした。
それは食事を取りあったり、遊んだり、喧嘩したり、昼寝したり、一緒に夕焼けを見てみたりとか、本当に些細な事ばかりだ。確かに劇的な事は何もやっていないけど、俺はあいつを親友だと思っている。
「本当、苦労ばっかりで、嫌になった事もありますよ。でも、あいつと一緒にいれて良かったと、あいつと出会って、あいつを知れて本当に良かったと思っています。だから、貴女の質問には答えれません」
「なるほど。確かに私の質問は的を外しているようだね。では質問を変えよう。君は何故あの子の為に命を捨てれるんだい」
「ああ。それなら簡単だ」
俺はヒメに感謝している。
この世界に突然飛ばされ、独りだった俺に暖かさを取り戻してくれた。あまつさえ逃げようとした俺に、ありがとうと言ってくれた。あいつは、ヒメは俺の自慢の親友だ。だから、俺は命を捨てれる。これが二人の親友によって生かされた、俺の贖罪であり感謝への返答。
「あいつに生きていて欲しい。それだけっすよ」
青年の言葉に女は目を瞬かせた。それは、明かりを見て眩んだ様な表情だった。
「なるほど。イズミ、君の考えは実におもしろいよ。偽善と言ってもいい。あの子も随分と楽しい人間と出会ったものだ」
「褒め言葉として受け取りますよ。で、口は軽くなりましたか。こっちも恥ずかしいんですから」
「ふふ、判っているさ。君の答えは私の重しを取るには十分だったからね。まあ、あの子はあるべき所で、何も起こせない様に過ごすだけだよ」
「何すか、その微妙すぎる情報は。もちっと具体的に言ってくれもいいんじゃないすか」
「気にする事は無いだろう。どう足掻いても君はここで死ぬんだからね」
「そうかもしれませんね。けど、昔の偉い人が言ってましたよ。諦めたらそこで人生終了ですよって」
「なるほど。やはり君は諦めない人種の様だね。全く興味深い、試したくなったよ、君が何処に行くのかを」
「ってことは」
「私も全力を出そう。その末で死ぬんだね」
「………人生そんなに甘くないか」
嘆息し、気を練り上げる。
会話の内に循環させたおかげで傷はあらかた治っている。だが、その分気の総量が減っていた。女の動きに付いていくために無茶をしたせいだ。しかし、それでも望みを捨てるわけには行かない。死ぬのは仕方ないが、死にたくは無い。それが、青年の覚悟だった。
眼前には傷一つ負っていない美貌の女。
その出で立ちは青年との攻防の後でも変わってはいない。だが、その気配が膨れ上がる。この空間全てを塗潰す様な圧力は先程までとは一線を画していた。
女の体から淡い燐光が溢れ出す。
それは青年が気と呼んでいる魔力の奔流。基本的に魔力とは単体では、体内での浸透かそれからの伝達でしか効果は出ない。故に術理を介さないと発現しないのが常識である。
だが、魔力にはもう一つ通説がある。
それは、魔力に習熟すれば術理を用いることなく発現可能という事だ。これは使用者の強さを測るバロメーターとして用いられる。そして、女が発する魔力の強さは桁が違っていた。一流と呼ばれる者達の中でもさらに一握りの存在。
それが、女の立ち位置。
エメラルドグリーンの光を纏い、大気すら鳴動させる女はもはや次元が違った。勝てるという見込みを全て無くす、絶対的で圧倒的な強者の風格を漂わせ、女が口を開く。それは、先の青年の前口上に良く似ていた。
「ウィンドマスター。シルフィーア・W・エドウィン。参る」
そこからは、勝負にすらならなかった。
すみません。7話目にして突然タイトルを変更致しました。理由は伝奇よりも奇譚の方が語感が何かいいから!本当に勝手ですみません。もう、タイトルが変わる事は一切無いので、これからも「狼浪奇譚」をよろしくお願い致します。
ともかく、漸くバトル。展開が遅いぞー。
それで、主人公が今回使った攻撃は、無手で地上最強を目指す某圓明流の技そのままです。「旋」→「弧月・裏」ですね。一回書いてみたかった。反省はしてません。……した方がいいですね。