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狼浪奇譚  作者: ただ
46/47

異界2 / おかえり

「ごめんね、草君。急に抱きついたりしちゃって。でも、本当に草君が無事で良かった」


涙に掠れた声で、和服に身を包んだ麗人は和やかに言った。

息子の様な青年の突然の帰還に驚愕し取り乱してしまったが、それでも青年の確かな感触がありがたかった。


けれど、嬉しさに彩られた彼女の声色とは対照的に、青年は彼女の視線から逃れるように顔を逸らした。


「いえ」


呟かれた言葉はまるで他人事の様な冷たさがある。

彼女は青年の気配や仕草に異変を感じるが、青年が唐突に姿を消してから半年近く、何か辛い事があったのだろうと直ぐに聞くことはしなかった。


「先ずはゆっくりしましょうか。お茶をいれるわね」


暖かに微笑み、彼女は青年の手を取って家に戻る。

半年前よりも無骨になった掌の感触が、此処までの期間の厳しさを表しているように思えた。


彼女は縁側で汚れた足袋を脱いで、青年は安全靴に似た靴を脱いだ。

手を繋いだまま廊下を歩き台所と隣接した居間に通す。そこまで無言だった青年に、彼女は優しく座っててと言うと台所にお茶を入れに行った。


青年は珍しい物を見るように周囲を観察しながら、リュックを畳におろして自身は座布団に座る。壁に掛けられた日めくりカレンダーを見ると、自分が体感した時間との誤差がある事が判った。だからといって、何か解決策が見つかる筈もない。


とりあえずと、自身の肉体を含め青年は現状把握に努めた。

傍目から見るとぼうとしている青年は何一つ喋らなかった。彼女も言いたいこと聞きたいことは山程あったが、夫が帰ってからで良かったし、買い物に出かけている夫に携帯電話で連絡することが先決だった。


十分程経つと、彼女は盆にお茶と和菓子を乗せて来た。

青年の対面に座りお茶を渡す。そこで、彼女ははっとした様に口を開いた。


「あっ!草君、お父さんやお母さんとは会ったのよね!?暁良あきら 君もすっごい心配してたからね、間違いなく喜ぶわ。それに勿論あの人もね」


青年は彼女の質問に面を食らった様に黙り込んだ。

その様子に彼女はまた驚いたように聞いた。


「まさか、草君。まだ会ってないの?もし、連絡出来なかったなら直ぐに電話して差し上げて。本当に心配していられるから」


青年は彼女の言葉に顔を俯かせると、低い声で言った。


「あの、親にはまだ連絡しないで頂けますか。本当にすみません」


「草君!駄目よ!親御さん達がどれだけ心配してると思ってるの。草君が突然いなくなってから、皆が悲しんだんだからね。なんだったら、私から連絡してもいいわ」


「すみません。お願いします」


「草君!!」


「すみません」


顔を伏せたまま、青年は懇願するように言った。

机に手を付き、身を乗り出していた彼女はゆっくりと戻る。


目の前にいる青年の初めて見る姿に、正直別人ではないかとあらぬ思いまで抱いてしまった。それ程に今の消沈した姿は変貌していたのだ。彼女はそんな自分の思いを強く恥じながらも、優しく包むように言った。


「わかったわ。親御さんには連絡しない。ゆっくり、この家で過ごしてくれていいわ。草君の好きな時に話してくれれば良い。それまで落ち着いて此処に居てね」


「………ありがとうございます」


顔を上げ、はにかむ様な青年の笑みに、彼女はやっぱり草君だと思った。

夫が練習と称し青年を苛め抜いた時でも、彼は同じ様にぎこちなく笑いながら大丈夫ですと言っていた。


不意に彼女の涙腺はまた緩くなった。

つと自然と涙が出てきて彼女は慌てて涙を拭った。


「ごめんね、草君。本当、年を取ると涙腺が弱くなってね。本当、草君が帰って来て良かった」


彼女の流す涙を理解して、青年は微笑みを消した。

その変化にも彼女は何一つ追求することなく、朗らかに笑うとぽんと手を打った。


「草君。今日、何か食べたい物ある。草君が帰って来たお祝いに奮発しちゃうわよ」


「………それなら、ご飯と味噌汁が食べたいです」


「草君、遠慮はいらないわ。お寿司だっていいんだからね」


「いえ、ご飯と味噌汁でお願いします」


青年の頑固さに彼女は苦笑した。


「わかったわ。うんと美味しい味噌汁作ってあげるわ」

「ありがとうございます」

「ふふ。そういえば、そろそろ静流さんも戻ってくるわね」


彼女がそう口にした時には、青年は玄関のある方向に視線を向けていた。

ぽつりと口の中だけで、来たかと青年は呟くと一度目を瞑った。影法師との再会が身に迫っていた。だだと荒い足音が響き、襖が勢いよく開けられた。


「草麻!!」


空いた襖の先には屈強な男が立っていた。

ジーパンにシャツという簡素な出で立ちだが、袖口から覗く筋張った腕や、盛り上がった大胸筋。顔の形こそ似てないが、短髪に切り揃えられ日焼けした肌はディートリヒを連想させた。


狂戦士同様、はち切れんばかりの巨大なエネルギーを内包している様な男だった。男は草麻と呼ばれた青年に視線を向けると、大声で怒鳴った。


「このバカ弟子が!!」


どすどすと大股で近づくと、ソウマに拳を振るう。

ソウマは反射的に膝立になると迫る拳をあえて受けた。だが、余りの速度と重さに驚き咄嗟にいなしたので、おおげさにソウマは吹き飛んだ。さらに、男がソウマに次撃を放とうとする瞬間、貫くような高い声が響いた。


「静流さん!!」


彼女の声に、静流と呼ばれた男は拳をぴたっと止めた。

静流はばつ悪そうに頬をかくと、どかりと巴の隣に座る。ソウマも何事もなかった様に元の座席、静流夫妻の対面に座りなおした。


「いや、な、巴。これは師匠と弟子とのコミュニケーションだ」


「静流さん。練習中ならまだしも、居間での乱暴は禁止しています。何度言ったら判るのですか。お酒、抜きますからね」


「巴、卑怯だぞ」


「規則を破る人に言われる筋合いはありません。草君も静流さんが、バカで何時もごめんなさいね」


「いえ、大丈夫です」


ソウマは彼女、巴に視線を戻すといった。

巴はころころと丸い笑みを浮かべながら、言う。


「それにしても、草君も強くなったのね。静流さんの本気の一撃で気絶しないなんて驚いたわ」


静流も巴の言葉に追従した。


「だな。おい、草麻。お前この半年何してた?」


静流はソウマの目をじっと見ながら言う。

巴は夫の急な追求に攻める様な視線を向けるが、静流は全く気にせずに、もう一度言った。


「草麻。何してたんだ」


穏やかな言葉ではあったが、底冷えするような静けさがある。

我が子同然として育て、唯一無二の後継者である草麻の身勝手さに、静流は本気で怒っていた。同時に悲しんでいた。そして、当然だが心配もしていた。


ソウマは静流の瞳の色からそこまで読み取ると、目を閉じた。

意識を切り替える時にやる癖だった。


「少しだけ確認したい事があるんで、待って貰っていいですか」


静流はソウマの敬語に訝しむが、彼の言葉の真剣さにうなずいた。


「早くしろ」

「ありがとうございます」


ソウマは礼を言うと、後ろ腰に差してある風薙ぎを抜いた。

静流と巴は何も言わずにソウマの動作を見つめている。部屋に掛けられた時計の音が響く中、ソウマは風薙ぎの目釘を指で引き抜くと柄から刀身を抜いた。


茎には、一つの図が刻んであった。

この場ではソウマしか判らない、斜めを向いたSの字に重なる様にWという字はすなわちシルフィーア・W・エドウィンの紋章である。


ソウマは大きく深呼吸をすると刀身をそのまま机に置いた。身住まいを正し、静流と巴の目を見据える。ソウマは重々しく口を開いた。


「俺は、地球ではない世界に飛ばされていました」


居間に沈黙がおりる。

ソウマの言葉に、静流は一瞬怪訝な顔をすると、激発した。


「おい、草麻。あまりふざけるなよ。俺達は本気でお前の安否を心配した。巴はずっと泣いていたんだ。おい、草麻。もう一度言ってみろ」


片肘を机に乗せ、静流はソウマを強く睨んだ。

きつく握った拳は小刻みに震え、平静を保つのがやっとだというのが嫌でも判る。隣に座る巴もその美貌を悲壮に染めていた。


ソウマは左手を机に広げ、無言で風薙ぎを取ると、静流の目でさえ追うのがやっとの速度で左手に風薙ぎを突き立てた。


「草麻!!」

「草君!!」


二人の悲鳴が響くなか、ソウマは平然とした顔で風薙ぎを左手から抜いた。対面に座る両者に見せつける様に左手を向ける。静流と巴は信じられないものを見る目で、ソウマの左手を凝視した。


手の平から甲に向けて空いた穴からソウマの顔が見える。

縦長の穴からは鮮血が溢れ重症なのは間違いない。だが、それも一時のことだった。見る見るうちに出血の勢いは衰え、おそろしいことに貫通した傷でさえ塞がっていくのだ。


これは、まるで魔法ではないか。

巴は凄惨な出来事に口に手を当ており、静流は眉間に皺を寄せながらソウマを睨んでいた。


「俺は、違う世界で生きてました。そこは、魔法があって恐竜の様な生物も住んで、巨大な狼や虎が人になるような、そんな嘘みたいな世界です」


淡々とソウマは説明していく。

その話す途中にも、白い道衣の袖で机に落ちた血を拭い、さらにその赤い汚れすら無くしている。顔面を見ると先に殴られ腫れて当然の傷も無い。静流も巴も何もいわずにソウマの言葉を聞くことしか出来なかった。


「本当に突然でした。ゴールデンウイークが迫ったあの日、俺は何時も通りこの道場に来て桜の木の下で寝ていました。そして、起きたらそこはもう森でした。そこから十ヵ月。色んな人達と出会い、とある迷宮に挑んでいたら、また突然桜の木の下に居たんです」


「草麻。悪い、お前の言ってる事が上手く整理できない。さっき見た光景でさえ、俺はなんかのトリックじゃねえかと思ってる。すまん」


「いえ、当然だと思います。俺だって全てが突然すぎてあの世界の事が夢だったんじゃないかって、今でさえ夢じゃないかって思ってる位です。でも、違いました」


ソウマはリュック型の収納魔具を机ごしに静流に渡した。


「中、見て貰ってもいいですか?」


静流はリュックの口を開ける中を見る。

そこには、またしても信じられない光景があった。明らかに外からみるリュックに入る容量を超える荷物が入っていた。巴も脇から覗いて絶句している。


「そのリュックは収納魔具っていいます。詳細は判りませんが、魔具の中の空間を歪曲させて固定させているそうです。後は、そうですね。俺は魔法が使えます」


「魔法だと」


「はい。とはいっても、俺は未熟ですし地球の魔力濃度だと直ぐに出せるのはライターの火くらいですけどね」


ソウマは言うと、一言呟いた。


「サイクル・F」


ソウマの呪文に呼応して、人差し指から本当にライター程の小さな火が起こる。日常的に見ている小さな火を、驚愕の目で静流達は見る事しか出来ない。


火を起こす。

道具さえあれば小学生でも出来る現象だが身一つで出来る人間など彼らは知らない。それこそ、空想の世界の出来事である。静流は深く呼吸をした。循気を使い混乱する思考を理性で抑えつけ、言った。


「草麻、そこで何があった?」

「親友と出会いました」


端的な一言。

静流はそれで納得したように溜息をついた。


こちこちと、秒針の音がいくら響いた後、静流はおもむろに口を開いた。


「そうか。まあいい。………おかえり、草麻」


そのぶっきらぼうな言葉に巴は内心苦笑して、こちらは穏やかに言った。


「おかえりなさい。草君」


あ、とソウマはあまりの不意打ちに唇を強く噛んだ。

目の前の優しい二人を見て、どうしようもなく切なくなった。ソウマは循気を使い、はにかみの笑みをぎこちなく作ると、やっと言った。


「ただいま」


その言葉の重みにソウマは打ちひしがれた。



やがて、静流は乱暴に頭をかくと巴に言った。


「巴、酒だ。草麻がこうして無事に帰って来たんだ。ちっとばっかし早いが飯にしてもいいだろう」


「あ、はい。そうですね。草君、直ぐに凄く美味しいお味噌汁作るから少し待っててね」


巴は直ぐに立ち上がると、台所に向かっていった。

ソウマは風薙ぎを柄に収めると鞘に戻す。その一連の動作を静流は黙って見ていた。


「銘、つけたのか?」


「はい。俺が今まで生きてこれたのは、風薙ぎのおかげですよ」


「そうか。あの爺さんも喜ぶだろうさ。それよりだ、お前いい加減、敬語やめねえか。何があったかは知らねえが、お前に敬語で話されると背筋が寒くなる」


「草君。静流さんの言うこと、聞いてあげて。寂しがっているだけだから」


「うるせえぞ、巴!」


ソウマは一度頭をかくと、苦笑した。


「………仕方ねえな。師匠の言うことじゃ従うしかねえよな」


「ちっ、言っとけよ」


「それでさ、さっき巴さんには言ったんだけど、親にはまだ帰ってきたのを秘密にしてくれないか」


「あん?」


静流が不穏な顔をしたところで、巴が徳利と猪口を持ってきた。

それを二人に渡すと静流に言う。


「私は草君と約束したから言っちゃだめですよ」

「わかったよ」


憮然と静流は言った。

くすりと巴は笑うとまた台所に戻っていった。静流は手酌で自分の猪口に冷酒を注ぐと、ソウマの分も勝手に注いだ。猪口を手に持ち、こつんと杯を当てた。共に一息で飲み終わると、今度はソウマが静流の猪口に冷酒を注いだ。


「この半年、何かあったか?」


ソウマの恍けた問いに、静流は口先を荒げた。


「あったあった。お前がいきなり消えたせいで警察の取り調べを受けるは、暁良が有名なせいでワイドショーにも乗ったぜ。天才の弟の突然の失踪。太陽の傲慢かってな」


「はー、相変わらず日本は平和そのものだな。うん、安心した。それで、兄貴の調子はどうよ?」


「良いんじゃねえのか。ライジングサン、ライジングサンて、サッカーのニュースを相変わらず騒がしてるぞ。後、お前の行方をTV通して探してたよ」


「そうか。でも、流石は兄貴。それで、静流は?」


「俺か、何時も通りだよ」


「草君がいなくなってから、放浪と引き籠り具合が酷かったわよー」


「うるせえぞ、巴!」


喧々淡々。

表面上は穏やかに、楽しい会話はやむことはなかった。ソウマからも異世界の事をおもしろ可笑しく聞き、日本の半年間であったことを互いにとめどなく話した。


笑みは尽きず、酒も進んだ。

静流邸で久方ぶりの暖かで騒がしい食事となった。けれど、その喧噪の中でも静流と巴はソウマの変化を如実に感じ取っていた。


そして、その変化の核心を聞くことは出来なかった。

聞けば、また草麻が居なくなってしまう。そんな嫌な予感がどうしても胸中から拭えなかったのだ。


その日は巴の提案で三人一緒に川の字になって寝た。

並べた三つの布団の真ん中にソウマが両隣に静流と巴が。取りとめのない会話をぽつりぽつりと交えながら、最初に巴の寝息がおこり次いで静流。ソウマは目だけを閉じて、一睡もすることは出来なかった。



ソウマが戻って来てから、早くも五日が経っていた。

その間、ソウマは一歩も静流邸から出ていない。近所にはソウマの顔を知る人間も多く、もし見つかったなら記者が押し掛けてくる事は間違いない。後は単純にソウマが外に出ようと思わなかったからだ。


この間、ソウマが何をしていたかというと、巴の付き合いと、何時も通りの筋肉トレーニングに加え、師である静流との組手である。


今も静流邸にある道場で、ソウマと静流は向かい合っていた。

その脇で巴は正座して観戦している。


「しっかし、お前の肉体は反則だな」


静流がソウマの右脚に鋭いローキックを放った後に言った台詞である。

ソウマの太腿にぶち当てた足の甲は僅かではあるが腫れ上がっている。分厚いタイヤを蹴ったというよりも、密度が高い岩を蹴った様な衝撃があった。


「今の俺の筋力を簡単にいなすオヤジには言われたくねえよ」

「師匠を舐めるなってとこだな」


言って、静流がにやっと笑う。

その直後、草麻の右脇腹に貫く様な打撃が奔った。肝臓から脳に向かって信号が疾走するのと同時に、今度はソウマの左側頭部が弾ける。


ぐらりと右に倒れようとする肉体を抑えると、ソウマは流れる重心を使い左足を強烈に薙いだ。


ぶんと、回し蹴りによる旋風が巻き起こるが、すでに静流は範囲外。

瞬く間も無く静流は踏み込むと、ソウマの急所目がけて拳足をぶち込んでいく。ソウマの防御の網目を縫うように、的確に静流の攻撃はソウマを穿ち続ける。


目線によるフェイント、体裁きによる虚報、呼吸による間。

虚実が交錯し、それでいながら打撃は只管に愚直。数十年間鍛造し続け、何千何万何億と繰り返した基礎修練による、意識を必要としない無意識打撃。


冨田六合流、高槻静流。

戦鬼と呼ばれた化け物である。


だが、その百戦錬磨の鬼でさえ眼前の青年の変貌には目を剥いていた。その常識外の肉体強度は無論ある。修練を絶やさなかったであろう技術の向上もある。


けれど、そんな些細な問題では決してない。

もっと根源的なものが変質している。じとりと静流の体に戦闘の高揚ではない、冷たい汗が流れた。


静流は拳をソウマの心臓に打ち込み、そのまま襟を握ると、足を払った。ソウマの身体が一瞬宙に舞い、道場に叩き付けられる。


どんという音が響き、静流は体を自然とソウマの脇に寄せた。

ソウマの右腕を掴み自身の股間に挟むようにする。いわゆる、柔道における腕拉ぎ十字固めの形だ。


そして、いざ上体を倒し極めに移行する瞬間、静流の背筋が凍った。ばっとソウマの腕を離すと瞬時に立ち上がる。ぜっと喘ぐ様な呼気を漏らすと、静流は唇を歪めた。


「草麻、おめえ、巴が居る前でなんつう気を出すんだ。このバカ野郎」


「あのなあ、こんだけぼこぼこにした奴がそんな事いうか。つうか、俺はそんな物騒なものは出してねえよ。ねえ、巴さん」


ソウマは立ち上がると、殴られた個所を撫でながら巴に視線をやった。

巴ははっとすると、取り繕うように言葉を出した。


「え、ええ。本当にそうね。静流さん、いくら草君の身体が丈夫になったからって、やりすぎです」


「おいおい、この馬鹿力野郎に付き合ってんだから、仕方ねえだろ」


「仕方なくありません。さて、そんなことより次は私の時間ですね。草君行きましょう」


「はいはい」


嬉しげに軽い言葉を弾ませながら、ソウマは巴の後を追った。

道場には静流一人だけが残る。静流の両の拳は痛い位に握りしめられ、唇さえまくれ上がると、その間から獰猛な犬歯が覗いていた。


「俺を情欲させるとはなあ。あの坊主が育ったもんだ」


呟き、静流は一度深く息を吐いた。

先の組手ではっきりと感じた悪寒。これ以上踏み込んではいけないという、危険領域を弟子は身に着けて帰って来た。静流は一度だけ溜息をつくと、道場をゆっくりと出た。その足取りは、重い様にも浮かれている様にも見えた。



音が鳴っている。

それは静流邸の一室からこぼれていた。普段はあまり聞きなれない独得の音域。引き伸ばされた余韻を楽しむように、二つの音が重なっていく。時に弾き、時に押さえ、奏でられる音楽は弦楽器特有のものだろう。


やがて、二人の息すら合致すると静かに音が空気に溶けてった。

三味線と箏による二重奏曲である。


「ふう、草君も大分感覚が戻ってきたみたいね」


箏の奏者である巴がソウマを見た。

伴奏者であるソウマは、一度三味線の撥を置くと、照れる様に頭をかいた。


「そうですか?何せ十ヵ月近くもブランクがあるから、今もどきどきですよ」


「それは仕方ないわね。前は毎日の様に弾いていたんだから、手に馴染むまでもう少しかかるかもしれないわ」


「そうでよね」


「ふふ、それじゃ、もう一回いきましょうか」


「了解です」


ソウマは撥を手にすると、一度だけ眼前に置かれた楽譜に目をやった。

キンという音が爪で弾かれ、それに続くようにソウマも撥で弦を弾く。あとは十年近くもやった経験に身を任せるだけである。


箏を演奏する巴は、以前和楽器、特に弦楽器について教えていた人物である。そんな女性に淡い恋心を抱いていた少年が、和楽器に興味を持ち師事することはおかしな事ではあるまい。


武術の師である静流にしても、繊細な指使いと身体に拍子を憶えさせるということでむしろ支持していたきらいがある。


そんな事をすっかり忘れていたソウマではあるが、幸いというか演奏する為の知識と技術は残っていた。しかし、習った切っ掛けと継続した理由こそ予想がつくが、当然それに伴う感情は欠落したままだ。


空っぽになった弾き手に一体何の価値があるのか。

ソウマの演奏には微かな空しさが含まれ、巴は敏感にそれを察知していた。けれど、その機微が一時であると、此処に居るという想いを込め、巴は奏で続けた。



「ねえ、静流さん」


静まり返った寝室に巴の声が響いた。

時刻は既に深夜の一時を回っている。隣には静流が寝ており、既にソウマは嘗て使っていた自室で寝ている。静流は若干低い声で応えた。


「なんだ?」

「草君の事、気付いてますか?」

「当たり前だ。あいつの記憶だろ」

「はい」


この五日間、拭えない違和感と会話から静流と巴はソウマの異変に気付いていた。そして、それを直接に口に出したのは今回が初めての事だった。ややあり、静流が言った。


「巴はどう思ってるんだ?」


「………私は記憶の事よりも、何故草君が言ってくれないのかが、気になります」


「俺もだ。あいつの身に起きた事は未だに信じられねえが、あいつの技術は間違いなく俺が仕込んだものだ。偽物という事はない。だからな、俺もそいつが気になってるよ」


「何で、ですかね。私は草君がいて静流さんがいてくれれば、十分に幸せなんです。何で草君だったんですかね」


「………さあな」


静流は巴の言いたい事を十二分に理解している。

草麻が知らない事ではあるが、巴は子供が産めない体だ。実際、そのせいで厄介な出来事もあった。静流は陰で巴が泣いているのを何度も見てきた。


そんな時に、草麻が現れたのである。

その子供は、静流のしごきにも耐え、朗らかさを無くさない稀有な少年だった。巴は母の様に姉の様に草麻と接してきた。草麻がこの家の門を潜って来てから、巴の涙を静流は見ていない。


「だが、明日か明後日には草麻から話してくれるさ」

「………そうですね。草君も決めたみたいですしね」


静流の言葉に巴も同意した。

ソウマの決意というコップに水が注がれ、それがもう満杯に近くなっているのを二人は気付いていたのだ。


だからこそ、今、巴は静流に確認した。

ソウマへの対処もあるが、夫が息子の事を察知しているのか知りたかったのだ。


「静流さん」


言って、巴は夫の布団に潜り込んだ。

静流が何かを言おうとしたが、口は巴に塞がれていた。


「大丈夫ですよね」


口を離して、巴は言った。

静流は妻を安心させる様に、巴の口を塞いだ。


「大丈夫だ」


それはまるで、自分に言い聞かせるような響きだった。




その頃、ソウマは一人庭に立っていた。

空は晴れており、月明かりと星明かりがぼうとソウマを照らしている。ソウマは桜の木の下に立つと、何時かの様に腰を下ろした。


とんと後頭部を幹に当て、視線を宙に彷徨わせる。

自身の呼吸の音と葉のざわめきが混じりあう。この五日間を通して、何となくではあるが、ソウマは直感していた。多分、自分はあの世界に戻ることが出来、逆に、この世界に留まることも出来る。


そして、それは、ソウマの心根次第であろうという事を。


戻りたければ、今の安寧を捨てろと。

留まりたければ親友を捨てろと、実に単純な二択である。


何かを得る為には何かを捨てなければならない。


実に簡単な選択ではある。

けれど、今の俺に出来るだろうか。草麻だった時とは状況が違う。あの時は帰れるという事が条件にはなかった。


だが、今はそれがある。

ソウマが草麻に戻れるチャンスなのだ。魔浸術を会得した肉体とか魔力とか不安要素はある。まだ会ってもいない両親のこともある。けれど、戻れる。戻れるのだ。


ソウマは膝を抱えると、サクラの名を呟いた。

エルの名を呟いた。

シルフィーアの名を呟いた。

ディートリヒの名を呟いた。

セーミアの名を呟いた。

今まで会った皆の名を呟いた。


欠片となった記憶をかき集めるように、ソウマは呟き続ける。


しかし、脳裏を過るのは、静流の姿であり巴の姿だ。あの二人が家族の様に暖かくなければよかったのに。


ソウマは深く息を吐くと、立ち上がった。

天上には月が一つ。ソウマは見上げながら、ぽつりとこぼした。


「本当、何でかな」


それは、決断の言葉だった。

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