始まりの鐘1/ 五澄草麻
「An Chéad gan trácht ar」
背後からの突然の問い掛けに、まず感じたのは喜びよりも驚きであり警戒だった。
右手を鎧通しに添え声の方向に振り返る。そこに居たのは女だった。その女を形容するならば、美女というよりも美貌の女だろうか。猫の様な大きな瞳、それを強調する様な縁無しの眼鏡がより怜悧さを醸し出し、若干低めの声とすらりと伸びた手足がそれに拍車を掛けている。また、長いだろう黒髪を簪か何かでアップスタイルに纏め燕尾服に似た服を着た女は、ふとすれば楽団の指揮者にも見えた。
だが、いっそ寒々しい程の悪寒がこの女が只者では無いと教えていた。
事実、隣にいるヒメは女を見た瞬間から殺気を纏い女を威嚇している。これは、拙いか。激発しそうなヒメを宥める様に声を飛ばす。
「何か用ですか?」
女とは言語が違う事は承知しているが、それでも話す意思がある事だけは伝えなければいけない。だが、俺の舌は僅かながら震え、動揺を隠しきれてはいなかった。女は俺の言葉に眉を動かすと、言語の違う言葉を口にした。
「Cumarsáid tiúnadh」
ざざ、と一瞬脳にノイズが走る。
それは、先に聞いた言葉よりも力が有る様に思えた。女は俺を指さすと喋りを促す様なジェスチャーをする。どっちにしろ、言うとおりにするしかないか。
「何か用ですか?」
先と同様の言葉を口にする。
それに女は一瞬訝しむと、もう一度同じジェスチャーをした。まじで何がしたいんだ。
「何か用ですか」
三度目だ。
女は口に手を当てると、両手を合わせ左右に広げる仕草をした。よく判らんがもっと長く喋れという事か。ちくしょう、主導権は完全にあっちだな。
「俺とヒメに何か用ですか?もし、何もない様でしたら、俺達は立ち去ります」
仕方ないので、こっちもボディーランゲージも含め何とか会話しようとする。俺の滑稽な仕草を見てだろう、女は唇の端を持ち上げると微笑した。
「Mo focal判るかい」
不思議と女の言葉の後半部分だけは理解出来た。
「少しは」
「問題無い様だね。君には疎通の魔術が掛り辛かったので多少時間が掛った。抗体力が強いんで驚いたよ」
女はやれやれと言った風だが、それはこっちのセリフだ。
魔術、魔法。ヒメにはあると聞いていたが、実際聞くのと体験するのでは意味合いが全然違う。おそらく、他人に干渉する魔法を使ったのだろうが、何時だ。
………女の二言目か?
あの力があった様な言葉が、いわゆる魔法の呪文だったのか。マジで未知すぎる。というか、気付かない内に干渉ってどんだけだよ。まあ、いいや。言葉という障害が取り払えたのは僥倖だしな。
「そうですか。それで改めて俺達に何か用ですかね。こう見えて暇じゃ無いんで、何も無ければお暇したいんですが」
「ああ、そうだったね。何、話は簡単だよ。君の隣に居る狼を引き渡して欲しいんだ」
予想通りか。
ヒメの反応を見る限り女とは知己っぽいしな。問題はどう見てもヒメとは友好的では無いってことか。未だにぐるぐると喉を鳴らしてるしな。
「何かこいつは嫌がってますけど。だいだい、引き取ってこいつをどうするんですか?」
「さてね。そこから先は君には関係の無い話だ」
女は言葉を区切ると、ゆっくりと人差し指を立てた。
その余裕を感じさせる動作は優しさにも見て取れる。だが、ルージュを引いた赤い唇。そこには深淵の仄暗さが宿っていた。
「ここで君が取れる道は二つ。一つは狼を大人しく渡して無事にすむ道」
続いて中指を立てる。
いよいよ、最終警告か。押し潰すようなプレッシャーが全身に掛り、心臓が喚いていた。
「もう一つは、狼を庇って死ぬ道」
女は手を閉じると、抱きしめる様に指揮棒を振る様に両腕を広げた。
「さて、君はどっちを選ぶんだい?」
三日月に嗤った女は正しく死神だった。
女の体から悪魔的な負の圧力が放たれる。今までの問答など、女にとって暇つぶしに過ぎない。圧倒的で絶対的な鬼気を纏う女はもはや人の域を超えていた。
全身の毛穴が一斉に開き冷や汗が噴き出す。
口内すら一瞬に干乾ぶと、喉の奥から嗚咽がにじり上がる。膝は震えもはや用を成さず、ただ無様な振動を体に伝えるだけだ。無理だ。勝てない。余りにも隔絶した力の差にもはや笑うしかない。
口を歪に曲げならヒメを見た。
金色の瞳と視線が交錯し、金の宝玉に男の顔が映る。その表情は絶望を通り越し諦観していた。口を引きつらせ、哀れみに溢れた顔は無様と言う他ない。それを見て、俺は他人を弁護するかの如く口を開こうとした。
仕方ないと。
続いて言葉が濁流の様に流れるのだ。死にたくないから、俺とこいつは無関係だから、魔法なんて知らないし、突然異世界に飛ばされた可哀そうな奴だし、ただの高校生に何やらせようとしてんの、だからさ、しょうがないじゃん。と。
それはきっと一度口に出したら後戻りは出来ない魔の言葉。
それを判っていながら、俺の口は勝手に開いていく。卑怯にも目を逸らしながら。だが、口は空かなかった。開く前にヒメが背を向け歩き出していたから。
俺に一言、ありがとうの鳴き声を残して。
凛然としたヒメを見ながら、俺は背を向けた。
唇を噛みながら、仕方ないと言い訳しながら、また、俺は背を向けたのだ。
星明りすら雲に隠され視界は全て闇の中、見慣れた崖の淵は地獄への入り口か。一歩進めば何かを捨てる代わりに簡単に楽になれる。たった、一歩で俺は堕ちれる。それは、きっと生温い幸せを享受出来るに違いない。そう、仕方ないんだ。
その一歩を踏み出す瞬間、風が吹いた。
闇の中に明るさが灯る。つられ、上を見ると月が一つ浮かんでいた。それは双月の内の片割れ、白い暖かな輝きを纏う月だった。満月から零れる様な光に誘われ、ぽつりと言葉が出た。
「シロ」
俺の初めての友達で、俺の命の救ってくれた大切な存在。
純白の体毛を持つだけの普通の犬。あの時も俺は後ろを向いて逃げ出した。大切なモノを捨て去って。代わりに手に入ったのは、自分への諦観。それだけだ。今回逃げたらどうなる。俺は間違いなくあいつに顔向け出来ない。思い出す事すらしてはいけない。あれから今まで歩んできた自分を殺さねばならない。
結局、どっちに行っても俺は殺されるのか。
だったら、あいつの為に命を懸けてもいいのかもしれない。シロが俺なんかを助けてくれた様に、今度は俺の番だろう。
地獄の淵から呼ぶ声を無視し振り返る。
眼前には死神。その一挙一動が俺の心を縛り付ける。だけど、そんな化物にヒメは迷うことなく威風堂々と歩いていく。ああ、もう。
「仕方ない、な」
言って、肚が決まった。
死ぬのは怖い。けど、全てを捨てて生きる方が怖い。だから、本当にしょうがないんだ。膝は震え、呼吸もまばらだけど、まだ間に合う。だったら走らないと。ありがとうと言ってくれたあいつの為に、今まで歩いてきた道が、誇れるモノだと笑える様に。
ほう、と女は感嘆に似た言葉を零した。
人間が絶望の間際から戻って来たのが見えたからだ。常人なら失神する程の魔術によるプレッシャーを浴びながら意識を保っているだけでも驚きだが、一度は折れた筈の心を再建させるとは。
素晴らしいと、女は口を歪めた。
先天的な強さでは無く後天的に会得したであろう力は、何時だって女の心を揺さぶる。闇夜に純白の月を背負う青年の姿は先程までとは段違いだ。
笑い、圧力を高める。
それに青年は一瞬怯んだ表情を見せたが、瞳の光は消さなかった。ただ、体は震え恐怖を感じている事は判る。だが、それでも青年の体に巡る魔力は充実していた。その四肢とは裏腹に揺らぎすらない魔力の迸りは基礎力の高さを示していた。女の心情に色が付く。それは、期待感に似ていた。
女の変化に気付いたのだろう。
狼は歩みを止めた。訝しみ警戒を高めたその瞬間、背後から抱きしめられた。この気配を狼は知っている。何時の間にか一緒に居る事が当たり前になっていた、名前すらしらない青年のものだ。その匂いに胸が高鳴り、相反する感情が湧き上がる。ぐると鳴いた声は、人語にするなら馬鹿者と言っていた。
その狼の言葉に重なるように、青年の声が狼の耳朶を打つ。
普段なら判らなかったであろう言葉は、女の魔術により狼にも理解出来た。出来てしまった。憤然とした怒りが湧き上がり、女の事すら忘れ青年に吼えようと口を開く。だが、その前に浮遊感が狼を襲い、そのまま狼は強制的に退場させられた。他ならぬ青年の手によって。
「エイシャこらー!!」
秘技、投げっ放しジャーマンスープレックス。
手っ取り早くヒメを安全圏に逃がす為にはこれしかないだろう。あいつ、頑固だからな。逆さまになった視線の先には綺麗な放物線を描き、遥か彼方に飛んで行く一匹の狼。自分でやっておきながら、驚く程の飛距離である。つくづく遠い処に来たもんだ。まあ、いいや。勢いをそのままに後転し立ち上がる。正常に戻った視線を女にやると、何故か爆笑していた。
「ふふ、はははっ!いいね。いいよ。君はおもしろい。実におもしろいよ」
「……褒めてんすか?」
「ああ、褒め言葉さ。自慢していい。私がここまで笑ったのは随分と久しぶりだ」
「そりゃあ光栄ですね。でしたら、このまま見逃してくれるとさらに嬉しいんですけどね」
「何を言ってるんだい。おもしろいのは、ここからだろう」
女はにやりと笑うと、無手だった右手にレイピアの様な細い剣を持つ。
鞘から抜いた訳ではなく、剣は空間に浮かび上がる様に出現していた。おそらく魔法で剣を取り出したのだろう。流石はファンタジー。右手で普通に鎧通しを抜く俺とは一味違うぜ。しかも、向こは剣を出した事でさらに圧迫感が増した様だ。
明確な死が背中を舐める。
ふう、本当仕方ねえな。シロもこんな気持ちだったのかねえ。絶対敵わない相手に殺し合いを挑む。それは単なる自殺行為だ。けれど、何でかな後悔はあまり無い。反省すべきところ一杯あるんだがなあ。心臓は史上最高速を叩き出し、爆発するのを待っている。
ならば、行くしかないか。
鎧通しを持った右手を前に出し、左手は胸元に置き右半身になる。膝を軽く曲げ、足はべた足。呼吸は浅く深くゆっくりと。
さあ、いくか。
「冨田六合流、五澄草麻。推して参る」
言ってみたかったんだな、これ。