グレートグリーン5 / 忌子
「のう、草麻。そういえば、儂の名に由来はあるのか」
それは過去の一幕だ。
築十年を超えたアパートの一室での会話である。夕食が終わり草麻の自室でヒメが寛いでいた時に、ふとした疑問から出た言葉だった。
「まあ一応な」
柔軟運動をやっている草麻は、床に顔を付けながらヒメに返した。
若干苦しそうな声は、肺が圧迫されているためだろう。
「ほう、それでは聞いてやろうではないか」
鷹揚なヒメの言葉に草麻は苦笑すると、柔軟を止め立ち上がった。
机に向かい、メモ帳を取り出しながら草麻はヒメに説明する。
「仕方ねえなあ。教えてやるよ。まず、ヒメというのは、プリンセスとかお嬢様とか、高貴な女性の事を指す。因みに字は姫と書く。んで、サクラは俺の国の伝統的な花の事だ。桜って書くんだけどさ、春、そう暖かくなると木の枝全体が桃色になってさ、すんげえ綺麗なんだよ。日本じゃ、その季節になると花見っていう行事もあるし、世界でもその艶やかさは有名だよ」
草麻は桜姫と漢字を書いたメモをヒメに渡すと、ふと郷愁に攫われた。
この世界でも奇奇怪怪、様々な植物を見ているが、未だ桜に敵う花は見ていない。単純に草麻にとって原風景に桜があるからだろう。ヒメは草麻の説明が満足いくものだったので、大きく頷いた。
「うむ、流石は我が従者。きちんと考えておったのだな」
「とはいえ、姫つうのは、我が儘な女に使ったり、桜の木の下には死体が埋まっているとか物騒な逸話もあるけどな」
「オチをつけんでもよいわ!!」
「いや、つい」
殴られた腹をさすりながら、草麻は言う。
「まあよいわ。それで、お主の名にも意味はあるのか」
「あるぞ。五澄のいは数字の五でずみの澄は澄んでるとか透明とかだな。そんで、草麻のそうは草で、まは植物の麻。名字は土地柄とかもあるんで知らねえけど、名前は親が言うには草の様に広く、麻の様に頑丈になって欲しいかららしい。後は兄貴が空に関する名前だから、対比したって言ってたな」
言いながら、草麻は渡したメモに五澄草麻と漢字を付け加えた。
今更ながら、随分久しぶりに漢字で名前を書いた気がする。忘れないように暇な時に書き取りするかと草麻は思い直すと再び柔軟運動に戻った。ヒメはというと、漢字が書かれたメモ書きを興味深そうに眺めている。
「成る程、一つの文字で意味が判るのは凄いの。お主の世界はこれが標準語なのか?」
「いんや、日本と言う小さい国だけだな。というよりも、この世界こそ言葉は一つなのか?」
「まあの。黄昏時において、言語は共通化されたらしい。無論、地域毎に多少の特色はあるが、判らんほどではない。故に、黄昏以前の文献の大抵は未知の文字となっておる」
「へえ」
「ま、それはともかくじゃ、折角じゃお主の流派やついでに風薙ぎの由来もしりたいのう」
ヒメの好奇心に草麻は面倒そうに答えた。
魔力、魔術が基本となる世界で、日本の武術をどう教えろというのか。
「えーー」
「文句を言う出ない!」
あからさまな草麻の不満顔にも、ヒメは楽しそうに笑うだけだ。
何でも無い日常が愛おしいとでもいうようだった。
それは今は届かない過去の一幕。
黄昏に染まった世界をヒメは虚ろな瞳で眺めている。場所はとある町の宿の一室だ。室内にはヒメとネーヴェの二人だけがおり、窓際の椅子に座りヒメはぼんやりと眼下の街並みを眺めるだけだ。軟禁に近い生活が始まり、もう二ヶ月近く経つ。今、あのバカは何をやっているのだろうか。
「草麻」
不意に、従者の名をヒメが口の中で呟いた時、異変が起こった。
それは虫の報せと呼ばれるものだったのかも知れない。何の予兆も無く、突然にヒメの全身から魔力が強制的に吸い出されていく。この感覚は吸収の魔術等ではない、明らかに主従契約によるものだ。
かつてディートリヒと戦った時とは比較にならない程の、尋常でない量の魔力が主人から従者に吸い出されていく。これは従者が嘗てない命の危機に瀕している事への証左だった。
ヒメは貧血の様に目が眩むなか、歯噛みした。
それは切歯扼腕たる思いだ。間違いなく、あのバカはまた自分の為に命を削っているに違いない。
「バカ者が」
自身の不甲斐なさと、従者の確かな信頼にヒメは不意に泣きそうになった。狭い部屋の中、ヒメの変化にもネーヴェは全くの無反応で彫像の様に静かだ。ヒメの身体から魔力が抜け出していく。
それは莫大なヒメの魔力が枯渇する程の勢いである。
その激しさに、ヒメはまさかと最悪の可能性を脳裏に描いた。顔は一気に蒼白になり噛んだ筈の奥歯が鳴っている。
「草麻」
従者の名を呟き、両腕で小さな体を抱いた。
胸中で従者の名を連呼しながら、ひたすらに魔力を送り届ける。それはまるで祈りの姿であり、叫びの様だった。
時を少し遡る。
グレートグリーンにある小高い丘の上で、ソウマとディートリヒは並んで、眼前の光景を眺めていた。彼らの背後ではもう間もなく日が落ちようとしている。太陽は山間に姿を隠し、光の放射が角度を変え世界をオレンジ色に染めていく。ソウマは地面に描かれていく巨大な魔法陣を見て感嘆の言葉を発した。
「何というか、凄いですね」
しみじみとした言葉だった。
視線の先には薄い金の魔術衣を纏い唄うエルの姿。彼女を中心に直径十メートルはあろう陣に、緻密な文様が絶え間なく刻まれていく様子は壮観といえた。
「伊達に魔浸術を契約すると言った訳ではねえな」
同意する様にディートリヒが言う。
嘗ては傭兵、今は準二級冒険者として様々な経験をしてきたが、これ程見事な魔法陣は片手の指で数えられる程しか見ていない。しかも、ただの一人で描いているのだ、尋常ではないだろう。しかし、もう二時間も休まずにひたすら魔力を行使している。ソウマは心配そうにエルを見た。
「大丈夫ですかね」
「何、心配するとしたら嬢ちゃんより、お前だろうさ」
「まあ、そうなんですけどね」
からかう様に笑い、ディートリヒはソウマをちらりと見た。
苦笑した顔に一つの覚悟が秘められているようだった。伊達にマスターと呼ばれる存在と相対した訳では無い。
死ぬ気は無いが死んだら仕方ないという諦観の精神は変わらずといった所か。ディートリヒはソウマと会い、話を聞き、この二日間実際に対話してみたが、表層こそ変われど根本は変わらないとエルと同様の見解を示していた。事実、模擬戦と称し殺し合いにまで発展した戦いを、決死のエルに止められ二人して説教されたのはつい先日の事である。
「しかし、ソウよ」
「なんですか」
ディートリヒの声はやけに静かだった。
二日間しか接してないが、初めて聞く声色である。ソウマは微かに眉根を寄せた。
「お前、エルの嬢ちゃんに聞いたか?」
何気ない言葉ではあったが、実にこの豪放な男にはそぐわない言い様だろう。ディートリヒは草麻とエルのなれ初めを知っている。背後関係一切不明な女であり本当に信用出来るのかと、つまり過去を聞いたのかと言っているのだが、豪快奔放を旨とする男が口にする言葉では無い。
ソウマはいよいよ怪訝な表情を作るとディートリヒを眺め見た。
男の瞳には覗き込む様な興味の色が見える。そして、恐らくだが、それはエルにでは無く自分にだろう。ソウマはしれっと答えた。
「何にも」
ソウマの素っ気ない言葉にディートリヒは声を上げて笑った。
見透かされた事がおかしかったし、青年の反応が楽しかった。
「いや、わるかったな。俺がお前の年の頃はどうにも浮ついててな。つい、聞きたくなった」
先も言った様に、ディートリヒはもともと傭兵である。
詮索屋は嫌われると言う言葉通り、素性の知れぬ者達が多く集まる中にあって一々詮議しないのは当然の配慮であろう。ディートリヒも元来の性格から細かい事は気にしない男だが、やはり若い頃には内心の不安から抑えられない事が多々あった。
それが、ソウマには見受けられない。
二十歳にもならぬ青年が、此処まで自身に対して希薄になれるのが不思議だった。だから、先の年相応な反応にディートリヒは笑ったのである。ソウマは心底不思議そうに、疑う様に
「口説いてるんですか?」
ディートリヒに聞いた。
英雄色を好むと言うのは有名な言葉である。ソウマは一歩引いていた。
「馬鹿いうな!俺にその気は一切ねえ!!」
「安心しました。俺にも全く無いですからね」
にたりと皮肉の様にソウマは笑う。
口調こそ固くなったが、ソウマはディートリヒに対しては気安い。慇懃無礼というべきだ。実際、この手の会話は望むべくも無い、ディートリヒは犬歯を剥き出しにした。
「よし、ソウ。模擬戦するか。まだ、時間はあるだろ」
「そうですね。俺が魔浸術契約したら勝てないかもしれませんしね」
ソウマの言い様にディートリヒのこめかみが疼いた。
血管させ浮かせると、平静を装い笑った。
「若い奴は怖いもの知らずが多すぎるなあ」
「年寄りの冷や水って言葉もありますけどね」
肩を竦めながら、ソウマは言う。
ディートリヒは首の骨を鳴らしながら拳を握りしめた。めきめきと小気味良い音が同じ様に鳴った。
「そんじゃあ、どっちが正しいか証明してみるか」
「こういう時、拳って便利ですね」
「全くだな。シンプルでスマートに答えが出る」
ソウマも既に臨戦態勢。
両者が図った様に間合いを取った。いざ、筋肉を緩ませ弾ける瞬間、ソウマの顔が突然吹き飛んだ。どん、ごろごろと地面の上を無様に転がっていく様子を眺めながら、ソウマを蹴り飛ばした張本人が呆れきった様に言った。
「何をやっているのですか」
エルだった。
魔法陣を完成させ、見かねたエルが疾走の勢いのままに飛び膝蹴りをお見舞いしたのであった。ぴくりぴくりと痙攣するソウマが恨みがましくエルに言う。
「何で、俺だけですか?」
エルは気にするでもなく、軽く返した。
「信頼の証ですよ」
ソウマは何も言い返せなかった。
エルはディートリヒに振り向いた。ディートリヒは悪びれる事も無く、エルの責める様な視線を受け流した。溜息を吐き、エルはディートリヒに言う。
「それでは、事前に言った通り周囲の警戒をお願いします」
「任せろ」
一言ではあるが、重厚な自信に裏打ちされた言葉である。
先程までの人のわるいオヤジの顔は何処かに行っていた。エルは頷くと、未だ寝転んでいるソウマを蹴り起した。
「準備は整いました。行きますよ」
「………はい」
優しさが足りねえ。
ソウマは蹴られた腹を撫でながら思った。地面には黄昏色と合わさる様に魔法陣が光っている。ソウマの心臓が不意に一つ跳ねた。緊張しているのだ。何時も通りを装おうとしてるが、どうだろうか。
通常だが異常かも知れない。
そんな曖昧な精神はエルも同様だろう。先導する様に歩くエルは、表情こそ変わらないが、蹴りが何時もより強かった気がする。ソウマは深呼吸を一つ行うと、循気を使った。絶望を脳裏に強烈に描き出す。ソウマはエルに並んだ。ディートリヒは二人後姿に目を細めた。眩しかった。
「それにしても、この種は今使えばいいんですかね」
ソウマの手にはガイナスが去る前に渡した小指大の種がある。
ガイナスが言うには、魔浸術契約の際に埋めろと言っていたが、効果は効いていない。エルは思案顔になるが、特に気をするまでも無く言った。
「そうでしょうね。ウッド・マスターが自ら渡した種です。無意味な事は無いでしょう」
「そうですね。それでは、何処に埋めますか」
「一応、魔法陣の外側に埋めましょうか」
「了解です」
ソウマは種を魔法陣の際に埋めた。
すると種は脈動したかと思うと、瞬時に芽を出した。まるで植物の成長を早送る様に種は蔓となり、魔法陣の円周を走っていく。ソウマとエルは目を見合わせると直ぐに魔法陣の中に入った。ディートリヒと最後になるかもしれない目配せをする。さっさと終わらせろと突き放した様な顔が印象的だった。
その間にも、蔓は瞬く間に成長し木になると、ついには魔法陣をすっぽりとドーム状に覆ってしまった。もはや、魔法陣は完全な木の結界で守られたことになる。これでは万が一の危険の為への警戒であるディートリヒは必要なかったかもしれない。
ソウマとエルはウッド・マスターの底知れ無さに感嘆の溜息を吐くしかなかった。ドームの中は暗い。光源は砂金の様に淡く光る魔法陣だけだ。
「流石というか、やはりというか、マスターの名は伊達ではないんですね」
「ええ、その様ですね。木の結界の強度はもとより内部の魔力素も変化しています」
木の結界をノックする様に叩きながら、エルが言う。
ソウマも大きく深呼吸すると、確認するように言った。
「みたいですね。魔力素はどうやら俺用に調整されています。光合成の応用ですかね」
「ええ、おそらく外の魔力素を吸収し調整して中に送り込んでいるのでしょう」
この木の結界は、エルが言った様に、植物が二酸化炭素を吸収し酸素を排出する様に周囲の魔力素を取り込むと、ソウマの魔力属性に合せドーム内に放出していた。この結界は防御力もさることながら、ソウマにとって最適の空間を造り出していることになる。
「ここまで、お膳立てされると逆に緊張しますね」
「全くです。仮に失敗したら私も責任を取らされそうです」
冗談のようにソウマが言い、それにエルも冗談で応える。
落ち着いたソウマの言葉にエルにも若干の余裕が生まれていた。
だが、やはり硬い。
緊張もそうだが、それ以外のモノを背負っている気がする。ソウマはむうと顔を顰めると、エルの背後に回った。エルはソウマの不審な行動に何も言わない。ソウマは唐突にエルの臀部から垂れる尻尾を掴んだ。
「草麻、何をしているのですか?」
ぞっとする程、昏い言葉だった。
射殺すような視線を受けながら、ソウマは尻尾を離すと言った。
「いや、前金をきちんと貰って無いなと思いまして」
軽い調子だが、やけに真剣な目だった。
あの時は首と顔を撫でられただけで、とても触ったとはいえないだろう。
「契約が終わったら、エルさんの耳もちゃんと触らして下さいよ」
ずいと、ソウマはエルに押した。
ソウマは本気だった。エルは訝しむ様にソウマを見ると言った。
「駄目です」
「え゛」
「駄目です」
二回も言った。
ソウマは眉間に皺を寄せると、エルに慌てて詰め寄った。
「エルさん!約束を守らない人は駄目なんですよ!!」
よく判らない言い様だったが、それだけソウマの心の入れようが判る。エルはソウマを鬱陶しそうに見ると、溜息を吐いた。
「草麻、自分が言った言葉位憶えておいて下さい。貴方は耳か尻尾、どっちかがだけでも良いんでと、言ったでは無いですか」
エルの答えに、ソウマは愕然として膝を付いた。
確かに、自分はどっちかだけと言っていた。エルも耳を触らせるとは一言も言ってないではないか。ソウマは無念を噛み締めると、そこに、まるで釈迦が垂らした蜘蛛の糸の様に最後の希望が降りてきた。
「そこまで、私の耳を触りたいというのなら、一つだけ条件があります」
「何ですか!?」
ソウマは咳き込む様に、エルを見上げた。
エルは厳しい表情のまま、鋭利に言った。
「絶対に魔浸術の契約を成功させて下さい」
その一言に、ソウマは一瞬だけ呆けると、直ぐに返答した。
「了解です」
ソウマの歯切れ良い返事にエルは頷いた。
重圧に塗れた心に、爽やかな風が吹いた様だった。エルの表情は笑みこそないが柔らかい。こんな時でも自分を無くさないソウマに感銘を受けていた。
ソウマは立ち上がると、楽しそうに魔法陣の中心に歩いて行く。難事の後のご褒美に心躍っているのだ。エルは緊張感の乏しいソウマに苦笑すると、ソウマに続いた。
「エルさん、約束守って下さいよ」
「草麻こそ、前金を渡してるのですから頼みますよ」
ソウマとエルは魔法陣の中心で向かい合った。
言葉とは裏腹に静謐な空気が二人を包んでいる。見事な切り替えと言えるだろう。どくんどくんと心臓の音が脳に響くなか、乾いた唇を一度舐めると、ソウマは頷いた。エルも同様に頷いた。
「それでは、始めます」
「はい」
エルの口から呪文が発せられる。
聞き取れない言語に呼応する様に魔法陣が鳴動していく。幾何学模様の魔法陣は複雑な歯車の様に回り始めると、光量さえも増えていた。もはや、世界は真っ白に、エルとソウマの影さえ消す様だった。
ぼうとエルの胸から丸い球が出現する。
手の平大の砂金の様に繊細な光を纏う球体は、宝石の様に美しい。これが、エルの核だった。脂汗さえ浮かべながらエルは核を両手で支える。自身の分身を一度だけ愛おしげに撫でるとソウマを見た。黒髪の青年はしっかりとエルの瞳を見返した。
「草麻」
エルの手から核が離れると、吸い込まれる様に核はゆっくりとソウマの胸に入っていった。それに合わせる様に、魔法陣の光が外側から中心に収束していく。どんと一際激しい光の柱がソウマとエルを包んだ。これで、核の受け渡しは終わりだ。後はソウマが耐えられるかどうかである。
エルはじっとソウマを見詰めている。
その中でソウマの身体に異変が起き始めた。全身の血管が浮かび上がった様に、歪な線がソウマの身体を走っていく。何かと思う間もない。
エルの眼前、ソウマの身体が突然弾けた。
パンと水風船が割れた様に血液が噴出していく。血はあっと言う間に地面を池に変えると、その赤い池にソウマの体が倒れた。筋肉は断裂し骨さえも身体を突き破る酷い有様である。その上、腹と背が割れたのか中身も僅かではあるが零れているのが見えた。
体内から爆弾が破裂したら、こうなるのではないか。
顔の皮膚さえも剥がれ表情筋が直に見える姿は、出来の悪い壊れた人体模型を見ている様だった。やがて、赤い水の中でのたうつ様に気味悪く体が痙攣し始めた。それは明らかに意志を感じさせない脊髄からの反射だろう。
飛び散った血がエルの額をから両目に入った。
視界の全ては真っ赤になり世界も真っ赤だ。色彩が狂った目で、エルは呆然と人だったモノを見ている。
呆気なかった。
あれほど生に強靭に見えた男があっさりと死んだ。本当に何て呆気ない結末だろうか。声も出ない、涙も出ない、何も出ない。感情全てが凍りついた様に冷たくなった。ああ、本当に自分は忌子だった。
エルは糸が切れた人形の様に膝を付いた。
白銀の瞳は既に伽藍堂。何も映さない硝子の球体だった。
「姉様」
透明な砂金の髪を持つ少女は姉と呼ぶ女性に声を掛けた。
濃い金の髪を持つ女は、走って来る妹を優しく抱き留めた。
「どうしたの、エル」
「えへへ」
エルと呼ばれた少女はくすぐったそうに頭を撫でられた。
ただ、姉と一緒に居られるだけで嬉しかった。一族の期待を一身に受け、日々絶え間ない訓練に身をやつす中で、姉の腕の中が唯一の温もりである。それを姉も判っているのだろう、好きなようにさせているだけだ。
「姉様。何でエルは皆と遊んじゃいけないの」
「………貴女が特別だからかな。選ばれた者の責務、それがエルにはあるの」
「せきむ?」
庭先に置いてある岩に座りながら、姉妹は一時の安らぎを過ごしていた。
姉は妹の問いに、僅かに逡巡すると言った。
「そう、責務。エルにはね凄い力が眠ってるの。それを使いこなす事がエルには求められてるの」
「でも、エルも皆と一緒にいたいなあ」
俯く少女に姉は憐憫の視線を向けた。
宿命を背負い、十にも満たない少女の肩に限りない重圧が見える様だ。エルは姉にもどうにもならない事を言ってしまった事に気付いたのだろう、素直に謝った。
「ごめんなさい」
姉はエルの頭を優しく撫でた。
純情で優しい妹の事を愛おしむ様な仕草である。ぴんと尖った耳を掻いて上げると、エルはくすぐったそうに笑みを浮かべた。
「ううん、寂しいけど、姉様が居てくれるから良い」
「ありがとう、エル」
「でもね、最近父様や母様の目が何か暗いの。姉様、どうすれば明るくなってくれるかなあ」
妹の言葉に姉は目を閉じた。
噂だと思っていたが、事態は思った以上に深刻なのかもしれない。思い返すのはエルが生まれた時だ。奇跡が起きたと集落は喜びの渦に沸きに沸いた。
それから早七年。
期待が大き過ぎただけに、結果が出ない落差は大きいだろう。それが、幼いながらにも、幼いからこそ敏感に感じ取ったのだろう。姉はすとエルの目を見た。綺麗な白銀の瞳に自身の姿が映っている
「ねえ、エル」
「なに、姉様」
「この世界はね、とっても綺麗なモノで溢れているの。太陽の光、風の囁き、川のせせらぎ、星の瞬き。エルも覚えてる?あのお月見」
「うん、姉様とお月見した。とっても綺麗だった」
うんと姉は暖かく頷いた。
姉の優しい眼差しがエルはとても好きだった。
「でもね、それよりも、もっと綺麗なモノがあるの。判る?」
「うーんとね、お花。蒲公英とかムーンライトとかすごい綺麗」
姉は首を微かに横に振った。
「エル。この世で一番綺麗なのはね。見返りを求めない感情なの。エルはまだ出会ってないけど、それはとってもとっても綺麗で、出会えたら絶対に貴女を幸せにするわ」
「………よくわかんないけど、それを父様と母様に見せたら喜んでくれるかなあ」
「ええ、父様も母様もきっとお喜びになるわ。だから、頑張りましょう」
「うん、エルはせきむをする」
「ええ、応援するわ」
朗らかにエルは笑った。
幼子しか見せられない純粋無垢な笑みに、姉も笑みを浮かべた。そこに、闖入者の声が掛った。
「エルメス様。お時間です」
まるで鋭い錐の様に固い声だ。
エルの教育侍従がやってきたのだ。エルは不満そうな顔を作ると、岩から降りた。振り返ると姉に手を大きく振った。
「それじゃあ、姉様行ってきます!」
「いってらっしゃい、エル」
姉もエルに向かって手を振る。
やがて、エルの姿が見えなくなったとき、侍従から刺すような視線を向けられた。虫を見る様なぞっとする硬質な目だった。
「エルメス!!何故貴様は、これしきの事が出来んのだ!!」
罵声と共に拳が飛んできた。
父親が十二歳の少女に向ける行動では断じてないだろう。エルは殴られた痛みと憎悪すら篭った視線に身を縮める事しか出来なかった。
「ごめんなさい」
「そんな事を言う暇があれば、結果を出さんか!!」
また拳。
振るわれる大人の拳は少女にはもはや鉄塊だ。ひっとエルが目を閉じ衝撃に備える。だが、いくら待っても痛みは来なかった。おそるおそる目を開けると、姉の姿が見える。
「もういいでしょう。これ以上は目に余ります」
父の拳を掴みながら姉は言った。
黄金の髪に琥珀の瞳が鮮やかな女である。男は一瞬鼻白むが、今度は標的を変えた。
「だいたい貴様の教育が悪いのだ!!何故エルメスはこんな簡単な魔力放出すら出来ん!!これが、栄えあるジェイダイド家の娘か!!」
「関係ありません。確かにエルは放出こそ不得手ですが、浸透に関しては抜群のセンスを有しています。治癒魔術を本分とするジェイドにおいて、浸透こそが肝要。一体、何が不満なのですか」
女の整然とした言葉に男の顔がかっと朱に染まった。
怒りと屈辱に身を震わせながら、男は女を睨むだけだ。ぎりぎりと歯噛みする音すら聞こえる中、男はエルに侮蔑の視線を向けると捨てる様に言った。
「使えん。忌子が」
男はそのまま立ち去った。
エルは涙を浮かべると泣いた。親に見捨てられた事も悲しかったし、自分の未熟さに姉を巻き込んでしまった事が悔しかった。
姉は膝を折りエルと視線を合わせた。
頭を何時もの様に優しく撫でながら、耳を整えてやる。
「エル、大丈夫?」
「大丈夫、だけど姉様が」
ぐすぐすと零れる涙を懸命に拭いながら、エルは姉に謝罪する。
この場所に来るというだけで、姉の負担になる事をエルは知っていた。姉はにこりと安心させるような柔らかい微笑みを浮かべると、エルを抱いた。
「ありがとう、エル。私は全然大丈夫。だからね、心配しなくていいわよ」
「でも、姉様は、その」
「だーいじょうぶ。安心しなさい。これでも姉様は強いんだから」
「う、ん」
「ねえ、エル。貴女はね凄い力を二つ持ってるわ」
姉の言葉にエルは泣きながら答えた。
「でも、私はいみごだって」
「気にしなくていいわ、そんなの。エルはエル。決して忌子ではないよ。ただね、エルの資質は方向性が違っただけ、たったそれだけなの」
「けど、それが、父様には」
「だーから、気にしなくていいわよ。死ななくするよりも、癒す方がずっとずっと大切なことなんだから。それとね、さっき言ったけど、エルには二つの力があるの。一つは今言ったわね。癒す力」
「じゃあ、もう、一つは」
「それはね、心よ。エルの心は真っ直ぐで純粋でとっても綺麗なの。自分よりも先に人を考えられる事は、本当に凄いことなのよ。私はね、さっき言った癒す力よりも、エルの優しい心の方をずっとずっと大切にして欲しいの」
暖かい視線と温もりに満ちた言葉。
エルは限界だった。大粒の涙が奥から奥から零れ落ちる。それは、世界の不条理に対する悲鳴の様だった。
「父様も、母様も、皆、いらないって、ほうしゅつの方が良いって言ってるよお」
「ねえ、エル。貴女はね、まだ出会ってないだけなの。普通は誕生した時に出会えるんだけどね、貴女は特別すぎたの。けどね、それは決して不幸じゃないわ。何時か、エルが見返りの無い感情に出会えた時に、きっと手助けしてくれる。貴女が二つの力を捨てない限り、絶対絶対出会えるから。見返りの無い感情は本当に綺麗で、エルを幸せにする。だからね、私の我儘なんだけど、エルはエルのままで居て欲しいの」
「私は、今のままで良いの」
「うん。私は今のエルが好きよ。大好き」
「ありがとう」
エルはまた泣いた。
姉の胸で泣き続けた。やがて、エルが落ち着き始めた時、姉がそっと言った。
「ねえ、エル。私は貴女に渡したいモノがあるの」
その声の響きにエルは不吉なモノを感じた。
姉は今まで贈り物をしてくれた事は無い。それはエルの事を案じての事と暗に知っていたからエルは悲しいと思った事は無かった。だからこそ、これが別れの言葉と直感した。
「………どうしても、貰わなきゃダメ?」
涙に濡れた瞳。
姉は唇を噛んだ。この少女は全て理解しなお、懇願しているのだ。自分の非力さが余りに情けない。
「うん。私のとってきおき。エルに受け取って欲しいの」
「わかった。私、姉様のとっておき貰うね」
「ありがとう、エル」
「この事は、私とエルだけの秘密。けど、使う使わないはエルに全部任せるわ」
「うん」
エルは笑った。
健気に儚く姉に感謝を伝えた。今度は姉が泣く番だった。どうして、と世界の不条理に対して姉も泣いた。
「ごめんね、エル。ごめんねぇ」
「ねえさま」
エルもつられまた、涙が零れる。姉妹は抱き合って泣き続けた。
「忌子が来たぞ」
「………契約さえ出来ればねえ」
「奴のせいで」
あからさまな侮蔑の言葉にもエルは顔色一つ変えなかった。
年は十五になった。姉が居なくなり、一人になっていた。もうすぐ、自分は此処を去らなければならない。そこに特別な感慨は無い。姉との記憶の場所は壊され、郷愁が湧く筈も無いからだ。姉の言葉だけがエルを支えてくれた。
だから、姉の言っていた綺麗なモノを探そうと思う。
本当にそれがあるかは判らないけど、夢を見るのは勝手だろう。そう想い、世界を回りつづけて幾星霜経った。夢は夢のままに、もう諦めてさえいた。私はきっと出会う事が無いのだろうと。
だから、あの二人の主従を見た時の希望と、彼の一言がどれだけの奇跡なのかを知っていた。とっておきを、果たすべき相手を見つけられた事にどれだけ感謝した事だろう。その激しい感情、きっと、彼には判らないに違いない。
また、これだけは彼には知って欲しくは無かった。
ただ、見返したかっただけなどとは。魔浸術とは禁術近く、超高等契約術の一つである。もし、彼等に会ったとしても、忌子と呼ばれた自分はこんな凄い契約術を行使出来たのだと胸を張りたかった。
姉と再会出来た時に、感謝と共に契約出来た事を認めて欲しかっただけなのかもしれない。
彼の目的はどうあれ、結局自分の我が儘に付き合せた。
そして、それが、目の前の結果なのだ。赤い池に沈む姿を見て、何も成し得ない、忌子なのだと切に痛感した。