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狼浪奇譚  作者: ただ
36/47

グレートグリーン3 / エルメス・パール

「いえ、何かすみません。けど、大丈夫です」

涙を拭いながらソウマは気丈に言葉を紡いだ。

充血した目が痛々しく、起きたのが奇跡とも言える状況なので、エルとセーミアは何事かと心配の眼を向けている。


その中で、二人はソウマの視線に違和感を覚えていた。

彼から向けられる感情は、まるで初対面の様な余所余所しさがある。何と言うか、単純に親しみが無い。怪訝に思い、セーミアがソウマに問おうとした時、世界が鳴動した。圧迫どころか拘束すら感じる、巨大で強大な存在感。マスターを冠する存在が其処に居た。


「流石、というべきか」


ウッド・マスター。

ガイナス・W・サマンは表情を変えずに零した。警戒を露わにするのはエルとセーミアの二人だけで、ソウマは審判を待つ犯罪者の様相だった。記憶は無いが直近の記録は見てはいる。一つの目的の為に記憶と感傷を捨て去った自分は許される存在ではないだろう。


「此処は狭い。移動する」


ガイナスから魔力が滲み出る。

溢れる様に漏れ出した魔力は、意志という力だけで神秘を成す。ガイナスの意志に従い、ソウマ達がいる地面が隆起すると、一本の木が生えて来た。その木は蓋の様な枝に三人を乗せると、一気に十五メートル程伸びていく。やがて、木は何時もトレーニングをしている広場のある崖で成長を止めた。僅か一拍の術ですらない生態じみた能力は、正しく人知を超越した力だろう。ソウマ達が木から崖に体を移すと、その木は逆再生をする様に戻っていった。


す、と音も無く背後にガイナスが現れる。

ガイナスは真っ直ぐにソウマに近づくと、先刻と同じ様に有無を言わせずに頭を掴んだ。混沌とした光の奔流がガイナスの手を覆い、光が消えるとガイナスはあっさりと手を離した。一度だけ確認する様に手を握り締めると、ガイナスは重厚さえ感じる声で言った。


「潔いな」


何とも簡潔な感想だった。

ガイナスは、今の行為だけで草麻の選択を理解していた。草麻の決断に憐れむ事も無く、憤る事も無い。淡々とガイナスは草麻の行いを一言で評した。エルは意を決してガイナスに問うた。ソウマに感じる違和感が知りたかった。


「草麻はどうしたんですか?」


その凛とした声に、ガイナスは目を向けた。

ぞっとする程、深い瞳がエルを見据える。ガイナスは何の感情も籠らない声で言った。


「捨てたのだよ。この男は先の為に家族を捨て、師を捨て、友を捨て、自己さえも捨てたのだ。もはや、イズミは己の名さえ思い出せないだろう」


明朗な言葉故に誤魔化しも裏も無かった。

先程から感じる些細な疎外感。遠くなった間合いから、エルとセーミアはソウマに視線を向けた。その二対の瞳にソウマは居た堪れなく顔を伏せる。その沈黙が言葉の肯定を告げていた。エルは唇を噛み締めると思わず叫んだ。


「何故ですか!?」


それは誰に対する疑問だったのか。

ソウマは応えず、ガイナスが巌の様にただ事実だけを口にした。


「選択したのだよ。種を開花させる為にイズミは余分を捨てたのだ」

「でも、記憶を捨てては意味が無いではないですか」

「何、言ったであろう。余分をと。イズミは最低限だけは残している」


ガイナスの瞳がソウマを居抜く。

巨大な老木を感じさせる、吸い込まれる様な瞳だった。ソウマはつられる様に顔を上げると、エルとセーミアに目を向けた。痙攣する舌を懸命に動かし、かつての友人に罪を告白した。


「はい、俺が覚えているのは戦う術と痛みだけです。俺は貴女達との記録を知っているだけで、もう主人の名前すらも思い出せません」


何と恐ろしい言葉だろうか。

まるで、悪い夢を見ているようだ。付き合いは短いが、それでも友だと信じていた。綺麗だと勝手に憧れていた。その全てを彼は捨てたと言うのか。ふつふつと制御出来ない怒りが湧き起ると、それは口から飛び出していた。


「何をしているのですか!!」

「ソウマさん!!」


二人の叫びは、怒りと嘆きが合わさった様な悲鳴だった。

そのなじる様な罵声を聞いても、ソウマは目を伏せる事しか出来ない。自分すら判らない人間が、初対面の者から向けられる感情を百パーセント理解しろというのが無理なのだ。その姿。昨日まで確かにあった彼との繋がり、共感全てを断絶された様な薄ら寒さが、今更ながら体を包んでいた。


沈痛な時が空間を流れる。

ソウマは一度ゆっくりと目を閉じた。失ったモノの大きさに耐える様に。目を開け、真っ直ぐと見知らぬ友を見据えると、ソウマは言った。


「ただ、主人は親友だった。それだけは覚えています」


その真摯で独善な言葉に、エルとセーミアはとうとう声を無くした。

もはや、怒りも悲しみも悔しさも全て吹き飛んだ。セーミアは抑える様に手を口元に当て、エルの白銀の瞳は瞳孔が裂けていた。溢れる暴風の様な感情を堰き止めるのはたった一つの言葉に過ぎない。


主人は親友。

もはや、どう足掻いても納得するしかないだろう。自分達は知っていた筈だ。五澄草麻は親友の為に命を捨てる事を厭わない人でなしと。その結果が記憶の喪失。彼は主人の為に友を捨てたのだ。滅私奉公、改めて気持ちの悪い言葉だった。


ガイナスは眺める様にソウマを見る。

捨てたものを理解し、それでも青年は毅然と前を向いていた。ガイナスは一度顔の皺を撫でると、無造作にソウマの額に指を当てた。もはや、これからの試練を問うまでもない。


「種を開花させる」


ぽうと深い緑色の光が額に灯る。

唐突な行為に心の準備など有る筈も無い。二人は戸惑いながらも、経過を見守ることしか出来なかった。唯一、ソウマだけは既に覚悟だけはしていたのだろう、決死の目でガイナスを見据えている。


その眼が、驚愕で瞬いた。

突然始まった全身を蹂躙する激痛。痛みには耐性の高いソウマでさえ、それは初めて経験する痛みだった。まるで血管に無数の針が流れて細胞一つ一つを侵す様な絶後の苦痛。ソウマは堪らず膝を付いた。


「あ、ぎ」


苦悶の声が知らず零れる。

目を必死に瞑り、奥歯をあらん限りの力で噛み締めた。それでも嗚咽が滲み出る。両手で身体を掻き抱き、ソウマは遂に地面にうずくまった。意地とか面子とか、外面的な要素は既に漂白されている。


ただ、痛い。

無数の寄生虫が絶え間なく全身の肉を喰い、脳髄がドリルで抉られ、内臓が焼かれている。それは、発狂の痛みを超えた煉獄だろう。世界に独り、ソウマは主人という一欠けらだけが、己を保つ唯一の抗いだった。そこにふわりと誰かの手が添えられる。


「サーチ・イン」


それは、エルの掌。

彼女は直ぐにソウマに駆け寄ると、解析の魔術を懸けた。エルの脳裏にソウマの身体が浮かび上がる。血流に毒素の様なモノが流れ、細胞を変質させているのが観えていた。


「草麻に何をしたのですか」


焦燥を滲ませながらエルはガイナスに聞く。

治癒魔術を得意するエルは、当然様々な怪我や病気を観て来ている。だが、此処まで強烈で対処の仕様が思い浮かばない例は初めてだった。


「言ったであろう。種を開花させたと。今、イズミの身体は木の属性に変質している。その変質を抑えれば、魔浸術を行う資格を得る」


「抑えられなければ、どうなるのです」


エルの問いにガイナスは簡潔に答えた。


「ソウマ・イズミという木になるだろう」


失敗すれば一本の木になるとガイナスは言う。

エルはその言葉に歯噛みする事しか出来なかった。男はウッド・マスター。これだけの些細な行為ですら多大な神秘を行える超越者である。嘘や冗談の類ではないのだろう。


「何か出来ないのですか」


「判っているだろうが、治癒魔術の行使は止めておけ。細胞が活性化し代謝が上昇している今では逆効果に過ぎん」


「ですが」


エルはそれでもと、縋る様にガイナスを見る。

だが、彼は既に興味を無くしたのか、地面に手を当てていた。凄まじい魔力の迸りが感じられるが、何をしているのかは判らない。ただ、助言が無い事だけは理解出来た。


エルは何か出来る訳では無いが、ソウマの背に手を当てる。

無力感が肩を押し潰す中、ぽつりと小指大の種が落とされた。何をと疑問を浮かべる前に、ガイナスの声が聞こえた。


「イズミが気を取り戻したら、種をこの地に植えさせるがいい。魔浸術の契約の際に役立つだろう」


何と図抜けた言葉だろうか。

その先があるかすら判らない状況で、心配も同情も無い淡々とした言葉は余りに薄情すぎる。エルは思わず、マスターという存在と言う事を理解しても、ガイナスを睨んだ。それが、ただの八当たりという事は理解していた。


「ではな」


だが、そんなエルの烈火の視線でさえ、ガイナスにとっては微風にすらならない。世界を遥かの時から眺めている巨木にとって、これしきの感情では葉すら揺らぐ事は無かった。ガイナスは背を向けた。その巨大な背にか細い言葉が聞こえた。


「ありが、とう、ございまし、た」


それは、ソウマの感謝の言葉だった。

息も絶え絶えに、蚊が鳴くような囁き声だったが、それは確かに巨木に届いたようだ。ガイナスは振り返るとソウマを眺める。芋虫の様に身体を丸める青年は、激痛に顔を歪めながらも、それでも微笑みを浮かべようとしていた。


まさか、伽藍堂に近い青年が地獄の只中で笑うとは。

選択肢が無いに等しい状況に文句も恨み言も言わずに誠意を示すとは。その感傷、ガイナスは頬の皺を微かに本当に微かに濃くすると、ソウマに言った。


「正誤あれど、それを全うし貫かんとする意志は貴きものだ。尊敬も憤怒も他者の後付けにすぎぬ。その点で言えば、イズミ、貴様は確かに得難き存在かも知れぬ」


多弁な言葉がガイナスの昂ぶりを表していた。

一つの為に他を切り捨てる事を、間違いと叫ぶ者もいるだろう。

他の為に一つを切り捨てる事を、正しいと叫ぶ者もいるだろう。

何が正解で何が間違いか等、結局は人の価値観に過ぎない。ただ、意志貫徹、ガイナスにしてみれば、それだけが全てであるらしかった。


「シルフィーアに殺されぬ様に、奴の名だけは教えておけ」


ガイナスは最後にエルを見ると、ソウマの安否を気遣った。

その初めて見る穏やかな光にエルは一回だけ強く頷く。何も出来なくともせめて傍にいよう。改めてそう想った。ガイナスは今度こそ姿を消した。同時にソウマの意識も途絶えた。だが、それでも唸る様な声から戦っている事が解る。


エルは背後に呆然と立ち竦むセーミアに声を掛けた。


「セーミア、貴女はどうするのですか?」


返ってきた言葉は、小さなものだった。


「………判りません。私はソウマさんがやった事に納得は出来ても納得は出来ないんです」


矛盾した言葉だったが、エルは何も言わなかった。

彼女も同じ気持があるから。


「エルさんは、どうするんですか?」

「決まっています。草麻と魔浸術を契約し、見届けたいと思います」


視線をソウマから外さず、エルは即答した。

その姿勢がセーミアには信じられなかった。確かに自分も見届けたいと言った。けれど、それは過去を背負い未来を見据えた青年に対してで、過去すら捨てた青年に対してでは無いのだ。


「許せるんですか。ソウマさんは捨てたんですよ。私達はもとより、家族との絆すらソウマさんは捨てたんですよ。私は、許せません」


半ばなじる様にセーミアは言う。

過去の清算を目的とするセーミアにとって、過去を捨てるという草麻の行為は、とてもじゃないが許せるものではなかった。静かな声だからこそ、余計に感情の強さを表しているようだった。エルは言葉を選ぶようにして、訥々と心情を語った。


「………正直な事を言えば、私はサクラが羨ましい。草麻の背景はどうあれ、彼は一人の友に殉じました。友愛なのか愛情なのかは知りませんが、それだけの代償を払ってくれる人が居る。それが羨ましい」


儚いエルの背中に、セーミアは苦い物を吐くように呻いた。

確かにあのワインを飲み交わした時、セーミアは草麻の思想を綺麗だと想った。エルと同じ事を思っていた。けど、


「それでも、もっと何か違う方法があったんじゃないかって思うんです。これは、ただの駄々で、勝手な文句ですけど、ソウマさんが薄情にしか思えないんですよ」


胸の蟠りを吐くようにセーミアは言う。

エルは反論する事無く頷いた。


「そう、なのでしょうね。人と関わっておきながら、いざ危急になれば容易く捨てる。確かに、ただの人でなしだ」


「ソウマさんは我が儘すぎます。私は」


セーミアは口惜しげに言葉を閉ざした。

アルフレッドが消えてから、ずっと家族を想って来た。あの時、あの場所での真実が知りたかった。アルフレッドと何処か似ている草麻とヒメの主従なら、それが判ると信じていた。だからこそ、敢えてセーミアはディーノ誘いを蹴り、アルフレッドの草麻と共に来いという伝言に従ったのだ。


けれど、草麻は繋がる糸の全てを切った。

もしも、これが他人の手によってなら仕方ないと真に納得できたかもしれない。けれど、彼は自分で選択したのだ。理屈は判る、けど感情がどうしても制御出来なかった。


「何を正しいと思うかは、人によって違います。けれど私は此処までの代償を支払った草麻を見届けたいと、手助けしたいと思います」


なお毅然とエルは言った。

それが、彼女の選択であり、セーミアの理解の外だった。セーミアは微笑を無くした顔で言った。


「一人にさせて下さい」

「判りました」


エルは引き留める言葉を持たなかった。

暗闇の中、ソウマとエルの二人だけが残る。決断を肯定する者、否定する者。蝕まれる苦痛の中、ソウマは立ち去る気配を感じても、申し訳ないと詫びる言葉しか出て来なかった。




荒い呼吸音が絶えなく響いている。

ガイナスが立ち去った後、エルが先ず行ったのはソウマをテントの中で休ませる事だった。柔らかいクッションの上に寝かせ、布を口に挟ませる。滲み出る汗を濡らしたタオルで拭きながら、異変を直ぐに察知できる様に解析魔術を掛け続ける。


現状、エルが出来る事はそれ位だった。

セーミアが居ればとエルは思うが、過去の清算をする為に生きる彼女が、過去を捨て去ったソウマをどう想ったか。少なくとも余人が断言出来る程単純では無いだろう。冷淡かも知れないが、エルはソウマに集中することにした。


「草麻」


呼気が激しく、ソウマが苦しみだしたら、エルは声を掛けた。

病は気からという言葉の通り、人間は孤独を自覚すると弱くなる。ただ、誰かが傍で名前を呼んでくれるだけで安心できるものだ。ソウマは痛みに撹拌され続ける微睡みの中、エルの言葉と親友という想いが、自分を自覚する助けだった。苦しむソウマを診ながら、エルは何度も何度も気持ちを反芻していた。



エルメス・パールは草麻・五澄に何も返せていない。

それは、主人を失う切っ掛けを作った事であり、解放してくれた事であり、我が儘を許してくれた事でもある。出会ってから僅か二ヶ月も経っていないが、それでも比類ない恩を与えてくれた。


純粋なまでの主従の在り方に憧れ、実際に会話し共に過ごした。

疎まれ忌み嫌われた自分にとって、それがどれだけ眩しかったことか。アンタッチャブルバードを狩った時、朗らかな笑みでエルさんと、成功を分ち合えた事がどれだけ心に染みたか。その記憶を捨てられた事は確かに悔しい。けど、死なせたくない。それだけは確かだ。



あれから、何時間経っただろう。

森は燃える様なオレンジ色に包まれていた。昼と夜の一瞬の境目による強い光がテントを照らすと、ソウマは目を開けた。滲む視界の先には透明感のある金髪の女。未だ、名も知らない女にソウマは咥えた布を放すと、ゆっくりと口を開いた。


「あり、がとう、ございます」


苦しげだが、はっきりとした意思にエルは安堵の溜息を吐く。

その言葉はソウマの容態が安定してきた証拠であった。流石というべきか、ソウマのタフさは尋常では無い。エルは口元に微笑みを浮かべた。


「いえ、当然の事です」


エルの口振りは素っ気ないが、注がれる瞳は暖かい。

未だ焦点の合わない瞳だが、彼女の眼の下に隈が出来ているのが見て取れた。同時に、涅槃に沈もうとする意識の先、絶え間なく名前が呼ばれた事を思いだす。


ソウマは、心配してくれる懸命な姿勢が、それを当然と言ってくれる事が嬉しくて堪らなかった。だからこそ申し訳ない。自分はもう記録しか見ていないのだ。


「でも、俺は、貴女の事、どころか、自分の名さえ、忘れました。見捨ててくれても、いいんですよ」


ソウマの口からゆっくりとだが、弱音に近い言葉が零れる。

この温もりを手放したくはないが、それだけは伝えなければ成らないと思った。自分は草麻・五澄と言える自信は全く無いのだ。自分に想いを受け取る資格はないだろう。しかし、ソウマの不安を余所にエルは何でも無いように答えた。


「もし、草麻が何の為にという理由すら捨てていたら、私は此処に居ないでしょう。ですが、貴方の根本は変わっていません。謝られても困ります」


「へ、へ。ホント、優しいん、ですね」


「それこそ、まさかですよ。私が草麻に魔浸術を提案しなければ、こんな事にならなかった。憶えてないかも知れませんが、責められるべきは私なのです」


伏せられ、彷徨う瞳。

悔恨に綴られた言葉に、ソウマは何を言うべきか躊躇いながら、不器用に言った。


「………きっと、俺は貴女に、出会わなければ、約束を守れず、死んでた、でしょう」


苦悶の声。

引き攣った声帯は上手く言葉を運んでくれない。彼女に届いているだろうか。存在自体が曖昧で、己の名すら思い出せない男だけど、俺は感謝しているのだと。捨てた男相手に其処まで思い詰める必要は全く無いのだと。ソウマは体を両腕で抱く様に耐えながら、濡れそうな瞳を見上げた。


「けど、貴女のお蔭で、主人との、親友との約束を、守れるかもしれない」


それは本を読む様な過去の記録だ。

焚火を囲んだ自分と主人。鎧通しを用いた初めての金打。そこに至る経緯を共有していても、共感は出来ていない。それでも、親友との約束というのは理解出来ている。だから、


「それだけで、俺は良いんです」


そう、彼は穏やかに笑った。

痛みの中、ぎこちなくも、それでもソウマは笑った。死期を悟った老人の様な儚い笑みに、エルの瞳からとうとう涙が零れた。ぽつりぽつりとソウマの顔に雨だれが落ちていく。ソウマは目を瞬かせると、エルに聞いた。


「………どう、したんです、か」

「どうしたじゃ、ありません」


エルの声は掠れていた。

こんな状況でも自分の事は後回しで、他者を心配する彼に怒りすら湧いた。けれど、その優しいと言うには歪んだ心に改めて納得してしまったのだ。


「本当に貴方の根本は変わりません」


エルは涙を拭う事無く、心配そうに見上げるソウマの顔を両手で乱暴に掴んだ。真っ直ぐにソウマの黒い瞳を見詰める。確かに何時かとは違う、けど、


「間違いなく、貴方は、草麻・五澄です」


青年は、約束だけが存在理由だと、それだけで良いと言い切った。

かつての青年は、せめて約束くらい守りたいと言った。


共通するのは一つの理念。

たった一つの目的の為に自分を極限まで蔑ろにする思考に他ならない。けれど、その意志、執念にも似た自虐性こそが、五澄草麻が唯一例外と言った自我では無いのか。


「だから、そんな他人行儀は止めてください。もし、名前が思い出せないなら、私が何回でも教えて上げます」


エルは額と額が当たりそうな程に顔を近づける。

しっかりとこの伽藍堂となった青年に届かせるように、エルは言葉を精一杯紡いだ。


「貴方は草麻・五澄です」


白銀の瞳に泣き出しそうな子供の顔が映る。

改めて、改めて、自分が捨て去ったモノの大きさに押し潰された。裏切りともとれる行為をした自分に対して、泣いてくれる人の名前すら覚えていないのだ。ソウマは身を切る思いで、眼前の女に聞いた。


「………名前、教えて貰っても、良いですか」


ああ、とエルは肝心な事を忘れていたと思う。

エルは、かつてと同じ言葉を紡いだ。一言一言区切る様にしっかりと。


「エルメス・パール。エルで構いません」


ソウマは刻み込む様にエルの名を反芻する。

そして、与えられた名を、言った。


「ソウマ・イズミです。エルさん」


ソウマの呼びかけに、エルは朗らかな笑みを浮かべた。

その数瞬、ソウマは全身に走る痛みを忘れた。それは透明で純粋な少女の様な淡い笑み。余りに綺麗すぎて呼吸すら止まったように見惚れてしまう。空白になった意識、肯定してくれた事実を無くし、その笑みを向けられた草麻・五澄に嫉妬さえしてしまった。


ソウマは思う。

たとえ、この身が忘却に流されようとも、この時だけは褪せる事は無いだろうと。


「よろしい」


エルは頷くとソウマから手を離した。

あ、と名残惜しむ様な表情のソウマが可笑しかった。もっとも直ぐに顔を顰め心配することになるが、それでも先程まで感じていた、寒さはもう無い。それが、素直に嬉しいと思える。この感情が、親愛なのか友愛なのか、それとも恋慕なのかは判らない。ただ、彼と出会えた事に感謝だけがあった。




あれから、もう二日が経過していた。

セーミアは未だに感情が整理できず、一人グレートグリーンを彷徨っていた。考える事が多すぎて、迷宮にいるようだ。


「ソウマさん」


独り言が森に溶けていく。

腰掛けた岩の傍を小川が流れている。その上流にソウマ達は居るのだが、顔を合わせる勇気が無い。勇気ではないか、ただどうすればいいか判らない。セーミアが何回目かの溜息を吐きそうになった時、ピリと舌に刺激が奔った。反射的に神経を尖らせ、周囲を警戒する。背後の木に人の気配、セーミアは振り向いた。


「お久しぶりですね。セーミアさん」


掠れた様なハスキーな声が森に響く。

青髪の美青年は柔らかに微笑んでいる。何故此処にと戸惑いが走り、勇み足に怒りが込み上げ、同時に安心してしまった。片隅で警戒が過るが、それ以上の、感慨が込み上げていた。セーミアも同じように微笑んだ。


「ディーノ」


セーミアの視線の先には、かつてのエルの主人であり、セーミアの義弟。ディーノ・ジンベレルが立っていた。

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