エレント10 / 何でだよ
「それではソウマさん。早速この扉を開けて下さい」
探索教導場の一室。
三メートル四方の狭い部屋の前後には二つの扉があった。一つはセーミア達が入ってきた物。もう一つは簡易迷宮に繋がる物だ。今回の扉の開錠レベルはⅡ。五段階ある開錠難易度の下から二番目である。
レベルⅡは素人には無理だが、基礎習ったものなら開けれて当然という代物だ。そこからレベルⅢ、Ⅳと加速度的に上がって行き、最難関のⅤは特化免状持ちですら開けられない場合があるというレベルになる。
草麻は高さ二メートル、幅六十センチの紋用の彫られた石版じみた扉の前に立つと、先ずは観応で石版を観察した。中には魔力を通しただけで開かなくなる扉もあるからだ。石版の紋用からの魔力の通りと属性を見る。属性は木、扉と同調し適した魔力を流せば開けられるようだ。草麻は扉に両手を這わせた。
「サイクル・W」
木属性に魔力変換し、ゆるゆると魔力を石版に通わせていく。
浸透させるように、草麻は慎重に魔力を操作する。この精微なコントロールこそ、探索者にとっての必須技能という事はセーミアから嫌になる程言われている。今回失敗したら鋭すぎる言葉のナイフが飛んでくるに違いない。
セーミアの蔑んだ目と溜息だけでも致命なのに、彼女はとどめを差してくる。むしろ、殺してから斬りつけるという生粋のドSなのだ。草麻が慎重になるのは当然だった。やがて、草麻は鍵の核の手応えを感じると、一言呟いた。
「開けゴマ」
草麻の似非オリジナルスペルに従う様に、石版はゆっくりと開いていく。成功だ。草麻は溜息を吐くと、おそるおそるセーミアに振り返る。時間としては三分弱。カップラーメンは完全には伸びないが、どうだろうか。
「ふう」
普通に溜息を吐かれた。
あからさまに失望したという呼気を受け草麻は肩を落とす。その際心中でセーミアの態度を勝手に都合の良いものに変換し、自分を慰めるのが最近の草麻のマイブームになりつつある。
「まだまだ遅いですが」
セーミアはそんな草麻を見ながら、一転にこりと微笑んだ。
「前回よりも速くなっていますね。合格です」
頬に人差し指を当て優しく言う。
その嬉しそうな笑みに草麻は揺れた。やはり妄想よりも実物の破壊力は半端では無い。それがセーミアの飴と鞭の使い分けと判っていても口元が緩むのが止められない。セーミアは扉を潜りながら草麻とヒメに声を掛けた。
「それじゃあ、次にいきましょうか」
その溌剌とした言葉に、草麻は勢いよく、ヒメは鼻を鳴らした。
「了解!!」
「ふん!」
対照的な二人の主従にセーミアは楽しそうに微笑んだ。
その後も草麻を先頭に迷宮を模して造られた探索場を進んでいく。
宝箱形の罠、暗号、結界の罠、時に失敗し、時に解除しながら草麻は探索場を攻略する。本格的に探索を学び始め僅か二ヶ月という期間だが、草麻は探索者としての力を着実に身に着けていた。
その成長の根底には、知識の流入という主従契約の恩恵と循気による集中力もあるだろうが、何より草麻には探索者としての資質があった事が大きい。
一つはフルバランスという魔力資質。
各種トラップ等を解除する上で、各属性変換の魔具、魔石という余分なフィルターを通さず直接接触出来るのは得難い経験である。
そして、もう一つ。
それこそが草麻に備わった探索者としての最大の資質だ。それは………
突然、セーミアの舌に些細な違和感が生じた。
先導する草麻の後を歩いている今、何の前触れもなくそれは舌を刺激した。ちりとセーミアの口内に唐辛子の様な辛みが広がる。この痺れる感覚は明らかな危険の気配であり魔術形トラップの味に違いない。
おそらく視線の先の扉を開けた部屋には魔術による罠が仕掛けられているのだろう。狼の亜人であるヒメの嗅覚でさえ感知し得ぬ“何か”を事前に察知する能力が、セーミアの舌を介して彼女に警鐘を促した。
さて、今回は微弱な気配だが、草麻は気付くだろうか。
セーミアが密かに草麻の動きを注視していると、草麻が不意に立ち止った。ハンドサインで背後のセーミアとヒメに危険有注意せよと送る。草麻は静かに呟いた。
「サイクル・A」
草麻は空の魔力を廻し、空間探知を発動させると、些細で微かな気配を逃さぬ様に全神経を活性化させていく。それは探索特化免状を持つセーミアだからこそ気付けた“何か”を、草麻も敏感に感じ取った証拠だった。
その後ろ姿にセーミアは教師としての喜びと先達である嫉妬が渦巻いた。一流の条件である“絶対察知”それをこの新人は天然で備えている。鈴の音が聞こえる様な静けさを纏う姿は、探索者のそれだった。
やがて、草麻が慎重に扉を開けるとそこは15m四方の部屋が広がっていた。その部屋には何も置かれていない。扉も今開けた一つしかなく、俯瞰的に見ると空の箱に見えるだろう。草麻はゆっくりと進むと自身の勘に従って部屋を歩く。
静電気染みた閃きが脳裏を掠め、草麻は部屋の中央からやや外れた地点に立った。扉の先からこちらを眺めるヒメとセーミアに行動に移るというサインを送り、魔力を金に変換する。
「サイクル・M」
金属性を浸透させた掌打を地面に穿った。
とたん、部屋の壁全体に魔法陣が浮かびあがる。幾何学模様が壁面を蠢き眩い光が部屋を乱舞する。やがてその魔方陣は入ってきた扉から見て右手の壁に集中すると、壁がくり抜かれその先に通路が見えた。
「おっしゃ!」
その光景に草麻はガッツポーズを取り、ヒメとセーミアを呼び寄せる。
罠解除完了である。罠自体は属性を付与した魔力を流す事で開錠する仕掛けの大規模版だが上手くいった。にやりと草麻はヒメに笑うと、ヒメはやれやれと呆れたように笑みを返した。次いで草麻はセーミアに視線を送ると、彼女は何時も通りの微笑みを湛えながら、草麻に一言だけ言った。
「まだまだ、甘いですよ。ソウマさん」
予想外の言葉だった。
「え、何がです?」
草麻がセーミアの言葉に返した瞬間、突如空間が変貌した。二つの扉は閉じられ先程と同じ様な魔法陣が壁面を彩る。慌てて草麻が全身の神経を尖らせるが、余りにも遅かった。壁面の魔法陣は部屋の中央に魔力を照射すると、一体の魔物が現れていた。
それは銀の全身鎧を装備し、長剣を持つ人型モンスターだった。
その魔物、長剣を携え凛とした騎士の風格を漂わせる姿は見事の一言であり、研ぎ澄まされた殺意は余りに明確。必殺の意思を刃に、騎士は有無を言わさず草麻に襲い掛かる。その突進する騎士を尻目に、
「自分の失敗は自分で取り返しましょうね」
「そうじゃな」
セーミアとヒメは草麻を残して安全圏に下がった。
あの威圧と風格からして、騎士のランクは三級未満準三級以上。相性によっては準二級冒険者ですら手こずる存在である。四級ならば先ず敗北するレベルだ。その理屈で言えば四級冒険者に成って日の浅い草麻では相手にならない筈だが、ヒメとセーミアの表情に焦りは無い。
二人は知っているのだ。
草麻の四級の枠に収まらない戦闘力を。草麻は肉薄する騎士を睨むと、八つ当たり気味に呪文を唱えた。
「サイクル・F!!」
火炎の気勢を背負い草麻は無手にて疾走する。
両者の交錯の一瞬。騎士の間合いから銀の閃きが落とされた。鉄すら切り裂く袈裟切りに草麻は右手を翻す。キンと甲高い音が響き、黒鉄の手甲の上を白銀の剣が滑って行く。一条の銀線は無惨に歪みあらぬ方向にそらされると、それは明らかな隙。
草麻は一歩踏み込むと、柔らかく鳥が飛び立つように左足を振り上げた。流れ様に吸い込まれる様に草麻の蹴撃が騎士の側頭部に打ち込まれる。ごぎと鈍い音が響く中、草麻は蹴りの勢いを押すように軸足を跳ね上げた。
身体は中空、草麻は独楽の様に廻りながら全体重、全エネルギーを左足に注ぎ込む。
「おいしょー!」
奇妙な掛け声を上げながら草麻はそのまま左足を振り抜いた。
騎士の頭が地面に派手に叩きつけられ、兜と地面の破片が飛び散る。凄惨なまでの蹴撃から地面に穿たれる衝撃。規格外のダメージに騎士はそのまま沈黙した。一合の逢瀬。余りにも鮮やかな手際だった。
「勝ー利!」
草麻は残心しながら、Vサインを高々と掲げた。
解除失敗の失態をうやむやにする気満々である。それを知りつつ、草麻の滑稽な姿を見てヒメは楽しげに鼻を鳴らし、セーミアは苦笑した。いや、判ってはいたが、草麻の近接戦闘能力は飛びぬけている。
草麻は一撃で騎士を倒したが、仮にこれがセーミアだったらこうはいくまい。近接で負ける彼女が騎士に勝つとしたら中距離からの魔術のみ。それを草麻は騎士の土俵で容易く打ち負かした。これ程までの実力を持ちながら、未だ途上。近接という限りで言えば草麻の実力は飛びぬけている。セーミアは高揚した気分を抑え、草麻に釘を刺した。
「全く無駄な戦闘でしたね」
それにヒメも乗る。
「全くじゃな」
草麻は辛辣な二人の言葉にVサインごと肩を落とした。
この二人が誤魔化されるはずが無かったのだ。戦闘者としては一流に近く、資質もあるが探索者としてはやはりまだまだだった。
「今日もお疲れ様でした。次回はもっと高度なトラップ解除をやるので、しっかり予習しといて下さいね」
時刻は深夜に差し掛かり、場所はセーミアのマンション前である。
あれから本日分の練習を終えそのまま流れでセーミアを送ったところだ。今回も草麻の探索者としてのスキルアップと、ヒメとの連携も図れ、充実したものとなった。この分ならヨルミナ探索も予定より早く開始出来るかもしれない。草麻はセーミアの微笑みにとろけながら、しっかりと頷いた。
「もちろんですよ!セーミアさんとパーティーを組む以上恥ずかしい真似は出来ませんからね!」
「迂闊に罠に掛る奴が良く言うわ」
「いや、今は次回に向けて気合入れるとこじゃん。ネガティブな事言う必要ないよね」
「反省を無くした者に成長は見込めん。当然のことじゃろう」
「そうだろうけどさあ。それはそれこれはこれだろ」
「ヒメさんの言う通りですよ。ソウマさんはまだまだなんですから、精進を怠らないで下さいね」
「はい」
「それじゃあ、良い依頼があったら連絡しますので、また」
「了解じゃ」
「了解です」
同じタイミングで返事をし、草麻だけがセーミアのマンションに向かいヒメに殴られるというお決まりをした後、奇妙な主従は仲良く帰って行った。二人の後ろ姿が見えなくなったところで、セーミアは踵を返す。その際、不意に声が掛けられた。
「お久しぶりですね。セーミアさん」
掠れた様に聞こえるハスキーな声には聞き覚えがあった。
だが、その存在が此処にいる筈がない。セーミアは内心驚きながら声の方に振り返った。視線の先には想像通りであり、予想外の人物が立っていた。
「本当。久しぶりね、ディーノ」
ディーノと呼ばれた青年は嬉しそうに微笑んだ。
それはセーミアが見せる微笑に近いが、その笑みには溢れんばかりの感情が込められている様だった。
「二年振りですが、変わりない様で安心しました。どうです?再会を祝して少し飲みません?」
「貴方の意外な押しの強さも変わってないようね。だいたい、それだけお酒と摘まみを持って疑問形はないでしょう」
呆れた様に言うセーミアの視線の先、ディーノの両手には酒瓶と摘まみが大量に下げられていた。ディーノは朗らかに、いたずらが成功した時に見せる少年の様な可愛らしい笑みを浮かべる。
「はは。まあ、気にしないで下さい」
軽やかに楽しげにディーノは言う。
何とも憎めない柔らかな雰囲気は二年の月日を経ても変わらないようだった。セーミアは仕方ないとばかりに溜息を零すと部屋に向かって歩き出す。ディーノも当然の様にセーミアを追った。
「それじゃ、とりあえず乾杯」
「ええ、乾杯」
セーミア宅のリビングで、セーミアとディーノは穏やかに乾杯を交わした。そこには柔和な雰囲気だけで酔えそうな空気がある。それを醸し出しているのは二人の間柄もそうだが、何よりもディーノ存在がそうさせていた。
長身で黒を基調とした魔術衣を爽やかに着こなし、美麗なマスクと整えられた青い髪は洗練された面持ちがある。言ってみれば高級ホストの様な色気ある青年。それが、ディーノ・ジンベレルであった。
「それで、今まで何してたの?」
「冒険ですよ。あれからずっと僕は冒険して来ました。実は僕、もうすぐ準二級に上がれるんですよ」
「へえ、凄いじゃない。それでどんなところに行って来たの?」
「本当に色々ですよ」
セーミアの問いに、ディーノは答える。
彼等には二年ぶりの再会だが、会話は途切れることが無い。馴染みの深い彼女達にとっては、数年のブランクなど関係の無い話だった。むしろ、二年間も離れていたのだ。語る事は多く話の種が尽きる事は無かった。やがて、ディーノが持ってきたワインボトルが三本空き、四本目に突入した時に、漸くセーミアが確信を付いた。
「ディーノ。何故、戻って来たの」
その言葉は一息で旧知との再会を祝う優しげな雰囲気を吹き飛ばした。
変わり金属質な硬い空気が二人を包む。ディーノが口を開いた。
「決まってるじゃないですか」
ディーノはセーミアの瞳を見ながら真っ直ぐに応えた。
「ヨルミナを攻略する為です」
「そう」
寂しげにセーミアは言葉を零した。
ディーノ姿を見た時から予感していた。彼の眼を見た時から確信していた。この青年の時間は自分と同じように止まったままなのだと。自分達はあの場所に置き去りにしたモノを未だ忘れられないのだ。自分が受付として展望ある冒険者を探していたのと同様に、彼も自分を鍛える事によって時を進めようとしたのだ。
「セーミアさん」
「何?」
「引退したのは知っていますが、それを承知でお願いします。僕とヨルミナに行きましょう」
真摯に下げられた頭。
冗談ですませられない強い意志が込められた言葉に彼の懸命さが伝わってくるようだった。だがと、セーミアは首を振った。
「ごめんなさい。ディーノには悪いけどそれは出来ないわ」
「どうしても、ですか?」
「うん、どうしても」
ディーノは静かに眼を伏せた。
逡巡し、苦渋を噛みながらもディーノはなお嫋やかに聞いた。
「……そうですか。理由教えて貰ってもいいですか?」
「私ね、実は今度冒険者として復帰するんだけど、もうパーティーを組む人が決まってるの」
「だったら丁度いいじゃないですか。僕もパーティーメンバーに加えて下さいよ」
「無理よ。あなた、亜人とパーティー組めないでしょう」
「……え?」
セーミアの言葉にディーノは眼を見開いた。
驚愕というよりも愕然。セーミアの言葉はディーノの思考を断線させた。唇が戦慄き声が出ない。セーミアはディーノの気持ちを理解しながら、それでもはっきりと告げた。彼にとっての絶望を。
「ディーノは知らないかもしれないけど、私は亜人であるヒメ・サクラとその従者ソウマ・イズミの二人とパーティーを組むわ」
喉がなる。
ディーノがかろうじて出せたのは、粉々になった意志の残照だった。
「は、はは。冗談はよして下さいよ。セーミアさんがあの二人に肩入れしているのは、贄にするための下準備だからでしょう。本当、きつい冗談だ」
知っていたのかと思うが、それ以上にディーノの傷が全く癒えていない事がセーミアの心を暗くした。静かに眼を閉じる。その先には過去の幻影。セーミアは眼を開けると現在を見据え、言った。
「ディーノ、私は本気よ」
簡潔であり譲歩すら出来ない絶対の一線。
向かい合い言葉を交わせても、交合えない断絶がそこに見えるようだ。感情が溢れだし、自身の器から零れだす。ディーノはもう感情を抑える事が出来なかった。
「セーミアさん!!貴女は知ってるだろ!!亜人がどれだけ卑しい存在なのか。どれだけ醜い存在なのか、知ってるだろ!!あいつらがアルフレッドさんに何をしたか忘れたのかよ!!」
机を叩き、憤慨の声を上げる。もはやそれは悲鳴だった。
「………ディーノ」
「何でだよ、セーミアさん」
机に肘を付きディーノは顔を隠した。リビングには沈黙が広がった。
先程までの和気藹々とした雰囲気は消え去り、今あるのは硝子の様な冷え冷えとした感触だけだ。セーミアはディーノに声を掛けることは出来なかった。
彼にとってアルフレッドがどれだけの存在か知っているし、自身も同じだ。アルフレッドは二人にとっての恩人であり恩師だった。ディーノの苦しみが痛い程判る。だが、それでもなお、自分はあの二人とパーティーを組む。掛けれる言葉がある筈も無い。
「セーミアさん。俺は貴方の事が今でも好きです。だから、ヨルミナは俺が一人で攻略します。それで、俺達は進める筈だ」
それは宣言。
離別であり過去との決別を計る決意だった。セーミアは彼の二年間を知らない。けれど、一目見た時に判った。強くなっていると。あの絶望から彼は這い上がって来たのだ。セーミアはディーノを強く睨んだ。
「無謀よ。それに貴方はヨルミナのラストキーを持っていないでしょう」
「無茶は承知です。けどね、やるしかないんですよ。それとセーミアさん、僕が何も得ずに帰ってきて、貴女にパーティーを組むなんてお願いすると思いますか?」
さっきの頼みを聞いた時から何となく予想はしていた。
ディーノは理詰めで物事を考える。その理論と一分の直感で進む科学者染みた男だ。だからこそ、この男が迷宮の核であるラストキーを放置したまま帰って来る事は無い。帰って来たのは探索完了する自負があるに違いと。
「僕はラストキーを持っている」
「貴方、他に仲間がいるの?」
「いませんよ。僕にとっての仲間はあの時のメンバーだけです。この二年間手を組む事はあっても、仲間と言う意識は無かった」
「だったら」
セーミアがどうやってという言葉を続けようするが、声が出なかった。
一転したディーノの瞳。まるで凍土を思わせる冷たい硝子玉、それを際立たせる乾き切った能面の表情。セーミアはディーノに気圧されてしまった。
「エル。出てこい」
ディーノの言葉の後、彼の影が蠢いた。
黒い水面から一人の女が現れる。白いキャンパスに金紗を塗した様な透明質な髪。白金染みた瞳。色素の抜けた白い肌。そして何よりも感情の抜け落ちた無機質な顔。人形と言っても差支えの無い女が其処に居た。
「ディーノ。貴方……」
セーミアが絶句するのも無理はない。
女の頭部には亜人の象徴の一つである耳が生えている。その形から推察するに女は虎の亜人。そこまではいい。亜人を嫌悪しているディーノが亜人を従えているだろう事は驚きではあるが、まだいいのだ。しかし問題は彼女の首に着いているチョーカー。ヨルミナの最奥に行った者なら、その装飾具の効果を知らない訳が無い。
「面倒ですけど、一応紹介しときます。僕の従者であるエルです」
ディーノの言葉に従う様にエルと呼ばれた女は、機械的に会釈をした。まるで歯車で動いている様な精密的な動作には、人間味がまるでない。
「僕とこいつなら、ヨルミナのラストキーになるには十分です」
「……ディーノ、本気なのね」
「ええ、僕はその瞬間の為だけに生きてきましたらね」
ディーノは立ち上がると、セーミアを見詰めた。
余りにも純粋な光は眩しさを超えて焼けてしまいそうな強さがる。
「セーミアさん、ラストキーなら僕が持っている。あんな奴等と組む必要はないんだ。僕と組みましょう」
それが、最後の機会だというのは嫌でも判った。
セーミアは一度眼を伏せ、ゆっくりと顔を上げた。視線の先には弟であり嘗ての仲間。振り切る様に言葉を吐いた。
「ごめんなさい。私はソウマさんとヒメさんとパーティーを組むわ」
「そう、ですか」
それだけ言って、ディーノはエルを影に仕舞うと踵を返した。
その背中に彼はどれだけのモノを背負ってきたのだろうか。セーミアは堪らず声を掛けた。一縷の望みをかけて。
「ディーノ、私達と一緒じゃ無理なの!」
男の返答は寂しげな笑みだった。
ディーノが外に出ると嫌味な程に明るい双月が出ていた。
神話に置いて神と魔が住む外世界。外世界から来訪した神魔によって亜人は誕生したと言われている。彼等の誕生には諸説あるが、この世界アークの原住民たる人間との強制的な配偶によって生まれたとの説が一般的だ。
その卑しい種は神魔の尖兵として数多くの人間を屠ったと言われている。あろうことか親である人間を虐殺したのだ。その薄汚い血は今も連綿と続いている。神魔来訪の明星から数千年経つが、決して奴等の根本は変わらない。それはディーノにとっての確信だった。
ディーノの生きる原動力は明星の解明と亜人の撲滅である。その為だけに彼は神魔の造りし迷宮に挑んでいる。ディーノは歯噛みした。懊悩全てを潰す様な強烈な衝動である。セーミアはディーノにとっての比翼だ。この二年、離れていても到着地は一緒だと信じていた。だが、それは自分だけが思っていただけなのだろうか。いや、違う。ディーノは深く息を吐いた。
それは、純真な色がついていた。無垢な混じり合う事の無い一色だ。
「殺すかな」
それは、狂信者の放つ毒素だった。
「それでは、ごゆっくり」
「あいあいさー」
エレント町立図書館に勤める司書の挨拶を受け、草麻は一人図書館に来ていた。勉強の為に図書館に来る事が多々ある草麻にとって、馴染みとなった司書である。探索教導の翌日であり、冒険の依頼も無い久方ぶりの休日である。
時刻は朝の八時過ぎ、ヒメはアパートで寝ると言って爆睡中だ。さて、久しぶりの一人の時間を使ってまで草麻が図書館に来たのには理由がある。先程の司書へのナンパもあるが、もう一つ。
それは“主従契約”に付いて調べる事だ。
以前から気になっていたが、主従契約の内容はヒメの知識だけでは不十分だ。同調率といい肝心な知識が抜けているし、ヒメは主従契約について触れないようにしている。そのうえ、主従契約をしていると知った者は皆が唖然とするのだ。これで気にならない筈が無い。
草麻は様々な契約について記されている本を取ると、席に付いた。索引から項目を調べるとぱらぱらと主従契約のページを開ける。そこに記されているのは予想外であり、また予想してしかる内容がしるされていた。
「ヒメもやってくれるぜ」
椅子の背凭れによりかかり、草麻は溜息を吐いた。
怒るべきか呆れるべきか。全く以て判断に悩む。とある大泥棒は裏切りは女のアクセサリーのようなものさと言っていたが、果てさて。
ぎっぎっとだらしなく椅子を傾けながら、草麻はぼけっと天井を見上げた。ここで煙草でも吸えばダンディーかなあとどうでもいい事を考えた。まあ、いいか。という呟き洩らしながら。結局、草麻が図書館を出たのは昼を大分過ぎてからだった。
「ただいま」
夕焼けが眩しい黄昏時。草麻は自宅であるアパートに帰って来た。
2DKのマンスリータイプの物件である。住み始めて二か月にしかならないが、既に自宅と認識する位には愛着が湧いていた。ヒメはまだ寝ているだろうかと思いながら鍵を差し込み扉を開けると、ヒメが仁王立ちしていた。
「遅いぞ、草麻!!」
「どうしたんだよ、いきなり。とりあえず、シンさんとこからビールとケーキ買ってきたんだけど………」
「うむ、ではケーキを食べながら話す。ビールは冷蔵庫に入れておけ」
「はいはい」
「はい、は一回じゃ」
「はい」
草麻はヒメの後に続くと、ダイニングキッチンにあるテーブルにケーキを乗せた。今日はチーズケーキとチョコレートケーキである。瓶ビールはヒメの言う通り冷蔵庫に入れた。水の魔石が使われている冷蔵庫は鉱石で作られており、厳めしい外見だ。
「そんで、どうしたんだよ」
「うむ。実は二時間ほど前にセーミアから依頼が来ての、それがナイトフラワーの採取依頼だったんじゃ」
「ナイトフラワーというと、夜の間だけ咲く花だよな。それが、どうかしたのか?」
「ただのナイトフラワーなら、どうでもいいのじゃがな、今回の花はムーンライトと呼ばれる薬草じゃ」
ヒメの言葉に草麻は一瞬顔を顰めた。
主従契約による知識の流入の為だ。その痛みが耐えられない者も居るというのに、その現象が当たり前になっている自分がおかしくもある。草麻は図書館の出来事を思い出したが意識して振り払った。
「別名、満月草ね。採取依頼のついでに自分の分もとって加工でもしてもらうのか?」
「その通りじゃ。満月草には月の魔力が含まれおるからの、それを加工し装身具にすれば、儂の魔力は上がる」
「でもさ、満月草の採取が困難な理由は、三ヶ月に一回のマッチングの夜だけにしか咲かないっていうのもあるけど、何よりも多大な月の魔力を有さないと採っても直ぐに枯れちまうんだろ」
草麻の疑問にヒメは自信たっぷりに答えた。
「ふっふっ、儂を誰じゃと思っとるんじゃ」
「合法ロリ」
「バカ者!儂は純血の人狼じゃ!今でこそこの様な姿じゃが、力を取り戻せば誰もが振り向く美女だと言うとるじゃろ」
「はいはい。それで、ヒメなら採取できるんだな」
「うむ。儂は当然じゃが、おそらく従者のお主も出来る筈じゃ」
「ホントかよ」
「ま、多分の。それでマッチングは明日で群生場所はここから約300km先の森らしい。儂が一昼夜走り抜けば軽く到着出来るじゃろ」
「了解。もう出るのか?」
「ケーキを食べたら直ぐ出るぞ。準備は済ませておる」
「わかった」
ヒメはチーズケーキ選び、草麻は消去法でチョコレートケーキになった。草麻の口内にとろける様な甘みが広がるが、何時もみたいに純粋に美味いと感じられないのは、図書館の件が未だ尾を引いているからだろう。本当、困ったものだ。
「それで、草麻。お主は今まで何処で油を売っておったのじゃ」
「ん?いや、普通にエレントを回ってただけだ。冒険者になってから依頼ばっかで町を探索出来てないからな。おもしろそうな店とかあったから、折角だし今度行こうぜ」
「………ふむ。男から誘う以上、勘定は勿論お主持ちじゃよな」
「あのさヒメ。家計の財布全部握ってる奴がいう言葉じゃねえぞ」
「それはそれ、これはこれじゃ」
「ロリ」
飛来したフォークを口で掴む。
むと唸るヒメに、草麻は自分のフォークが乗った皿を渡した。チョコケーキも食いたそうだったから。
「今回はこれで勘弁しておく」
「サンキュー」
ヒメに感謝の言葉を伝えると、草麻は準備の為と言って席を立った。
間違いなく自身のぶれを見透かされただろうが、何も聞かれなかったのは正直助かった。もう、これ以上自分を保てる自信が無かったのだ。
草麻は自室に入ると閉めたドアを背にへたりこむ。
深く深く溜息を吐くと、意図せず泣き顔の様に表情を歪める。その焦燥した姿に草麻の限界が見えた。図書館では大丈夫と思っていたが、全くそんな事は無かった。ヒメと会話する内に濁流の様な思考の波が草麻を襲っていた。
ヒメとの繋がりは草麻にとって世界との繋がりだ。ヒメの存在は草麻にとって生きる指針だ。遭難しない為の道標だ。その光が今日揺らいだ。自分で崩した。知らなければ甘えたまま依存できていたのに、知る必要の無い事をわざわざ自分で調べてしまった。
シルフィーアは知っていたのだろう、そして草麻がそれを知らない事を判っていたに違いない。シルフィーアは飽く迄もそれを除外した状態で、草麻がどう答えるのか知りたかったのだ。根幹を敢えて知らせずに解除するかと聞き、草麻がそれを知った時には彼女は居ない。本当、何て意地悪か。
確かにあの時の草麻の答えに虚偽は無い。
命を預ける事に否は無く、未来を託す事に拒みは無い、だが、
「俺は俺だ」
呟き、まあいいかと口にした。
それが余りにも薄っぺらい言葉だという事を、草麻自身が一番良く判っていた。根本的な解決を先延ばしたつけは、何れ来ると知っていても、草麻は動かなかった。