ヨルミナ1 / 泣いてましたよ
エレントを出て早二日目。
まっさらな草原を駆け抜けるのはとても気持ち良いもんだ。遮蔽物なんてなく、地平線の彼方まで伸びる緑の絨毯を芳しい香りに包まれながら走る。ヨーロッパで自転車が途切れない人気を博すのも当然だろう。少なくとも、開拓され尽くした日本では味わうのは不可能に違いない。
だから、文句など言える筈はないのだが、上空を滑空する巨大な影を見ると、思わず溜息が漏れてしまう。と、そこに厳しい声が掛った。
「草麻、何か言いたい事があるのですか」
エルさんだ。
エルさんは虎型になって俺を乗せると、ヨルミナに向けて草原を走っているのだ。
「いえ、何でも無いですよ」
「そうですか」
それは、ふんともグルルともとれ、何とも鼻息荒くエルさんは応えた。
「お前等、相変らず仲良いな」
内耳を震わす声は若干くぐもって聞こえるが、音質は良好だ。
喉に付けた通信マイク型魔具を通して、俺は地上から離れ、上空を飛ぶおっさんに返した。
「音は問題なし、オーバー」
「了解だ。オーバー」
「私も問題ありません。オーバー」
俺の言葉におっさんとエルさんが返答する。
「で、オーバーって何だ?」
「判りません」
「なんだそりゃ」
呆れた様な響きだが、それに構う余裕はない。
正直おっさんが羨ましくて堪らないのだ。もう一度空に視線を向けると、でっかいワイバーンが見える。
おっさんはそいつに騎乗しており、俺は何故かエルさんの背中だ。
ワイバーンは中型種らしく大人三人が乗ってもまだ余裕があり、荷物にしてもワイバーンの腹に括り付ける道具だってあるのに、何故か俺はエルさんの背中。エルさんの体力とかを考えても、皆でワイバーンに乗るのが一番良策の筈なのに、俺はエルさんの背中。
はい、その理由はという訳で、回想開始。
「やった!!本当に俺も乗れるんですか!おっさん!」
冒険者協会屋上にて、俺達を待っていたのは巨大なワイバーンだった。
獰猛な瞳と猛々しい牙、硬質的な鱗が太陽光を鈍く反射している姿は幻想から飛び出したようなものだ。監視員だろうか、ワイバーンの傍にはカバーオールを着た人が居るが目にも入らん。
「おう、俺は資格持ちだからな。お前等を乗せても問題ねえよ」
「俺、おっさんと知り合いで良かったと初めて思いました」
「おい、こら」
「凄いなあ、マジで竜だよ。凄い凄い。はあ、凄いな。やった」
おっさんの言葉を無視し、俺はワイバーンにふらふらと近寄っていく。
「危険ですよ!」
手綱を持つ監視員が何か言った様だが、全く聞こえない。
俺がワイバーンの前に立つと、ワイバーンはくんくんと鼻を鳴らした。顔といわず胸まで嗅ぐと、ワイバーンはその巨大な顔を近づけ、いきなり俺の顔を舐めた。
「ぬお」
虎とは違う硬質的なざらりとした感触が何とも心地よい。
頬が緩むのを自覚する中、ワイバーンはさらに俺の顔を舐めると、なんと胸元に鼻を擦り付けて来るではないか。
ふんふんと鼻息荒い姿に、俺も鼻息が荒くなる。
憂い奴憂い奴と顔を撫でると、ワイバーンは楽しげに獰猛な声を上げてくれた。
いや、マジで嬉しい。
俺がワイバーンとじゃれていると、何時の間にかおっさんが隣に来ていた。おっさんは、監視員から手綱を受け取ると、呆れた様に言う。
「伊達に変態じゃねえな。お前、気にいられたみたいだぜ」
「マジですかあ。嬉しいな、俺も資格取れますかね」
おっさんは嫌味を言ったんだろうが、こいつに懐かれるんだったら、変態でいい。というか、マジで心の底から資格が欲しいです。さらに撫で撫でしていると、ワイバーンはその口を開いて俺の肩口を食んだ。くはあ、甘噛みまでしてくれるとは、何とサービス精神豊かなワイバーンか。
「プライドの高いワイバーンに懐かれるんだ、お前が高所恐怖症じゃなきゃ、取れるだろうさ」
「そっかあ。ヨルミナ攻略が終わったら、俺直ぐに講習受けますよ。というか、個人的にワイバーンとかと契約というか、そういう風な間柄になれるもんですかね」
「なれるぞ。一応だ」
「マジですか!!そっかあ、俺もなってみたいなあ」
おっさんの言葉をつい遮ってしまった。
だってなあ、はぐはぐと肩口に甘噛みしてくるワイバーンがもう可愛すぎる。ちょっと興奮しすぎて肩に穴が開いてるが、そんなの気にもならない。むしろ、俺の血で勝手に契約とかされないだろうか。
本当、やばいなあ。
頬が緩むのが止められない。だってさ、甘噛みをやりすぎたと今は傷口優しく舐めてくれて、俺が魔浸術を使って傷を速攻で治した時の、あれ?もう治ったの?じゃあ、また噛んで良い?みたいな表情とかさ、可愛さを通り越して悶死するだろ。
しかも、少し躊躇ってから反対の肩を舐めるとか、もうヤバい。何でこんな可愛い生物がいるんだろうかってレベルである。ああもう、可愛い以外の言葉が思い浮かばん。
その上、これから俺はこいつに乗れるんだよなあ。
遥かな天地を望遠し空を走るか。騎乗技術を俺が習得できれば、………むふ、楽しみすぎて、興奮が止まらん。
にやにやと蕩けた表情で、俺がワイバーンの顎を掻いていると、唐突に襟を強く引っ張られた。前がはだける道衣だから辛うじて体勢は崩さなかったが、それ程の力強さである。
困惑し振り返ると、気配通りエルさんの顔がそこにあった。
人形の様な無表情で、裂けた瞳孔でひたと見据えるエルさんの視線からは温かみが一切が感じられない。ぞくりと、今までの熱を奪う悪寒が走ると、エルさんは言った。
「草麻。行きますよ」
端的な言葉ではあったが、何となく理解できた。
俺はエルさん自身の背でヨルミナに行くと言っているのだろう。だが、しかし、そんな言葉は聞く訳にはいかない。こんな素晴らしい生物との交流を捨てる事など出来る訳が無いのである。
「いや、折角なのでワイバーンに乗りましょうよ。エルさんもさっきそれは良いって言ってたじゃないですか」
エルさんが何に怒っているかは全く判らない。
なにせ、ついさっきまでエルさんも賛同していたのだ。皆で仲良くワイバーンに乗ればいいだけの話である。だが、エルさんは一切表情を変えずに、一言だけ言った。
「行きますよ」
「何故に!!」
いや、本気で訳が判らん。
ここまで頑ななエルさんの態度は初めて見る。俺は困りかねておっさんに視線をやった。正直、人生経験では及ぶまでもないのである。おっさんは、先程まで浮かべていた笑みを苦笑に変えると、俺に聞こえない声でぼそりとエルさんに耳打ちした。
「悋気はまじいぞ」
おっさんの言葉は劇的だった。
エルさんの白皙の頬は瞬時に赤に染まると、口を金魚の様にぱくぱくとさせている。虎の耳は流石に判らないが、首筋まで朱になっていることから、相当な事を言われたのは間違いない。
「わ、わた、私はその決して違います」
「何がですか?」
俺が疑問を口にすると、エルさんはきっと俺を睨むと言った。
「違いますからね!!」
答えになってません。
とはいえ、追及しても答えてくれそうにはない。俺は要点だけを掻い摘んだ。
「よく判りませんけど、ワイバーンで行っても良いんですかね」
「………今回だけですよ」
「はあ。ありがとうございます」
曖昧に返事をこぼした。
しかし、エルさんが此処までワイバーンを苦手とするなら仕方ない。
「エルさんとワイバーンで散策するのは無しか」
夢は儚く散る物である。
憧れのドライブデートは計画倒れで、ワイバーンとの交流もこれで無しかあ。ぽつりと呟くように言った独り言は、何とエルさんに聞こえたのか、エルさんは、はっと顔を上げるとマシンガンの様に言葉を連ねる。
「仕方がありません。草麻が其処まで言うならば、きちんと今回の騎乗でディートリヒからコツを習って下さい。後、一人でワイバーンに乗るのは大変危険ですので、絶対に、私を呼んで下さい。本当に草麻は仕方ありませんね」
何が仕方ないのかは、さっぱり判らんが許しが出たのは有り難い。
「了解です。じゃ、おっさん行こうぜ」
エルさんからおっさんに振り返ると突如視界が塞がれた。
何がと思う間もなく、俺はワイバーンにがぶりと頭からやられたのだった。
「ちょ、ソウマ!!」
「はっははは!!」
慌てた様なエルさんの声と、心底楽しそうなおっさんの笑い声が聞こえる中、俺はというと生暖かい口腔内で、新たな境地を垣間見ていた。まあ、がぶりとやられるのは結構あるからな。
回想終了。
長かったね。さて、二日目になった今、俺が何故ワイバーン、ベントという名だ、の背からエルさんの背に鞍替えしたかというと、ベントが嫌がったからだ。
おっさんからコツを教わった初日。
野営した際に、エルさんの目を盗みおっさんの許可を得てベントに一人乗った時は良かった。狼、虎と来て竜の背中は大変居心地が良かったのだが、翌日になり、エルさんを乗せた辺りから猛烈に暴れ出したのである。
んで、結局俺はエルさんの背に収まったと。
属性変換を駆使してまでして、楽しく騎乗してたのになあ。残念。
「………草麻」
低い音色が聞こえた。
俺は誤魔化す様に上空を飛来するおっさんに声を向けた。
「………おっさん。真面目な話ヨルミナの最奥はどんなもんが眠ってると思います?」
エルさんは未だぐると唸っているが、俺の疑問が気になったのだろう。追及は無かった。おっさんは、しばし逡巡するとぽつりと言った。
「さて、なあ。主従契約に関するモノが眠ってるのは間違いねえだろうが、ヨルミナの前監督者ミゲールは、偽りだったとしても最奥解明を切っ掛けに出世した。キナ臭い匂いはプンプンするな」
噂でしか聞いてないが、やはり一筋縄でいきそうにないか。
「………おっさんも物好きですねえ」
「冒険者っつうのはそういうもんだ。それに、お前も人の事は言えねえよ」
「まあ、そうかも知れませんけどね」
普通に苦笑してしまった。
おっさんの言う通りだったからである。あの時、ウインド・マスターことシルフィーアさんが関わるサクラの従者になった時点で、何らかに突っ込む事になるのは間違いなかった。それでも、過去の俺は主従契約という縛りはあるが、サクラの従者で良しとし、今、俺もサクラを助けに行っている。これでは何も言える筈が無い。俺はまた笑うと空を見上げた。何処までも果てしない蒼穹が広がっていた。
エレントを出て二日目の夜。
迷宮ヨルミナの手前の町にソウマ達は到着した。町の名はルミナ。ヨルミナがあるからこそ出来た小さな町である。迷宮に挑む者、迷宮の遺産を狙う者、ヨルミナに関する者達はすべからずルミナを経由する。否、経由するしかない。ヨルミナに入る為の許可証はルミナでしか発行されないからだ。
余談ではあるが、ヨルミナの探索権を持つのは冒険者協会だけでは無い。
学者であったりそれを護衛する傭兵であったり、または教会であったりと、迷宮に関しては様々な利権が複雑に絡んでいる。それを統括しているのが、エレントの町でありエレントの有権者ピエールという話だ。
だから、ソウマ達が挑む明日にしても、ソウマ達が独占して迷宮を探索できる訳では無く、飽く迄も冒険者協会から二組が探索する形になる。とはいえ、広大であり、変化型迷宮のヨルミナに於いては、余所の組とバッティングする事は稀ではある。
さらに余談だが、ディートリヒは最悪、冒険者協会から許可が下りなければ、過去の傭兵のコネを使いヨルミナに挑む予定だった。それを承知しているからこそ、支部長のイースティナはディートリヒ達の探索を許可した背景がある。
閑話休題。
エレントに比べれば余りにも小さい城壁の門をディートリヒを先頭に潜る。ワイバーンのベントは荷物を降ろした後、エレントに帰してある。ヨルミナの攻略がどうなるか判らないし、帰る際はルミナで足を調達すればいいからだ。
入町手続きを終え、城門を抜けるとそこには確かな町の営みがあった。町自体に生産性は殆どないが、ヨルミナの恩恵は絶大ということか、小さな町にも関わらず活気がある。しかし、町の過去を知るディートリヒにとってはそうでは無かったらしい。
「やっぱ、寂れたな」
言葉通り寂し気にディートリヒは言う。
ソウマは荷物を背負いながら、きょろきょろと町を見渡すが、絶え間ない喧騒からはとてもそうは感じられない。エルも同様の顔を作っている。
「いや、町がどうこうじゃねえんだ。なんつうかな、町に漂う気配が落ち着いてるんだよ。俺が解明してやるっつう、ぎらぎらしたモノが薄いな」
「おっさんが来た時は、まだ解明されてなかったんですっけ」
「ああ。あの頃は俺に喧嘩売る馬鹿もいたからな。熱かったな」
町を進むと悲喜交々な叫びが酒場から聞こえてくる。
これで落ち着いているとしたら、迷宮の最奥と言うのはどれ程の価値があったというのか。ソウマは改めて迷宮の魔力に戦慄した。
「感傷に浸るのは構いませんが、見られていますよ」
唐突に針の様な鋭い声色でエルが言った。
エルの怜悧な声は場を強制的に引き締める様な力がある。殺気は別として、単純な気配察知という点に於いては、虎の亜人であるエルが一番だ。
ソウマは面倒そうにディートリヒは楽しそうに笑った。
歩きながらもディートリヒを頂点にソウマとエルがディートリヒの両側を固める。
やがて、エル側の建物から五人の人影が出てきた。
真ん中に金髪の偉丈夫、その両隣には青髪の男女が挟む様にして立ち、男の隣には頭頂部から角が生えた白い女が居り、反対の女の隣には銀の髪が鮮やかな少女がいた。言うまでもない、アルフレッド達である。三人が警戒レベルを引き上げる直前、アルフレッドが気楽に手を上げた。
「よう、久しぶりだな。無事に此処で会えて嬉しいぜ」
アルフレッドがにたりと笑う。
柔らかい笑みだが、セーミアとはまた違う、男くさい周囲を安心させるような微笑みである。しかし、その笑みに気勢を削がれたのはディートリヒとエルの二人だけだった。
唯一ソウマだけは、その笑みを見る事も無く、じっと銀の少女を眺めている。その最中、少女の瞳が微かに潤んだ。誰も判らない瞬きのようなそれに、少女を眺め続けていたソウマだけが気付いた。
「………う、あ」
アルフレッドが言葉を発してからどれ程経ったか。
ソウマはヒメの瞳に滲んだ輝きを見た瞬間、唐突に背を向けると脱兎の如く逃げ出した。循気さえ使って、ソウマは全速力でヒメの視界から消え去った。あの純粋な瞳に、ソウマは耐え切れなかったのである。
エルは一瞬呆けたが直ぐにソウマを追った。
去り際にヒメに視線をやると呆然とした顔が見えた。当然であろう。従者であり親友。それ程に信を置く者が顔を見るなりに姿を消したのだ。もし、自分だったらと思うと、エルはヒメに僅かの憐憫と同情を抱いた。
残された面々の内、ディートリヒが一番早く起動すると、頭を掻きながらアルフレッドに言う。
「………ああ、とりあえず、俺は協会に行くが、お前等は手続き済んでんのか?」
「終わってるよ。ええと、あれだ、俺達は協会が持つヨルンっていう宿に居るからよ、落ち着いたら顔を出してくれると助かる」
「どうだかなあ」
「坊主を抑えると言ったのはあんただろ。頼んだぜ」
「判ったよ、だが駄目でも文句はいうなよ」
ディートリヒは一度溜息をつくと、久しぶりに見た友人に視線を送る。
ヒメの顔を見て、ディートリヒはあのバカがと内心でソウマに毒づくと、出来る限り穏やかな声で言った。
「………嬢ちゃん、心配するな。ソウはバカなままだ。バカだから逃げ出したのさ。後で文句を言えばそれで済むと思うぜ」
ヒメは腕を組むと憤然と言った。
「分っとる!!」
それが強がりなのは、誰の目にも明らかだった。
不意に駆け出した草麻を追って町を走る。
雑踏の中を駆け抜けるが、もう草麻の影は見えなかった。立ち止まり鼻を鳴らしても草麻の匂いはしない。おそらく風の魔術を使って自分の匂いを掻き消したのだろう。グレートグリーンで培った草麻の穏行の術は流石といえた。
しかし、焦燥の中にありながら、ここまで詳細に自分を消すとは尋常では無い。追っていいのか、探し出してどうするのか、煩悶となった頭だが、それでも私の嗅覚は草麻の匂いを探している。それは、もはや本能じみた行動だった。
漸く草麻の匂いを嗅ぎつけ、後を追った先、町外れの城壁の影に草麻は居た。ぽつんと立った木の根元に荷物を置いて、暗がりの中で草麻は一人泣いていた。膝を地面に付き、草麻は大粒の涙を零している。届く声は嗚咽であり、溢れ出る感情を懸命に抑えつけようしている様に見えた。草麻は私の気配に気付いたのだろう。えづきながら言った。
「来ないで下さい。………今は一人にさせて下さい」
震える声は懇願のようでさえあった。
胸を掻き抱いて悶える姿は、まるで毒に苦しむようだ。一体、何がここまで草麻を苦しめているのか、悔しいことに私は理解できなかった。ただ、今、此処で草麻を一人にする事だけは出来ない。それだけが、脅迫観念の様に私の身体を縛っている。
「………草麻?」
私の声を聞くと、草麻は這うように動き出した。
もし、これが断固とした拒絶だったら私は何も出来なかったかもしれない。けれど、草麻は弱々しく木に手を付くと、逃げる様に闇の中に消えようとしている。
ふらつき、暗闇の中に浮かび上がる白の衣はまるで死人の様であり、人の尊厳を捨てた亡者に見えた。その胸を付く様な、草麻の惨めで情けない後姿が私を突き動かしていた。何故、私は此処に居るのにと、身勝手な怒りが短剣を投擲させたのだ。
「え?」
草麻の反応は余りにも鈍い。
短剣は草麻の右腕に絡み付くと、私の指示通りに彼を眼前に連れて来てくれる。草麻は私から視線を外すと、ぼそりと言った。
「一人にさせて下さいよ」
「嫌です」
草麻の言葉に私は即答した。
こみ上げる激情のまま、私は草麻の胸襟を掴むと、鉢が割れる程の強さで彼の額に額をぶつけていた。
「私は貴方の契約者です。格好をつけるなら最後までつけて下さい!」
後になって思うと、よく判らないし実に勝手な理屈だったと思う。
けれど、私はこれ以上草麻のあんな後姿は見たくなかったのだ。びくりと草麻の体が跳ねた。
「話して下さい。私は草麻の苦しみを理解出来ません。けれど、少し位なら支えられるかもしれません。だから、話して下さい」
「………………」
沈黙し、逸らされる瞳。
それが、どうしようもなく悔しくて、草麻の襟を握りながら、私は彼の胸に額を押し付けた。
「私じゃ駄目ですか?」
風が吹いた。
今まで隠れていた月が世界を照らし、暗闇が薄くなると、草麻の存在が明瞭になる。草麻は口内だけで呟いた。
「ずるい、ですよ」
胸に押しつけていた顔を上げる。
言葉は聞き取れなかったが、それでも草麻らしいニュアンスを感じ取れたからだ。草麻は鼻をすすりながら無言でゆっくりと先の木に歩いて行く。右腕に絡んだ鎖が、まるで犬みたいと場違いな事を考えてしまった。
草麻が木の根元に座ると私は右隣に座った。
草麻は空を見上げている。涙を必死に堪えているのだろう、私はくすりと笑ってしまった。草麻は非難がましい視線を送るが、気にもならない。やがて、落ち着いたのか草麻ぽつりぽつりと語り出した。
「俺、サクラの事、全く思い出せなかったんです」
「どういう事ですか?」
「俺、正直期待していたんですよ。サクラを一目みれば、勝手に記憶の断片でも戻るかなって。ほら、主従契約もしてますしね」
確かに草麻の話は判る。
記憶喪失した人物が強烈な衝撃に記憶を取り戻すというのは良く聞く話だ。
「………けど、全く、思い出せなかった」
落胆したのだろう。
草麻は確かめる様に空いた両手に目を落とした。
「親友なのに命を懸ける人なのに、ね」
節くれだった武骨な掌を草麻は握り締める。
けれど、草麻は記憶を失う事を承知していた筈だ。厳しい言葉になるだろうが、草麻に言うべきだろうか。私が思案していると、草麻は口を開いた。それは、まるで鉛を吐き出すような重い口調だった。
「そんな奴に、サクラは泣いてくれたんです。セーミアさんから話を聞いているだろうに、サクラは俺を親友と言ってくれたんです」
その言葉で私はやっと草麻の真意が見えた。
つまり、草麻は未だ自分の事を信じられてないのだ。私の考えを肯定する様に、草麻は下唇を噛むと、さらに苦渋に満ちた声で言った。
「俺は、五澄草麻じゃないのに」
「違う!!貴方は!」
私の言葉に草麻は優しく首を振った。
「判ってはいるんです、これは俺の我が儘なんだって。皆さんの反応から俺の思想、思考はそこまで変わらないって。でも、実感出来ないんです。俺が俺であるって理解出来ないんですよ」
草麻はくしゃりと顔を歪めた。
あ、と私が息を呑むと草麻はすっと立ち上がった。草麻の右腕に絡んだ鎖は外れていた。
「ねえ、エルさん。申し訳ないんですけど、俺の名前、言ってくれませんか」
私はその一言に万感の意を込める。
その一分だけでも、草麻に伝わればいいが。
「貴方は、草麻・五澄です」
はあ、と深く深く息を吸う音が聞こえた。
草麻はゆっくりと躊躇う様に私に視線を向けると穏やかに言った。
「ありがとうござまいす」
草麻は、はにかむ様に微笑んでいた。
切なくて儚い、女の私ですら見惚れる様な悲しい笑みだった。同時に、もう次の瞬間には草麻は平常に切り替えるのが確信出来た。それが、悔しいといえば悔しかった。
「遅かったな」
「そうでもねえだろ」
ヨルンの宿の一室。
リビングにはアルフレッド達が勢揃いしていた。ディートリヒを先頭にソウマとエルが続く。ヒメとソウマの視線が合うが、先程の無様な醜態は晒さない。しっかりとソウマは受け止めた。ディートリヒが先ず口を開いた。
「で、何を話すんだ」
アルフレッドが返す。
「決まってるだろ。ヨルミナ攻略だよ」
リビングに置いてある大きな机には、図面の様な物がひかれている。
ディートリヒはどうするかと頭を掻いた。その迷いを付くようにアルフレッドがぴしゃりと言った。
「先に言っとくが、まだサクラは渡せねえ。一戦を辞さないというなら仕方ないけどな、ヨルミナには俺達で行くんだ。探索の話し合いは必要だろう」
アルフレッドの言い分に、ディートリヒは肩を竦めるとソウマを見た。ソウマも苦笑しながら仕方ないという風に肩を竦める。ディートリヒは視線をリビングに戻すと、奥に座るディーノを見た。
「俺達は構わんが、そこの小僧は大丈夫かよ」
ディーノは無表情に徹しているが、敵意というか不満なのが直ぐに判る。事実、ディーノはつい先程までディートリヒ達との会議に反対していたのだ。アルフレッドはじろりとディーノを睨んだ。ディーノが不精不精と気を収める。
「大丈夫だ。始めよう」
「飲み物くらい出してくれよ」
ディートリヒが皮肉の様に言った。
ヒメは部屋の中央で行われている会議を端の方から眺めていた。
会議の主役はやはりアルフレッドであり、それに質疑しているのがディートリヒだ。セーミアとディーノはアルフレッドが話を振ると話す位で、アルフレッドが明らかに話の主導権を握っている。
変化の周期、攻略における支点、それまでの魔具などの道具関係。実際の攻略手順及び、技術。伊達に探索特化免状を持つセーミアを育てあげた訳でないという事だろう。アルフレッドは迷宮探索者にかけては一流そのものだ。
ソウマも幸いセーミアに学んだことは憶えているので、会話の流れには乗れている。また、フルバランスという特異な属性に加え魔力浸透技術の高さ、それに限定探知という特技はアルフレッドをして満足させるものだった。
何より、二十歳にも満たない若さで、先程の醜態からもう立ち直り、憎い敵と話し合える姿勢に感嘆としていた。どの様にして今の心根が作られたのかは判らないが、惜しいなと思った。
その会議をヒメは複雑な面持ちで眺めるしかない。
何せ、この会議を開かせる切っ掛けを作ったのは他ならぬヒメだからだ。
先日、アルフレッドが、探索に向かう前に出来るならば緻密な打ち合わせをディートリヒ側と行いたいが、皆はどうかという問いに対して、先ずディーノが反対した。
イズミは勿論だが、エルという亜人も危うく、かつ狂戦士と呼ばれる男もいる以上、会議は余りにも危険すぎると。
対してセーミアは中立。
ディートリヒの性質は知っているが、ソウマの親友に懸ける想いを測る事が出来なかったからだ。
その中で、最後にアルフレッドはヒメにソウマについて聞いたのである。ヒメはアルフレッドの問いにぶっきらぼうに答えた。
草麻はバカゆえに、儂が無事なら気にせんじゃろと。
その根拠について聞かれた際に、ヒメは自分達の出会いと、エルという女と一緒に居る事を上げた。あの男は自分を襲った狼を前に矛を収め食事の支度を始める男であり、敵であったエルという女にさえ背中を任せる奴であると。
最終的にその言葉が決定打になった。
ディーノがどれだけ反対しても、アルフレッドは押し切ったのである。実際問題、迷宮に挑む以上打ち合わせは必要不可欠であったので、ディーノは渋々引き下がったのだ。
あれから、ソウマとヒメは一言も交わしていない。
むっつりと睨む様な視線になり始めた時に、突然声がかった。
「隣、失礼しますね」
鈴の様に良く通る声だ。
透ける様な金髪を肩口で切り揃えた麗人は、自ら椅子を持ってヒメの隣に座った。ヒメは眉間に皺を寄せると低い声で言った。
「何か用か」
「草麻の主人と話がしたいというのは、用になりますか」
女、エルの言い様に、ヒメはあからさまに舌打ちした。
「貴様は草麻の何じゃ」
まるで敵を見る様にヒメは言う。
エルは気にする様子も無く気軽に言った。
「大切な契約者ですかね。セーミアからは聞きましたか?」
「ああ、聞いておる。しかも、提案したのがお主であることも知っとる」
「私も、貴女が勝手に主従契約を結んだ事は知ってますよ」
どこか、余裕のあるエルにヒメはもう一度舌打ちをした。
むすりとした表情を隠す事も無く、ヒメはもごもごと口を動かした。この女に従者の事を聞くのが嫌だった。
「………草麻は大丈夫じゃったか?」
先程の一件で有る事は間違いない。
エルは話し合っているソウマに視線を向けた。
「泣いてましたよ」
「何故じゃ!」
エルはソウマからヒメに視線を移した。
自分と反対の金色の瞳は多少揺れているが、根幹に強い光が見える。草麻が記憶を無くす前に言っていた、ヒメに見られるときついんですよね、という言葉の意味が少し判った。エルは冷たく突き放す様に言った。
「それは自分で聞いて下さい。草麻だって勝手に言われたくは無いでしょう」
「貴様は、嫌な女じゃな」
「私以外の事で泣いていた男を慰めた者に、随分な言い草ですね」
エルは肩を竦めるが、私以外が誰を指しているのかは直ぐに判った。
詳細までは判らないが、それでも自分の為にという理由は頬を緩ませるのに十分すぎるだろう。ヒメの耳が微かに動いた。
「ふん、そもそも儂を前にして無様をしたのがいかん」
そっぽを向いて皮肉を言うが、未だ動き続ける耳が何とも可愛らしい。
エルは冷や水を掛けるように言った。
「まあ、私の為にも泣いてくれましたけどね」
「あの、バカ者が」
急激に据わった視線は従者を居抜いていた。
部屋の中心、会議の議題はヨルミナ以外の所に向かっていた。
リビングに拡がる緊迫とした雰囲気が、殺伐としたものに変貌していたからだ。部屋の端に目をやると、狼と虎のオーラを背に言葉で威嚇し合う獣が見える。アルフレッドが顎を撫でながら言った。
「………止めるのはイズミ、お前だからな」
「おいおい、ただの四級冒険者に何を言ってんだ。此処は狂戦士たるおっさんに行ってもらうべきだろう」
「修羅場違いだろうが、馬鹿たれ。ちなみに俺もソウが頑張るに一票だ」
「私もソウマさんに一票です」
「民主的にいっても、やはり行くのはイズミお前だな」
三対の非難がましい視線を受け、ソウマは降参する事しか出来なかった。
「………この人数で多数決は卑怯だろ」
負け惜しみの言葉を零し、視線をちらりと部屋の隅に向けた。
ソウマはぽりぽりと頬を掻くと、言った。
「ヨルミナの此処はどうします?」
問題の先送りだった。
前話で、ソウマがヨルミナまでは歩いて半日程だしと言っていましたが、それは彼の勘違いだったのです。
はい。すみません、間違いました。
それに伴い、他の部分も多少変更されてますのでご了承下さいませ。
後、今回は推敲し直すかもです。重ね重ねすみません。