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狼浪奇譚  作者: ただ
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グレートグリーン6 / 人魔

真っ暗だ。

視界全てが暗闇で閉ざされ、自分の手さえも闇に覆われている。音も匂いも感触すらも消え、五感が無くなったのが理解出来た。あるのは波間に浮かぶ海月の様に頼りない意識だけ。それすらも、じわじわと浸されていくのが判る。


ソウマ・イズミという存在をエルメス・パールが浸していくようだ。

忌子という単語が意識を撹拌し強烈に刻み込み、俺は私になりいずれ私は無になるのだろう。循気で覚醒しようにも、私は循気を使えないのだから出来る筈も無い。


このまま、私は死ぬのか、

まあいいか。何の為に、誰の為に、此処まで来たのか。それすらも無いのでは、痛苦に耐える必要性は無いだろう。


ふと、暗闇の中、宙を見上げた。

まるで闇夜に漂う海月が、月を眺める様にぼんやりと視線を向ける。その何気なく向けた先には、柔らかい光を纏う銀色の月が見えた。暖かくも儚い光が私の身体を闇の中から浮彫にすると、そこには予想外の肉体があった。


鍛え抜き異形ともとれる隆起した筋肉には、私らしい独特のしなやかさは何処にもない。その上、胸の膨らみは全て筋肉にすげ変わり、股間には有り得ない物が付いている。一体、これは誰の身体だろう。前頭部付近にあった耳は側頭部に移り、自慢の尾さえも無くなっている事に恐怖を覚える。


私は誰だ。これは誰だ。

自分の存在を根底から覆す矛盾に、頭が割れそうになる。痛い、痛い、痛い。循気を使わないと、持たない。


………循気?

何だろう、そんな技術は私は知らない。怖い、自分自身が知らない何かに浸される異様な感覚。まるで、誰かに乗っ取られ様な心許なさ。探さないといけない、自分が自分と言う証拠を。それなのに、何故私を揺るがす言葉が木魂するのか。


「草麻」


誰だ、それは。

私の名前は違う。私の名前は、あれ?私の名前は何だろう。


「草麻!」


違うんだ。

私の名はそれでは無い、月の光はもはや爛々と輝きもはや、闇の全てを吹き飛ばしていた。


「草麻!!」


だから、俺の名前はそうじゃないんだ。

絶叫し、うずくまり、循気を使う。意識の隅々まで駆動させ覚醒させる。余りの回転に堪らず頭痛が響いた。懐かしいとさえ言える痛みにかえって頭がすっきりしたのだろうか、はっきりと私が誰なのかを認識した。私は、俺だ。


「浸されるって、こういうことかよ」


前日、エルさんが言っていたアドバイスが脳裏を過る。

自己が浸され自己を無くし死亡するという事は、つまりパートナーの人生が上書きされ、自己認識が出来ずに自滅するということなのだろう。


その上、意識が薄くなったところに、核が入った事による肉体の拒絶反応のダブルパンチを喰らえば普通に死ねる。幸いと言うか、俺にはサクラとの主従契約の魔力が流れて来たお蔭で、認識だけは出来たが、身体の方はそうはいかなかったらしい。


幽体離脱状態の俺の眼下には、死体同然の肉体が見えた。

開放骨折は当たり前で、中身も出てる。もはや、全身を強く打ってという表現に届きそうな部類だが、ガイナスさんの種とやらが無ければ、原型も留めない程に爆散した可能性がある以上、まだ随分とマシなほうだろう。


なにせ、エルさんに末期の言葉を伝えられるチャンスが出来た。

死者が生者に言葉を送れるのだ、それは間違いなく幸運に違いない。あの身体に意識を戻すのは怖いが、まあ仕方のない話だ。苦笑し、気合を入れ直すと俺は瀕死の身体に飛び込んだ。



思った程の痛みは無かった。

あるのは冷たくなった暗い視界だけだ。血液が失われた体は温度を無くし、致死の肉体はもはや痛みというシグナルを放棄している。生きる上で当然の機能である信号が無い以上、俺はこれから死ぬのだと、圧倒的に理解できた。


すとんと胸に落ちた現実に声も無い。

死にたくはないが、まあ仕方ない。諦観と納得を合わせた様な苦笑が漏れる。全く以てサクラに会わせる顔が無い。


本当、どうしようもないな。

胸中で謝罪すると、今出来る事に専念することにした。残された時間はカップラーメンほどしかないのだ。先ずはうつ伏せから仰向けになるべきだろう。


だが、ああ、畜生。

寝返りを打つ行動すら億劫に過ぎるな。それでも襤褸になった右腕と右足を連動させ、何とか仰向けになった。今の行為で骨がさらに飛び出したけど、今更だ気にもならん。気管に詰まった血塊を吐き出すと、泡に近い血液が零れる。


狭まった視界に驚愕に濡れたエルさんの顔が見えた。

やっぱ、綺麗な人だな。こんな時ではあるが、改めてそう思う。こんな美人な女性に看取って貰えるのだ、僥倖だろう。


「草麻!!」


ちぇ、綺麗な奥行きのある声が遠く聞こえる。

どうやら、鼓膜もある程度いっちまってるようだ。エルさんは戸惑いながらも、習慣となったのか、俺の体をおそるおそる触った。


「サーチ・イン」


擽られる様なこそばゆい感覚が全身に広がる。

馴染みとなった解析の魔術で俺の現状を知ったのだろう、エルさんの顔が悲しみと諦めに染まった。けど、流石にこれは仕方ねえよ。だから、これだけは伝えないといけない。彼女に責を負わせることだけはしてはいけないんだ。


「エ、ル、さん」


言葉にもならない単語が零れた。

片方の肺が破れ、押し出す力が弱いせいだ。エルさんは俺の言葉を聞き取ろうと、耳を口に近付ける。ふさふさした毛が唇に触れ、ちょっとくすぐったい。それと、彼女の髪と耳に血を付けてしまうのが申し訳なかった。


切れ切れとならないように、万感の想いを込め、たった一言感謝の言葉を口にする。


「ありがとう」


良かった、言えた。

それと、もう一つだけ言わないといけない。これが最後の力だと声帯に力を込めた。


「サクラ、に、ごめん、と」


言葉になってたよな。

少し不安だが、まあ大丈夫だろう。言うべきことを伝えて、最後の努めを果たしたせいか、ほっとした気分になる。気が抜けたというべきだろう、それで一気に視界が暗くなった。心音は彼方に消え、全身が重くなる。


自分という意識も漂白され、感覚が無くなっていくなか、ぽつり、ぽつりと雨だれが顔に掛った。普通では気付けないだろうが、表情筋が露出した顔面である。過敏になった神経が水滴の存在を教えてくれた。


けれど、視界はもう真っ暗闇で、聴覚も麻痺している。

残ったのは嗅覚と味覚と触覚か。口に水滴が零れ落ちる、水滴は少し、しょっぱかった。雨は止まず、俺の目尻からも耳に水滴は流れていく。それは一向に止まる気配が無かった。


おかしいな、何で止まないのか。

だって、死ぬのは仕方ないんだ。だから、素直に受け止めないといけない。それなのに、何故雨は止まないのだろう。何故、此処まで歯を食い縛っているのだろう。


力は一向に入らないのに、無駄な事が止められない。

そんな不思議な感覚に陥る中、死ぬのはどうしようもなく悔しい事なのだと、そんな当たり前な事を強く実感してしまった。


ああ、そっか。そうだよな。

命を秤に懸けた親友のとの約束は守れず、その上泣かせてしまうなど、無念の極みだろうに。それで、納得など出来る筈がない。本当に、俺はいつもそうだ、大切な事に気付くのが遅すぎる。けど、もう仕方ないのか。ちく、しょう。




「ありがとう」

エルはその言葉に嘘だと思い、また同時に納得してしまった。

五澄草麻という人間は、最後の最後までらしかったといえる。エルは解析の魔術を使用した時、その結果を信じられなかった。肉体の傷が死に準ずるものと理解したからでは無い、それは既に死んでなくてはならない程の傷だったからだ。


先のソウマは死体が動いた様なもの、エルの驚愕と悲しみはそこにあった。それ程の傷にも関わらず、ソウマは動きエルを呼んだのだ。もはや、業に等しい生き汚さである。それを成してまで、彼が恨み言を云う筈が無い。


エルの瞳から涙がとめどなく零れ落ちる。

最期まで人の事ばかりの草麻に、悔いは無かったのだろうか。そのエルの滲んだ視界にソウマの目から零れるモノが見えた。血で赤くはなっているが、それは間違いなくソウマの最後の残照である。それはエルが初めて見る、ソウマの裡から溢れでた剥き出しの生々しい感情だろう。


エルの胸に暴力的なまでに嵐が吹き荒れた。

この二ヶ月間の記憶が暴風の様に舞い上がる。瞳孔は裂け、涙はさらに溢れだし、喚いた。


「バカですよ。バカです」


呻く様に、ソウマの名を繰り返し、バカバカと罵倒した。

此処までの悔いがあって、無念があって、どうして人の事ばかり。もっと多く草麻の荷物を背負わせてくれても良いではないか。


「約束は、どうしたのですか。ごめんですますつもりですか。貴方にとって、親友との約束は絶対なのでしょう」


もはや、声は崩れていた。

何時もの溌剌な怜悧さなど何処にもない。ありのままの悲しみと怒りがそこにはあった。


「前金を払ったのですよ。あれだけ絶対と言ったではないですか」


何時もみたいに苦笑して、痛いんですけどと、文句を言って欲しかった。

何時もみたいに微笑して、仕方ないですねと、肯定して欲しかった。

何時もみたいに笑って、エルさんと呼んで欲しかった。

けれど、それはもはや過去の幻だ。


「バカですよ」


ぽつりと零れた一言が全てだろう。

こんな自分勝手な女の為に、ソウマは最後の力を振り絞り、伝えた言葉が感謝なのである。けれど、その献身というには余りに自虐的な精神で、ソウマはエルを戻した。呆然自失となった彼女に感情を復活させたのだ。


これで、エルは少なくとも歩き出せるだけの力を貰った。

歩き出さなければいけなくなった。死んだ後にすら心配してくれた以上、自分が死ぬわけにはいかないのだ。それはでソウマの意志を侮辱することになる。


けれど、それでも、今だけは立ち止まらせて欲しい。

エルはソウマの手を取った。両手で優しく力ない手を握り締める。まだ、暖かさの残る欠片を抱きしめた。


無駄と判っていても、エルは自分の魔力をソウマに浸透させた。

通常では有り得ない、魔力の受け渡し。魔浸術という未練がましいが、繋がりを確かめたかったのだ。


「草麻。ありがとう」


冷たくなった手。

エルはゆっくりと、とてもとても大切なものを扱う様に手を離した。はあと大きく息を吐くと、ぼんやりと天上を見上げる。どうすれば良いのかは判らない。


けれど、彼の主人であるヒメ・サクラにはソウマの言葉を伝え、助けねばならない。そう、エルが決意しソウマに視線を戻した時、異変が起きた。眼前、血だまりに沈むソウマの体が蠢くと、それに呼応する様にエルの魔力が強制的に吸い出されたのである。


「なにが」


疑問を口にしながらも、エルの行動は的確だった。

ばくんばくんと、心臓が奇跡の可能性にかき乱れ、興奮が収まらない。彼は草麻・五澄なのだ。生汚さにかけては一流で、いやになる位にしぶとい男なのだ。だから、もしかしてと、一縷というには余りに儚い希望だが、エルは我武者羅にソウマに解析の魔術をかけた。そして、


「………え?」


嘘みたいな結果が診えた。

ソウマの身体は明らかに死に体だった。だが、尋常ではない速度でソウマの身体は修復されていく。それはもはや、治癒能力や再生能力を超越した外れた何かだ。


例えるならばワープ。

治癒という過程を省き完治という結果だけを上書きした様なもの。もはや、それは摂理に反した魔の所業だった。むくりと唐突に何でも無い様にソウマが起き上がった。


「草麻!?」


困惑しながら、エルはソウマに呼びかける。

だが、彼はエルの言葉に反応することなく、深く深く、呼吸をするだけだ。ソウマの魔力に調整された空間から、魔力素がソウマに凄まじい速度で吸収されると、彼を中心に魔力の奔流が迸った。


傍に居たエルをも吹き飛ばす魔力波が収まると、そこには一人の人魔が居た。


男の頭部には狼の耳が生え、臀部からは虎の尾が伸びている。

その両手には鋭い爪が伸び、口が裂けると、口内から尖った牙が覗いていた。煌めく双眸は右目は金色に染まり、左目は銀色。黒の髪は金と銀が混じりあったモノに変化した。


その姿は、明らかに主人であるヒメとパートナーであるエルの特徴を受け継いでいる。その変貌と言って差し支えない変身ぶりを見て、エルは驚愕と絶望に首を振った。


「人魔化?」


かぶりを振って眼前の光景を否定する。

人魔化それは、まだ良い。しかし、そこまで人間から離れた姿では戻れない。それ以前に私は殺されるだろう。エルの思考は余りの混乱で上手く纏まらない。此処まで異常が続くと正常であるのが馬鹿らしくなる。激しく吸収される魔力により、エルの意識は呆気なく途絶えた。


「げひ」


人魔化したソウマは、倒れたエルを見ても何の感慨も浮かべなかった。

透明ながら余りにも禍々しい魔力の気配を纏い、唇を歪に曲げる。天上に顔を向けるとソウマは叫んだ。


「お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!」


それは、喉よ裂けろと言わんばかりの壮絶な絶叫であり、赤ん坊が生まれた時の、凄絶な咆哮だった。ただの言葉、空気の振動ですら激しい圧迫感を生んでいる。


そこに在るのは感謝。生んでくれてありがとう。

こんな壊し概のある、こんな殺し概のある世界に生んでくれてありがとう、という生命賛歌だ。やがて、ソウマは叫びを収めると獣の様に前傾姿勢を取った。


「きぎ」


笑い、ソウマの身体がぶれると、轟音が響いた。

ソウマは木の結界に突進すると破壊し始めていた。解体ではない、技術力の欠片も無い、圧倒的な膂力による粉砕行動。まるで砂場に造った城を嬉々として破壊する子供の様だ。事実ソウマは喜んでいる。壊し辛い物を破壊出来る事が嬉しかった。


「ケヒ、ギヒ」


気味の悪い、狂人の様な声を漏らしながら、ソウマはひたすらに木の結界を壊していく。魔力は十全、体力も十全、最高の気分だった。


エルは動かない。

核を失い急激な魔力の失調で気を失っている。今や、主もパートナーも関係ない。ソウマの思考は破壊衝動で埋め尽くされている。


やがて、木の結界が破壊されると、外界は既に闇に包まれていた。

空には星々が煌めき、月と星だけが世界を照らしていた。


そこに一人の偉丈夫が立っている。

短く切り揃えられた赤銅色の髪に褐色の肌、野獣の様な鋭い視線が並々ならぬ戦士と物語っていた。ソウマは哂った。実に殺し概のある肉体である。


「カカ!」


奔った。

脇目も振らずに一直線に男に向かう。早く早くこの爪で牙で肉を切り裂きたかった。男は突然現れ、肉薄する獣を見ても、怖気や怯みは無かった。あるのは僅かに憐憫の情。切り替える様に瞬き一つ。男は二振りのハルバートを振りかざした。




速く、重いだけか。

ディートリヒはソウマの攻撃を受けながら、冷静に批評した。筋力にまかせた力付くの移動速度はもとより、体勢を崩した状態からも平気で鈍器の様な重厚な打撃を加えて来る。


もし、ディートリヒがソウマの事を何も知らず、ただ敵として相対していれば、何も考慮せずに戦闘を愉しめたに違いない。だが、ディートリヒは知っている。草麻・五澄の人間性では無く、その身に備えた技術を体感しているのだ。


だからこそ、ディートリヒは憐れんだ。

魔に堕ちたとはいえ、何だソウ。その踏込は。なんだ、その蹴りは。


疾走の起こりが丸見えな無様な疾駆。

コンビネーションを一切思考していないその場限りの打撃。


まるで子供の喧嘩ではないか。

ディートリヒは絶対にソウマには言わないが、嫉妬すらしていたのだ。理を突き詰めた格闘技術の結晶は、間違いなく自分よりも上だと感動していたのだ。


それが、今や見る影も無い。

戦えば戦う程に虚しさが苛まされる。ディートリヒは向かって来る哀れな獣の射線上にハルバートを合わせた。


「終わりだ」


言葉通り、ディートリヒのハルバートは呆気なくソウマの身体を切り裂いた。両断こそ出来なかったが、間違いなく致命である。万が一の為に切り札を用意していたが、いらなかったようだ。どさりと、背後で倒れ伏した音を聞いて、ディートリヒは苦虫を噛んだ様に顔を顰めた。


せめて、もう少しだけでも人間の姿をしていればと心底思った。

未だ謎の多い人魔化ではあるが、人魔化にはレベルがある。


過敏な魔力により、肌や髪の色が変わるレベルⅠ。

筋肉や瞳の色等が極端に変化するレベルⅡ。

レベルⅠとⅡを含め、それを超えた変化であるレベルⅢ。

そして、人間の外見を無くしたレベルⅣ。


レベルⅢまでならば、まだ人に戻れる可能性はある。

だが、耳や尾を含め、爪に牙。極端を無視する様に変貌した躰は間違いなくレベルⅣ。


もはや、どうにもならない。

元の人間に戻る事無く、ただ、破壊と殺戮を撒き散らすだけの化物になる。視界に入った全ての物を壊し、視界に入った全ての者を殺しつくし、やがて餓死する。


生存という本能すら無くした畜生に劣るモノになるのだ。

だからこそ、ディートリヒに出来る事は殺す事だけ。それだけだった。


「あの、バカ」


ディートリヒは空を見上げた。

友が死んだのが悲しかった。その哀愁を無視する様に、ディートリヒの背筋に嫌な気配が漂う。それは直感。数多の戦闘を経験した熟練した戦士が持つ経験則だ。ディートリヒは身を捩りながら反転すると、その脇を高速で駆け抜けていく者があった。比類なき速度と鋭さは容易くディートリヒの鎧を切り裂くと、彼の脇腹を抉り取る。


「ちっ!」


ハルバートの軌跡に沿って豪炎が吹く。

脇腹を裂いた者、ソウマはその炎を無防備に受けた。数秒で塵になる程の熱量の中、驚くことにソウマは狂笑していた。


「ゲラゲラゲラゲラゲラ」


炎の中、馬鹿にする様に、可笑しくてたまらないと、笑っている。


有り得ない。

これが、魔力や魔具で防御しているならば理解できるが、ソウマは何もしていない。肉体の耐久力だけでディートリヒの炎を退けている。いや、違うか。確かに炎はソウマの肉を焼いている。だが致命傷となる前に圧倒的な速度で回復しているのだ。


ディートリヒのこめかみから、冷たい汗が一筋流れた。

レベルⅣの人魔化といえど、ここまで出鱈目に成る筈はない。ならば、これは災害と呼ばれるレベルⅣの人魔化どころの話ではない。それ以上、超天災クラスの警戒レベル。


つまり、魔浸術契約者の人魔化である。

ディートリヒは神経性の粘つく汗をかくなか、草麻の属性はフルバランスだったよなと過去を思い返した。



実に唐突であるが、魔浸術とは、名の通り全身の細胞を魔力に浸すことだ。これにより、魔力を流す際、肉体というフィルターを通す事により起こる、僅かなロスすらも完全に零にする頃が出来る。

もっとざっくばらんに言うなら、肉体が魔力になるということだ。

これで、魔力の恩恵である能力向上を百パーセント制御する事が出来、且つ属性変換もダイレクトに上昇する。

成程、魔浸術が強力な身体強化魔術というのも頷ける話だ。

だが、それだけで禁術一歩手前になるだろうか。答えは否である。では、魔浸術契約者がなぜ戦闘存在と呼ばれ、禁術近いのか。

その理由は、魔浸術の特性である魔力吸収能力にこそある。

契約者は自身の属性に限るが、空間に存在する魔力素を吸収し、即エネルギーとして変換できるのだ。

この特性により、魔浸術契約者は魔術が縦横乱舞する戦場に於いて、絶対的な力を誇った。魔力切れが無く、魔力に構成された肉体に疲労は無い。故に精神が続く限り戦い続ける者達を、人は戦闘存在と呼んだのである。



そして、長くなったが、ソウマは全属性持ちのフルバランス。

エネルギーは大気中に漂う魔力でほぼ無限。肉体が魔力である以上餓死という幕切れは無く、魔浸術を容易く倒せる契約者は眠り、不可解極まる再生能力まで持つか。


「流石がだなあ。おい!!」


ディートリヒは異常な事態と認識しながら、愉しげに唇を舐めた。

不謹慎な言い方をすれば、やはりソウと賞賛すらしていた。死んで後ですらも愉しませてくれるとはと。思考は数秒、ソウマと言う名の獣は飛び出した。凶爪と凶器がぶつかり合う。


「どおりゃ!」


尋常ならざる膂力を持って獣を大きく弾くと、狂戦士は呪を口にした。


「レギオン」


ディートリヒの言葉は言霊であり呪い。

凄絶な魔力がうねり、ディートリヒの躰が忽ち変質していく。褐色の肌は漆黒に、赤銅色の髪は乾いた血の赤に濡れていく。


毒を以て毒を制す。

先の戦闘中に一応と用意していたディートリヒの切り札の一つ。人為的な人魔化である。似た者同士とは思っていたが、ここまでとは。


「さて、遊ぼうぜ」


ディートリヒは笑った。



「………んぅ」

撹拌された意識が浮上する。

魔力が少ない倦怠感が身体を包み、思考がはっきりしない。


私は一体何をしていたのだろうか。

そう疑問に思った瞬間、全身が総毛立った。隔絶した魔力の圧力に伴う、弩級の殺気がこの空間を支配していた。


夜の闇を焦がす様に炎が舞い上がり、

大地から生える無数の槍は地獄にある断罪の場に近いだろう。もはや煉獄と化した戦場を駆けるのは二人の獣。


片や狼と虎という相反する属性を兼ね備えた人魔。

片や漆黒の肌に血を連想させる赤髪の人魔。


共に魔に身を委ねた化物である。

優れた聴覚や嗅覚、耳や尾、人間と違う特徴を持つ亜人とはいえ、眼前の光景を見ると、十分に人の範疇だと思い知らされる。


プラズマ熱量を有する炎を、指定した空間にのみ一動作で発生させ、大地すらも手足の如く操作するなど、もはや魔術という一言で片していいレベルでは断じて無い。


五小節以上の呪文に莫大な魔力を使用しているならば、まだ、まだ理解出来る。だが、狂戦士はその必殺でさえ牽制にしか使っていないのだ。飽く迄もそれは余技、狂戦士はその両手に握り締めるハルバートこそが本命らしい。


両の凶器は宙を絶ち、地を裂く。

それは自然の暴威に挑む人の狂気そのものだ。しかし、狂戦士が人の持つ狂気を凝縮した存在ならば、対する獣は存在自体が狂っている。


もはや、獣には死という概念が無いのか。

腕を千切られ、足を焼失し、胴に穴が空いても獣は突進を止めない。呼吸一つで再生し復活し、十全の姿に戻っている。


脳みそさえもぶちまけながら、獣は生きているのだ。

エルも人魔化が進んだ彼岸の化物を見た事があるが、ここまで外れては居なかった。ここまで恐ろしくは無かった。


顔が焼かれ、声帯が焼かれ、肺すらも焼かれた状況で、げひ、げぎと楽しげな声が聞こえてくるのだ。獣は空気を振動させていない、だが、エルと狂戦士にははっきりと歓喜の言葉が呪詛の様に響いている。


それは魔力。

マスターと呼ばれる存在が纏っている力だけで、他を圧倒する様に、獣も垂れ流しにしている魔力だけで世界を振動させている。


破壊と殺戮だけを喜びに、行きつく先は完全な無。

だが、それがどうしたばかりに獣はげらげらと笑っている。


何とおぞましい姿だろう。

これが、元は人間という事実に吐き気さえする。何よりも、自分がこんな化物にしてしまったという慚愧がエルを切り裂いていた。


一度投げた賽の目は決して変えられない。


知らず、涙が零れた。

目の前には地獄で戯れる鬼達。何故、こんな馬鹿げた事になったのだろう。


もはや、死ぬとか死なないとか、生死の問題では無い。

この状況を生み出してしまった原因、親友を化物に変えた事実、それらがエルから生きる気力を根こそぎ奪っていた。


ほんの数十分前の出来事が、バカバカと罵っていた数分前の出来事が、遥か彼方の遠い遠い出来事の様に感じる。あの時ああしていればという、後悔などの言葉では表現できない断末魔の苦しみがエルを襲っていた。


「うぅ、ぐ、なん、で、ですか」


絶望の嗚咽がエルの口から漏れ出た。

もはや怜悧さなど欠片も無い。そこに在るのは、何も出来ない無力感と絶望、出来る事はただ文句を言うだけだ。


「なん、で」


子供の様に喚いても、事態は変わらない。

地獄では、げらげらという嘲笑と、ははっという哄笑だけが響いている。獣と狂戦士、二人の戦いは何故か黄昏を連想させる。それ程の悪夢の最中、獣がエルの隣に吹き飛ばれて来た。


「ひっ」


本能的な恐怖がエルの口から漏れ出た。

思わず、尻餅を付いた状態のまま後ずさる。獣は裂けた口から涎を流し、一度だけエルを見ると、のっそりと近づいていく。エルの鼻孔に耐え切れない酷い獣匂が飛び込む。


獣は怖気づくエルにゆっくりと手を伸ばすと、その変貌した手で頭を撫でた。より正確に言うならば耳を触った。その感触はエルの望郷を思い出させる。それは彼女の姉の撫でかただった。呆然とエルは獣を眺めた。


「げきっ!」


獣は笑うと、腰に差さったままの風薙ぎを地面に放り、煉獄に戻っていった。同じように、狂戦士も契約者のエルを殺せば、自体が収束する可能性を理解してなお、獣が戦場に戻るのを待っていた。


単純に、これ程の強敵を殺せる事が両者共に嬉しいのだろう。

常人には判らぬ外れた思考回路である。


エルは半ばつられる様に、地面に転がる風薙ぎに視線を送った。

ウインド・マスター謹製の武具であり、ソウマの魂。


確かに獣にとって風薙ぎは要らない物だろう。

だが、それを何故今になってエルの近くに置いていったのか。偶然の筈が無い。それは、イズミソウマの足掻きに他ならない。俺を殺せとソウマは言っているのだ。


「………」


その狂おしい程の意志を感じても、エルは風薙ぎを手に取らなかった。

これ以上、自分が行動する事で状況が悪くなることを怖かった。本音を言えば、もう、何もしたくは無い。


だが、五澄草麻は戦っている。

失敗を挽回しようともがいている。エルは意を決して、風薙ぎを手に取った。怖いけどいやになるけど、やるしかない。凄絶な覚悟で改めてエルは風薙ぎを握った。裂けた瞳孔は白銀に輝いていた。


「ディートリヒ!!」


エルは震える声で叫んだ。

風薙ぎを抜き放ち、真っ直ぐに獣を見据える。狂戦士は唇の端を愉快そうに僅かに曲げた。


「俺を前座に使うとはな!いいぜ!好きな時に来い!!」


ディートリヒは獣を斬り捨てながら吠えた。

何時もでも良いと、タイミングはこっちで合せてやると不敵に笑う。エルは風薙ぎを強く握り締めた。前傾姿勢になり、防御全てを捨てた真向からの踏み込みに備える。


銀色の瞳には獣の体内に浸透した核が見えている。

他者には絶対に判らない己の核を認識し、それを傷つける事が出来る者。それが、パートナーだ。エルは雄叫びを上げた。


「草麻!!」


獣は一瞬だけエルに顔を向けた。

エルは真っ直ぐに、獣に向かって煉獄となった戦場を駆け抜ける。獣は攻撃の意志を示さず、狂戦士もバックアップをしてくれている。後は出来ることをやれば良い。


ここまで最悪になった状況。

もはや開き直りに近いエルの攻撃は、思いの外あっさりと獣に届いた。


獣の心臓付近に風薙ぎが突き込まれる。

何度も何度も行った刺突だが、此処まで悲しいのは初めてだった。


獣から血塊が吐き出されエルの顔に当たる。

真っ赤に染まった視界の先で、ぱりんと嘘の様に獣から人魔が弾けた。髪は黒くなり、耳も尖っていない。牙も爪も無くなり今や普通の人の姿に戻っている。


がくりと、ソウマは倒れる様にエルに寄りかかった。

エルも抱きしめる様にソウマを受け止めると、優しく座りこむ。ソウマの重みが嬉しかった。


「すみませんでした、草麻」


ソウマの耳元で涙に濡れた声が聞こえた。

謝ることしか出来なかった。言いたい事は多くあるが、核を傷つけ心臓に刀を突きこんだのだ。もはや、ソウマは生きるまい。せめて最期の時までは、体温を分かち合おう。そう、思った。


「エルさん」

「なんですか」


力ないソウマの声に、エルは目を瞑った。

今度こそ遺言になるであろう言葉に、固く身を強張らせながら、エルはソウマの言葉を待った。だが、ソウマの口から出た台詞は、どこまでも軽かった。


「次からはもう少し、優しくしてください。死ぬかと思いました」

「………え?」


ソウマはエルから離れると、無造作に胸に刺さったままの風薙ぎを抜いた。ぶしゅと勢いよく血液が胸から噴き出す。エルは突然の事に、目を瞬くことしか出来ない。ソウマがいたあ!等と緊張感の無い声を出すのが、また混乱に拍車を掛けていた。


「あの、エルさん。悪いんですけど、治癒魔術掛けてくれませんか。流石にマジで死にそうです」


胸に空いた穴を抑えながら、ソウマはあっさりと言う。

瀕死を迎え、奇跡的に人に戻った男とは思えない程に、軽い。


「え、はい。すぐに」


エルは流されるままに、ソウマの傷に手を当てると、治癒魔術を行った。

通常の倍以上の速度で回復する傷を見ながら、今度こそ今度こそ大丈夫ですよねと疑念を抱く。何を言っていいものか。混乱の極致にあるエルの背後からディートリヒの声が聞こえた。


「どうやら、死に損なったみてえだな」


漆黒の肌から褐色の肌に戻った男は、実に陽気にソウマに言った。

狂戦士にとって、魔浸術契約者による人魔化など愉しみの一つでしかなかったのだろう。ソウマも、その口調に肩の力を抜くと、ぬけぬけと言う。


「いやあ、死ぬかとは思いましたけどね。意外と死なないもんです。もしかして、手抜いてくれました」


「まあな。女泣かせるのは趣味じゃねえからよ」


「嘘ばっかりですね」


「あのなあ、エルの嬢ちゃんにしろ、ヒメの嬢ちゃんにしろ、女泣かせまくってるお前にだけは言われたくねえよ」


じとりと据わった目を睨まれ、ソウマは一度目を泳がせると、頭を垂れた。


「………すみませんでした。あと、ありがとうございました」


「くく、素直な事は良い事だぜ。ま、俺も愉しかったから問題はねえよ。それよりも、問題は」


言って、狂戦士は視線をエルに向けた。

漸く混乱からさめ、呆然とし、一周回った怒りが、エルから表情を無くしていた。ソウマは目だけでディートリヒに助けを送るが、男は素知らぬ顔して笑うだけだ。


ソウマはエルに向き直った。

次に発する言葉は生死を分けるに違いない。ソウマは慎重に選び抜いた言葉を言った。


「俺は不死身です」


ものっそ殴られた。

気付いたたもう年も終わりです。

何はともあれ、皆様よいお年を。

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