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狼浪奇譚  作者: ただ
35/47

グレートグリーン2 / ソウマ・イズミ

「ヒメ!!」

叫び、右手を上げた。

薄暗い視界の先は見慣れたテントの天蓋が見える。その事実に草麻は安堵の溜息を吐くと、右手を力なく下した。


「夢だよ、な」


循気を行い、現状を把握する。

日常となった悪夢。左手に嵌めた時計の時刻は二時。体内時計も同様の時刻を指していた。二人用のテントを草麻は一人で使っている。同行者のエルとセーミアは違うテントで寝ている事だろう。


草麻はゆっくりとテントから出た。

広がる視界には圧倒的な自然。グレートグリーンで生活を始めてから、もう一ヶ月が経っていた。草麻はぼうと空を見上げる。日本の都市では見られない満天の星空が草麻を照らし、その中でも二つの月が異彩を放っている。草麻は森林の暗闇に躊躇いも無く足を踏み入れた。迷いの無い足取りはそれが習慣と成って居る事が見て取れた。


森の中、草麻の眼前には一本の巨木が鎮座している。

その木の表面には“始”と刻まれていた。もう七ヶ月近い前、草麻がこの世界に飛ばされた場所である。まだ、日本の何処かの森と思い、とりあえずと刻んだ文字が余りにも懐かしい。


草麻は愛おしげに文字を撫でると、その木を背凭れに座りこんだ。

足を放り出し、後頭部を木に添え目を閉じる。そして、深呼吸。何時かの何時もの桜の木にそうしていたように、草麻はゆっくりと息を吸って吐いた。目を開ける。変わらない木々のざわめきがそこにあった。


「変わる訳ねえか」


淡々とした言葉だが、そこには安堵の心地が秘められていた。

だが、喉の奥からせり上がる欲求がある。それは悲鳴だ。本当は逃げ出したいのだ。泣き言を言って、弱音を吐いて、嗚咽を漏らして、許しを請いたい。誰でも良いから縋りたいとすら思う。けれど、そんな事出来る筈も無い。


だから、草麻は何時も独りで此処に来る。

万が一の可能性、日本に帰れる事に掛けて。そうすれば、免罪符が得られるから。仕方がないと。相手が世界では分が悪いと諦められる。何て甘美な誘惑だろうか。草麻は唇を歪に上げた。引き攣った顔になり、身体を丸めると膝の間に顔をうずめる。


「ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ、ヒメ」


草麻は壊れた様に親友の名を繰りかえした。

毎夜の悪夢、奪われまた守れない刃に殺され覚醒する。普通なら、酷いノイローゼになるだろうが、その悪夢によって草麻は今を保てていた。今を笑って過ごせた。


理由は単純だ。

これだけ辛いんだから、今くらい笑っていても良いだろうという、下卑た免罪符である。そうやって、草麻は自分を最低な屑と認識する事により、自己を律する。こんな最低野郎だから、せめてせめて親友との約束だけは守ろうと。草麻の心にあるのはそれだけだ。


彼は悪夢以外を見ない。

無意識化においてすら彼は日本の家族に囲まれる安寧とした夢を拒絶していた。だから、草麻が此処に来るのはただの確認行為。弱い心を自覚するだけの自慰的な儀式に過ぎない。草麻は揺らぎも無く立ち上がった。しっかりとした足取りで森を行く。そこには一本の歪であるが、確かな芯が見えた。




「楽しくなって来たね」

「相変らずだな」

グレートグリーンの遥か上空に、二つの人影が浮かんでいた。

一人は指揮者に見える服装の女。一目で怜悧な印象を抱かせる美貌の女だ。片方は大樹だろうか。深く刻まれた年輪の様な皺とは対照的に、男はどこまでも瑞々しい。男は燕尾服に似た服を着こなし、貴族の様な風格を漂わせながら、女に言った。


「シルフィーア、お前も判っているだろう。彼の大狼の血と大虎の血を掛けたら一体どうなるか」


男の言葉にシルフィーアは楽しげに笑った。

見当違いとさえ言える言葉がつぼにはまったらしい。シルフィーアはなお笑いながら言った。


「だから、じゃないか。劇薬と劇薬、混ぜたらどうなるか?全くもって興味深いよ」


「死ぬぞ」


「ああ、死ぬだろうね。間違いないよ。ただの魔浸術なら草麻は受け入れられただろうが、今回は相手が悪い。いや、最高と評するべきかな」


シルフィーアの言葉に男は訥々と言った。


「良いのか?」


それは当然の疑問だろう。

シルフィーアは草麻の事をお気に入りと言った。その彼が死んでしまっては元も子もない。男の問いに、シルフィーアは手を打ち鳴らさんばかりの快活さで答えた。


「ああ、勿論さ。むしろ、最高の気分だよ!何せ、私のお気に入りが神と魔に挑戦するのだからね。結果はどうあれ、もはや私達では到底成しえない奇跡に挑む。最高だよ」


シルフィーアの非情とも取れる言葉に、男はそうかとだけ答えた。


「娘はどうする」


「そうだね。草麻が死んだ後は私があの娘を連れだすよ。それで終わりだ」


先程と同じ様に男はそうかとだけ応えると、静かに何かを秘める様に目を閉じた。実を言えば、男はシルフィーアよりも先に草麻に目を懸けていた。突然前触れも無く現れ、この森で生活を始めた青年。何時の間にか大狼と繋がり、風の女に気に入られた。エレントでシルフィーアが草麻について話した時は感慨さえあった。その青年が死ぬか。


………つまらないな。

それは、巨木の男を知る者からすれば全く信じられない感情である。何事にも不動であり泰然自若。それがこの男だからだ。男は何事も無かった様に眼を開けると、シルフィーアの姿は忽然と消えていた。


「ふむ」


男は本当に微かに眉を寄せた。

視線の先には草麻の姿があった。




「お疲れ様でした」

「どうも」

セーミアの労いの言葉にエルは簡潔に返した。

場所は何時もの丘で、夕方となり日常となった模擬戦が終わった後だ。草麻は倒れているが、もはやその姿を心配することはなくなっていた。エルは草麻に解析魔術と治癒魔術を並行して行い、セーミアは隣で相変らず柔和に笑っている。


「それで、実際どうですか?」


「そうですね。アンタッチャブル・バードの捕獲も成功し、同調も上手くいっています。もしかしたらと思える位の確立はありますね」


「もしかしたら、ですか」


「はい、もしかしたらです」


エルの遠慮の無い言葉にセーミアは溜息を吐いた。

判ってはいるが、魔浸術というモノの成功率の低さは異常だろう。狂戦士と戦えという方がまだ優しいのではと今なら思える。セーミアの反応にエルは言った。


「ネーヴェという亜人の実力は隔絶していました。そんな存在に僅か二ヶ月で噛みつこうというのです。多少の無茶は仕方ないでしょうね」


冷たい言葉だが、状況が状況だ。

セーミアは何かを言う事も無く、あっさりと話題を変えた。


「それにしても、ソウマさんは良く半年以上もこんな場所に居れましたね」


セーミアは耳に付けたイヤリング型の魔具を触りながら言う。

木と土の魔力素が過敏な場所は、セーミアの属性では辛いものがある。一週間という期間は移動時間もあるが、グレートグリーンでの生活の為の準備期間でもあった。エルは視線を一度セーミアに移し、直ぐに草麻に戻した。


「まあ、草麻はバカだから仕方ないでしょう。環境以前に、ここが誰の所有地かさえ知らないようですしね」


「でしょうねえ」


エルの言葉にセーミアはしみじみと頷いた。

芳醇で莫大な自然が残るグレートグリーン。現在に残る太古の森。何故、これ程広大で資源が豊富な土地に人の手が一切入っていないのか。それは深部に行くほど強力になる魔力素が外界を拒むという理由もあるが、最大の理由はただ一つ。


この土地がウッド・マスターの所有地だからだ。

マスターの名を冠する生きる伝説。個人、軍隊、国家。いかなる勢力でさえ男には及ばず、この土地は何時からかこう呼ばれる事になった“偉大な森”と。そんな曰くつきの森に誰が住むというのか。セーミアは嘆息すると草麻の頬を抓った。


「あの、痛いんですけどセーミアさん」

「狸寝入りしている人には丁度いいでしょう」


草麻は上体を起こすと悪気も無く言った。


「いやあ、エルさんの治療って気持ち良いんですよね」

「当然です」

「それで、此処って誰の所有地なんですか?」

「本当に知らなかったのですね」

「まあ、ソウマさんですし」

「いや、そんなに褒められても困ります」


その暢気な態度にエルは溜息を一つ。

セーミアも同じ様に溜息を吐き、草麻に説明を開始する。それが、この三人の在り方の一つだ。しかし、今回は溜息の数がエルの一個だけ。


ずぐとセーミアの舌先に強烈な刺激が襲っていた。

何時もなら何らかの味がする筈なのにその一切が無い。それは味覚を破壊する様な酷い痛み。セーミアはどっと噴き出した汗を感じながら、ゆっくりとおそるおそる振り向いた。


その先には赤い黄昏を背に一人の男が立っていた。

圧倒的、絶対的、究極的、無欠を知らしめる単語が一瞬で脳を駆け巡る。この感覚、知りたくも無かった絶望的で隔絶した実力差。悠然と立つ男は、ウインド・マスターと同様の気配を纏っていた。


もはや眼球一つ動かせない。

周囲を、草麻とエルの動きを知りたいが、全神経が男に集中している。虎の亜人のエルはまだ信用はある、草麻に至っては半年間過ごした実績がある、だが自分は?ただの人間だ。カラカラとセーミアの思考が空しく回っていく。冷静なパニック。何一つ前向き思考が出来なかった。男は鷹揚に口を開いた。


「少年、質問に答えよう。此処は私の森だ」


静かではあるが、力のある言葉だった。

たった一言でさえ強烈な言霊のようである。その暴力に真っ先に反応したのは草麻だった。この不自然な空気に一番慣れているのは草麻であり、単純に二人を庇おうと思ったからだ。


「お答え頂きありがとうございます。それと、勝手に入り申し訳ありません」


出来る限り、丁寧に言ったつもりではある。

居住まいを正して草麻は男の目を見つめた。ふっと飲み込まれそうな深さがある。シルフィーアの様な広大な景色とは違うが、根底は同じだろう。


「何、そう固くならずとも良い。お前達はこの世界に溶け込んでいる」

「ありがとうございます」


男が歩を進めた。

その一歩一歩でさえ、緊張を強いるには十分すぎる。男は草麻の前に立つと言った。


「少年。名は」

「草麻・五澄です」

「そうか、私はガイナス・W・サマンだ。好きに呼ぶと良い」


男の名乗りを聞いて、エルとセーミアの顔が一層強張った。

やはりというしかない。ウッド・マスター、伝説の一人だ。草麻は引き攣る舌を懸命に動かし、言った。


「それでは、サマンさんと呼ばせて頂きます。それで、サマンさんはどうして此処に?」


「イズミ、お前を確かめたくてな」


「確かめる?」


「ああ。お前はそこの亜人と魔浸術を結ぶのだろう」


ガイナスは一瞬だけ視線をエルに移すと草麻に戻した。

草麻は、ガイナスが何故と知っているのかという疑問は持たなかった。ただ、相変らず世界は自分の知らない所でぐるぐる回ってるなと言う実感だけが湧いていた。


「はい。その予定です」

「今のままでは、お前は死ぬ。ゆえにな、知りたくなった」


ガイナスの断定に草麻は沈黙で返した。

何と言えばいいか、正直判らなかったから。ガイナスは確かめる様に言葉を紡いだ。


「生きたいか」

「勿論です」

「そうか。では、確認させて貰う」


ぬっとガイナスは手を伸ばした。

巨大な掌が草麻の頭を覆う。否応も無い、乱暴ともとれる行為に草麻達は眼を瞬かせた。その瞬間、草麻の身体が崩れた。糸を切られたマリオネットの様に、重力に全てを委ねていた。エルとセーミアに攻撃的な気配が揺らぐ。それをガイナスは言葉だけで封じた。


「案ずるな。今死ぬか、この先で死ぬかの違いだけだ。言っただろう、確認がしたいと」


人形の様に頭を掴まれ、草麻の肉体はだらりと弛緩している。

意識が離れているのは判るが、もっと根本的な何かが抜け出しているようだ。ガイナスの掌に淡い混沌とした、属性を調べる球体の時の様な光が見える。


それは、魔力であり、生命力。

また、記憶であり衝動であり感情であり理性であり本能でさえある。肉体を構成する細胞、精神を造る意志。五澄草麻という存在全てをガイナスは吸収していた。


植物が大地から養分を吸い取る様に、ガイナスは草麻を貪欲に吸い出していく。じとガイナスの顔の皺の一つが濃くなった。ウッド・マスターであるガイナスの皺は、すなわち何かを吸収した証でもある。


ガイナスの手から光が消えた。

草麻の顔からは完全に生気が消え失せ、枯れ果てた大地の様だ。エルとセーミアがガイナスを怯みながらも睨んだ。その視線に一切の痛痒を感じずに、ガイナスは一度だけ頷いた。それは彼にとっての驚愕を表していた。


「さて、では返すぞ。イズミ」


ガイナスの手が再び光る。

混沌とした取りとめの無い光の奔流が草麻を包み込むと、土気色をした顔が次第に生命力を帯び始める。それは今吸ったばかりの草麻の全て。それが草麻に強制的に注入されていた。やがて光が収まるとガイナスは手を離した。重力に引かれ落ち行く草麻の身体をエルが抱きとめると、直ぐに解析の魔術を起動させる。


「サーチ・イン」


エルはどうか正常であってくれという期待を込めて魔力を流し続ける。しかし、結果は正常であり異常。肉体的には全く損傷はないが、脳波が乱れに乱れていた。まるで、草麻の精神だけを取り出した様な有様である。エルはガイナスに視線を向けると言った。


「何をしたのですか」


「ソウマ・イズミに私の種を蒔いた。今、イズミは記憶を遡っている。もし、一晩で眼を覚ます事が出来たなら力を得る有資格者ということだ」


「もし、目を覚まさなかったらどうなるのですか」


「魔浸術との契約で死ぬだけだ。しかし、仮にイズミが記憶に埋もれれば、永劫、安寧の中で眠り続ける事だろう」


「そんな」


「先程言った筈だ。今死ぬか、この先で死ぬか。それだけの話だ」


簡潔で残酷。

ガイナスは何の余韻すら残さず消えていた。後には取り残された者達だけ。何をどうすれば良いのかすら判らない。エルもセーミアも何も言えなかった。ただ長い一夜になることだけは確信していた。



森を奔る風の音だけが世界の全ての様だった。

静寂の中にエルとセーミアは居た。場所は何時もの洞穴の前。結界を張り寝ている草麻を挟む形で二人は座っていた。セーミアは膝を抱え込み、ぽつりと独り言の様に零した。


「大丈夫でしょうか」


エルは微動だにしない。

先の突然の出来事から未だ一時間も経っておらず、感情の整理と事態の推移を見守ることで精一杯だった。


「判りません」


立てた片膝に額を乗せたエルがやっと答えた。

余りにも簡素で殺伐とした言葉だった。今、エルの脳裏は何故と言う疑問だけがぐるぐると回り続けている。何故、ガイナスは魔浸術を絶対失敗すると言ったのか。


確かに魔浸術とは成功率の限りなく少ない契約術の一つではある。

けれど、エルの感覚だけならば、成功の息吹きを感じられていた。それなのに、何故、ガイナスは断言したのか。主従契約?狼と虎の種族差?草麻の異常性?悩めど悩めど答えは出ない。


何よりも、何故、自分は魔浸術なんてものを草麻に提案した。

それさえなければ、彼はこんなことにはならなかったのに。


「ですよね」


顔をさらに膝に埋め、セーミアが言う。

会話と言うよりも独り言の続きのようだった。セーミアは眠る草麻を見た。規則正しい息遣いは安眠といえる。先程、ガイナスは安寧の中眠り続けると言っていた。今を後悔する者にとって、過去の幸福ほど甘美なモノは無いだろう。


それはもはや届かぬ理想の先。

その暖かな温もりに抱かれて、誰が辛い現実に戻れるというのか。セーミアとエルは草麻が度々深夜一人で森に入っていくのを知っている。その現在を嘆いている姿に自分を投影していた。


ならば、過去に縋ってしまうのではないか。

セーミアは何も言わず顔を埋めた。何を考えるべきさえも判らなかった。




何かを得る為には、何かを捨てなければならない。


目の前には一冊の本が置かれている。

その本の題名は五澄草麻。本当は読みたくは無かったけど、風が表紙を捲った。


草麻、お前は何でこんな事すら出来ないんだ。

お兄ちゃんは直ぐに出来たのに、……本当残念ね。

このぐず。

駄目な弟。それが俺の全てだ。生まれてからずっとそう言われ続けて来た。俺は人よりも言葉を覚えるのが遅く。俺は人よりも立つのが遅かった。俺は兄貴に比べ全てが劣っていた。


父は厳格な人だった。母は厳しい人だった。兄は傲慢だった。

周囲からも見放され、俺の世界は孤立していた。家族と言う絶対の繋がりさえも希薄で、五歳で世界の残酷さを理解した。人は生まれで全てが決まるのだと。そう、俺は五歳であり余りにも幼かった。



ページが折られた場所で、風は止まった。



始めての友であるシロ。

真っ白い体毛の犬。夕方、町を一人で歩いていた時に襲われたのが切っ掛けだった。持っていた惣菜パンを全て食べ、なお貪欲にもっとくれと引っ付いてきた。その犬の最初の動機はどうであれ、初めて真っ直ぐに俺に視線を向けてくれた存在だった。楽しかった。あいつといるだけで、俺は幸せだった。


野良犬だったけど、あいつは何故か俺を直ぐに見つけてくれた。

逆に俺も直ぐに見つけられた。たまに飯を上げて、じゃれあって、俺を乗せてくれたりもした。俺にとって世界を繋ぐのは一匹の犬だけで、それで十分だった。けれど、俺は裏切った。俺は全てを裏切ったんだ。



風がさらにページを捲った。

そこには栞が挟まれ、何度も何度も繰り返し読まれた跡が見て取れた。



きっとそれは何処にでもある悲劇の一つ。

街中で偶然犯罪者と遭遇しその凶刃に殺害される。ニュースで流れても一週間で忘れられる様なありきたりな事件だろうが、当事者にとっては冗談にもならない。


俺はその人間が本当に怖かった。

焦点の合っていない淀んだ瞳、ぼさぼさの髪と無造作に伸びた髭、半開きの口からは涎が垂れ、腐った様な異臭を撒き散らしていた。そして、その手には家庭のどこにでもある包丁が握られている。


今にして思えば、夕暮れ時は俺にとって転機なんだろう。

真っ赤に染まった世界で俺は襲われた。気味の悪い笑いにすらなってない壊れた声。後はお決まりのパターンだ。


俺は動けず、あいつが犠牲になった。

赤い街路がさらに赤く染まり、眼球自体が真っ赤になった様な異質な血の世界。白いちょっと汚れた毛が赤に濡れてあいつの命を奪っていくのが嫌でも判る。そのままなら絶対に死ぬ事が幼いながらに判っていたのに、俺は逃げた。忘れていたというよりも昂ぶり過ぎた感情で欠落した記憶を思いだす。


俺の根底。

ヘドロよりも汚い、唾棄する様な汚濁。見るだけで吐き気を催し、聞くだけで怖気を呼び、触ればその部分を切り落としたくなる醜悪さ。それが、俺の本質だと改めて突きつけられた。


あいつは俺の親友であり、世界だった。

そして、俺は自分の命の為に世界を見捨てたのだ。それは命の天秤に千人乗ろうと万人乗ろうと、たとえ家族が乗ろうとも、見捨てるという事に他ならない。本当に、何て醜い衝動。


やがて、俺がその汚さに耐え兼ね戻った時には、全てが終わっていた。

男は倒れ、近くには別の屈強な男が立っている。そして、シロは死んでいた。白い体毛は赤しかなくて、あの声も、あの暖かさも、あの幸せも全てが無くなっていた。


六歳児に何が出来る。

一緒に殺されるだけとかいう常識は関係ない。俺にとって親友を見殺しにしたという事実だけが全部で、親友が死んだ事が悲しくて堪らなかった。悲しむ資格とかは判らない。けど、俺は泣いて泣いて泣いてずっとずっと泣き続けた。


そして、俺は知った。

無事だった俺を父さんが抱きしめてくれた、母さんが抱きしめてくれた、兄貴が抱きしめてくれた。ごめん、ありがとうと謝罪と感謝をしてくれた。


単純な話である。

父さんも母さんも勿論兄貴も。皆、幼かったのだ。両親は初めての子供が常軌を逸した天才でその光に眩み、兄貴も同じように見えなかっただけ。そして、俺はその影でいじけていただけの話だ。もし、俺が一人だと拗ねておらず、あいつを家族にして欲しいと言っていたら、違ったのかもしれない。


けど、俺の根底は変わらないのだろう。

だから、俺は屈強な男に会いに行った。強くなるために。せめて、自分の両手で抱ける存在だけでも守れるように。



風が吹いた。

パラパラとページが流れていく。



弟子入りはすんなりとはいかなかったけど、静流は俺を弟子にしてくれた。そして、冨田六合流というのは俺に合っていたのか、静流が誉めてくれたのを覚えている。静流の奥さんがこの人が誉めるのは珍しいのよと言ってくれたのも覚えている。照れ隠しに静流に殴られたけど本当に嬉しかった。誉められたのが初めてだったから。


厳格だけど優しい父親、厳しいけど暖かい母、傲慢だけど甘い兄。

この十七年間。俺は何一つ不自由をしなかった。家族の愛情と確かな絆があった。喧嘩もしたし、つまらない事に意地も張った。けど、その全てが楽しかったし嬉しかった。ありがとう。


それと、ぶっきらぼうだけど正しく道を教えてくれた静流。

その苛烈さは全て俺の為。弟子の未来を常に案じてくれた師匠。そして俺の初恋の人である静流の奥さん。ころころと優しく笑い朗らかな雰囲気が好きだった。静流の弟子になれて、彼女に出会えたことは幸運以外のなにものでもない。ありがとう。



何かを得る為には、何かを捨てなければならない。



人の脳の記憶容量は約116万GBという説がある。

じゃあ、俺の十七年間は一体どれだけだろうか。勿論、116万GBだろう。人はその116万GBの容量で記憶をやり繰りしている。必要な事はワンタッチキーに入力して、過去の記憶は圧縮して忘却と言う名のゴミ箱いきだ。だから、基本的に脳の記憶容量は常に満杯近く、直ぐに膨大なモノを詰め込む事は不可能だろう。けど、今俺は他人の手によって一度空にされ、整理する機会を設けられた。


俺に渡されたのは超圧縮された種。

解凍するだけで死にそうで、さらにきっと、その何かは80万GBは下らない容量に違いない。残りは僅か36万GB、たったそれだけだ。


何時だって、重大な選択というのは、俺達を置き去りに唐突に表れる。

しっかり準備をして、きちんとした心構えを持って、そいつと相対出来るのならば、それは幸運に違いない。いや、俺がただ準備不足力不足なだけか。結局、何かを得る為には、何かを捨てなければならないのだから。


風が流れる。

本は閉じられ、全てを攫う風が吹いた。






目を開けた。

“循気”で状況を把握する。がばりと速攻で上体を起すと時計を見た。時刻は2時15分程で視界の先は満点の星空。日付も、良かった。まだ、今晩といえる。ほっと安堵の溜息を吐くと、両隣から声が響いた。


「草麻」

「ソウマさん」


金髪の女性と栗色の髪の女性が左右から俺を見ていた。

え、と。二人の名前が出て来ない。栗色の髪の女性に探索者としての勉強を教えて貰ったのは覚えているが、それだけで、反対側の金髪の女性は魔浸術の契約者の筈だけど、なんだろう、名前だけが出て来ない。色々な事があやふやで、ただ主人を助ける事だけがはっきりしている。


いや、それ以前に俺自身の名前さえも微妙だ。

困惑が顔に出たのだろう、二人は心配するように声を潜めてくれた。


「草麻、大丈夫ですか。解析の魔術を掛けますよ」

「あ、はい。お願いします」


ソウマ、それが俺の名前らしい。

彼女との出会いもその後の経緯も思い出せるけど、名前だけが思い出せない。


「本当に良かったです」


栗色の髪の女性の柔和な笑顔。

彼女が本当に心配してくれた事が胸に染みた。つと不意に頬を流れるものがある。


「ソウマさん?」


突然の出来事に栗色の女性がさらに困惑する。

というよりも、俺も驚いている。何故、俺は泣いているのだ。心配してくれたのが嬉しかったからか、違うだろう。これはそんな綺麗で真っ当なものではない。醜悪で汚くて濁ったなにかだ。そうでないと、俺はきっと自分を許せない。それだけが、胡乱な状況でも、何故か理解できていた。


何かを得る為には、何かを捨てなければならない。

そんなものは、ただの言い訳に過ぎないのだから。

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