グレートグリーン4 / 前金ですよ
爽やかな風が小川を流れていく。
芳醇な緑の香りを運ぶ気持ちの良い風だ。青髪の青年、ディーノはたっぷりと空気を吸い込むと、小川の近くにある岩に腰掛けた。小川の流れは緩やかで柔らかな日差しがきらきらと反射している。鮎に似た魚が飛び跳ねた。
「隣、座りますね」
ディーノは隣の岩に腰掛ける女性に声を掛けた。
栗色の髪の女性、セーミアは苦笑に近い微笑みを口元に浮かべる。
「座ってから言う事ではないでしょ」
「言わないよりは言った方がいいかなと、思いまして」
ディーノのこうした多少強引なところ何時ものことだ。
セーミアは今度こそ苦笑の形に表情を変えると視線を前に向けた。川の流れを眺めながら、セーミアはゆっくりと口を開いた。
「………ディーノ、私に何か言う事は無いの?」
月の森で草麻達を襲った事、アルフレッドの事、この場所が判った理由。聞きたい事は多くあるが、上手く纏められそうにない。セーミアはディーノに問いを委ねた。ディーノもセーミアと同じように顔を前に向けていた。
「………父さんと会いました」
ディーノの口からぽつりと確認の様な呟きが漏れる。
その言葉にセーミアも動揺することなく、そう、と答えると聞いた。
「どうだった」
「変わりませんでしたよ。強引で豪放で明るくて、本当に父さんでした」
「良かった」
風が吹いた。
小鳥の囀りと木々の葉擦れの音が響いている。セーミアは揺れる髪を抑えた。ディーノは穏やかに川の流れを眺めている。
「セーミアさん、戻って来ませんか」
たったの一言ではあるが、万感の意が込められているようだった。
セーミアは答えない、変わらず前を向いている。
「父さんが生きていて、まだ整理が付かないけどヨルミナのラストキーもある。もう、あいつに拘る必要はないでしょう」
ディーノの言葉には先日会った様な懇願の響きは無かった。
訥々と確認するような、優しげな感情だけだ。セーミアは過去に埋没する様に目を伏せた。
「ねえ、ディーノ。お父さんはどうやって助かったの」
「それが、判らないそうです。あの時から目を覚ますまでの記憶が無いそうで、それを知る為にも父さんは再度ヨルミナに挑むと言っていました」
「そう」
「僕は正直もうヨルミナはどうでもいいんです。父さんが生きていて、セーミアさんが居てくれたらそ
れで良い」
それが、ディーノの本音であり本心だった。
ヨルミナ攻略はあくまでも手段でしかなく、もはや目的は達したといえるだろう。故に焦る必要は無かった。
「じゃあ何で、ヒメさんを攫ったの」
そこで初めてセーミアはディーノに顔を向けた。
非難する様な棘のある視線には哀しみに似た感情も含まれている様だ。単純に、ヒメさえ攫われなければ、此処までややこしい自体になる事は無かったのだろう。
「父さんが言うには保険だそうです。あの亜人が言った真の主従契約、それに興味があるみたいですね」
反論する言葉には力が無かった。
ディーノとしても真の主従契約を信じている訳では無い。セーミアが遺恨なく戻って来てくれるなら、直ぐにでも返したい程だ。一瞬セーミアは何事か、顔を顰めるとディーノを見据えた。
「それなら、別に対立する必要は無いでしょう。一緒に行ってはいけないの?」
素朴な疑問ではある。
根本的に彼等は恨みがあるのではない。ディーノに縛られていたエルは判らないが、草麻ならば仕方ないですねえと苦笑で済ませてくれる様な気がする。セーミアは希望を持ってディーノに聞いた。しかし、彼の口から出た言葉は
「あの亜人はラストキーの生贄になる可能性がありますからね。無理でしょう」
望みを絶つものだった。
え、と呆然とした声がセーミアから漏れる。ラストキーとは飽く迄も主従契約の魔力であって、命は関係無い筈だ。セーミアの間隙を余所にディーノは飽く迄も暢気に続けた。
「そういえば、セーミアさんも知らなかったんでしたね。僕もこの間、父さんから聞いたばっかりだったんですけど、どうやらヨルミナのラストキーは主従契約した者の命らしいです。主人でも従者でも、どちらでも良いらしいですが、まあ使うとしたら当然従者でしょうね」
「………嘘でしょう?」
信じられないとセーミアの声は震えていた。
いや、信じたくないとセーミアは言っている。今の話が本当ならば、主人が死んだら道連れになる従者は、草麻は確実に死んでしまうではないか。
「いえ、嘘じゃないですよ。戻ったら父さんにでも聞いてみて下さいよ」
飽く迄もディーノは朗らかだ。
失われる対価を完全に使い捨てとしか見ていない。今、震える様な寒気に襲われているセーミアとしては、ディーノの明るさが理解出来なかった。二年前の彼は此処まで他人の命を道具として見れる者だったか。
「それで、セーミアさん。僕達と一緒に来てくれますよね」
ディーノは優しく微笑んだ。
そこに裏は無い。透明で純粋な笑みがディーノに浮かんでいる。先程の話を聞かなければセーミアは躊躇いこそすれ頷いていただろう。通り道こそ違えど、ヨルミナ攻略と言う到達点は同じなのだから。だから、戦う必要性は無い可能性も考えていた。しかし、もはや戦闘は避けられない。
セーミアは草麻とヒメとの二ヶ月あまりの出来事を思い出す。
例え、捨てられたモノでも、大切な時間だったのは変わらない。何より、やはりソウマの事を綺麗だと一瞬でも想った時点で負けは確定していたのだ。セーミアはディーノに微笑み返した。その視線はディーノの遥かを見ている様だった。
「判ったわ。私も父さんに会いたいしね」
だから、説得しよう。
会って、ヒメ達を利用するのは止めてくれと訴えるべきだ。もとより、ヒメ達主従の存在はイレギュラーに過ぎない。左程分の悪い賭けでは無い筈だ。
「本当ですか!!良かったあ。これでセーミアさんに断られたらどうしようかと思いましたよ」
嬉しそうにはしゃぐディーノ。
「ふふ、あれがとう」
その姿にセーミアは感謝しか言わなかった。
とても聞けなかったのだ。もし、断ったらどうしたの?などとは。その答えを聞くのが怖かった。
「それじゃ、早速帰りましょう!」
「そんなに慌てなくても」
「何を言ってるんですか!家族三人水入らず、夢みたいじゃないですか」
「そうだけど、ね」
川を下る様に歩くディーノを見ながら、一度だけセーミアは振り返った。その先の上流にはソウマ達がいるだろう。場合によっては今生の別れになるかも知れない。
「セーミアさん!早く早く!」
「判ったわよ」
セーミアは感傷を振り切る様にディーノを追った。
彼女の栗色の髪が青色に染まっていく。決別の証であり、巻き込んだ事への悔恨でもあった。もはや、二人の姿は見えない。後に残るは穏やかな陽気と爽やかなそよ風が香るだけだ。
「さて、どうするかね」
そこに、男臭い野太い声が混じった。
ぬと、木々の間から抜け出た男は太かった。褐色の肌に赤銅色の髪。岩の様な巨大な体躯は鍛え抜かれた筋肉が覆っている。狂戦士こと、ディートリヒ・ベクターであった。
絶対察知を持つセーミアは気付いていたが、ディーノは気付いてはいまい。セーミアは最後、きっちり視線を送ってきたし自分を草麻達へのメッセンジャーにするつもりなのだろう。やれやれとディートリヒは頭を掻いた。タイミングを狙いすぎたと、若干後悔していた。
「流石ですね」
巨大な虎がその姿に不似合いな凛とした声で青年を賛辞した。
青年、ソウマは虎姿のエルの眼前で冗談めかして言った。
「戦闘技能まで捨てる程、馬鹿じゃなかったみたいです」
ソウマの手には丸く太った鶏の様な鳥が掴まれている。
アンタッチャブルバードを狩った後だ。エルとの同調具合を確かめる為の狩りだったが、無事に成功したようである。エルは踵を返しソウマを振り返り見た。
「では、戻りましょう。乗って下さい」
ソウマの眼前には楽しげに揺れる尻尾。
言葉は静かだが、縞模様の尾がゆらゆらと揺れていた。ソウマは苦笑に近い表情を作るとエルに飛び乗る。途端、エルは加速した。鬱蒼と茂る森を圧倒的な速度で踏破する姿は、正しく密林の王と呼ばれるに相応しい。もっとも、その走力がアンタッチャブルバードを早く食したい為というのが、何とも可笑しな話ではある。
「エルさん。鶏刺しにします?それとも焼鳥ですか?」
「決まっているでしょう。両方です!」
決まってるのか、ソウマは新たにエルの好みを脳に書き込んだ。
少しでも知ろうとする事は、ソウマにとっても急務である。しかしとソウマは目の前で微かに揺れ動く巨大な虎の耳を見詰めた。
黒の縁に中央には白丸。
虎耳状斑と呼ばれる特徴的な模様もさることながら、なんともフサフサして柔らかそうである。過去の自分は其処まで気にしていなかったが、ソウマはおそるおそる、手を伸ばした。
「どうかしましたか?」
と、不意にエルの声が掛る。
どうやら、凝視していたため視線に気付かれたらしい。ソウマは慌てて手を引っ込めると、愛想笑いで誤魔化した。
「いえ、こいつの調理方法を考えていました」
「良い心がけです。久しぶりのアンタッチャブルバード、楽しみですよ」
「本当ですね」
良かった、ばれていない。
ソウマは安堵の溜息を吐くと、名残惜しげに耳に視線を送った。先程は揺れて偶然当たりましたなどと、言い訳する予定だったが、もう難しいだろう。耳を触らして欲しいという行為は普通に奇異で、さらに亜人の耳だ。自分の知らない常識があっても何らおかしくない。
諦めきれてはいないが、唯一の信頼できる人との関係を壊す事だけは絶対に避けたいところである。むうとソウマは眼前の未知に対して唸る事しか出来なかった。
「美味しいですね」
「全くです。アンタッチャブルバードを日常的に食せるなど、幸せな事ですよ」
簡易テーブルに並べられる、鶏刺しに焼鳥、から揚げとなったアンタッチャブルバードを食しながら、エルは相槌を打った。調味料は簡素に塩のみ。それだけで、アンタッチャブルバードは至上の食材となる。
エルの機嫌を示す様に、彼女の腰から伸びる尻尾はゆらゆらと揺れていた。ソウマはさり気無く尻尾の様子を眺めながら、何でもない様にエルに聞いた。
「そういえば、セーミアさんはどんな人だったんですか?」
エルは鳥の身から一度視線を上げると、直ぐに戻した。
「そうですね。穏やかな女性ですよ。家族想いで、他人の気微に賢く、頭の回転も速い。探索特化免状持ちですから、冒険者としての実力も確かでしょう」
エルは焼鳥を咀嚼しながら、言葉を続けていく。
その内容はべた褒めと言っても過言では無い。ソウマは記録と照合する様に目を閉じた。そこにエルは続ける。
「ただ、腹黒です。常に浮かべている微笑みの中には、使えるモノは何でも使う怜悧な刃が隠されていますね」
そう言ってエルは、セーミアの評を締めくくった。
エルの表現にソウマは頬を微かに引き攣らせながらも頷いた。ソウマの記録は、出演者が皆影法師の様な曖昧な存在であるが、確かにと思わせるモノがあったのだ。
「でも、俺と主人の為に、こんな場所まで来てくれていたんですよね。やはり、申し訳ないです」
視線を伏せながら、ソウマの沈痛とも取れる言葉にエルは食事を止めた。
顔を上げソウマの瞳を見据える。
「草麻は覚えていないかも知れませんが、貴方にこう言われた事があります。怖くて堪らないけど、今の楽しみを噛み締めないのは失礼と。草麻、貴方は今楽しみを噛み締めていますか?」
ソウマは目を瞬かせると、恥ずかしげに頭を掻いた。
確かにこれでは食材となったアンタッチャブルバードにも、席を囲むエルにも失礼だ。ソウマはエルに視線を返すと言い訳する様に言った。
「俺、随分と楽観的だったんですね」
「ちなみに、それは私のセリフでしたよ」
「あ、それはすいません」
「とはいえ、私からすれば今の草麻も十分楽観的ですけどね」
「そうですか?」
相変らずと言うべきか、暢気な言葉である。
エルは先程とは変わり軽い口調で、からかう様に言った。
「自分の名前すら忘れた人は、普通亜人の特徴を注視しません」
エルの言葉にソウマは堪らず目線を逸らした。
冷や汗が一筋頬を伝わる。しどろもどろにソウマは弁解した。
「いや、何の事やら」
「友として忠告しておきますが、耳にしろ尾にしろ敏感な個所ではあります。そこを凝視するのは止めた方が良いでしょうね」
「判りました」
降参するようにソウマは両手を上げた。
ついでに不用意に触らなくて良かったと改めて安堵する。エルは笑いながら頷いた。ソウマは分が悪いと話題転換を図る。
「ああ、後、エルさんは俺の主人であるヒメ・サクラの事を知らないんですよね」
苦い転換ではあったが、幸いエルは追及する事は無かった。
エルは食事を再開すると、ソウマの主人について話し始めた。
「そうですね。一応会ってはいるのですが、直接会話した訳ではありません。ですが、天真爛漫な様子でしたね。それと、人が気絶してる間に主従契約を結ぶのです。少なくとも普通とは言い難いですね」
「それはもっともだ」
「とはいえ、一番おかしいのはそれを受け入れた従者ですが」
「………エルさん」
「何、その寛容さを誉めているのですよ」
「ありがとうございます、でいいんですかね」
「良いと思いますよ」
静かだが優しい笑み。
ソウマは観念するしかなかい。しかし、だ。意趣返しにこれ位はいいだろう。ソウマはアンタッチャブルバードの肉を頬張った。
「ああ!」
テーブルの上から大量に消えた鶏肉に、エルの悲鳴がこだまする。
ソウマは鶏肉を美味しそうに咀嚼しながら、エルに言った。
「やはり、楽しみは良く噛み締めるべきですよね」
「草麻」
唸る様に脅す様にエルがソウマの名を言う。
ソウマはにやりと口角を上げるだけだ。エルもつられ笑った。それは捕食者の笑みに近いだろう。エルは牙を剥き出しに両手を戦場に走らせた。
それは瞬息の箸捌き、というよりフォーク捌きか。
エルは両手にフォークを持つと、テーブルに並べられた鶏肉を貪っていく。それは、ソウマが頬張った量を容易く凌駕していた。
「ちょっ!エルさん」
「所詮、この世は、弱肉強食。弱いものは、食われるだけですよ」
頬一杯の戦果を咀嚼しながら、ぎらりとエルの瞳が光る。
此処に来て、ソウマのフェミニスト精神は消えた。右手に箸を持ち左手にはフォークを装備する。それはこの戦場における矛と盾。ソウマの両手が奔り、エルのフォークと交差した。ぎりぎりと魔力が浸透した食器が異音を奏でるなか、ソウマが挑発する様に言った、
「王を倒すのは奴隷ですよ。弱者の足掻き見縊って貰っては困りますね」
それは革命の息吹き。
すべからず、王を強者を打ち倒すのは弱者と相場が決まっている。しかし、なお呼応する様に強者は笑った。虎が何故強いかを教えてやろうと思った。
「上等です。それでは密林の王の力をとくと味わうのですね」
それが、膠着を弾く合図となる。
箸が舞いフォークが乱れる、テーブルの上はさながら竜巻が現れた様に蹂躙されていく。両者の意志は即ち一つ。
「「この肉は貰います!!」」
それだけだった。
「起きましたか」
凛とした鈴の音でソウマは目を覚ました。
直ぐに循気を使い状況を把握する。黄昏に染まった空を背景に、逆さに移るエルの顔が見える。模擬戦で倒れた後、また膝枕をしてくれていたようだ。ソウマにとってその行為は大変ありがたいが、同時に心臓に悪いというのが正直なところである。顔に血液が集まるのを自覚しながら、ソウマは直ぐに起き上がった。
「お、おはようございます」
寝起き直後だろうと、ソウマは呆ける事は無い。
噛んだ挨拶がソウマの動揺を強く表していた。エルもそれを判っているので、かつての彼に無い初心な反応を楽しむ様に微笑むとからかう様に言う。
「そんなに焦らなくても良いのですが」
「いえ、その、ありがとうございます」
ソウマはエルの視線から逃げるように俯くと頭を掻いた。
経験の乏しいソウマにとって、会話などはともかく、美しい女性の不意な接近にはまだまだ慣れていない状況だ。かつての自分は良く平静でいられたものだとつくづく思う。
「これ位構いませんよ。治癒魔術も掛けてありますから、トレーニングするのでしょう」
「ええ、そのつもりです」
エルの言葉にソウマは頷いた。
もはや習慣までばれている現状が、ソウマにとっては何ともこそばゆい。照れ隠しも含めてソウマは直ぐに腕立て伏せを開始した。何時も通り足先を地面から放すと体重を右腕だけで支える。
エルは当然の様にソウマの背中に座っていた。
顔が見られないのがせめてもの救いだ。エルは山間に隠れ行く太陽を眺めながらソウマに聞いた。
「草麻、魔浸術の契約を近々行いますが、体調はどうです?」
少し固いエルの口調は緊張の為だろうか。
ソウマは気負う事無く小さく笑みを作った。契約を完遂する事が自身の存在理由である以上、怯む事などある筈も無い。
「悪くないですよ。ただ、体調というか、サマンさんの種のせいか、木の属性変換がやたら上手く行く様になりましたね。その分土の属性変換が鈍りましたけど」
「種ですか。ウッド・マスターは魔浸術を行う資格を得ると言っていましたが、心当たりはありますか?」
「いや、全く無いですね。まあ、想像でよければ一つ二つありますが………」
「例えば?」
「単純に魔浸術の契約の際に木の属性変換が役立つとか」
「無いとは言いませんが、期待は少ないですね」
「後は、俺の主人は土の属性が強いので、それを抑える為とかですかね」
属性には相性がある。
例えば陰陽道でいう相生、相剋。四大元素で言う結合、分離。今回の場合はソウマはフルバランスであるが、主人であるヒメの影響か微かではあるが土の属性が強くなっている。それを相剋の関係である木で弱めようとしたのか。シルフィーアの悪戯は除外するとして、あくまでも、予想の一つしてソウマは考えていた。
「………成る程。魔浸術は極めて繊細な術と聞きます。他人の魔力が邪魔になる可能性は多いにある」
「とはいえ、一番謎なのは何故サマンさんが、面識の無い俺の事を、主人も含めて知り、その上手助けしてくれたのかですけどね」
「確かに。ウッド・マスターといえば不動であり俗世から離れた人ですからね。ここまで人に関わるのは極めて稀でしょう。ソウマはグレートグリーンに居る時に何かしたのでは無いですか?」
「何かと言われても、主従契約しただけですからね。サマンさんとは初対面も良いとこですよ」
「そうですか」
「まあ、俺が言い出しといて何ですけど、気にしても仕方ないんですけどね」
冗談のように軽くソウマは言う。
その楽観的な言葉にエルは穏やかに笑うだけだ。ソウマはエルの反応が多少不思議ではあったが、問うことはしなかった。
「それで、実際の所、今の俺で本当に魔浸術は大丈夫そうなんですかね」
「はい。草麻が記憶を無くして不安もありましたが、貴方の呼吸を読み合わせる技術に衰えはありませんでした。アンタッチャブルバードを狩れましたしね」
「そいつは良かった。じゃあ、具体的に何時魔浸術の契約をやるんですか?」
ソウマの問いにエルは一度頷くと確認する様に言った。
「………明後日にしましょうか。当初の予定通りですね」
「そっか。もう、あれから一月半経つんですね」
ソウマの声は何処か実感が薄いように聞こえた。
それは当然と言えば当然。草麻が記憶を捨ててから僅か二日の時しか経っていないのだ。感覚が乏しいのは仕方の無い話だろう。
「草麻、貴方の自律能力は認めていますが、心構えだけはしておいて下さい」
そこにエルは釘を刺した。
契約の際は間違いなく、生死の狭間を潜ることになる。浮ついた精神状態では話にならない。
「ええ。此処まで色んなモノを捨てて置いて、失敗したんじゃ間抜けもいい所ですからね。気合入れますよ」
軽く口調だが、その本質は重厚だった。
その如何にもソウマらしい口振りに、三つ子の魂百までかとエルは苦笑すると、安心したように契約について説明しはじめた。
「それでは実際の契約方法ですが、私が専用の魔法陣を描きその中で草麻に私の核を移します。その後草麻が核と同調出来れば魔浸術は完了です」
魔浸術という魔術がどれ程異端なのかを聞いているソウマにとって、エルの説明は簡潔すぎた。ソウマは支える右腕を左腕に変えながらエルに聞く。
「なんというか、話だけを聞くとお手軽ですね」
「ええ、話だけなら簡単ですよ。ですが、この契約魔術は致死率百パーセントと言われる馬鹿げた術です。当然ながら私も行うのは初めてです」
「はは、百パーセントって、随分な割合ですね」
「それ程危険という事でしょう」
「何か同調の際のアドバイスとかありますか?」
「私も初めてですし、伝聞にはなりますが。自分を見失わない事、これが肝要らしいです」
「判りました。それで、同調の際はやっぱ激痛が走るんですかね」
力を得る際の定番といえば定番だ。
実際、力を得た訳では無いが、先日ソウマはガイナスの手によりのたうち回っている。エルは考えを纏める様に口を閉ざした。ややあり、
「………それもあるようですが、何でも自己が侵され自己を無くし、死亡すると言われています」
「………侵されるって何にですか?」
「すみません。詳細は判りません。魔浸術の契約の仕方は学んでいますが、それ以外は多少しか判らないのです」
「そうですか。まあ、契約数が絶対的に少ないから仕方ないですね」
相変らずとも言える暢気な台詞だった。
エレントの図書館では、魔浸術は閲覧が限定されており概要まで読めず、当の契約者の知識も当てにならない。普通なら怒るか嘆くかとするだろうが、一応は突発的な出来事に多々直面してきたソウマにとって、そこまで強く気にする事では無かった。もっと単純にいえば諦観とも言える。
「本当にすいません」
「別に気落ちする必要は無いですけど、言って欲しかったですか?そんな知識で良く魔浸術を契約するなど言ったな。とか?」
「……う」
珍しく、ソウマの言葉にエルが詰まった。
ソウマは苦笑しながら続けた。
「エルさんは希望を教えてくれて、俺はそれを受け入れた。それだけの話です。別に気にしなくて良いですよ」
「ですが」
随分と今更なことではある。
どうやらエルは突っ走った後で、難事を思い返す性質らしい。なお納得しないエルにソウマはどうするかと内心で首を捻った。
裏切りとも取れる行為をした後、こうして付いてくれているだけでも十二分に有り難い事なのだ。けれど、それを言ったところでエルは納得しないだろう。さてと、ソウマは支える腕を両腕に戻した。
「それなら、一個だけお願いしても良いですか?」
「………なんですか?」
ソウマは地面に顔が向いている状況に助かった。
次の言葉が恥ずかしいのだろう。僅かに頬を紅潮させるとやや早口に言った。
「魔浸術の契約が上手くいったら、耳か尻尾、どっちかだけでも良いんで触らして貰っても良いですか?」
「え?」
「いや、その駄目なら全然良いんですけど、もし良かったら触りたいな、何て………」
「………………」
沈黙が余りに痛い。
ソウマの身体は精神的な汗で濡れていた。もはや機械的に腕立て伏せを行う事しか出来ない。やはり忠告を無視したのは駄目だったか。もはや、穴があったらはいりたいし、背中の重みがなければ既に逃げ出している。やがて、ソウマが諦めた様に口を開く寸前、エルの尻尾がソウマの首に巻きついた。
「やはり、貴方はバカです」
心底呆れた様な言葉。
エルは空を眺めながら言う。ソウマが自分を安心させようと無理をしてくれたのが嬉しかった。尻尾はソウマの首から離れると、彼の顔の前に移動した。
「前金ですよ」
ソウマの頬を優しく叩く様にエルの尻尾が揺れた。
ぺしぺしと愛おしく縞模様の尾がソウマを撫でる。ソウマは何もせずにそれを受け入れるだけだ。
「前金を渡した以上、失敗は許しませんからね」
言って、最後にエルの尻尾はソウマの額を叩いた。
「押し売り詐欺も良い所ですよ」
ソウマは憮然とだが、楽しそうに言った。
「ですが、貰ったのなら仕方ないですね」
「ええ、仕方ありません」
エルも楽しげに言った。
記憶を捨てた草麻はやはり少し違う。例えば、亜人の特徴に興味を持ったり口調が今まで以上に畏まったりと、固くなった印象を受ける。しかし、それでも仕方ないと言う彼の根本は変わりないと思えた。だから、エルはソウマに自身の核を渡す事に躊躇いは一切無かった。
「何やってんだ?お前等」
そこに無粋とも取れる、野太い声が掛った。
ソウマとエル、二人が揃って視線を向けた先には褐色の偉丈夫が立っている。重厚な鎧を着こみ、自然体だが隙の無い戦闘者としての出立が良く似合う男だ。狂戦士ことディートリヒ・ベクターが其処に居た。
「何ってトレーニングですよ」
ディートリヒの声に反応したのはエルだ。
尻尾は既に所定の位置に戻り、何時ものクールな容貌をディートリヒに向けている。
「それより、貴方こそどうしたのですか」
エルはソウマから離れるとディートリヒの眼前に立った。
「ん、そろそろかなと思ってな。ハイキングがてら来てみた」
「ハイキングにしては、随分ものものしいですね」
「此処はグレートグリーンだからな。むしろお前等がラフすぎらあ」
そういうと、ディートリヒは歩を進める。
腕立てを止め、立ち上がったソウマの眼前に行くと狂戦士は言った。
「でだ、セーミアはどうした?」
「振られました」
「理由はなんだ。愛想付かされた訳位あんだろ。夜這いでもしたか?」
「いえ、実は逆にとんでもない男に夜這いされまして、結果愛想付かされました」
ソウマの説明はどうにも要領を得ない。
言葉も余所余所しく奥歯に詰まったものの言い様だ。しかし、判った事は一つある。どうにも楽しい事がおこったのだと。
「ははあ、相変らずってことか」
「何ですか、相変らずって?」
「数奇な奴だってことさ」
ディートリヒはどかりと地面に腰をおろした。
にいと野獣の様に唇を曲げる。ソウマは溜息を吐くと同じ様に座った。そして、頭を下げる。
「すみません。俺は貴方方を捨てました」
「あん?」
突然で唐突なソウマの謝罪にディートリヒは怪訝な顔を作る。
ソウマは顔を上げると、事の顛末を話しだした。
「本当にお前はバカだなあ」
それが話を聞き終えた後、ディートリヒの口から先ず出た言葉だった。
内容はともかく、口調としては暖かい。くっくと笑ってくれたのは幸いだろうか。
「そんなものは、前の俺に言って下さい」
ディートリヒの雰囲気に、ソウマも多少は安心したのだろう。
すねた子供の様な事を口にした。その姿にディートリヒは噴き出し、豪快に笑うと、覗き込むようにソウマを見た。
「はっはっはっ!言っとくがなソウ。お前の業は存外深えみたいだぜ。記録となった魔浸術への決意も無しに、お前は一切止める気配がねえ。結局、バカは死ななきゃ治らねえてこった」
「同感ですね。記憶を無くしても根本のバカな所に変わりはありません」
「………バカバカて」
ディートリヒとエル。
二人の口撃にソウマは閉口するしか出来なかった。その姿に二人はさらに笑いを深める。
「で、いつやるんだ」
「明後日です」
ソウマが答えると、ディートリヒは頷く。
「そうか。じゃあ、成功したら渡す物があるからな。頼むぜ」
「任して下さい」
ソウマは強気に答えた。
ディートリヒは笑みを濃くする。ソウマはふと空を見上げた。黄色の月が朗らかに空に浮かんでいる。エルも同じように眺めていた。
そして、二日後。
いよいよ、魔浸術契約の時がやってきた。