ヨルミナ2 / 明日は
暗い部屋で肉体のぶつかる音がする。
ぼうと燐光の様なランプの光が、二人の男女の影を壁面に映し出していた。部屋にはぎしぎしと断続的に聞こえるベッドの軋みと、途切れがちな呼吸音だけが響いている。
汗が交わる。
下になった女の胸元に男の顎先から一筋の汗が零れた。何時は綺麗に撫でつけられた男のオールバックの金髪もところどころ乱れている。爬虫類の双眸はぎらぎらと輝き貪るように伏した女の唇を吸った。息すらも苦しくなる濃密な行為だが、女は男を受け入れるだけだ。潤んだ瞳と上気した頬とは裏腹に、女とは何処までも一方通行で決して交差することは無いと男は知っている。
しかし、それでも良かった。
白の女に託した後、自分に出来る事は無い。その重圧、自分の手を離れ、待つ事しか出来ないどうしようもない遣る瀬無さを払えるならば、なんでも良かった。女の首元に付いたクリスタルの輝きが跳ね続ける。
やがて、男に限界が来た。
一瞬の快楽。吐き出された欲望。溜息を吐き、出て行けと男が女に言うと、女は何の余韻も残さずに手早く衣類を纏い部屋から立ち去った。
入れ替わりに、違う女が部屋に入る。
新たな女は直ぐに衣類を脱ぐと、男の待つベッドに機械的に近づいた。男はベッドサイドに置かれた強精酒を瓶から直接飲むと女の唇に移した。女の唇からルビーの様な液体が首に流れ、クリスタルの反射を赤く染める。壁面には二人の男女の影。
男、ピエール・ドールマンは行為に没入することで、不安を払っていた。
同時刻、ヨルンの宿の一室には、ヨルミナ探索の打ち合わせを終えたソウマ達が戻って来ていた。部屋の造りはリビングと寝室の二部屋があるタイプだ。現在、リビングに三人が集まっているが、ソウマは相変らず筋トレを行い、ディートリヒは酒、エルは短剣を磨く等、それぞれが勝手に時間を使っている。
「で、どうするか決めたか、ソウ?」
リビングの中心に置かれたテーブルを挟んだソファーの片方に座り、のんびりとディートリヒが聞いた。ソウマは片手腕立て伏せから片手逆立ちに移行すると逆さまになったディートリヒを見る。
「主語を言って下さい、主語を」
「ヒメの嬢ちゃんだよ。明日迷宮に入った途端、奇襲でも掛けるか?」
「それでもいいんですけど、おっさんから見てネーヴェさんはどうでした?」
ソウマは視線を地面に向け直すと、逆にディートリヒに聞いた。
アルフレッド側の単純な戦力という点では、やはり一角獣の亜人であるフロスティ・ネーヴェが際立っている。先程の会議でも密かに観ていたが、相変らず底が全く見えなかった。これでディートリヒも同じ意見ならば、厳しくなるのは間違いない。ソウマの懸念を余所にディートリヒは飽く迄も明るく言った。
「はっは!いやあ、あいつはやべえな。俺が言うのも何だがよ、とんでもなく強えよ。ま、七・三てところじゃねえの?」
「どっちが、七ですか?」
「あっちだな」
「了、解」
気楽に笑うディートリヒにソウマは頷いた。
正直、だろうなと思っていたからだ。ソウマは体を支える腕を右から左に変えると、研いだ短剣を収納魔具に収めるエルに話を振った。
「エルさんは、どう見ました?」
ディートリヒの対面に座っているエルはソウマに視線を向けると、さらりと言った。
「正直、私は尻尾を振りたいですかね」
「また、虎にあるまじき事を言いますね」
目を合わせ同様に苦笑。
両者の答えは実に予想通りである。ソウマは空いた手で頭を器用に掻いた。
「………何か良い案あります?」
「そうですねえ。今からウインド・マスターに頼んで主従契約を解除して貰うなどどうですか?」
「ナイス提案です。ただ、シルフィーアさんの所在が掴めないんで、無しですね」
とういうか、今出会えても殺される気がする。
多分、全てが終わった頃にひょっこり顔を出すのだろう。ソウマはエルからディートリヒに視線を移した。ディートリヒは先の事を夢想しているのだろう、楽しそうに、薄ら笑いを浮かべながら酒を飲んでいる。その表情通り、出た言葉は頼りないものだった。
「仕方ねえなあ。じゃあ、いっそお前がエルの主人になって先に最奥を解明すれば良いんじゃねえか?」
「確かに。でも、俺は主従契約の仕方を知らないからダメですね。ていうか、真面目に考えません」
ソウマの言葉にディートリヒは背凭れに体重を預けると、両手を頭の後ろで組む。そのまま、まるで少年の様にディートリヒは言った。
「つってもなあ、ネーヴェが予想以上すぎてなあ。お前もよくあんな化物に喧嘩を売ったもんだ」
「売ったんじゃなくて、売られたんですよ、確か。あの時、エルさんも居ましたよね」
「居ましたが、私は私で、人獣化していましたからね。正直、憶えていません。それはそれとして、ネーヴェにもヨルミナの魔具が付いているので、それが突破口になると良いのですが」
「結局、あの人に肉薄しなきゃ話にならんと」
ソウマはディートリヒを見ると、頷いた。
「よし、ネーヴェさんは全部おっさんに任せます」
完全な放任だった。
化物には化物を、ソウマにとっては至極当然な結果である。また、ディートリヒもそれを望んでいるので、全く異議は無い。ディートリヒは組んだ両手を解くとわざとらしく肩を竦めて見せた。
「仕方ねえな」
言いながら、ディートリヒはテーブルの上の酒をグラスに注いだ。爛々と輝く両目からは、やはり言葉とは全く裏腹の感情しか見られない。単純に好敵手の存在に楽しくて堪らないと言ったところだろう。趣味と実益を兼ねた職業を持つ男に、ソウマは嘆息した。
「後は、アルフレッド達ですね」
「そうですね。実際、草麻の力量は魔浸術により比類無い程に上がっていますので、三対二でもいける筈です」
「ですかね。俺とエルさん、共に完全な前衛タイプというのがネックですけど、多分大丈夫でしょう」
ただ、とそこでソウマは一拍を置いた。
魔浸術に対する懸念事項があった。
「ヨルミナの魔力濃度が気になりますね」
数年前だが潜った経験のあるディートリヒは目を下に向け多少さまよわせながら、過去を振り返った。
「濃いな。魔力酔いをする奴もいる位だから、魔浸術のエネルギーには事欠かねえだろうぜ」
「それは良いんですけど、属性は金ですよね」
「そうだな。何せ鉱物が基本の迷宮だからな」
ソウマは床に付いている掌を指に変えていく。
きつそうな呼吸と汗に濡れる顔は多少逸らした様な気配がある。ディートリヒが眉を寄せると、エルは何食わぬ顔で言った。
「草麻は金の属性だと、私の属性に引っ張られて人魔化し易いんですよ」
「ああ、そいつは拙いな」
言って、ディートリヒは少し考え込むと、また言った。
「いや、むしろ人魔化して暴走した方が早いんじゃねえか。死なねえし、エルに殺されれば文句ねえだろ」
「………おっさん。俺は自分の意志を離れた殺しはしたくないんですよ」
未だ殺人を犯していないが、それでも罪はしっかりと背負うべきだろう。
ディートリヒの言葉は冗談と判っていても、それだけははっきりと言葉にした。
「悪かった。そりゃそうだな」
ソウマの鮮烈な言葉にディートリヒは素直に謝罪した。
ちょっと浮かれていたようだ。ソウマは気を取り直す様に言葉を続けた。
「ともかく、最奥までいくしかないでしょうね」
「そうなるか。だが、簡単に最奥とは言うが下手しなくても其処まで辿り着けずに死ぬ可能性もある。相手は迷宮だ。それだけは忘れんなよ」
「了解です」
「じゃあ、俺は出かけてくるからよ。後は頼まあ」
話は終わりとばかりにディートリヒは立ち上がった。
一応ではあるが、翌日以降の指針は立った。ならば後は完全な個人の時間である。時間としては二十二時を回ったばかりだ。派手に遊ぶには時間は足らないが、息抜き程度なら十分だろう。
それを如実に感じ取ると、エルは呆れた様に溜息を吐いた。
豪胆といえば聞こえは良いが、ただの刹那主義であろう。そんなエルの非難めいた視線を気にもかけずに、ディートリヒは飄々とソファーに掛けた上着を羽織った。
リビングから出て行こうとするとき、ソウマの動きが唐突に止まる。筋トレの一環とは思えない動作にエルが怪訝となるなか、ソウマが重々しく言った。
「おっさん、行くならお供しますよ」
ディートリヒがソウマに振り向いた。
意外な事に、ソウマは結構真面目な表情をしていた。以前、ヒメが居た頃や先日の様な冗談染みた会話には無い親身な情が見える。
ふむと、ディートリヒは僅かに考えた。
確かに、明日か明後日、近い内に死ぬ可能性があるのならば経験させておくのもわるくはないし、何よりも僅かな時間ではあるが、ソウマと一緒に遊ぶのも良いと思ったのである。
しかしと、ディートリヒは憐憫を含め苦笑した。
逆立ち状態のソウマの腹にエルの回し蹴りが炸裂していた。このタイミングで自分の女の前で言うバカはいねえよな。ディートリヒは威嚇する様な表情のエルに掌を軽く振ると、部屋から出て行った。
「ソウマ、何か弁明はありますか」
ソファーに挟まれたテーブルをどかし、その空いたスペースにソウマは正座していた。眼前には足を組んだエルが座っている。ズボンじゃなくて、スカートならなとソウマは不埒な事を思った。
「いえ、何がですか?」
「な、に、が、ですか」
「いや、確かに迷宮前に挑む前で不謹慎だったかもしれませんけど、成功するにしろ失敗するにしろ、おっさんといれるのも少ないじゃないですか。おっさんの事ですから、なんのかんの飲むだけでもOKしてくれるでしょうし。その、確かに状況はあれですけど………」
「………あっ」
ソウマの言葉にエルははっとした。
ディートリヒはエレントを拠点とした冒険者だ。対してソウマは目的こそ知らないが旅を日常とする冒険者になる。今回の探索の成否に関わらず、ディートリヒとは縁が遠くなってしまうのは間違いない。
ソウマが彼をどれだけ頼りにしているのかは判るつもりだ。
其処まで思い至らず、勝手に邪な遊びと誤解して、ディートリヒはそのつもりだったろうが、ソウマを蹴った自分を恥じた。
「その、すみませんでした、草麻。今からでも追いかけますか?匂いを辿れば追い付けますよ」
「んー、いえ、大丈夫です。やっぱ、ヨルミナから戻った時の祝勝会でいいですよ」
「すみません」
「いえいえ、こっちこそすみません、というか、こんな時でも遊びに行く、おっさんが悪い」
うんと大袈裟にソウマは頷いた。
「やっぱ、おっさんが悪い」
もう一度、言った。
そのしつこさにエルはくすりと微笑んだ。
「全くですね。ここにこんな美女が居るのに、わざわざ出て行くんですから」
ソウマは目を逸らしながらぼそりと言った。
「………刺されませんからね」
「草麻」
「あ、なんか急に腹痛くなってきました」
「私も、草麻に弄られた耳と尻尾の調子が悪くなってきました」
ソウマとエルはふと視線を合わせると笑った。
正座から立ち上がると、ソウマは言った。
「俺達だけ部屋に篭ってるのもバカらしいですから、折角ですし、此処のバーとやらに行ってみます?」
「仕方ありませんね、草麻の奢りなら良いですよ」
「美女と一緒に居るのは大変だ」
ソウマは苦笑し、エルはソファーから腰を上げると、軽く羽織る物を寝室に取りに行った。
ヨルンの宿の地下にバーはあった。
名前はミネラル、席数は四十程だが余裕のある店内は広く見える。照明を程よく落とされた店内には生演奏のジャズが流れ、騒がしい大衆居酒屋に慣れたソウマとしては気後れしてしまう程だ。何より、入り口付近で立ち止まるソウマの背後に居るエルの服装はチノパンにカーディガン。スレンダーな肢体と相まって清楚な印象を受ける。対するソウマは何時もの無骨な道衣。
ソウマは改めて店内を見渡すとぽりぽりと頬を掻いた。
防刃加工等はされた服だろうが、客の大半は落ち着いた装いである。いやはや、紳士淑女の中にこれか、思わず出直しますかという言葉が出そうだった。
いい加減じれったくなったのだろう。
エルがソウマの手を取って店内に足を踏み入れた。幸い少人数用の丸テーブルが空いていたので、そこに座る。ソウマもエルに倣って座った。ウエイターにビールとナッツ盛り合わせを取り敢えず頼むと、エルはソウマを見た。
「急に立ち止まってどうしたのですか、草麻」
「いやあ、何と言うか俺だけ場違いみたいで気後れしちゃいました」
「確かに草麻の服装は珍しいですからね。ですが、今更でしょう」
「そうなんですけど。俺、あんまりこういうとこ来た事ないんでしょうね。正直、慣れません」
「それでは、今回で慣れて下さい」
はい、とソウマがしな垂れた時、ビールとナッツが運ばれてきた。
ソウマとエルは乾杯すると、勢いよくジョッキを空にした。両者一息で飲み干すと、直ぐに追加でビール注文する。その際に、サーモンマリネとピザを頼んだ。
「相変らず良い飲みっぷりですよね」
「草麻もだって、一息じゃないですか」
「多分、昔からこんな飲み方だったんですかねえ」
「ふふ、次はもう少し味わって飲みますか」
「ですね」
しばらく、ソウマとエルが取りとめの無い会話をしていると、店内がざわついた。どうしたんだと、ソウマ達が原因に目をやると、青髪の女性が入り口に立っていた。その女性はソウマ達に気付くと、柔和な笑みつくり、ソウマ達のテーブルについた。
「同席良いですか、ソウマさん、エルさん」
にこりと微笑む女性は、セーミアだった。
ソウマは戸惑いながらも勿論と答え、対照的にエルは無愛想に言った。
「座ってからいう台詞ではありませんよ」
「まあまあ、良いじゃないですか。明日は一蓮托生なんですから」
「一蓮托生というより、呉越同舟ですけどね」
「厳しくなりましたね、エルさん」
いいながらも、セーミアは勝手にビールを頼んでいる。
エルは諦めた様に嘆息した。
「一人なのですか?」
「ええ。お父さんとディーノは一緒に出掛けてしまいました。それで、ヒメさんとネーヴェは部屋で留守番ですね」
類は友を呼ぶと言うべきか。
エルはディートリヒと似た雰囲気を持つ男を脳裏に描いた。それと、あの憎い男も。
「ジンベレルが良く、貴女を一人にしましたね」
「お父さんに無理やり連れていかれましたからね。流石に私は一緒には行けませんよ」
「そうですか」
一端、話が止まった時、丁度三人のビールが運ばれて来た。
何はともあれと三人は乾杯する。何だか、凄く懐かしかった。
「ともかく、ソウマさん会得おめでとうございます」
「ありがとうございます。何と言うか、あの時はすみませんでした」
「いえいえ、ソウマさんのバカさ加減は知ってますからね。むしろ、こっちこそあの時勝手に居なくなってしまい申し訳ありませんでした」
「白々しいことですね」
「あら、本当に手厳しくなりましたね、エルさん」
「当然でしょう」
「ですが、信じられないでしょうが、私は一応中立ですよ。証拠は出せませんが、ソウマさんが何を契約したのか、ヒメさん意外には伝えてませんから」
じとりとした目で、エルはセーミアを見据える。
セーミアは何時もの微笑みで受け流すだけだ。ソウマは冷や汗を流しながら、仲裁に入った。
「ま、ま、何にしても明日は一緒なんですし、楽しく飲みましょうよ」
「仕方ありませんね」
「それにしても、何か注目されてるのは何故ですかね。俺の服、そんなに変ですかね」
「ああ、それなら私のせいですよ」
どういうことですかと、ソウマが視線で問うと、セーミアが答えた。
「曲りなりにも私はヨルミナ最奥を解明した人物になりますからね。死んだ筈のアルフレッドがセーミアとディーノと一緒にルミナに来た、それだけで話題性は十分ですよ」
「なーる程。有名人は辛いですね。でも、その割に殺気めいた視線が多くありません?」
ソウマがうんざりとした風に言うと、セーミアとエルは一度、顔を見合わせると笑った。随分とツボにはまったらしくお腹まで抱える程である。ソウマは拙ったかと頭を掻いた。その仕草がまたおかしく、二人はまた笑った。
「いえ、ソウマさん、言っときますけど、殺気を感じているのはソウマさんだけですよ」
「ええ、そうですね。私とセーミアにはそういう物騒な視線は無い。まあ、役得税と言ったところでしょう」
必死に笑いを堪えながら言う二人に、ソウマは首を傾げるだけだ。
ようやく笑いを収めると、エルは言った。
「部屋を出る前に草麻は言っていたではないですか。美女と一緒に居るのは大変だと」
「自分で言うのも何ですが、私とエルさんは綺麗の範疇に入りますからね。そんな二人を、若輩に見えるソウマさんがはべらしているのです。エルさんが言った通り、役得税ですよ」
二人の言葉にソウマは納得した様に頷いた。
確かにその通りだ。店内には男のみのテーブルもあれば、男女が座るテーブルもある。その中で独り身の男達がソウマを密かに睨んでいるのであった。それを視線に敏感なソウマが感じ取っただけである。先程からやけにウエイターがエル達に微笑んでいたのはそういう訳か。ソウマはもう一度頷くと至極真面目に言った。
「お二人が綺麗なのは本当ですしね。内実はともかく謹んで受けますか」
ソウマのストレートな言葉に、エルは尻尾を揺らしセーミアは微笑を濃くした。ソウマは黙った二人に怪訝な顔をするが、何時も通りまあいいかと放ることにした。
「セーミアさん、ヨルミナについて聞きたい事あるんですけど、良いですか?」
「ええ、勿論です」
「………という感じですかね」
飲む酒の種類も変わり、宴もたけなわになった頃、セーミアのヨルミナ講座は終わった。講座とは言っても、酒の席であり、途中途中で脱線も多くしたので、単純にソウマとエルの質問に答えただけではある。ソウマが酒精に染まった顔で、セーミアに聞いた。
「セーミアさん。答えられないなら、別に良いんですけど、聞いて良いですか?」
「はい、何ですか?」
「ネーヴェさんの事なんですけど、無理やりなんですかね」
セーミアとソウマ、酔いに染まらぬ瞳の奥が一瞬だけ交錯する。
居抜く様な鋭い光を受け、セーミアは一度、視線を彷徨わせると言った。
「それが、判らないんですよね。お父さんに聞いても、記憶を失ってた期間があってその時から従者になってるそうです。だから、無理やりなのか、それともネーヴェさんの力が強くて、魔具を使ってまで主従になりたかったのかは、判りません」
セーミアの言葉が、嘘か真かは判らない。
それでもソウマは目を柔らかくすると、セーミアに頭を下げた。多分、本当だろうと思ったからだ。
「そうですか。ありがとうございます」
セーミアとの話はそれで終わった。
後は流れで席がお開きになると、セーミアはふらふらと部屋に戻って行った。ソウマとエルも同様に自室に戻る。バーを出た辺りから何処か不機嫌そうなエルを引き連れ、自室のドアを開けると、ディートリヒは戻って居ない様で、部屋は暗いままだった。
明りを点け、ソウマはリビングのソファーにのんびりと座る。
火照った体を冷ます様に、ソウマは道衣の上を脱ぐとソファーに掛けた。インナー姿になり、しばらくぼんやりとしていると、寝室で着替えていたエルがやってきた。服装はワンピース型の魔術衣になり、もう後は寝るだけといったところか。
そう、ソウマが思っているとエルは何を考えたか、備え付けの棚に元から置いてあったウィスキーを取り出した。無言でグラスを二つテーブルに置き、エルはソウマの隣に座るとそのままグラスにウィスキーを注いだ。
「まだ、飲み足りませんでした?」
並々と注がれたグラスを見て、ソウマはエルに聞いた。
エルはこれまた無言でグラスを持つと、ソウマにも持つ様に視線で促す。ソウマは不思議に思いながらも、エルに従った。
かつんと、グラスを合わせると一口飲む。
焼ける様な刺激が喉から胃に落ちると、火照った身体がまた熱くなるようだ。ソウマはエルの意図が掴めず、またグラスに口を付ける。エルも倣った様にまた一口。
しばらく、話も目線すらも合わせずに飲み合っていると、グラスが空になった。結構速いペースだろう。魔力による代謝活性が無ければ、間違いなく明日に残る程だ。それでも、エルはまたソウマと自分の分に琥珀色の液体を注ぐ。まあ、彼女のしたい様にさせとこうと、ソウマは何も気にせずにまた飲んだ。エルも同様に飲む。
そうして、何時の間にかボトルは空になり、後は二人のグラスに入っているだけになった。いい加減、顔も真っ赤になり、エルなどは肌の白さから余計に赤みが目立つ。
ぼうとアルコールで意識は霞がかり、ソウマは何の気なしに隣を見ると、若干下げられたエルの頭が見えた。金の髪から飛び出た耳が可愛らしく動いている。
ソウマはほぼ無意識に手をエルの頭に乗せると、何となしに虎の姿の時にした様に耳を撫でた。絹の様な手触りと対象的な尖った手応え。満足そうに微笑むエルを見て、ソウマはとりあえず撫で続ける。
しばらく無言でソウマがエルの髪を梳いていると、エルは唐突にグラスに残った中身を一気に空けた。グラスをテーブルに置き、立ち上がると一言。
「寝ます。明日は頑張りましょう」
そのまま乱れの無い足取りで、エルはソウマが呼び止める間もなく寝室に消えて行った。一人残されたソウマは、心底不思議そうに首を傾げると、とりあえず残ったグラスを開けた。頭を掻いてこちらも一言。
「サイクル・T」
代謝促進の木属性に加え、魔浸術まで併用しての酔い覚ましである。
無粋といえば無粋だが、すっきりとした頭を振るとソウマも寝る事にした。結局エルが何をしたかったのかは、さっぱり判らなかったが、まあ機嫌が戻ったようだから別に問題はないだろう。
ソウマは道衣を改めて羽織り直すと魔力を通した。魔力が浸透し、上下の道衣から殺菌、脱臭、汚れにほつれさえも直ったのを確認すると、また上を脱ぐ。ついでにインナーも脱いだ。片手に道衣を持ち、半裸で寝室に入ると、ソウマは寝室の自分のベッドにダイブする。そして、そのまま瞬眠。隣のベッドで眠るエルの寝息にソウマの寝息が重なった。
「戻りましたー」
気の抜けた軽い声で、セーミアは部屋に戻った。
アルフレッド達は未だ戻ってはいないようである。ヒメがリビングにあるソファーに座りながら、セーミアに呆れたとばかりに言った。
「一人でどれだけ飲んどるのじゃ」
「いえいえ」
セーミアはふわふわと答えながら、上着を備え付けのクローゼットに入れると、ヒメの対面に勢いよく座った。
「実はですね」
セーミアは勿体ぶる様に一度区切ると、据わった目で見るヒメに言った。
「ソウマさん達と飲んでました」
「何じゃと!!」
セーミアの言葉にヒメは瞬時に怒鳴り声を上げると、セーミアに詰め寄った。
「しかも、奢ってもらっちゃいました」
「あの、バカ者が」
えへへと、ばかりに微笑むセーミアとは対照的に、ヒメは腕を組みながら唸った。軟禁状態の今、食事に嗜好品はそこまで制限はされていないが、一応は敵方の人間が自分の従者と楽しくお酒を飲んできた等、許されないというよりも、羨ましい。不意に、月の森に行く前、あのアパートでの日常がヒメの脳裏を過った。孤高であった過去、心を許せる者達と行う、遠慮の無い食事がどれだけ楽しかったことか。
ちっとヒメは、はしたなく舌打ちをした。
セーミアはヒメの様子を見て、席を立つと備え付けの棚に向かった。五人部屋という事で多数並んだ酒を見定めると、ワイン二、三本を手にして冷蔵庫に保存されていた摘まみを拝借。睨むようなヒメの視線を無視して、ヒメの対面に座り直すとグラスをそれぞれ置いた。
「折角ですし、飲みませんか?」
にこりと、柔和な微笑みでセーミアはヒメを誘った。
青髪となった以外は、全くアパートの頃と変わらない優しげな表情にヒメは仏頂面を仕方ないとばかりに崩した。
「儂は魔力を抑えられておるので、そこまで深くは飲めんがの」
「大ー丈ー夫です。余ったら、私が飲みますから」
「今度シンの店の時は貴様にはやらんからの」
「えっへっへ。いいですねえ、ソウマさんとの回帰祝いには持って来いですね」
二人は合せる様にグラスを微かに合せる。
ワイングラスが寂しげに鳴った。
ネーヴェは一人、寝室の椅子に座っている。
明りが落とされた部屋内は、窓から差し込む月明かりだけが照らしている。窓際に座り、ネーヴェは空を見上げていた。視界の先には満点の星空と爛々と輝く月が浮かんでいるのだが、ネーヴェの意識はそれらを全く解していない。
むしろ、別の場所を果てなく眺めている様にその瞳は茫洋としていた。今、眼前で手を振っても全く気付かないのではないか、それ程にネーヴェの視線は焦点が合っていないように見える。
アルフレッドと主従を結んでから如何ほどが経っただろうか。彼の執念を見初め此処まで来たが、果たしてそれだけでヨルミナの最奥に辿りつけるだろうか。
もう、月の森の主として穏やかに守護するだけで良かった昔とは違う。遥かの年月生きて来た者のみが感じ取れる微かなざわめき、世界の激動が始まろうとしているのだ。
生まれながらの強者に抗う為の蠱毒。鬼が出るか蛇がでるか。イレギュラーとなった青年を思いながら、ネーヴェはまた焦点の合わない瞳で虚空を眺めた。
その若々しい容姿とは裏腹に、若者を慮る老人の様な枯れが垣間見える。隣室から聞こえる声を聞きながらネーヴェは目を閉じた。まるで、祈るような仕草だった。